2019年05月20日

70年代、記憶の底7

 私が子供の頃、公害の問題は既にサブカルチャー作品の中にも取り上げられていて、むしろそれが主流だったと言っても良い。
 社会科の教科書にも掲載されていおり、学校教材以外にも、様々な場面で公害を扱った文章や写真、映像に触れる機会があった。
 その中で、子供心にとても印象的だった写真の記憶がある。

 いつ、どこでその写真を目にしたのか、はっきりとは覚えていない。
 もしかしたら、同じような写真を見た複数回の記憶をごっちゃにしている可能性もある。
 白っぽい着物の人たちが、黒い旗を林立させている。
 白黒写真なので、もしかしたら本当は違う色なのかもしれなかったが、見慣れない装束の白と、幟旗の黒の対比が強烈だ。
 そして黒旗には異様な漢字一文字が白く染め抜かれている。

「怨」

 幼い私はまだその漢字の読みと意味を知らない。
 もう少し後に、マンガ「はだしのゲン」で被爆者の白骨死体の額部分に同じ文字が描きこまれるシーンを読み、ようやく私は「怨」という文字の読みと意味を知った。

 さらにずっと後になって、私はその写真が水俣病患者の皆さんを写したものだということを知った。
 1970年、水俣病の加害企業であるチッソが大阪で株主総会を開いた時、はるばる水俣から株主としての患者の皆さんが乗りこんできたワンシーンだったのだ。
 お遍路に使用する白装束に「怨」の黒旗、そして総会の場で死者を鎮魂するための御詠歌を朗々と合唱する姿。
 それは一方的に虐殺され、何の武器も持たされないままに闘わざるを得なかった庶民が、国と巨大企業に向けて突き刺した精一杯の哀しい刃だっただろう。
 経済の最先端の場で、被害者のやり場のない感情を、祖先より伝来された習俗に乗せて真正面から叩きつける。
 それは物質次元においてはまったく無力な抵抗だったかもしれないが、心の次元においては凄まじい威力を発揮したに違いない。
 この「怨」の幟旗による抗議を発案したのが「苦海浄土」の石牟礼道子であったらしいことを、さらにずっと後になってから知った。

 石牟礼道子追悼記事:しゅうりりえんえん
 
 そして長らく子供の頃見た「怨」の写真と見分けがついておらず、混同していた写真がもう一種あることも、後に知った。
 その写真には笠を被った黒装束のお坊さんたちと、お坊さんたちが掲げた黒旗が写っていた。
 その黒旗にも、白い文字が染め抜かれていた。
「呪殺」
 文字は確かにそう読めた。

eq007.jpg


「公害企業主呪殺祈祷僧団」
 その異様な名を持つ一団のことを、私が改めて認識したのは90年代半ば頃のこと。
 ぼちぼち神仏関連の書籍などを、やや真面目に読み始めていた頃のことだった。
 何冊かの書籍の中に、その名と、行動の概略が記載されていた。
 高度経済成長の暗黒面である公害が深刻さを増す70年代、ごく短い期間ながら、その一団は確かに実在したという。
 名の通り「公害加害企業主」に対し、呪殺祈祷を執り行うことを目的とする。
 僧侶4人、在家4人。
 宗派としては、真言宗と日蓮宗の混成部隊。
 主要メンバーは、真言宗東寺派の松下隆洪、日蓮宗身延山派の丸山照雄、在家の梅原正紀。
 墨染めの衣に笠という雲水スタイル。
 行脚は日蓮宗方式で題目と太鼓、そして呪殺祈祷は真言宗の儀軌にのっとって行われたという。
 イタイイタイ病、新潟水俣病などの、当時リアルタイムで公害が発生していた各地をめぐり、公害企業を前にして護摩壇を築き、実際に呪殺祈祷を執り行った。

 「呪殺」

 そう大書した黒旗をなびかせる一団は、傍目には不気味で物騒極まりないものだったが、「不能犯」ということで、警察の取り締まり対象にはならなかったという。
 法的には「呪っても人を殺すことはできない」し、呪殺祈祷の対象も「公害企業主」という表現なので個人を特定しておらず、名誉棄損にすらならないのだ。
 その上、行脚や祈祷もデモではなく宗教行為ということで取り締まりの対象にできない。
 
