【9月の予定】
7月8月とバタバタしており、その状態は9月も続きそうなのですが、なんとか新カテゴリに着手したいと思っています。
毎度の事ながら、ぼちぼちお付き合いを……
【ロゴ画像変更】
9月は秋のお彼岸。
お彼岸と言えば、以前ご紹介したハナガフルという、不思議な現象があります。
和歌浦周辺で稀に目撃されると言うこの現象、私は未体験なのですが、今回は「こんな感じかな?」と想像で再現してみました。
ぜひ一度、実体験してみたいものです。
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2007年09月01日
2007年09月13日
山のあなたの空遠く
以前、カテゴリ原風景の奇妙な記憶、山の向こうへと言う記事の中で、私の記憶の底に残る「前面に水の流れ、背後に山」という空間認識を紹介したことがある。
この「前面に水の流れ、背後に山」という原型は、偶然かどうかわからないけれども、今思えば風水説による空間認識の基本形とも通じるものだった。
あの山の向こうには何がある?
もっと高い山がある。
そのまた向こうには何がある?
もっともっと高い山がある。
そのまた向こうには……
こうした問いと答えは、おそらく山の麓に生活する人間が、古来素朴に積み重ねてきた空間認識だったことだろう。
数学の国・印度では、こうした空間認識を非常に精緻な宇宙観にまでまとめ上げ、やがて仏教の「須弥山宇宙」が作り上げられていくことになる。
当ブログでは以前に一度、簡単ながら須弥山宇宙について取り上げたことがある。今回のカテゴリ須弥山では、更に詳しく紹介してみたいと思う。
参考図書の紹介はこちら
この「前面に水の流れ、背後に山」という原型は、偶然かどうかわからないけれども、今思えば風水説による空間認識の基本形とも通じるものだった。
あの山の向こうには何がある?
もっと高い山がある。
そのまた向こうには何がある?
もっともっと高い山がある。
そのまた向こうには……
こうした問いと答えは、おそらく山の麓に生活する人間が、古来素朴に積み重ねてきた空間認識だったことだろう。
数学の国・印度では、こうした空間認識を非常に精緻な宇宙観にまでまとめ上げ、やがて仏教の「須弥山宇宙」が作り上げられていくことになる。
当ブログでは以前に一度、簡単ながら須弥山宇宙について取り上げたことがある。今回のカテゴリ須弥山では、更に詳しく紹介してみたいと思う。
参考図書の紹介はこちら
2007年09月14日
風輪
以前、当ブログで仏教の須弥山宇宙観を紹介したとき、以下の図を添付した。
写実っぽく描いているが、一枚の絵でわかりやすくまとめるために、かなり各部分の大きさの比率をいじってある。つまり、嘘が多い図だ。
さっそく「嘘が多い」と書いてしまったが、そもそも「須弥山」そのものが、現代科学的な意味では「嘘」という事になる。確かに天文学や地理学としての価値はもう現代では存在しないだろう。
しかし、人間の心の在り方を世界の構造に投影した模式図と考えれば十分検討に値する宇宙観だと思うし、何よりも「今昔物語」等の仏教説話を楽しむためには、大前提になっている世界観の知識は欠かせない。
仏教で伝えられる須弥山宇宙観では、各所の詳細な数値まで語られているので、今回はその数値になるべく忠実に描いてみたいと思う。
虚空の中に巨大の気体の円盤が浮かんでいる。
これを風輪という。
円周の長さは無数(という大きな数の単位)、厚みは160万由旬。
由旬(ゆじゅん)というのは長さの単位で、一説には約7km。
無数というのは10の59乗。
厚みも相当な数値だが、円周があまりに巨大であるため、全体が見渡せるほどの十分な距離をとり、斜め上方から眺めれば、上掲の図のような円盤に見えることだろう。
風輪の上には、下から「水輪」「金輪」「須弥山」そして何層もの「天」が重なっているのだが、風輪の巨大な円周のスケールに比べると、視認できないほど小さな規模に過ぎない。
写実っぽく描いているが、一枚の絵でわかりやすくまとめるために、かなり各部分の大きさの比率をいじってある。つまり、嘘が多い図だ。
さっそく「嘘が多い」と書いてしまったが、そもそも「須弥山」そのものが、現代科学的な意味では「嘘」という事になる。確かに天文学や地理学としての価値はもう現代では存在しないだろう。
しかし、人間の心の在り方を世界の構造に投影した模式図と考えれば十分検討に値する宇宙観だと思うし、何よりも「今昔物語」等の仏教説話を楽しむためには、大前提になっている世界観の知識は欠かせない。
仏教で伝えられる須弥山宇宙観では、各所の詳細な数値まで語られているので、今回はその数値になるべく忠実に描いてみたいと思う。
虚空の中に巨大の気体の円盤が浮かんでいる。
これを風輪という。
円周の長さは無数(という大きな数の単位)、厚みは160万由旬。
由旬(ゆじゅん)というのは長さの単位で、一説には約7km。
無数というのは10の59乗。
厚みも相当な数値だが、円周があまりに巨大であるため、全体が見渡せるほどの十分な距離をとり、斜め上方から眺めれば、上掲の図のような円盤に見えることだろう。
風輪の上には、下から「水輪」「金輪」「須弥山」そして何層もの「天」が重なっているのだが、風輪の巨大な円周のスケールに比べると、視認できないほど小さな規模に過ぎない。
2007年09月21日
柘榴
近所に何箇所か柘榴の木があり、赤い実がはち切れそうに膨らんでいる。もうすぐ割れて中のつややかな粒々が見えるだろう。
子供の頃、家の庭には、母親が好きで植えた様々な植物があった。中には柘榴や木苺など、口にできるものもあった。秋の柘榴のすっぱい味が懐かしい。
高校生の頃、デッサンの練習を積んでいたとき、庭の植物をよく描いた。今回柘榴をスケッチしてみて、鉛筆一本でひたすら身のまわりのものを描き続けていたあの頃の記憶も蘇ってきた。
仏教では鬼子母神の神話に、柘榴のエピソードが出てくる。
自らは500人の子供を持つ鬼神の妻・訶梨帝母(かりていも)は、人間の子供を盗っては喰う恐ろしい鬼女だった。お釈迦様は彼女が溺愛していた末娘を隠し、悲嘆を与えることによって、他の母親たちの悲しみを知らせ、改心させた。
そして「どうしても子供を食べたくなったときには、代わりにこれを食べよ」と、人肉の味がする果実を手渡した。
それが柘榴の実だった。
私がこのエピソードを始めて知ったのは、夏目雅子、堺正章主演のTVドラマ「西遊記」で、たしか和田アキ子が鬼子母神役を熱演していた。
色々思い出すなあ(笑)
2007年09月23日
太陽と月の節
今日、9月23日は秋分の日。お彼岸の中日だ。
太陽が真西に沈むので、西方極楽浄土を観想するのに適した日。
ここ数日、夕方になると西空に雲がかかって夕日を眺められないでいる。お彼岸のうちに一度くらいは夕日を拝んでみたい。
そう言えば、今年はまだヒガンバナも見かけていない。あの植物のセンサーでは、まだ夏なのだろう。
私の服装もまだ夏のままだ。
お彼岸には、おはぎを食べたりもする。
子供の頃、祖母がよく和菓子を食べさせてくれた。
田舎風のボタッと大きくあんこがたっぷりついたおはぎも、よく食べさせてくれたものだ。
さらに明後日、9月25日は中秋の名月。
今年はお彼岸と中秋の名月がとくに近い。
お月見の団子はこちらでどうぞ。
太陽が真西に沈むので、西方極楽浄土を観想するのに適した日。
ここ数日、夕方になると西空に雲がかかって夕日を眺められないでいる。お彼岸のうちに一度くらいは夕日を拝んでみたい。
そう言えば、今年はまだヒガンバナも見かけていない。あの植物のセンサーでは、まだ夏なのだろう。
私の服装もまだ夏のままだ。
お彼岸には、おはぎを食べたりもする。
子供の頃、祖母がよく和菓子を食べさせてくれた。
田舎風のボタッと大きくあんこがたっぷりついたおはぎも、よく食べさせてくれたものだ。
さらに明後日、9月25日は中秋の名月。
今年はお彼岸と中秋の名月がとくに近い。
お月見の団子はこちらでどうぞ。
2007年09月30日
太陽と月を喰う悪魔
須弥山のことを調べているうちに、色々関連事項についても勉強できた。
須弥山宇宙観には、人や神々や星、阿修羅の住まう位置が、一応全て含まれており、インド起源の古い神話はそうした位置関係を下敷きにしている。
その中に蝕でも話題になった、「月を喰う悪魔」のお話がある。細部には諸説あるが、概容を紹介してみよう。
昔、不老不死の霊薬「アムリタ」を盗んだ阿修羅がいた。
太陽と月がそのことをヴィシュヌに告げ口すると、ヴィシュヌは阿修羅の首を切った。
しかし阿修羅はアムリタを飲んでいたので、首と胴体はそれぞれラーフとケートゥという星となった。
ラーフは太陽と月を憎んで追い回すようになり、時に飲み込むこともあるという。これが日蝕・月蝕である。
しかしラーフには胴体が無いので、飲み込まれた太陽と月はすぐに現われてしまうのだ……
須弥山宇宙観には、人や神々や星、阿修羅の住まう位置が、一応全て含まれており、インド起源の古い神話はそうした位置関係を下敷きにしている。
その中に蝕でも話題になった、「月を喰う悪魔」のお話がある。細部には諸説あるが、概容を紹介してみよう。
昔、不老不死の霊薬「アムリタ」を盗んだ阿修羅がいた。
太陽と月がそのことをヴィシュヌに告げ口すると、ヴィシュヌは阿修羅の首を切った。
しかし阿修羅はアムリタを飲んでいたので、首と胴体はそれぞれラーフとケートゥという星となった。
ラーフは太陽と月を憎んで追い回すようになり、時に飲み込むこともあるという。これが日蝕・月蝕である。
しかしラーフには胴体が無いので、飲み込まれた太陽と月はすぐに現われてしまうのだ……