2017年11月19日

いくつもの貌

 2015年刊の本を一冊、このカテゴリ「積ん読崩し」で紹介。
 ずっと関心のあるテーマの本だったので刊行間もなく確保していたが、当時は他に優先的に考えなければならないことが多くて、積みっぱなしになっていた。
 私の個人的な機が熟し、最近ようやく読み通した。
 90年代、テロ事件を起こしたカルト教祖の三女による、二十年越しの手記である。


●「止まった時計」松本麗華(講談社)
 一応確認しておくと、著者は事件当時12歳。
 教祖の娘でホーリーネームを持ち、教団内のステージが高かったとは言え、事件にいかなる関与もしえない立場にあった。
 事件後も、基本的には教団組織から距離を置くことに努めており、経済的な支援も受けずに成人している。
 父である教祖から一方的に与えられた「宗教的権威」のせいで、彼女は教団外からは徹底的に疎外され、教団内では常に権力争いに巻き込まれ続けてきた。
 私は、事件の実行犯や指導的立場にあった者については、徹底的に法で裁くことに異論はない。
 しかし、とりわけ「カルトの子」である事件当時の年少者については、しかるべき受け入れ態勢を社会の側が整えるべきだったのではないかと考える。
 実際には、著者は公安当局やマスコミの厳重な監視下に置かれ、ことあるごとに教団内の内紛に利用され、どこにも居場所を与えられないままだった。
 幾重にも取り囲むハードルの中で、一生徒として普通に学校生活を送りたいというささやかな願いすら、大学入学までかなえられることは無かったのだ。
 彼女の目には、教団内も、そしてこの日本という国も、等しく理不尽で荒れ果てた世界として映ったのではないだろうか。

 著者の目からみた教祖像にも、痛々しいものを感じた。
 当り前のことであるが、かの教祖も娘にとっては「大好きな父」であったのだ。
 カルト教祖とは言え、常時狂った犯罪者で在り続けるわけではない。
 普段の生活の中で、演技などではなく、子どもに対しては慈父であり、弟子に対しては頼れる師であった時間も、間違いなくあったのだ。
 そうでなければ、一万人を超える規模で人を集め、熱狂に駆り立てることは逆に不可能だ。
 教祖の視覚障害が進行し、熱狂的な弟子を経由した情報しか入らなくなる過程の描写は、教団暴走の重要な鍵になると思われるのである。

 かの教祖には多面性があったことは間違いないが、著者はとくに「善意」の部分に多く接してきたのだろう。
 併せて読むことでより立体的な教祖像が浮き彫りになると思われるのが、2006年刊の以下の一冊。


●「麻原彰晃の誕生」高山文彦(文春新書)
 後に教祖となる一人の男。
 ハンディキャップを抱えた少年期から青年期にかけて、そして教団を率いるようになって以後の彼を直接知る、主に教団外の人々からの丹念な聞き取りを集積した一冊。
 盲学校時代の教師、薬事法違反の際取り調べに当たった刑事、近所の寿司屋店主の証言は、ほぼ等身大の教祖を描き出している。
 とくに、戸籍名ではない教祖名の「名づけ親」とも言える人物について、触れてある書籍は少ないのではないだろうか。
 近代日本で創作された偽史の副産物「ヒヒイロカネ」にまつわる異聞も、80年代オカルトを楽しんできた者としては大変興味深かった。
 先に紹介した三女による手記ではエキセントリックな印象ばかりが強い教祖の妻についても、そこに至るまでの境遇を想えば、別角度の捉え方があり得ると感じる。
 背負ったハンデと戦う「しぶとい俗物」としての教祖像は、同じ俗物の身として、ふと共感してしまう部分もある。

 単純な異物排除と、単純な帰依。
 その両方が、一人の男の中で起こったハルマゲドンを、社会に拡大投射する様が視えてくる。 
posted by 九郎 at 16:51| Comment(0) | 積ん読崩し | 更新情報をチェックする

2017年11月13日

魂の故郷 人形劇「プリンプリン物語」のこと

 あ、今年は「プリンプリン物語」の再放送をやっていたのか。
 まあ、BSだから視てないけど。

 この作品は、私が子供の頃に放映していたNHKの人形劇である。
 今調べてみると79年から82年なので、ちょうどファーストガンダムのブームと時期が重なっている。
 孤児として育てられたプリンセス・プリンプリンが、仲間と共に見知らぬ故郷を探す旅に出て、世界中を巡る波乱万丈のストーリーだった。
 異国情緒たっぷりの人形造形、旅先の様々な架空の国の設定が面白く、リアルタイムで視たNHK人形劇の中では一番好きだった。
(後番組にあたる「三国志」も捨てがたいが……)
 前回記事で某大統領と似ていると呟いた「ランカー」は、ヒロインのプリンプリンに執心する悪役キャラで、大富豪にして死の商人である。
 身分だけでなく容姿もちょっと似ている!
 作中のランカーは、最終エピソードで野望を遂げる寸前で破滅するという、ヒールとしてまことに正しい負けっぷりだったが、件の大統領の今後は如何に。

 確か十数年くらい前に地上波で再放送があった時は、懐かしさでしばらく視ていた。
 その時はとくに挿入歌が素晴らしいと思った。
 歌劇仕立てに惜しみなく盛り込まれた曲がどれも名作で、ハマってCDまで買ってしまった。
 世界漫遊物語なので各国の国歌も多数作られており、中でも印象に残っているのが両極端の二曲、超独裁国家アクタ共和国の国歌と、南方の平和な島国オサラムームー国歌だ。
 アクタ共和国の方は、軍歌調で「世界で一番優れた民族」とか「命令絶対規則はいっぱい」とかの歌詞を合唱してあり、子供の頃面白がってみんなで歌った記憶がある。
 昔は戯画化された独裁者や独裁国家を素直に楽しんでいたが、いつの間にか我が祖国にも、愛国を隠れ蓑にしたヘイト行為や、国家による管理強化をむしろ歓迎する雰囲気が出てきている気がして、今はあまり笑えない。
 対してオサラムームーの方は、メロディこそ極めて平和的だけれども、「労働」や「勤勉」を根本的に否定する内容だった。
 水木しげるの世界観にも通じるものがあり、あらためて聴くとむしろこちらの方がアクタ共和国国歌よりラジカルかもしれない(笑)
 海辺でお昼寝してあくびをすると、おいしい木の実が勝手に落ちてきてくれる常夏の楽園オサラムームー。
 そんな国であればこその「労働の全否定」なので、他の国でこの国歌を実践すると、滅亡してしまうだろう。
 子供の頃の私はわりに生真面目な質だったが、それでも「なんにもしないのがこの世で一番いいことだ」と歌い上げる歌詞は、とても魅力的に思えた。
 他にも「世界お金持ちクラブの歌」とか「ピテカンドロップオシモサク」「はべれけれ」など、変な歌やいい歌がてんこ盛りの楽しいミュージカル人形劇だった。
 記憶に残っている人や興味のある人は、「プリンプリン物語+α」で各所動画サイトを検索してみると見つかるかもしれないが、この際ほぼ全曲収録されたアルバムをお勧めしたい。


●「プリンプリン物語 ソング・ブック」

 どれもこれも名曲ばかりなのだが、私の思う極めつけの一曲は、エンディングにも使用されていた「わたしのそこく」だ。
 ヒロイン・プリンプリンが歌い上げるスケールの大きなバラードで、声優の石川ひとみが歌も担当している。
 タイトル通り、まだ見ぬ故郷への慕情を海に向かって歌い上げるような歌詞が、しみじみと印象に残る。
 石川ひとみはプリンプリン物語の頃、確かデビュー間もないアイドルだったはずだが、声質も歌唱力も素晴らしく、既に完成している感がある。

 故郷を知らないプリンプリンにとっての祖国は、美しく愛に満たされた、母なる「夢の国」だ。
 しかし、そこに生きるのが当り前の私たちにとって、祖国は必ずしも美しくなく、愛に満ちてもいない。
 もちろん美しさは感じ、愛着もあるが、醜さも嫌悪も否定しがたくある。
 それはプラスマイナス相半ばした濃い感情で、近しい肉親に対する情の在り方とも似ている。
 祖国を純粋に「愛」だけで慕えるのは、流浪の旅人の特権なのだ。
 プリンプリンの夢見る祖国は、海の彼方にあるという補陀落浄土やニライカナイのような「魂の故郷」のイメージに、より近いかもしれない。
 作中では、そんな祖国に対するイメージの相違に、プリンプリンがふと気付き始める描写までされているのが、また素晴らしい。

 物語のプリンプリンは、結局故郷には辿り着かず、「旅はまだまだ続く」というパターンで終幕した。
 子供の頃はなんとなく納得がいかなかったのだが、今となっては「終わらない旅」「たどりつけない魂の故郷」というモチーフが、いっそう心に沁みるのである。

 旅ということ、祖国ということ、文化の違い、国の統治、経済、戦争と軍需産業など、子供向け人形劇の能天気なトーンの底流には、意外に深く重いテーマが豪華に盛り込まれている。
 この作品も、私が子供の頃に出会った極上の「児童文学」の一つだったと思う。
posted by 九郎 at 22:01| Comment(0) | 児童文学 | 更新情報をチェックする

2017年11月09日

ふと思った

 トランプって、プリンプリン物語のランカーに似とるな。
posted by 九郎 at 15:29| Comment(0) | | 更新情報をチェックする

2017年11月07日

最初の修行4

 就学前の段階では、好奇の目はさほどでもなかった。
 保育園や幼稚園の子供同士では、「見慣れない容姿」を素朴に珍しがることはあっても、それが侮蔑につながることは少ない。
 むしろ、大人の好奇に満ちた視線に違和感を持っていた記憶がある。
 小学生になってからは、眼鏡をかけていることを理由にバカにされるケースが出てきた。
 眼鏡をかけていることがなぜ侮蔑の対象になるのか?
 改めて考えると不思議だが、今ならわりと冷静に分析できる。
 さほど深い理由などなく、マンガなどの眼鏡キャラの類型を勝手に当てはめ、「がり勉」とか「運動音痴」とかのイメージを重ねることがきっかけになったのではないかと思う。
 とくに「メガネザル」と呼ばれるのが悔しかった。
 ずっと長くその名詞を耳にすると構えてしまうところがあったが、ある時期から「それはメガネザルに対して失礼だ」と気付き、こだわりは解消された。
 ただ、「バカにされる」と言っても単発で、継続的、集団的ないじめに発展することが無かったのは幸運だった。
 それもせいぜい3〜4年くらいまでのことで、5〜6年になって眼鏡をかける人数が増えてくると、反比例するようにからかいの対象になることは減っていった。

 少数派が好奇の視線を受け流す術は、様々にあるだろう。
 私の場合、言葉にするなら自分を「通りすがりの絵描き」と想定することで、心の平衡を保っている所があったと思う。
 私は幼い頃、親が共働きだったので、昼間は母方の祖父母の家で過ごし、そこから保育園や幼稚園にも通っていた。
 常に自宅周辺と祖父母宅周辺の二つの世界を行き来する旅人の感覚があり、遊び仲間も二か所に分かれてそれぞれに存在した。
 そうした感覚は他の子たちとは共有されず、普通は「一つの世界」で完結しているらしいことも分かっていた。
 眼鏡をかけていることの他にもう一つ「普通とちがう」ことがあり、相対化されていたのだ。
 小学校に上がり、住む世界が自宅周辺に一元化された後も、なんとなく「旅人気分」は残っていた。
 元々孤独癖、夢想癖があり、一人遊びを好む傾向もあったので、旅人気分は苦にならず、そっちの方が楽だった。
 お仕着せの「眼鏡キャラ」とは別の、自ら選んだ通りの良いキャラ設定で、自分を守っていたのだと思う。
 とくに5〜6年になるころには、ガンプラを作るのが得意だったり、剣道が上達したり、中学受験の勉強で成績が上がったりと、小柄なメガネ君ながら、いくつも自信を持てる分野が広がって来ていた。
 そうした高学年時代の気分は、作品化したことがある。

 図工室の鉄砲合戦

 そして、何よりも私は絵描きだった。
「通りすがりの絵描きですが、何かできることはありますか?」
 そんな気分が成育歴の中でずっと続いた。
 今でもそれが、一番しっくり馴染むのである。

 結局私は、幼児の頃から中学にかけて、ずっと眼鏡をかけていた。
 訓練の甲斐もあって徐々に視力は回復し、中二ぐらいで眼鏡をはずした。
 左右の視力のアンバランスは残しつつも、高校生の頃には裸眼で右1.5、左2.0ほどになり、むしろ眼はよく見える方になった。
 高校以降の知り合いは、私に対して「眼鏡をかけている」というイメージは全く持っていないだろう。
 元は遠視だったこともあり、老眼になるのは早いだろうと、ずっと言われてきた。
 ここ数年、そろそろ老眼鏡の世話になり始めている。
 これから私は、ゆっくり「視えない」という原風景に還っていくのだろう。
 別に何かを失うわけではない。
 元いた所へ戻るだけだ。

 色々あったが、今はもう、幼い頃眼鏡をかけていたことが原因で色々言われたことについて、痛みも怒りもほとんど感じない。
 無知無理解がそれをさせたのだということで、一応受け止められている。
 むしろ、子供の頃からマイノリティの気持ちを理解し得る立場にありながら、自分自身がやらかしてしまった差別の数々に、心の痛みを感じる。
 やってしまった当時は悪気が無く、それが差別であると思いもしなかった行為の数々が、どれだけ残酷であったかということに、ずっとあとになってから気付き、愕然とする。
 気付かないだけで他にもまだまだやってしまっているのだろうと思うと、後悔に身悶えしたくなる。
 そんなことが度々ある。
 なんのことはない、私も「やっている側」だったと気付いた時、幼少時の痛みの大半は消えた。