 このように転戦した僧団は、現地の民衆からは共感を持って迎えられ、警察は面くらい、祈祷対象の公害企業からは冷笑と困惑で迎えられた。
 当然ながら、仏教サイドからは「慈悲を根本にする仏教が、呪殺とはなんたることか」という批判が上がり、祈祷僧団に参加した僧が宗派から処分を受けたりもした。
 ただ、真言宗は「教義的に問題無し」と、お咎めは無かったという。

 どうしても気になるのは、呪殺祈祷の「成果」だ。
 色々調べてみたが、今一つはっきりしない。
 はっきりとはしないのだが、どうやら対象になった「公害企業主」関係者の中に、この祈祷との関連を思わせる時期に、何らかの不幸はあったようだ。
 しかし、大企業の「企業主」ともなれば、ある程度年配の人間が多いことだろうから、一定期間中に何事かが生じたとしても、不思議は無いとも言える。

 これは、まさに「表現」の領域の事象だと思う。
 公害企業によって生み出された地獄が現にそこに存在し、多くの罪無き民衆が虐殺されている。
 そこに権威ある修法で呪殺祈祷ができる僧がおり、民衆の「怨」を背負って実際に儀式を執り行った。
 そして、法的な意味での「証拠」は存在しないが、祈祷との関連を思わせるタイミングで、企業側に何らかの不幸が生じた(という伝聞情報がある)。
 表現がなされ、あとは受け手に解釈が委ねられたのだ。

 こうした事象を、一笑にふす人もいるだろうし、一種の「救い」を感じる人もいるだろう。
 私はと言えば、あえて率直に述べるならば、悲惨な公害の現場にあって、このような一団が存在してくれたことに共感せざるを得ない。
 これが武器・凶器や毒ガスなどを使用したテロであれば断固否定するが、大聖不動明王から借り受けた法の力による「慈悲行」であるならば、なんら問題は無いと考える。
 何よりも、密教というものが、理不尽極まりない文明の暗黒面に対抗できる「表現手段」を持っていたことに、豊かな文化的蓄積の凄みを感じる。

 この特異な僧団については、以下の書籍に当事者の梅原正紀の手で、詳細な記録が残されている。
 興味のある人は一読されたし。 

●「終末期の密教―人間の全体的回復と解放の論理」稲垣足穂 梅原正紀(編)


 これらの事実関係は、90年代以降にようやく知った。
 しかしそれは、幼い頃に受けた強烈な印象、記憶の底に刻まれた画像に導かれてのことであったことは、間違いない。
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする

2019年05月19日

70年代、記憶の底6

 寝る前の空想、妄想は他にもある。
 寝床から見上げる天井には、電灯が吊り下げられている。
 70年代のことなので、灯籠を模した外枠の中に円型の蛍光灯が二段重ねになっており、夜間はぼんやりオレンジの豆球だけが点されていた。
 幼児の私は光の無い円型蛍光灯に重なって、バチバチと細かな火花が弾けているような幻を見ていた。
 火花はやがて勢いを失い、豆球のオレンジに集まって、ボタッと落ちてくるだろう。
 もし落ちてきたら、もう何もかもお終しまいになってしまうのだ。
 私は絶望的な気分になりながら、身動きできずにじっと上を見つめている……

yume-04.jpg


 これなども、今から考えると線香花火が燃え尽きる情景あたりから連想していたのではないかとも思うのだが、我がことながらはっきり断言はできない。
 幼児期を過ぎ、就学年齢に入った私は、枕に耳をつける恐怖や、蛍光灯を見上げる恐怖を徐々に忘れ、今度は奇妙な空想で入眠するようになった。
 夜になって蛍光灯を消し、布団に入り、目を閉じると、そこから毎晩のようにその空想は始まる。
 掛け布団と敷布団の間に自分の体が横たわっている。
 体と布団の隙間は、頭部から足元へとまるで深い洞窟のように続いている。
 枕元に立った「小さな自分」が、自分の頭部をすり抜けて「布団の洞窟」へと分け入る。
 小さな自分は、一歩、また一歩と洞窟の中を進んでいく。
 奥へ入り込んで行くにつれ、「横たわる自分」は眠りに落ちていき、遂には夢の世界へ入り込んでいく……

yume-06.jpg


 迷い込んだ小さな自分が、その先がどうなってしまうのか、いつも見届けることが出来ないままに、私は眠りに落ちていた。
 だからだろうか「洞窟」や「トンネル」というイメージは、私の心の奥底ではいつも怖さと憧れが入り混じった特殊なものになった。
 大人になった現在の私が、やや閉所恐怖症気味ながら、各地の「胎内潜り」に心惹かれてさまよってしまうのは、どうやらこのような奇妙な影響もあるのかもしれない。

 このように、私の遠い記憶の底には、夢とも現実とも判然としない、奇怪なイメージがいくつも残留している。

 睡眠時の夢についても、幼児期からずっと興味があり、自分なりにこだわりを持って探究してきた。
 奇妙なことだが、私はごく幼少の頃から、夢について誰に教わるともなく、かなり自覚的に探究し、採集してきた。
 夢にまつわる最古層の記憶の一つに、保育園に通園するバスの中の情景がある。
 保護者に連れられて路線バスに乗っているとき、突然「ずっと前にこの場面を見た」と、はっきり感じた。
 当時の私はまだ幼児なので、「既視感」という語彙は無い。
 幼い私は、その生まれて初めてのデジャヴ体験と同時に、自分が数カ月に一度、いくつかの同じ夢を繰り返し見ていることに気付いた。
 そして前回記事で紹介したような入眠時の幻想と相まって、「眠り」や「夢」について、強い興味を抱くようになった。
 以来、ずっと夢についての考察を緩やかに続けている。
 緩やかに、と但し書きをつけているのは、夢について深刻に思いつめたり、何か物凄く価値のある探究をしていると勘違いすることなく、という意味だ。
 読書したり散歩したりという行為と同様、日常的な趣味、楽しみとして、私は夢と関わり続けてきた。
 なんとなく、あまり他人に話すようなことではないとわかっていたので、一人ひっそりと考え続けていた。

 繰り返し見ていた夢の中で、記憶する限り最古のものが、こんな夢だ。

「塊」
 体育館のような板張りの広間。
 屋内は薄暗いが、外の光が差し込んでいて、逆光の中にたくさんの人影が浮かんでいる。
 幼児の私は「ああ、この場面は何度も見た」と思っている。
 周囲の人々は、大人も子供も楽しげに運動したり遊んだりしている。
 私は何か大きな塊を押している。
 運動会の大玉転がしのように、「それ」を一人で転がしている。
 塊は黒くてゴツゴツしており、金属のようだ。
無数にひび割れが走るその塊を転がしながら、私は「それ」が何か非常に危険なものであることを悟る。
 毒物のような、爆発物のようなもので、とにかくこのまま転がし続けると大変なことになってしまうとわかっている。
 周りの人はその危険に全く気付いていない。
 幼児の私は恐ろしさに震えながら、それでも止めることができずに塊を転がし続けている。
 塊はだんだん大きくなってくる。

yume-07.jpg


 この夢はかなり長期にわたって見ていた。
 数か月に一度ほどの頻度だったが、幼児の頃から小学校高学年くらいまでは見ていたと思う。
 かなりの悪夢なので印象深く、「ああ、またあの夢を見た」と記憶に刻み込まれていた。

 この夢に関連していると思われるのが、小学生の頃に見た夢だ。

「毒ガス毛布」
 恐ろしいことになった。
 広い道路には人間がばたばたと倒れて死んでいる。
 死体以外に見当たらず、停まっている車の中でも人が死んでいる。
 毒ガスのせいだとわかる。
 このままでは私も危ないが、子供の私は非難所から出てきたばかりなので毛布一枚しか羽織っていない。
 再び毒ガスが出てくれば防ぐ手立てはない。
 不意に、体に巻きつけた毛布から、黄色い気体が噴き出してくる。
 非難所で配給され、安全だとばかり思い込んでいた毛布が、化学反応を起こして毒ガスを噴き出したのだ。
 絶望的な気分で毛布を捨て、その場から逃げる。
 この分では人工合成物は何一つ信用できない。
 しかし合成物はどこにでもあるので、逃げる場所は残されていない。
 無駄だと思いながらも、走るしかない。
 今度こそ死ぬな、と思っている。

yume-08.jpg


 私が記憶している中でも、一番恐ろしかった悪夢の一つである。
 夜半に目覚めた小学生の私は、それが夢だとわかっていても、恐怖にがたがた震え続けていた。
 当時は70年代の終盤で、小学校の教科書でも公害の惨禍が取り上げられ、子供向けのTV番組では「文明の暴走」をテーマにした作品が毎日のように放映されていた。
 そんな世相が子供の無意識の領域にも反映されていたのかもしれない。

 それから時は流れた90年代、カルト教団の起こした毒ガステロや、化学物質過敏症を扱ったニュースを見るとき、私はいつもこの夢のことを思い出していた。
 2010年代の今もよく思い出す。

posted by 九郎 at 10:59| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする

2019年05月18日

70年代、記憶の底5

 幼い頃の記憶には、ときに奇怪なイメージが紛れ込んでいる。

 幼児の私は、毎晩寝るのが怖くてしかたがなかった。
 顔を横にして枕に耳を埋め、目を閉じると、ザッザッザッという音が規則正しく聞こえてくる。
 今から考えると、おそらく耳のあたりの脈拍が、枕のソバガラで増幅された音だったと思う。
 しかしそれは、幼児の私にとっては、不可解で無気味きわまりない音に聞こえた。
 暗い寝床でその音に耳を澄ませていると、頭の中で奇怪な空想が湧き起こってくる。
 薄暗い山道、白い布をかけられた棺桶を担いで進む、数人の黒い影。
 棺桶を運ぶその足音が、耳元で響くザッザッザッという音と重なっていつまでも続き、怖くて眠れなくなる。
 私はかなり長い間、その奇怪な空想に怯えていた。
 枕に耳をつけて眠ると、そのまま自分も棺桶に入れられて山奥に運ばれてしまい、二度と目が覚めなくなるような気がした。

gen-07.JPG


 何がきっかけでそんな突飛な空想を始めたのか記憶は定かではないが、「もしかしたら」と思い当たることもある。
 空想の中のイメージと直接重なる経験では無いのだが、母方の曾祖母の思い出がそれだ。
 私が幼い頃にはまだ母方の曾祖母、ひいおばあちゃんが存命で、祖父母宅から斜面を下った家の奥の方の一室で、96才まで寝起きしていた。
 私の出生時には「わたしが抱いたら長生きするで」と言って抱っこしてくれたそうだ。
 幼児の私が家内を探検し、たまたま奥の部屋に入っていくと、ニィと笑いながら駄菓子をくれたりしたのを覚えている。
 やがてそのひいおばあちゃんの容態が悪くなった。
 私は小さかったので病床には連れて行かれなかったが、孫達(つまり私の母や叔父叔母)は、様子を見てきては悲しげに話し合っていた。
「おばあちゃん顔が黄色ぉなって……」
「言葉もファファ何を言うとるかわからんように……」
 傍らでそんな会話を聞いている私の頭の中では、好き勝手な空想が繰り広げられている。
 想像の中で、ひいおばあちゃんの顔の「黄色」は「金色」に置き換えられ、白い布団の中に金色のひいおばあちゃんが横たわり、だんだん言葉も通じなくなる情景が浮んでくる。
 大人達の言う「仏様になる」という言葉は、そういう意味なのかと一人で勝手に納得していた。
 当時、私達幼児は仏壇のことを「まんまんちゃん」と呼んでいたのだが、「まんまんちゃん」の金箔や、仏像・仏画の金色から連想したのかもしれない。

gen-08.JPG


 私の記憶は唐突に葬儀のシーンに切り替わる。
 家の周りには大勢の黒い服を着た大人達が集まっている。
 拡声器で何かガァガァ言っている声が聞こえてくる。
 亡くなったひいおばあちゃんの曾孫、私と弟と従兄弟の三人には、それぞれ色紙で飾り付けられたカサ、ミノ、ツエが持たされている。
 従兄弟はツエをつきながら、ふざけて老人の真似をしている。私もカサを被って見せながら「ツエの方が面白そうやな」などと考えている……

gen-09.JPG


 このあたりになると現実と空想の境目がかなり怪しくなってくる。
 何しろ田舎で、わりと近年まで土葬が残っていた土地のことである。
 幼児にカサ、ミノ、ツエを持たせるような、何らかの葬送の風習があったのかもしれないが、定かではない。
 ただ単に幼児らしい思い込みで、他の行事の記憶が混入していたり、空想や夢を現実の記憶として捉えているだけなのかもしれない。
 今からでも親類に確かめてみれば、あるいは真相が判明するのかもしれないが、なんとなく曖昧なままにしておきたい気分がある。
 おそらく現実か空想かということよりも「このように記憶している」ということが私にとって重要なのだ。
 夢か現かウソかマコトか分からないけれども、このような「記憶の底」を抱えていることが、今の人格の元になっていると感じる。
posted by 九郎 at 21:58| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする

2019年05月17日

70年代、記憶の底4

 記憶の古層には、ときに無気味なイメージが混入している。
 今でもふとした瞬間に蘇ってくるのは、幼稚園への通園風景だ。
 地区の児童を何人か、引率の大人が二人ほどついて、園に送り届けている。
 幼児集団の引率は難しい。
 一人一人が我侭な王子様、お姫様で、まだ群れの秩序が身に付いていない。
 みんなと一緒に歩くというだけのことがけっこう難しかったりするので、しばしば阿鼻叫喚の修羅場になる。
 そこで、秘密兵器が登場する。
 縄跳びの縄をいくつも編んで、持ち手の部分をたくさん出して作った引率器具だ。

kk-01.jpg


 持ち手の部分に幼児を一人ずつつかまらせて、ちょうど「電車ごっこ」のような雰囲気で引っ張って行くわけだ。
 うまく子供たちをおだてながら、楽しい雰囲気で騙し騙し園に送り届ける。
 こうしてしたためてみると、なんとも珍妙な風景で、どこまで本当にあったことなのかは、私自身にも定かではない。
 川沿いの土手を、ロープで繋がりながらみんなと並んで行進した。
 土手から見下ろす稲刈りを終えた田んぼには、ビニールシートが風にパタパタなびいていた。
 そんな細部の情景まで含めて、夢のように淡く記憶の底に残っている。

kk-02.jpg


 それからはるかに時は流れて、私は自分の記憶の中の「電車ごっこ」の通園とよく似た風景を、TV画面の中に発見して「アッ!」と叫ぶことになった。
 それは1997年、幼児連続殺傷事件の異様な緊張に包まれた、神戸の街の1コマだった。
 近隣の保育園や幼稚園の通園は厳戒態勢となり、引率の保護者の皆さんが、間違いなく全員を送り届けるために、幼児にロープを握らせて行進させている情景がTV画面に映し出されていた。
 私の70年代の「記憶の底」が、90年代の無気味な事件とシンクロして蘇ってきたのを覚えている。
 そして2010年代も終わりにさしかかった今、引率される幼い子供達という、本来は可愛らしく微笑ましい情景に暗雲がたちこめる、そんな世相を痛ましく感じている。

 同時期の通園風景の中、記憶に刻まれた、忘れられない怖い思い出がもう一つある。

 二、三人の大人に引率された幼児の集団が、川沿いの土手から降りて集落にさしかかる。
 幼稚園の近くなので、他の通園グループも集まってきている。
 園児の弟か妹だろうか、小さな乳幼児を抱いた母親が行列を見送っている。
 抱かれた子供は「おやつのカール」をしゃぶりながら(まだ噛めない)、お兄さんお姉さんたちの通園風景を熱心に眺めている。
 幼児の私を含む「電車ごっこ」の列が、その母子の横を通りすぎようとした時、突然悲鳴が上がった。
「ヒキツケ! ヒキツケや! 誰か梅酒持ってきて!」
 異様な光景だった。
 それまで「おやつのカール」をしゃぶっていた小さな子供が、母親の腕の中でぐったりしている。
 母親は必死の形相で叫んでいる。
 どうやら子供が「ヒキツケ」を起こしたので、気付けに梅酒を持ってきてくれと叫んでいるらしい。
 当時、そのような民間療法があったのだろうか?
 幼児の私は恐怖に凍りつき、その光景は記憶の底に焼き付けられる。
 その後、母子がどうなったのかは全く記憶に残っていないが、私の中で「おやつのカール」と「梅酒」は、「ヒキツケ」の不吉なイメージと固く結びついた。
 その後、小学校の高学年ぐらいになるまで、私は「おやつのカール」を食べることをひそかに恐れていた。
 おやつで出されても一人だけ手をつけず、他の子供が美味そうに食べているのを、怖々眺めていた。
 カールおじさんの登場するほのぼのとしたあのテレビCMにも、どこか不気味なものを感じていた。
 梅酒に対してもあまりよい印象はなく、大人になってからも、自ら進んで飲むことはなかった。
 しかし、どうやら自分の忌避衝動の源泉が、幼時の記憶と結びついた「思い込み」にあるらしいことを自覚してからは、特に嫌うこともなくなった。
 おやつのカールと梅酒への苦手意識を克服した時、私は大人になったのかもしれない(笑)
posted by 九郎 at 22:57| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする

2019年05月16日

70年代、記憶の底3

 幼児の頃の私は、昼間は主に母方の祖父母の家で過ごしていた。
 祖父母宅は、古墳のような小山と小川の流れに挟まれた小さな村にあった。
 小山の麓には道が三本、上中下段に並行しており、何か所かで縦にもつながっていた。
 一番上段の水平移動道の片端、山に向かって右手に祖父母宅があり、反対側の左端には「観音さん」の御堂があった。
 御堂から石段をおりると公園があり、山手に登ると村の墓場があった。
 小山の麓を流れている小川には欄干のない小さな橋が架かっていて、渡ってしばらく田んぼ道を歩くと二車線のバス道があった。
 それを更に超えるとまた川沿いの土手があって、保育園、幼稚園への通園に使っていたのはその土手の上の道だった。
 そうしたごく狭い範囲が、幼い頃の私の世界だった。
 小さな世界ではあったけれども、祖父母宅周辺は十分に田舎で、草むらや虫たちなど、幼児の遊びのネタが尽きることは無かった。

wasi-02.JPG


 祖父母は子沢山で、私の母は六人兄弟姉妹の長女だった。
 祖父宅は子供の成長とともに増改築が繰り返されていた。
 なにせ祖父とその息子二人(私の母の弟たち)が大工であったから、かなり頻繁に家は改造されていったらしい。
 このあたりは、大工の家の特殊事情だろう。
 私の母など、家具は「買うもの」ではなく「頼んでおけばしばらくすると出来上がってくるもの」だと思っていたそうだ。
 他人の注文を請けた「お仕事」としての増改築でなく、あくまで自宅改造の気楽さである。
 長女の長子(つまり初孫)である私が生まれる頃には、祖父宅はかなり複雑怪奇な造りになっていた。
 もともと敷地が小山のふもとの斜面地だったせいか、各部屋で床の高さが違っており、構造が分かりにくかった。
 母の妹のカレシ(後の私の叔父)は「はじめて来た時は忍者屋敷かと思った」そうだ。
 私の家族は別の家に住んでいたが、私が小学校に入ると身内で「子供部屋」を増築してくれた。
 ここでも身内的なお気楽増築が行われ、窓のある壁面にそのまま子供部屋を接続し、結果として居間と子供部屋が「窓でつながっている」という状態になった。
 もちろん子供部屋の入り口ドアは別に存在したのだが、居間から一旦縁側に迂回しなければ到達できないため、私はもっぱら窓から子供部屋へ出入りしていた。
 居間側には丸椅子、子供部屋側には二段ベッドを配置して、楽に上り下りできるようにした。

gen-06.JPG


 このような原風景を抱えているせいか、今でも地方の旅館などで、無理な増改築をしてフクザツなことになってしまっている建物に入ると、妙な懐かしさを感じてしまうのだ(笑)

 観音堂の石段を降りたところにある公園では、毎年盆踊りが行われていた。
 祖父母の家を出発して暗い夜道を抜け、夜の公園を訪れてみると、昼間の様子とはまったく違う、子供にとっては「異世界」が現れていた。
 高く組まれた櫓を中心に提灯が明るく揺れて、浴衣の人々が太鼓の音に合わせて踊っている。
 子供の私は陶然としながらその風景を眺めている。
 そして踊りの輪の内側に、小さな子供達の一段が楽しげに駆け回っているのをみつけ、たまらなくなって自分もその中に加わる。
 中に一人、少し年齢の高い踊り上手な子がいて、私の目にはとてもカッコよく映った。
 見知らぬその「お兄ちゃん」のあとを追い、手振りを真似ながら時を忘れて踊り、巡った……
 毎年の盆踊りの時、輪の中に小さな子供たちが混じって楽しそうにしているのを見ると、色々な記憶が巡ってくる。

 もう一つ、淡い記憶。
 ある夏の宵の時間帯、同じ観音堂へ続く道を、幼児の私が幾人かの友だちと連れ立って歩いている。
 屋台みたいな所で蝋燭をもらい、それを持って小さな祠にお参りすると、駄菓子がもらえてとても嬉しかった。
 あれは地蔵盆だったのだろうか。
 汗ばんだ浴衣の感触と、蝋燭の香りが今も肉体感覚として残っている。

jizo-11.png

posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする