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2025年03月16日

『ベルばら』からハマるフランス革命

 劇場アニメ『ベルサイユのばら』をしばらく前に観た。

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 池田理代子により原作マンガが描かれたのが1972〜73年、TVアニメ版の放映が1979〜80年で、どちらも名作として記憶されている。
 2022年、マンガ版連載開始50周年で劇場アニメ制作の報に触れたオールドファンは、期待と不安を感じたことだろう。

・名作すぎる原作マンガと旧TVアニメをどう背負うか?
・半世紀を経たリメイクで、アップデートは必要として、どうアレンジされるのか?
・そもそも二時間の尺で大河ドラマの何をどう描くのか?

 当然このあたりは気になってくる。

 結論から先に言うと「ぜひ観るべし!」だった。
 事前に情報入れずに観たが、少なくとも私の観た回は他の観客の皆さんの反応も上々だった。
 絵的には原作マンガの再現を基調とし、旧TVアニメへのリスペクトをちりばめつつも、2020年代対応、日本発世界対応もクリアし、与えられた課題を高いレベルでクリアした、プロの仕事だと感じた。
 鑑賞後にレビュー漁ってみると、初見の若い人は楽しめ、オールドファンは賛否両論な感じだろうか。
 大河ドラマを二時間に収めるには「超ダイジェスト」にならざるを得ない。
 今回は活躍するキャラを絞ってあるので、錯綜する宮廷ドラマを期待すると裏切られるかもしれないが、後半の「フランス革命」の要素は短い尺の中でしっかりもりこまれている。
 賛否両論の「ミュージカル仕立て」は、私はとても良いと感じた。
 劇中歌がどれも素晴らしく、MV風に高密度でイメージを詰め込むアレンジは、短い尺で必要な要素を語るのにとても上手いやり方だと思う。
 たとえるならば「ベルばらワールド体感ライブ! オスカル編」という作り方だったのだろう。
 二時間でコンパクトにまとめるにはこれしかないというアレンジだ。
 オールドファンの危惧は「ベルばらの凄さはこんなもんじゃないんですよ!」という、ある意味「身内意識」のようなものだと思う。
 しかしネット配信世代の若い人たちは、興味をもったら旧作をすぐ観るもので、年よりがあれこれよけいなおせっかいや差し出口をするまでもない時代なのだ。
 何よりも少子高齢化と分断、圧政の進行する今現在、「民衆蜂起」「革命」がまともに描かれたことの意味は大きい。
 劇場版を観た若い人の中から、原作マンガや旧アニメ、そしてフランス革命そのものへと興味を広げていく層が、必ず出てくることだろう。
 そして今回の劇場アニメ、超ダイジェストであるがゆえ、鑑賞後に原作マンガを読み始めても、ネタバレがさほどネタバレとして機能しないと思う(笑)


 劇場アニメ公開のタイミングでYouTube配信されていた旧TVアニメ版も、久々に何話か観返してみた。
 私の成育歴で言うと、小学生の頃にまずTVアニメ版から入り、学生時代に原作漫画をさかのぼって読んだと記憶している。
 TVアニメは、『エースをねらえ!』とか『あしたのジョー』とかと同じ流れの中の作品として観ていた。
 出ア統という不世出のアニメ監督の個人名を認識したのはずっと後のことである。
 今観ると、原作マンガからかなりアレンジされている意図がわかる気がする。
 70年代末はまだ「少女マンガ」という枠が、今よりずっと強かったので、より広く視聴してもらうための「一般化」だったのだろう。
 面白さはまったく変わらないが、今の時点では原作よりかえって「時代」を感じた。

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●『ベルサイユのばら』全五巻 池田理代子(集英社文庫)
 続いて原作マンガも読み返してみた。
 私のような五十代のおっさんでも絵の古さがあるとわかるものだが、半世紀前の絵で全然気にならず、むしろ「凄い」と感じる。
 執筆された70年代初頭の情勢で言えば、少年漫画に「リアル描写」が持ち込まれ始めた時期にあたりそうだ。
 少女漫画の定番アイテム「女王」や「宮廷」に、リアル描写を持ち込んで成立したのが『ベルばら』で、そのリアルの延長線上に「革命」や「処刑」が描かれたという解釈も可能だろう。
 基本構造は「マリー・アントワネット物語を男装の麗人を通して語る」という体裁で、男と女、王室や貴族と平民いずれの世界とも交錯できるオスカルの濃密なドラマを追うことで、フランス革命に至る時代背景が自然に頭に入ってくる。
 ちなみに学校や塾の先生界隈では「中高生がフランス革命を学ぶならまず『ベルばら』から」という定評があったりする。
 もちろんフィクションなのだが、史実が十分に反映されており、読書を始めるのに必要なモチベーションが強烈に生まれるのだ。


 私も劇場アニメの余韻に浸りつつ、フランス革命について改めて読書したい意欲が湧いてきた。
 手持ちは二冊。
 そろそろ開いてみるタイミングが来たようだ。

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●『フランス革命 歴史における劇薬』遅塚忠躬(岩波ジュニア新書)
 錯綜する革命の様相を、著名人や各階級の抱える利害関係や、当時抱いていたであろう情念の面から次々に解いていく筆致が見事。
 マンガ『ベルばら』と続けて読むと、ちょうど内容が相互補完になっている。
 ふと気になって奥付をみると『フランス革命』の刊行は1997年で、マンガ執筆より四半世紀後だ。
 こういう平易な解説本が無い状態で、25歳の池田理代子は『ベルばら』を描いたのかと、あらためて驚愕する。

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●『フランス革命小史』河野健二(岩波新書)
 確か学生時代に授業のテキストになっていて、一通りは読んだはずなのだが、内容は全く覚えていなかったのでとても面白かった。
 1959年刊。
 戦後民主主義で育った世代が思春期に差し掛かる時期だ。
 知的好奇心に目覚めた若者が、政治や思想に興味を持った時、手にとる本だったのだろう。
 簡潔な記述が小気味よく、「小史」と言いながら理解の範囲が広がりそうだ。
 次々に人名や事項名が登場して内容が濃く、さすがの青版である。
 ロシアや中国の革命への評価にやや時代を感じるけれども、ジュニア新書『フランス革命』の次の一冊としてお勧め。


 劇場アニメ『ベルばら』からスタートして読書を進めると、マリー・アントワネット像が徐々に補正され、相対化されてくる。
 国を逃げ出そうとして失敗し、民心を失い、その後は革命潰しのために手段を択ばず暗躍する様を追うと、処刑に至ったのもやむなしという感じはする。
 マンガ『ベルばら』は、主に王政から革命の発端に至るまでの物語。
 フランス革命全体を通しての主役を一人選ぶなら、やはりロベスピエールになるだろうか。
 結果的には冷徹な独裁者になりながら、それでも貧しい民衆側に立った「ブルジョア革命のその先」を垣間見せたところに肝がある。
 ナポレオンは革命の幕引き役で、軍人としてもちろん優秀だったのだろうけれども、民衆の「革命疲れ」のタイミングにうまく居合わせ、資本主義と産業革命の段階に着地させたということなのだろう。

 さらに時が流れた19世後半、パリは「芸術の都」として近代美術が花開き、必ずしも専門家ではない層から多くの芸術家と新しい表現が生まれた。
 長い革命を経て、王室が独占していた美術品がルーブル美術館で展示され、自由平等の理念が根付いたことと無関係ではないはずだ。

 革命初期、農民の武装蜂起の多くがデマによる恐怖から始まったという。
 グランド・プール(la Grande Peur「大恐怖」)について知るほどに、今の日本が「暴動→独裁→戦争」コース寸前に思えてくる。
 もしそうだとしても、数十年後の民主主義のため、教養を積まねばならない。
 フランス革命の18世紀末とは違い、今は一般庶民にも読みやすい書物がたくさんあるのだ。
posted by 九郎 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする

2025年03月13日

あれから一年、鳥山明再読 その2

(続き)

 鳥山明は基本的には「他愛のない楽しい物語」の作家だったと思うが、その作品の端々に、ゾクッとするような生きた人間の描写が紛れ込んでおり、長年経ってみてからでじわじわ効いてくるものも多い。
 小学生の頃、『Dr.スランプ』の千兵衛プロポーズ回を見た時、ハプニング的な求婚直前のみどり先生のあの表情は、子供心に「あ、変わった!」と思った。
 中高生から二十代にかけて『ドラゴンボール』を読んでいた時はもちろんバトルマンガとして楽しんでいたわけだが、思い返してみると作中の人間関係、人間洞察の描写に唸ることが多々ある。

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●『ドラゴンボール』全42巻

 マンガ『ドラゴンボール』の主人公は言わずと知れた孫悟空で、日本だけでなく世界中で愛されるスーパーヒーローだ。
 誰もがその名をきけば「ああいうやつ」というキャラクター像が浮かぶと思うが、しかし具体的にどんな人格か説明しようとするとけっこう困る。
 他のキャラクターや各エピソードを追うことで、悟空とは何者か、何を求めていたのか、輪郭が浮かび上がってくるかもしれない。

 まずは若くして結婚した悟空の嫁、チチから語り始めてみよう。
 年若い頃はバカだったので、悟飯が生まれて以降のチチを「むかしは可愛かったのに……」などと思っていたが、大人になって読んでみると母親になってからのチチは100パーセント正しい。
 悟空はバトルマンガの主人公としては最高のキャラクターだが、「生活のリアル」という面から見れば社会不適応にしかならない。
 人格というものは美点と欠点が表裏一体で、悟空の浮世離れ、軽みは、非常事態にあって見る者を安心させ、「きっとこいつならなんとかしてくれるのではないか?」という希望につながる。
 実際、作中でも「悟空の不在」は事態の深刻化や救いの無さを招きがちだ。
 チチが悟飯を戦いに巻き込むことに一貫して反対していたのは、「おらの悟空さが負けるなんてありっこねえ!」という、一点の曇りもない信頼の裏返しでもあったろう。
 バトルマンガの中にごく常識的なものの観方を堅持するキャラクターがいるからこそ、物語に深みが出来るのだ。
 亀仙流の体術とか拳法に限って言うと、一番プレーンに継承しているのは、牛魔王の教えを受けたチチではないだろうか。
 誰に対してもきっちり自分の意思を通すチチの強さは亀仙流の修練が基礎になっているはずで、結婚後は悟空のものの考え方にも影響を及ぼしている。
 その後さらに世代が進んで、サイヤ人の血を引く子供たちが増えてきたら、子育て相談の保護者の会なんかができるかもしれない。
 チチとブルマが世話役になったりするかもしれない。

 大人になって「育てる方」「教える方」になってみると、あらためて色々わかることが多い。
 ピッコロが幼児の悟飯の修行をつけた時、最初の半年間荒野に放置したのは、人に何かを指導するシーンとして凄くリアルだ。
 まず自力でできるだけやり、自己解決できることはクリアし、自分なりにものが考えられるようになっていないと、何か教えられても身に付かない。
(ただ、いくら強大なパワーを持っているとはいえ、幼児を荒野に放置するのは完全に虐待で、現実ではせめて思春期以降、自分の意志で修練に入った場合のみ許されるのは言うまでもない)

 作品初期の亀仙人・武天老師による亀仙流の教えは、何を学ぶ場合でも全く正しい。

「武道は勝つためにはげむのではない。おのれに負けぬためじゃ」
「これまで習得した基本を生かし、自分で考えて自分で拳法を学べ」
「よく動き、よく学び、よく遊び、よく食べて、よく休む。これが亀仙流の修業じゃ」

 そもそも悟空の育ての親である初代孫悟飯は、亀仙人の一番弟子だった。
 亀仙人に弟子入りする以前から悟空は亀仙流で、無理をしない優しさで育てられたことが、凶暴なサイヤ人の素養を矯めたのだろう。

 悟空の人格が不可解な奥行きや二重性を感じさせるようになったのは、兄ラディッツとの闘いで一度死に、ベジータやナッパと闘うために帰還したあたりからだろう。
 それまでの戦いからシリアス度が一段上がり、戦闘民族サイヤ人として自覚したことがきっかけで、それまでのように天真爛漫に戦いを楽しむことが困難になったことが原因かもしれない。
 フリーザ編でスーパーサイヤ人になって以降は、変身する度に人格が転換する描写が加わる。
 地球で育った陽性の人格を共有しつつ、その奥から冷徹な戦闘モードの人格が顕れて重なってくる印象だ。

 悟空が繰り返した「限界突破」「瀕死からの超回復」、その果てのスーパー化は、サイヤ人の強靭な肉体あってこそであり、亀仙流の教えとは実は相容れない。
 人造人間編で悟飯を指導する責任ある立場になって初めて、悟空は亀仙流の基本に立ち返り、休養と自然体の重要性に気付いている。

 少年マンガにおける「超努力による限界突破」は、『巨人の星』『あしたのジョー』を代表とする梶原一騎原作作品あたりから創出されたメソッドだと思うが、悪影響も生みやすい問題はある。
 現実世界で非科学的な根性論や、パワハラやブラックな働き方を正当化する下地になりかねないのだ。
 売れる要素として作中で活用しつつ、梶原マンガの段階から「それは死につながる道である」ということはしっかり描かれていて、読者はいずれそこに思い至れる構造にはなっている。
 鳥山明『ドラゴンボール』も、読み進めるうちに最終的には「超努力による限界突破」の否定に思い至ることができる流れはあると感じる。

 かめはめ波と並ぶ悟空の得意技・元気玉は、「みんなの力を結集して強大な敵を倒す」という、世界を救うヒーローに相応しい技だが、悟空はあまり使用に乗り気でない気がする。
 無意識の内にセーブがかかるのか、ベジータもフリーザも完全には倒せておらず、決めきれたのは最後の最後、魔人ブウに対してだけだ。
 技の構造として「自分一人の力ではない」点に、心の底では納得できていないのかもしれない。

 実は悟空は「殺し合い」レベルの戦闘自体に乗り気ではなく、一番心置きなく力を発揮するのは「力の試し合い」レベルだ。
 一貫して天下一武道会を愛好し続けたのは、自身のサイヤ人としての素養と、後天的に身に付けた亀仙流の教えがうまく重なる領域だったからだろう。