 差別やいじめは、人間の原始的な感情の領域に根差しているので、そうした衝動が心の中に生じること自体は止め難い。

 いじめは本能

 それを実際の発言や行動に移す前に自省、自制することは可能なはずで、なにより大切なのは知識、正しい認識だ。
 眼鏡をかけた児童が、以前ほど好奇の目で見られなくなったように、様々な差異が少しずつ「当り前の風景」の中に入っていけるよう、まずは知ることだ。
 今後の人生でも、私は無知無理解から繰り返しやらかしてしまうだろうけれども、それを減らす努力はしなければならない。
 せめて自分の中に今もいる弱視児童の自分に対し、恥ずかしくないふるまいを。
(「最初の修行」の章、了)
posted by 九郎 at 21:13| Comment(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2017年11月06日

最初の修行3

 どうやらこの子はお絵かきが好きらしいということで、私の視力矯正訓練にはそうした要素が取り入れられた。
 今でも覚えているのは、塗り絵などの線画にトレシングペーパーをかぶせ、上からなぞっていくというもので、これは今考えると、お手本の上に半紙をかぶせてお経や仏画を書き写す「写経」「写仏」の稽古そのものだ(笑)
 がんばって描くとほめてもらえるのがうれしくて、この訓練はわりと好きだった。
 単なる「なぞり書き」と侮るなかれ、あらゆる表現はモノマネから始まる。
 お手本をトレスして完成された線を体感するのは、絶好のスタートダッシュになるのだ。
 幼児の頃の「得意」は、要するに「自分で好きでやっている」回数とイコールだ。
 私は四才から保育園に通っていたが、同年代の中では(実際大した差はないのだが)「絵がじょうず」ということになり、その体験が、はるかに時が流れた現在につながっている。
 卵と鶏のように因果関係は微妙だが、弱視であったことが「絵描き」の私を作ったということもできるのだ。

 左右の視力にアンバランスがあり、とくに右目の訓練が必要だったので、視える方の左眼に「アイパッチ」を貼ることもあった。
 眼鏡をかけていれば右眼も日常生活に不自由はない程度には視えていたので、できれば普段からなるべくアイパッチ使用を勧められた。
 しかしさすがに幼児にとってはストレスが大きく、嫌がってあまり貼らなかったと記憶している。
 このアイパッチによる矯正訓練は今でも行われているようだ。
 子供向けの絵画指導をしていると、たまに片目に貼っている子を担当する機会がある。
(無理のない程度にがんばれ!)
 そんな風に心の中でエールを送っている。

 視力矯正が始まった幼児の頃から、母親はよく駅前市場で鶏の肝焼きを買ってくるようになった。
 これを食べると目にいいからと勧められるうちに、あの香ばしくほろ苦い味が好きになった。
 肝が目に良いというのは民間療法で昔から言われてきたことだと思う。
 数年前、雑賀衆に関する本を色々漁っている時、神坂次郎の小説の中に「雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べている」という描写を見つけたことがある。
「へ〜、やっぱり肝って眼にいいのか?」と、昔を思い出したものだ。
 ビタミン類の補給などで、それなりに科学的根拠はあるのだろう。

 私が幼い頃、眼鏡をかけている子は非常に少なかった。
 通っていた保育園、幼稚園では他に見かけなかったし、もっと同級生の増えた小学校でも、入学当初は学年に何人もいなかったと記憶している。
 小学生時代は、今のようにスマホは無かったが、TVもマンガもゲームも、視力を消耗するホビーは既に人気だった。
 そして学年が進んで学習時間が増えるとともに、徐々に近視で眼鏡をかける子は増えていったが、幼児の頃から弱視が原因で眼鏡をかける子は、今よりもっと少なかったはずだ。
 これは「時代と共に弱視の子が増えている」というより、検査法の発達により、早期発見のケースが増えたためではないかと思う。
 全ての年齢層で眼鏡をかけている人が増え、日常生活の中で接する機会が多くなると、「眼鏡は数ある個性の中の一つ」としいう認識が定着する。
 今はもう、大人も子供も眼鏡をかけているからと言って特別視されることは少ないだろう。
 しかし私が幼い頃は、まだ認識がそこまで至っておらず、大人にも子供にも珍しがられることが多かった。
 もっとはっきり書くと、好奇の目で見られ、バカにされることがけっこうあった。
(続く)
posted by 九郎 at 21:45| Comment(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする