【6月の予定】
5月中になんとか「金烏玉兎」に目処をつけられたので、新カテゴリを準備中です。田植えが一段落したこの季節に相応しいものを発表予定。
乞うご期待。
【ロゴ画像変更】
6月に入りました。私の好きなアジサイが、いい感じで咲いてきています。うちのベランダには小ぶりなランタナしかないのですが、アジサイは丹精こめているお宅がけっこうあり、歩道の植栽帯でもよく見かけるので、眺めるのに良いきせつになってきました。
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2007年06月01日
2007年06月02日
塗り絵
塗り絵ばやりが根強く続いている。書店に行けば、何らかの塗り絵本が途切れることなく並んでいる。
塗り絵という言葉を見るたびに、心の底でわずかに反応する部分がある。幼い頃の記憶の断片。
私は幼い頃、視力が少々弱かったので、眼科医に通って訓練を続けていた時期があった。中々根気の続かない幼児の私をあれこれとおだてながら、お医者さんや親の苦労は続いた。
当時から絵を描くのが好きだったので、訓練メニューには「お絵描き」をテーマにしたものも用意されていた。その中に「塗り絵の絵をなぞる」と言うものがあった。
お気に入りのキャラクターが線描きされた塗り絵本にトレシングペーパーをかぶせて、鉛筆でなぞっていくのだ。その際、とくに弱かった右目の視力を高めるために、「アイパッチ」という絆創膏のようなシールで、見える方の左目を隠したりした。
見えない目で線を辿るもどかしさや、くしゃくしゃとしたトレシングペーパーの感触が、今でもふとした瞬間によみがえってくることがある。
例えば書店の塗り絵本が並んでいる一画で。
訓練のかいあって、私の目は中高生の頃には人並み以上によくなった。今はもう視力は落ちているだろうけれども、それでも平均以上には見えているはずだ。
長い年月が経った今、私は神仏の線描き「白描画」をあれこれと集めては、それをなぞったり着色したりを続けている。トレシングペーパーは相変わらず必需品だ。「三つ子の魂百まで」とはこのことか。
そんな私がお勧めする塗り絵本が、こちら。
●「癒しの塗り絵―美しい密教の仏とマンダラ」
塗り絵ばやりということで、仏画塗り絵も何種類か出ているが、私がしっくり来たのはこの一冊。日本の仏画とは違うチベットタンカ風なので好みは分かれるかもしれないが、原典をかなり忠実に再現した線画で、余計なアレンジが少ないのが良い。史料としても十分使え、値段もお手頃。
塗り絵という言葉を見るたびに、心の底でわずかに反応する部分がある。幼い頃の記憶の断片。
私は幼い頃、視力が少々弱かったので、眼科医に通って訓練を続けていた時期があった。中々根気の続かない幼児の私をあれこれとおだてながら、お医者さんや親の苦労は続いた。
当時から絵を描くのが好きだったので、訓練メニューには「お絵描き」をテーマにしたものも用意されていた。その中に「塗り絵の絵をなぞる」と言うものがあった。
お気に入りのキャラクターが線描きされた塗り絵本にトレシングペーパーをかぶせて、鉛筆でなぞっていくのだ。その際、とくに弱かった右目の視力を高めるために、「アイパッチ」という絆創膏のようなシールで、見える方の左目を隠したりした。
見えない目で線を辿るもどかしさや、くしゃくしゃとしたトレシングペーパーの感触が、今でもふとした瞬間によみがえってくることがある。
例えば書店の塗り絵本が並んでいる一画で。
訓練のかいあって、私の目は中高生の頃には人並み以上によくなった。今はもう視力は落ちているだろうけれども、それでも平均以上には見えているはずだ。
長い年月が経った今、私は神仏の線描き「白描画」をあれこれと集めては、それをなぞったり着色したりを続けている。トレシングペーパーは相変わらず必需品だ。「三つ子の魂百まで」とはこのことか。
そんな私がお勧めする塗り絵本が、こちら。
●「癒しの塗り絵―美しい密教の仏とマンダラ」
塗り絵ばやりということで、仏画塗り絵も何種類か出ているが、私がしっくり来たのはこの一冊。日本の仏画とは違うチベットタンカ風なので好みは分かれるかもしれないが、原典をかなり忠実に再現した線画で、余計なアレンジが少ないのが良い。史料としても十分使え、値段もお手頃。
2007年06月04日
雨降り
そろそろ梅雨に入るだろうか。
天地の間の水の総量は変わらないが、今の一時期は地上の野を潤わせて、動植物を育ててくれる時期だ。
雨は多過ぎず少な過ぎず、普通ぐらいに降ってくれるのが一番。
昔、天はドーム状になっていて、そのドームの上では火が燃えていると考えられていたとか。
天のドームに開いた穴から火の光が漏れてくる、それが星の輝き。
時として星の穴から流れ落ちてくるのが雨。
2007年06月09日
泥
昔、家の周りは田んぼだらけだった。
5月6月あたりには田んぼに水が入り、オタマジャクシやカブトエビ、ホウネンエビやタニシ、アメンボやイトトンボ等々、数限りない小さな生き物が田んぼの泥の中から湧き出してきた。
泥の中に手を突っ込み、ニュルッとした感覚とともに掴み出して広げてみれば、半透明のザリガニの幼生や、名も知らない小さな水生生物がいくらでも居た。
私は幼い頃から図鑑の類が大好きで、とくに生物の進化を扱った一冊がお気に入りだった。生命の始まりから原生動物、魚類、両生類、爬虫類……と続く奇抜な形の古生物の進化を、図鑑のページを繰りながら自分が追体験していくような感覚が面白くて、飽きずに何度も繰り返し読み耽った。図鑑の扉絵からページを繰り続け、最後に現代の地球に辿り着いたときには、満足感とともに50億年ぐらい一気に時間が流れてしまったような寂しさのようなものを感じていた。
家の周囲の田んぼの風景は、図鑑で見た「おおむかしの地球」と、どこか重なって見えた。生物の進化の過程が、自分の家の近所の、手の届く小さな空間で繰り返されているような気がした。
泥に手を突っ込む。
泥に足を突っ込む。
時には座り込んでみる。
そのまま泥に埋もれてしまいたいような衝動を、今でも田んぼの近くを通りかかったとき、感じることがある。
2007年06月16日
泥海古記
書店の宗教書コーナーを巡回先に加えてから長くなる。
ふと手にした一冊が意外に面白くて、それまで興味のなかった宗派のことを調べ始めることもよくあった。
ずっと前、何気なく手に取った白く簡素な冊子が一冊。
パラパラめくってみると、中ほどにどうやら創世神話を語っているらしい一章があった。大まかなストーリーは以下のようなものだった。
読み進めると、昔どこかで聞いたことがあるような、懐かしい感じがした。
その簡素な冊子「天理教教典」は、当時百二十円ぐらいだった。
江戸末期、中山ミキによって創始された天理教は、とくに関西ではそれなりに信仰されており、親類縁者の中に一人くらいは関係している人がいてもおかしくはないのだが、私自身はとくに何の関わりもなかった。
それにも関わらず、この「泥海神話」に懐かしさのようなものを感じたのは、田んぼと古生物図鑑に囲まれて育ってきた原風景のせいだろうか。
興味をひかれて更に詳しく調べてみると、「天理教教典」の神話の記述の元になった、「泥海古記」という不思議な書物が在るらしいことを知った。
この書物「泥海古記」は「どろうみこうき」と読み、「こふき」と表記されることもある。
教祖・中山ミキが折に触れて語った創世神話を、古い信者が書きとめたものであり、筆者や年代によっていくつかの異本がある。
もっとも流布されたものは、教祖の「お筆先」に似せた和歌体で書かれたものだが、結局教祖の納得した内容のものは完成しなかったらしい。
明治憲法下では記紀神話以外の神話体系は認められず、天理教はこの泥海神話が原因で何度かの弾圧を受けた。そのため「泥海古記」は厳重に隠蔽されて、実態のつかみづらいものになってしまった。
弾圧の恐れのなくなった戦後、ようやく復元された内容が、現教典の第三章「元の理」である。
このカテゴリ「泥海」では、興味深く懐かしい感じのする天理教の泥海神話について、絵物語「どろのうみ」として紹介していきたいと思う。
私は宗教団体としての天理教とは関わりは無く、布教するものではない。今までこの「神仏与太話ブログ」でカタッてきた内容と同じく、極私的に解釈したものであることを、あらかじめお断りしておく。
【著作権について】
このカテゴリでアップする作品「どろのうみ」は、以下の資料を参考に構成している。
このうち、原典である「泥海古記」「天理教教典」ともに、団体名義の著作物であるとすると、既に発表後50年以上が経過しているので、保護期間は過ぎているものと判断される。
当ブログの絵物語「どろのうみ」は、オリジナルのイラストと原典を参考にした文章で構成しており、原典そのものをアップしたものではないが、一応確認のために付記しておく。
【無断転載について】(2011年6月17日追記)
このカテゴリ「泥海」にYoutubeの中島みゆき動画からリンクが貼ってあり、記事中で紹介した「泥海神話」のあらすじがそのままコピペされているようです。
私はその動画投稿者とは一切関係なく、コピペされたあらすじは無断転載です。
また、同一人物だと思われますが、yahooブログにもこの記事中に掲載したイラストを(縦横比を改竄した形で)無断転載し、こちらのカテゴリにリンクしている模様です。
当方とは一切関係ありませんので、その点誤解の無いよう付記しておきます。
ふと手にした一冊が意外に面白くて、それまで興味のなかった宗派のことを調べ始めることもよくあった。
ずっと前、何気なく手に取った白く簡素な冊子が一冊。
パラパラめくってみると、中ほどにどうやら創世神話を語っているらしい一章があった。大まかなストーリーは以下のようなものだった。
この世の始まりは泥海
それを味気なく思った月神と太陽神は
泥海の中から魚と巳を引き寄せて、男と女の元とした
シャチ、カメ、フグ、ウナギ等の生き物を引き寄せて、
体の様々な働きを作り、ドジョウを魂とした
小さな人類が生まれては滅び、
最後にメザルが一匹残った
それが今の人間の祖先である
読み進めると、昔どこかで聞いたことがあるような、懐かしい感じがした。
その簡素な冊子「天理教教典」は、当時百二十円ぐらいだった。
江戸末期、中山ミキによって創始された天理教は、とくに関西ではそれなりに信仰されており、親類縁者の中に一人くらいは関係している人がいてもおかしくはないのだが、私自身はとくに何の関わりもなかった。
それにも関わらず、この「泥海神話」に懐かしさのようなものを感じたのは、田んぼと古生物図鑑に囲まれて育ってきた原風景のせいだろうか。
興味をひかれて更に詳しく調べてみると、「天理教教典」の神話の記述の元になった、「泥海古記」という不思議な書物が在るらしいことを知った。
この書物「泥海古記」は「どろうみこうき」と読み、「こふき」と表記されることもある。
教祖・中山ミキが折に触れて語った創世神話を、古い信者が書きとめたものであり、筆者や年代によっていくつかの異本がある。
もっとも流布されたものは、教祖の「お筆先」に似せた和歌体で書かれたものだが、結局教祖の納得した内容のものは完成しなかったらしい。
明治憲法下では記紀神話以外の神話体系は認められず、天理教はこの泥海神話が原因で何度かの弾圧を受けた。そのため「泥海古記」は厳重に隠蔽されて、実態のつかみづらいものになってしまった。
弾圧の恐れのなくなった戦後、ようやく復元された内容が、現教典の第三章「元の理」である。
このカテゴリ「泥海」では、興味深く懐かしい感じのする天理教の泥海神話について、絵物語「どろのうみ」として紹介していきたいと思う。
私は宗教団体としての天理教とは関わりは無く、布教するものではない。今までこの「神仏与太話ブログ」でカタッてきた内容と同じく、極私的に解釈したものであることを、あらかじめお断りしておく。
【著作権について】
このカテゴリでアップする作品「どろのうみ」は、以下の資料を参考に構成している。
●「泥海古記」
明治十四年和歌体本、その他諸本。(中山正善「こふきの研究」収録)
●「天理教教典」第三章「元の理」(昭和24年発行)
●その他、各種教義解説
このうち、原典である「泥海古記」「天理教教典」ともに、団体名義の著作物であるとすると、既に発表後50年以上が経過しているので、保護期間は過ぎているものと判断される。
当ブログの絵物語「どろのうみ」は、オリジナルのイラストと原典を参考にした文章で構成しており、原典そのものをアップしたものではないが、一応確認のために付記しておく。
【無断転載について】(2011年6月17日追記)
このカテゴリ「泥海」にYoutubeの中島みゆき動画からリンクが貼ってあり、記事中で紹介した「泥海神話」のあらすじがそのままコピペされているようです。
私はその動画投稿者とは一切関係なく、コピペされたあらすじは無断転載です。
また、同一人物だと思われますが、yahooブログにもこの記事中に掲載したイラストを(縦横比を改竄した形で)無断転載し、こちらのカテゴリにリンクしている模様です。
当方とは一切関係ありませんので、その点誤解の無いよう付記しておきます。
2007年06月17日
どろのうみ1
この世の元初まりは泥の海。
世界も無く人間も無く、ただただとっぷりとっぷり泥が渦巻く。
何も無く何も起こらない泥の海。
そこに月と太陽が現れました。
月は太陽に話しかけます。
月 「味気ない、味気ない」
太陽 「つまらない、つまらない」
月 「泥海をながめるのはもうたくさん、もっと面白いものを見たい」
太陽 「面白いとはどんなこと」
月 「人間というものをつくって、そのものたちが陽気に遊ぶこと」
太陽 「なるほど、それは面白そう」
月 「ではつくろうか」
太陽 「ではつくりましょう」
月が泥海の中の一番よいところを見定めて、そこで人間をつくることにしました。
2007年06月18日
どろのうみ2
月と太陽は泥海の中で姿を変えました。
月は頭一つ尾一つの大龍の姿、尾には剣がついています。
月の居ついたところが北の方位になり、
その方位はうるおい水気が多くなりました。
月は泥海の中の良いところ「くにとこ(国床)」を見定めたので、
「くにとこたちのみこと」とも申します。
太陽は頭十二に尾三筋の大蛇の姿、尾には剣がついています。
太陽の居ついたところが南の方位になりました。
その方位にはぬくみが生じ、火気が多くなりました。
太陽はまたの名「をもたりのみこと」
もうすぐ身重になる妻神です。
月と太陽はどちらもものすごい大きさで、
二つだけで泥海いっぱいになるほどでした。
月と太陽は泥海の中をよくよく見澄ましました。
すると泥の中にたくさんのドジョウがうごめいていました。
さらによくよく見澄ますと、ドジョウの中に変わったものがまじっています。
これは何だろうと引きよせてみました。
2007年06月19日
どろのうみ3
泥海の中のドジョウに混じった変わったもの、
それは「うを」と「み」でした。
「うを」は人魚、または岐魚(ぎぎょ)。
頭は人間で、肌にはウロコがなく、ぬんべりとまるで人間のよう。
「み」は白蛇(しろぐつな)。
体は長く、肌にはウロコがなくて人間のようです。
二つとも、大きさは今で言うとクジラほどもありましたが、月と太陽にくらべればほんの小さなものでしかありません。
月と太陽がよく確かめたところ、二つとも心は真っ直ぐで、人間の元にするのにふさわしいことがわかりました。
月は語りかけました。
「おまえたちは大変見所があるので、これから人間というものを作る元になってくれないか」
人魚と白蛇はとまどいます。
「何だかよくわかりませんが、そんなこわいことはできません。どうかこのままでいさせてください」
太陽が優しく諭します。
「もし承知してくれたら、すっかり人間と世界が出来上がった時、またこの場所に生まれ変わらせて、人間の親神にしてやるから、一緒に陽気に遊んでくらそう」
人魚と白蛇はためらいながらも承知しました。
「それはありがたいことです。ではわたしたちを使ってください」
月と太陽は喜んで言いました。
「約束しよう。九億九万九千九百九十九年の後、ここでふたたび会うことを」
こうして人間の土台が決まりました。
それは「うを」と「み」でした。
「うを」は人魚、または岐魚(ぎぎょ)。
頭は人間で、肌にはウロコがなく、ぬんべりとまるで人間のよう。
「み」は白蛇(しろぐつな)。
体は長く、肌にはウロコがなくて人間のようです。
二つとも、大きさは今で言うとクジラほどもありましたが、月と太陽にくらべればほんの小さなものでしかありません。
月と太陽がよく確かめたところ、二つとも心は真っ直ぐで、人間の元にするのにふさわしいことがわかりました。
月は語りかけました。
「おまえたちは大変見所があるので、これから人間というものを作る元になってくれないか」
人魚と白蛇はとまどいます。
「何だかよくわかりませんが、そんなこわいことはできません。どうかこのままでいさせてください」
太陽が優しく諭します。
「もし承知してくれたら、すっかり人間と世界が出来上がった時、またこの場所に生まれ変わらせて、人間の親神にしてやるから、一緒に陽気に遊んでくらそう」
人魚と白蛇はためらいながらも承知しました。
「それはありがたいことです。ではわたしたちを使ってください」
月と太陽は喜んで言いました。
「約束しよう。九億九万九千九百九十九年の後、ここでふたたび会うことを」
こうして人間の土台が決まりました。
2007年06月20日
どろのうみ4
人間の土台は人魚と白蛇に決まりました。
水気を司り、様々なものを見定める月は、人間の目のうるおいの守護を与えることにしました。
火気を司る太陽は、人間の体の温みの守護を与えることにしました。
次に月と太陽は、土台に仕込んで守護する道具雛形を探します。
月がさらによくよく泥海の中を見澄ますと、乾(西北)の方位にシャチホコという変なものがいます。
そのシャチホコによくよく事情を説いて聞かせ、承知をさせてもらいうけ、「つきよみのみこと」と言う神名を与えました。
それからシャチホコを食べてしまって、よくよくその心味わいを確かめました。
するといきおい強く突っ張っているので、骨つっぱりの守護の道具に使おうと、人魚の体に仕込みました。
これが男のはじまりです。
太陽がよくよく泥海を見澄ますと、巽(東南)の方位にカメがいます。カメにもよくよく事情を説いて聞かせ、承知をさせてもらい受け、「くにさづちのみこと」という神名を与えました。
それからカメを食べてしまって、よくよくその心味わいを確かめました。
ねばりふんばり強い様子に、皮つなぎの守護の道具に使おうと、白蛇の体に仕込みました。
これが女のはじまりです。
2007年06月21日
どろのうみ5
それからそれから月と太陽は、東の方位を見定めました。
そこからウナギを引きよせて、よくよく事情を説いて聞かせ、承知をさしてもらい受けました。
そして食べてしまってその心味わいを確かめると、ぬるぬる抜けるので飲み食い出入り、水気上げ下げの守護の道具にしようと決め、「くもよみのみこと」と言う神名を与えました。
それからそれから月と太陽は、坤(西南)の方位を見定めました。
そこからカレイを引きよせて、よくよく事情を説いて聞かせ、承知をさしてもらい受けました。
そして食べてしまってその心味わいを確かめると、ぱたぱた平べったいので息吹き分け、風の守護の道具にしようと決め、「かしこねのみこと」と言う神名を与えました。
それからそれから月と太陽は、西の方位を見定めました。
そこから黒蛇(くろぐつな)を引きよせて、よくよく事情を説いて聞かせ、承知をさしてもらい受けました。
そして食べてしまってその心味わいを確かめると、にょろにょろしぶとく強いので、よろず引っぱり出しの守護の道具にしようと決め、「をふとのべのみこと」と言う神名を与えました。
それからそれから月と太陽は、艮(東北)の方位を見定めました。
そこからフグを引きよせて、よくよく事情を説いて聞かせ、承知をさしてもらい受けました。
そして食べてしまってその心味わいを確かめると、おなかが大きく毒を持つので、生き死に、縁を切る鋏の守護の道具にしようと決め、「たいしょくてんのみこと」と言う神名を与えました。