 長期連載で大河ドラマを紡ぐようになった『ドラゴンボール』主要メンバーは、連載後期には親戚づきあいのようになっていく。
 悟空の息子の悟飯はそのファミリーの中では「初孫」的な位置にあって、初期メンバーから特別に可愛がられて育っている。
(ついでに言うとヤムチャは、親戚の中で「ふだん何やってるかよくわからないが、顔を見ると気楽になれるおじさん」的な位置)
 悟飯は作中で一貫して「特別な子」扱いになっており、素質だけなら誰よりも強いが、本人は全く戦いを望んでいない。
 悟飯と『ジョジョの奇妙な冒険』第三部主人公・承太郎は似たところがある。
 自ら望んで修業を積むほどの戦闘好きではなく、本来は物静かな学究タイプで、置かれた状況と生来の素質からたまたま「最強」になってしまっただけなので、本人は「強さ」にさほどのこだわりはない。
 ピッコロ、悟空、ベジータはそれぞれに「強さ」だけを求めていたが、「素質最強ながら性格適性ゼロ」の悟飯と接してはじめて、戦い以外の価値観を思い知る。
 人造人間編では、精神と時の部屋で悟飯が初めてスーパー化したシーンは描かれていない。
 最初のスーパー化には「強烈な怒り」が必要なはずだが、悟飯は生まれつきの素質だけでクリアしたのかもしれない。
 セル戦で初めて「怒りによる限界突破」を経験し、スーパーサイヤ人を超えたその先に至ったのではないだろうか。
 あのシーンは今見ると完全に集団による児童虐待で、寄ってたかって大人しい子供を小突き回して怒らせようとしている。
 しかも一番酷い「主犯」が父親の悟空であることに戦慄する。
 悟空が息子をちゃんと見れておらず、魔王であったピッコロの方がよほど「親」として悟飯を見ている。
 戦闘民族サイヤ人の邪悪さが一番出ていたシーンではないだろうか。

 年配になってから再読すると、とくに魔人ブウ編のミスターサタンの一連の描写が良いと感じる。
 ミスターサタン的な「ヒーローの戦いに迷い込んだ普通の人」の立ち位置は、当初はクリリンが担当していた。
 しかしクリリンは悟空にくらいついていって成長し、強く立派になってしまった。
 小狡くて嘘つきでどうやっても立派になりようがないミスターサタンが、立派じゃないそのままで世界を救うための重要パートを担ったのが泣かせる。
 作中の描写は無いが、おそらくサタンは苦労人だったのだろう。
 どんな時でもしぶとくチャンスをつかんでのし上がるたくましさと、ふとした瞬間に見せる人の好さの二面性が、それを感じさせる。
 無邪気な魔人ブウに策略とは言え対話を試み、糞みたいなブウの生い立ちに途中から同情してしまうことで心を通わせ、突然現れた邪悪な人間をとっさの正義感でブウの目の前でぶちのめして見せ、「噓からまこと」で世界を救うきっかけを作っている。
 悟空が純粋悪のブウに元気玉を使うクライマックスで、サタンが地球人の意識を「嘘」でまとめ上げるシーンは、「ああ、未熟な地球人には狡く優しい嘘つきこそがヒーローに相応しいのだな」という、サラッと乾いたユーモアがあった。
 スーパーヒーローではない一般人でもここ一番で根性出したらミスターサタンにはなれて、悟空に「やるじゃねえか! おめえはホントに世界の救世主かもな!」と言ってもらえるのが素晴らしい。
 詐欺的に始まった「サタンコール」を、最後は読者全員心の底から唱和する展開に、涙をおさえきれなくなるのだ。

 ドラゴンボールワールドは、本質的にはブルマが創っている。
 そもそもドラゴンボール探しの旅の途中でブルマが小さい悟空を拾ったのが物語の発端だ。
 天下一武道会バトルの流れに入ってから一旦はブルマの活躍の場が無くなったが、サイヤ人編からナメック星に舞台を移したフリーザ編への移行はブルマが主導しているし、地球帰還後はベジータの子のトランクスを出産することで、また運命の流れを切り替えている。
 悟空の心臓病死で行き詰まった本流の世界線から、タイムマシンの開発で新たな世界線を分岐させたのもブルマだ。
 元々の世界線「地獄の未来」の悟飯、トランクスは、立派ではあるけれども、本来の生き方が出来なかったせいかあまり幸せそうには見えない。
 同じ世界線のブルマは幸せではないかもしれないが、本来の「冒険者」のまま年を重ねていて、本編エピローグ、同年代のセレブなブルマよりずっと若く見える。
 人造人間編の最初の方で、ブルマが「戦闘マニアのサイヤ人」を批判する印象的なシーンがある。
 ここでは「常識的な地球人」の役割で発言しているが、ブルマはブルマで実は「退屈な日常に耐えきれない冒険マニア」な一面はあり、それが折々で新しい冒険を生み出しているのだ。

 マンガ版の終章「あれから十年」は、多くのキャラが本来の個性のまま成長した姿が見られる。
 研究者で優しいパパの悟飯、普通の十代少年の悟天、ちょっと舐めた若造トランクス。
 その他のキャラもそれぞれに平和な日常を過ごしている。
 ドラゴンボールワールドは原作漫画完結後もまだ公式で新作アニメ等のリリースが続いている。
 現役のファンも多いことだろうから、これは個人的な感覚なのだけれども、平和になって戦う理由が無くなった悟飯、悟天、トランクスが降りた時点で、あの世界線は閉じたのだと思う。
 武術に限らず、本人が心底好きでやるのが「クリエイト」であって、そうした創造的精神は血筋だけでは伝わらない。
 悟空、ベジータがその後も強さを追及するのは良いが、悟飯は元々戦いなど好きではなかったのだから、降ろしてあげるのがむしろ遅すぎたくらいだ。

 物語の果て、悟空は魔人ブウが転生した少年ウーブに出会う。
 二人の組み合わせは、「じっちゃん」初代孫悟飯と、地球に送り込まれたサイヤ人幼児カカロットの関係とシンクロする。
 大好きだった命の恩人のじっちゃんを、意識は無かったとはいえ大猿化することで殺してしまった悟空。
 贖罪の意識もあったことだろう。
 記憶を失った「破壊の申し子」を、亀仙流の老師が再び導く形に帰着することで、原作漫画は円環を完成したのだ。
 エピローグに相応しい、地獄の未来のブルマとトランクスが生んだ、優しい夢の世界線だと思う。

(了)
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 児童文学 | 更新情報をチェックする

2025年03月12日

あれから一年、鳥山明再読 その1

 人気作『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』で知られるマンガ家、鳥山明が亡くなって一年が過ぎた。
 70年代生まれの私たちは、その活躍を初期から順にリアルタイムで追ってきた世代にあたる。
 80年代初頭に『Dr.スランプ』のヒットがあり、友達が熱心なファンでコミックを集めていた。
 小学生当時は「この作品はあいつ」みたいな感じで、それぞれ集めている単行本の分担があって、私は『じゃりン子チエ』担当だった。
 その後も中高〜学生時代を通じ、それぞれの年代で身近に「ガチの鳥山ファン」がいて、私が担当ではない状態が続いた。
 中高生の頃に自覚的に絵を描くようになり、人気作品の模写なども熱心にやっていた私だが、手元に現物として絵が無いと、やはり影響は受けにくくなる。
 かくして「かなりの鳥山ファンなのに絵柄の影響は受けない」という、私としては珍しい状態になった。

 鳥山明の絵の凄さを挙げだすと切りがない。
 80年代前半、マンガの作画レベルは目に見えて向上していったが、基本的には「従来の平面的なマンガ絵にリアル描写を盛っていく」という方向だった。
 見た目は「リアルっぽく」なっていたが、写実デッサン的な意味ではさほど立体が描けておらず、空間も出ていない絵が多かった。
 それまでとレベルの違う立体感や、奥行きのある空間が持ち込めていたマンガ家はそんなに多くなくて、鳥山明、大友克洋、宮崎駿あたりが飛び抜けていた。
 三人とも模型趣味があり、立体物を日常的に触っていたことと無関係ではないはずだ。
 私が子供の頃から注目していて、技術的になぜそうなるのかいまだによくわからないのが、「スクリーントーンをほとんど使わないフリーハンドのモノクロ絵が、なぜかカラーに見える」という点だ。
 仮説として、80年代にマンガ家の多くが「マンガ絵に写実描写を取り込む」という方向をとったが、鳥山明は逆に「写実をデフォルメマンガ絵に落とし込む」という方向だったのではないかと思った。
 マンガで立体感や写実表現を取り入れれば取り入れるほど、「モノクロなのにカラーに見える」という感覚は薄れていきがちだ。
 鳥山明は「マンガ絵の範囲内での立体感」を追求して、写実にはあまり踏み込まなかったことに、なんらかの解がありそうだ。
 訃報後に再刊された画集を見ながら、あれこれ考えている。

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●週刊少年ジャンプ特別編集
 鳥山明スペシャルイラストレーションズ『鳥山明 the World』

 いま鳥山明のマンガを読み返すなら、初期作や短編が良い。

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●『鳥山明〇作劇場』1〜3

 デビュー当初から立体感や奥行きのある空間はもう描けていて、『Dr.スランプ』連載中に絵がどんどんこなれ、見た目はむしろシンプルになっていったのだなと再確認。
 また『鳥山明のHETAPPIマンガ研究所』を再読してみると、小学生向けのマンガ入門の体裁をとりつつ、意外に高度な絵作りの秘密が明かされていて興味深い。

https://amzn.to/3DBAPk8
●『鳥山明のHETAPPIマンガ研究所』

 昔から鳥山作品はジャンル分けが難しいと思っていた。
 代表作のドラゴンボールで「バトルマンガの王様」になってしまったが、初期からの読者はそれが本筋ではないと知っていたはずだ。
 今思い返すと「独自の世界観」をオリジナルデザインで絵解きするタイプの、80年代以降の潮流を先取りした表現者だったのだとわかる。
 悟空の子ども時代にあたる初期の『ドラゴンボール』は鳥山作品本流の異世界冒険絵巻で、成長して天下一武道会で初優勝するところまでで、実質的な一旦完結したのだろう。
 それ以降バトルマンガ化した『ドラゴンボール』が嫌いだったわけではない。
 フリーザ編などは、もう大人になっていたにも関わらず、週刊連載マンガを追ってきた中でもトップクラスに興奮した。
 しかし連載が進むほどに(作品自体は素晴らしく面白いのだが)、鳥山明本人の好みから外れていったのは確かだろう。
 純粋に楽しんで描いていたと思しき緻密なSFタッチの扉絵やオリジナルメカがどんどん減っていったことからも、それはうかがえる。
 後に『SAND LAND』を読んで、「ああ鳥山先生、やっと描きたいものを好きなように描けたんやなあ。良かったなあ」と思った。
 アニメ化の際に作中に登場する1/35戦車がプラモで発売された時も、「先生よろこぶやろなあ」と思った。
 昔からモデラーとしても実力を知られていたのだ。
 昨年の突然の訃報にまず思ったのは、「先生、戦車のプラモ作れたんかな?」だった。

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●マンガ『SAND LAND』

https://amzn.to/3XMPEXU
●『1/35 SAND LAND TANK 104』

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 どの鳥山作品も読むとただただ面白く、そして年月が経って再読してみると大人の深読みにもたえる。
 ある意味、良質の児童文学ではないかと思う。
(続く)
posted by 九郎 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 児童文学 | 更新情報をチェックする

2025年02月28日

21世紀の阿弥陀と浄土

 仏教について、阿弥陀如来と浄土信仰について、史実としてわかっている事、わかっていないことを一度まとめておきたいと思う。

■仏教と浄土信仰の起源
 釈迦はおよそ2500年前の古代インド、実在の可能性の高い人物とされている。
 中国の孔子やギリシアのソクラテスと近い年代で、イエス・キリストの活動は500年ほど後になる。
 ヒマラヤ山麓の小国の王子として生まれ、29歳で城を捨てて出家し、修業の後35歳で悟りを開いて「仏陀」となる。
 在世中は主にインド北部のガンジス川中流域で活動、当時としては超人的な高齢の80歳まで教えを説いたとされる。

 釈尊在世中の教えに比較的近いとされる初期仏教は、セイロン島を経由して主に東南アジアへ伝えられた。(南伝仏教)
 紀元前後に「大乗仏教」が成立し、インド北西部の文化の影響も受けながら、シルクロード沿いに中国へ。そこで経典が漢訳され、朝鮮半島、日本へも伝えられた。(北伝仏教)
 7世紀頃には「密教」が成立。その後13世紀にインド本国で仏教が衰えてからは、チベット、モンゴルへと伝えられた。(チベット仏教)
 試みに、この伝来過程を絵図にしてみた。

●仏教文化圏絵図(クリックで画像拡大)
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 ためしにジョジョで喩えてみると、

 修業が必要な初期仏教は第一部〜二部。
 中期の大乗仏教がスタンドバトルになった第三部以降。
 単体で独自の人気の浄土教が第四部。
 真言密教で世界が一巡して第六部完。
 本場がチベットに移って第七部以降。

 …みたいな感じだろうか?


 浄土教と阿弥陀如来の起源については、はっきりわかっていない。
 阿弥陀如来を意訳すると「さえぎるもののない光の仏」とか「かぎりない命の仏」ということになる。
 根源的な「光」「命」というものに対する崇拝は世界各地に古くからあったはずで、阿弥陀の場合はおそらくインド北西、ガンダーラかその周辺あたりで仏教に取り入れられたのだろうとされている。
 浄土教の根本経典「浄土三部経」の中の『仏説無量寿経』には、阿弥陀如来の誕生ストーリーが語られているが、これはもちろん「史実」ではないし、実在の人物としての釈迦が直接説いた教えでもない。
 21世紀の今現在「阿弥陀」「浄土」と向き合うなら、こうした事実関係は知りつつ、信仰するにしてもその上でのことになる。

■21世紀の阿弥陀と浄土
 そもそも仏教は時代や地域に応じ、さまざまにアレンジされて伝えられてきた。
 浄土信仰は釈尊の没後数百年後に成立した、仏教の範疇ではかなり特殊な信仰であるし、インド、中国、日本と伝来して以降も、じわじわと独自アレンジが重ねられてきた。
 親鸞を開祖とする浄土真宗内だけでも無数のアレンジが存在し、本願寺教団内では「公式」で一番新しいアレンジが蓮如の言説ということになるのだろう。
 近代化以降、史実と虚構、現実と空想の峻別が厳しくなり、阿弥陀如来や浄土に対する信仰も質を変えざるを得なくなった。
 私自身も、浄土真宗が成立した中世〜本願寺教団が世に定着した近世の門徒と同じように素朴に「信仰」することは、正直なところ困難だ。
 その代わり、戦後サブカルチャーの隆盛期をリアルタイムで育ってきた1970年代生まれなので、フィクションであろうとなかろうと、その物語やキャラクターが魅力的であれば、心の底から楽しみ、「信じる」ことが可能なのはよく知っている。
 そしてフィクションはフィクションと認識した上でのそうした読み方であっても、根本経典の浄土三部経や、親鸞・蓮如の言説は十分に魅力的であると思っている。
 また、祖父から続く私の家の物語も、阿弥陀如来の物語への感情移入の材料になっているのだ。
posted by 九郎 at 17:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 阿弥陀 | 更新情報をチェックする

2025年01月07日

書初め2025

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 恒例の藁筆による書初め、今年は「還」の字にしました。
 字のイメージを列挙してみると、

・かえる、かえす
・一巡りする、元へもどる
・また、ふたたび
・元の持ち主にもどす

 などなど。

 今年は阪神淡路大震災や、カルト教団がテロ事件を起こした1995年から三十年。
 様々に振り返る年になりそうです。

 藁筆による書初めの過去作は以下に。
 2020「一揆」
 2021「叛」
 2022「筵旗」
 NO WAR 2022
 2023「蜂起」
 2024「糾」
posted by 九郎 at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする