2006年04月29日
神様仏様を描くと言うこと
基本的には、神や霊に姿は無い。
私には霊能の類も無いので、見えないものを見ることは出来ない。たまに「夢のお告げ」で特殊な風景やキャラクターを見ることはあるけれども、夢に見たことはそのまま絵に描いたり言葉に置き換えることは難しい。
面白い夢を見れば「夢日記」として記録に残すこともあるが、本来絵や言葉に残せないものを無理矢理描いているもどかしさがある。
見えない霊を絵にすることの大先達・水木しげる御大が、膨大な資料を集めて調べ尽くしたあと、それらを自在に引用・再構成することで絵作りをしていることは、よく知られている。
民衆の間に広く受け入れられた図像を引用する、長い時代をかけて積み上げられた文化的な約束事を下敷きにすることで、説得力が生まれるのだ。
先達に倣い、私も資料は出来る限り集め、調べる。図像資料を蒐集するのはもちろん、古典や研究書をあれこれとひもといてみる。調べれば調べるほど、資料間の矛盾は広がるし、どのように描いていいか分からなくなることもある。
考えてみれば、様々な資料の間に矛盾があるのは当たり前のことだ。時代や土地柄によってばらばらに練り上げられた、個々の図像だけが実体であって、神仏の姿に「正解」「真の実体」など無いからだ。
それでも集めた資料を元に、模写してみたり姿の意味を研究してみたりすると、その神仏が「何故そのように描かれたか」が、おぼろげながらわかってくることがある。
「何故そのように描かれたか」の「描かれたか」という人為の部分と、そういう人為の元に描かれた図像を、人が見たときに感じる神仏の雰囲気の間の関係に、なんとも言い難いフシギが立ち上ってくる。
posted by 九郎 at 11:20| 神仏絵図覚書
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