【7月の予定】
4月の「おりがみ雛人形」5月の「おりがみ兜」に続いて、6月はドラマ「パズル」を扱ったことがきっかけで、かなりアクセス数が伸びました。
当ブログは普段、アクセス数を伸ばすこと自体にはほとんどエネルギーを割いていませんが、なるほど季節ネタや流行りモノを扱うと反応があるのだなと、今更ながら感心しています(笑)
7月も中旬までは、引き続きこれまでのゆったりペースを続けます。
下旬頃から夏に向けて、新カテゴリを開始できればと予定していますので、乞うご期待!
【ロゴ画像変更】
7月と言えば七夕。
蓮華蔵から宇宙・星の世界をイメージしてflash作成。
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2008年07月01日
2008年07月05日
アサガオ
5月ごろ、近所でやっていた出店で、アサガオの苗を買った。
大き目の植木鉢に移し変えたついでに、これも近所の道端で自生していたアサガオから採取してきた種も蒔いた。
苗はやっと本葉が出かけたところだったが、ツルが出始めてからはぐんぐん伸びた。
去年飼っていたカブトムシのゆうちゃんとまーくん(ユニット名)が、幼虫のときに大量に残したフンが役に立った。コーヒー豆の様なパラパラとしたフンは、肥料として効果絶大だった。
拾ってきた種は、発芽が出遅れて日照が足りず、ひょろひょろとしているけれどもしぶとく伸び続けている。開花まで行けるかどうか微妙だが、なんとか頑張ってほしい。
小学一年生のとき、理科でアサガオの栽培・観察をやった。子供の頃の私は栽培実習が大好きで、ヒマワリやホウセンカ、ヘチマ、ジャガイモなどを学校で植えるたびに、張り切って観察していた。
今年、ベランダの植木鉢を毎朝眺めていると、小学生の頃興奮しながら観察していたアサガオの成長過程がよみがえってきた。
「∩」の形の発芽
独特のの形の双葉
うっすら毛の生えた本葉
まるで目がついているように巻きつくツル
ドリルみたいなツボミ
朝だけラッパのように開く花
ゆうちゃんとまーくんに感謝。「はなさかじいさん」のポチと同じく、去年飼っていたカブトムシが今年は花になった。
しばらくは涼しげな薄紫の花が楽しめそうだ。
2008年07月07日
星は無けれど
近所のスーパーで「七夕飾りセット」が各種取りそろえてあった。
298円の一番小さいセットを購入。
卓上サイズのビニール製の笹と、飾りを作るための折り紙がたっぷり入っていたが、五つぐらい飾りを付けるともういっぱいになってしまった(笑)
手前のお菓子は、「七夕葛餅」という名前のパックがあったので買ったのだが、はてそんなのあったっけ?
今日は全国的に曇りが多いそうだ。
せめてブログの中だけでも七夕の雰囲気で。
短冊にはお好きな願いを。
【追記】
スーパーで売っていた「七夕葛餅」に「?」と疑問を感じた。
それでは七夕の食べ物は何だったかと考えて、そう言えば自分でこんな記事を書いたことを思い出した。
298円の一番小さいセットを購入。
卓上サイズのビニール製の笹と、飾りを作るための折り紙がたっぷり入っていたが、五つぐらい飾りを付けるともういっぱいになってしまった(笑)
手前のお菓子は、「七夕葛餅」という名前のパックがあったので買ったのだが、はてそんなのあったっけ?
今日は全国的に曇りが多いそうだ。
せめてブログの中だけでも七夕の雰囲気で。
短冊にはお好きな願いを。
【追記】
スーパーで売っていた「七夕葛餅」に「?」と疑問を感じた。
それでは七夕の食べ物は何だったかと考えて、そう言えば自分でこんな記事を書いたことを思い出した。
2008年07月21日
カテゴリ「あの世」
世界各国・各民族に、死後の世界「あの世」に関する伝承がある。
私の中にもなんとなくではあるが「あの世」のイメージはある。
昔、日曜夕方に「サザエさん」を見ていると、お盆の季節にはよく波平さんそっくりの「ご先祖様」が登場した。
白い三角形の布を額に巻いて、磯野家の墓石の背後にぽわんと浮かび上がるあの感じを、不自然と感じず受け入れる感性が、日本人が大体共有している「あの世観」なのだろう。
このカテゴリでは伝承されてきた「あの世」のあれこれを、絵と文章で語ってみたいと思う。
とは言え、そこは「神仏与太話」を標榜する当ブログのこと、「死後の世界」の実在・否実在などについて、緻密な考察を加えたりはしない(笑)
真偽・善悪は棚に上げ、スピリチュアル様ご一行には通り過ぎていただき、ただただ「こういうモノガタリがありますよ」と、紹介するにとどめるのが当ブログの嗜みである。
2008年07月24日
中陰和讃
仏教では六道輪廻の狭間に「中陰(ちゅういん)」または「中有(ちゅうう)」と呼ばれる状態があるとされる。人が亡くなってから49日の法要が済むまでの期間がそれで、その間に六道いずれに生まれ変わるかが決まるという。
仏教の考え方に、一般に言われるような「生まれ変わり」が含まれるかどうかは、実はけっこう難しい。「ミリンダ王の問い」なんかを少し読んでみると、スピリチュアルの文脈でよく語られ、一般にも受け入れられ易い「肉体が死んでも魂は永遠に生まれ変わる」と言う意味での生まれ変わりは、否定されているようでもある。
このあたりはまた機会を改めて考えてみたいが、ともかく仏教では一般に7日ずつ7週間、7×7=49日間の「中陰or中有」という、生まれ変わりのための準備期間が想定されている。
その期間の情景を歌の形で解説しているのが「中陰和讃」で、宗派や地方によってバリエーションはある。私が知るところでは、真言系のものと浄土系のもの、大きく分けて二つの「中陰和讃」があるようだ。
真言系のものは祈りの対象がお大師様(空海)になっており、浄土系のものは阿弥陀如来になっているが、一応大筋では共通した内容が伝えられている。おそらく真言系のものが先にあって、どこかの時点で浄土系に読み替えられたのだと思うが、理由はおいおい述べていく。
以上は浄土系「中陰和讃」の冒頭部分だ。真言系のものは「帰命頂礼遍照尊 七七日の和讃とて 弘法大師の御教なり……」と始まる。
仏教の考え方に、一般に言われるような「生まれ変わり」が含まれるかどうかは、実はけっこう難しい。「ミリンダ王の問い」なんかを少し読んでみると、スピリチュアルの文脈でよく語られ、一般にも受け入れられ易い「肉体が死んでも魂は永遠に生まれ変わる」と言う意味での生まれ変わりは、否定されているようでもある。
このあたりはまた機会を改めて考えてみたいが、ともかく仏教では一般に7日ずつ7週間、7×7=49日間の「中陰or中有」という、生まれ変わりのための準備期間が想定されている。
その期間の情景を歌の形で解説しているのが「中陰和讃」で、宗派や地方によってバリエーションはある。私が知るところでは、真言系のものと浄土系のもの、大きく分けて二つの「中陰和讃」があるようだ。
真言系のものは祈りの対象がお大師様(空海)になっており、浄土系のものは阿弥陀如来になっているが、一応大筋では共通した内容が伝えられている。おそらく真言系のものが先にあって、どこかの時点で浄土系に読み替えられたのだと思うが、理由はおいおい述べていく。
「中陰和讃」
帰命頂礼ありがたや
中陰和讃の心得は
三尊弥陀の教えなり
死して冥土へ赴かば
十万億土のその中に
七つの関所ありときく
(続く)
以上は浄土系「中陰和讃」の冒頭部分だ。真言系のものは「帰命頂礼遍照尊 七七日の和讃とて 弘法大師の御教なり……」と始まる。
2008年07月25日
中陰和讃2 初七日
(「中陰和讃」続き)
初七日まもるは不動なり
くらやみ峠のあてなしと
中陰途切れず称えやり
光明たよりて越えるなり
(二七日に続く)
以上が浄土系中陰和讃、初七日の部分である。真言系のものも、多少語句に違いはあるが、ほぼ同内容だ。
初七日は十王説では秦広王の審判、十三仏信仰では不動明王の守護となるので、和讃の内容と一致している。死者は初七日までに「死出の山路」を越えるとされることが多いが、和讃では「くらやみ峠」と表現されている。
光の差さない真っ暗闇の山路をあてどなく彷徨う死者が、遺された家族が途切れず供えるお灯明によって無事通過する様が描かれている。
不動明王と言えば、背後に燃え盛る炎を連想するが、ここでは暗闇を打ち払う光明のイメージと重ねられているようで興味深い。
2008年07月26日
中陰和讃3 二七日
(「中陰和讃」続き)
二七日まもるは釈迦如来
火ふり峠をさか落とし
おのおの供えし手向けある
水をたよりに越えるなり
(三七日に続く)
浄土系中陰和讃、二七日の部分である。真言系のものも内容に大きな異同はない。
二七日は十王説では初江王の審判、十三仏信仰では釈迦如来の守護となるので、和讃の内容と一致している。
この部分の「火ふり峠をさか落とし」という言葉は、どういう状況を述べているのか必ずしも明確ではないけれども、雰囲気はよく伝わってくる。
火の降り注ぐ急峻な道行の助けとなるのは、やはり遺された家族が手向けに供えた水であると説かれている。
初七日の「火」と二七日の「水」というモチーフは、仏教伝来以前から続く日本人の「聖」のイメージが下敷きになっているのかもしれない。
2008年07月27日
中陰和讃4 三七日
(「中陰和讃」続き)
三七日まもるは文殊菩薩
うづまき峠はてしなと
中陰途切れず供えある
日の立ちほどで越えるなり
(四七日に続く)
浄土系中陰和讃、三七日の部分である。真言系のものも内容に大きな異同はないが、「うづまき峠」は「百八坂峠」になっている。
三七日は十王説では宋帝王の審判、十三仏信仰では文殊菩薩の守護となるので、和讃の内容と一致している。
この部分の「うづまき峠はてしなと」という言葉も、どういう状況を述べているのか明確ではないが、雰囲気はよく伝わってくる。
ぐるぐると渦を巻くように彷徨ってしまう峠道で途方に暮れても、中陰の追善供養を途切れさせなければ「日の立ちほどで」抜けられると説いているのだろう。
2008年07月28日
中陰和讃5 四七日
(「中陰和讃」続き)
四七日まもる普賢菩薩
生津の川が現われて
死してめしたる帷子の
六字の名号で越えるなり
(五七日に続く)
浄土系中陰和讃、四七日の部分である。真言系のものも内容に大きな異同はないが、「生津の川」は「苦げんの川」になっている。
四七日は十王説では五官王の審判、十三仏信仰では普賢菩薩の守護となるので、和讃の内容と一致している。
生津の川は「しょうづのかわ」と読み、漢字は様々に宛てられるが、通常は「三途の川」の異名であるとされている。ところが中陰和讃では次の五七日の段に三途の川が登場するので、ここでは別の川として設定されているようだ。生と死の狭間の世界に川が流れているという言い伝えは世界各国に広く分布しているが、二度川を渡る世界観は珍しいかもしれない。
この関門を越えるためのアイテムは、死者の身につけた帷子(かたびら)に書かれた「六字の名号」であるとされている。「六字の名号」は通常「南無阿弥陀仏」を指し、このアイテムの設定は真言系のものも同じになっている。
2008年07月29日
中陰和讃6 五七日
(「中陰和讃」続き)
五七日まもる地蔵菩薩
なみだを流す三途川
追善菩提の功徳にて
舟に乗りつつ越えるなり
(六七日に続く)
浄土系中陰和讃、五七日の部分である。真言系のものも細かな語句の相違以外は、内容に大きな異同はない。
五七日は十王説では閻魔王の審判、十三仏信仰では地蔵菩薩の守護となるので、和讃の内容と一致している。
ここでは閻魔王=地蔵菩薩と三途の川がセットになっている。一般的な「あの世」のイメージとしては、死者は三途の川を越えた後に閻魔大王の法廷に立ち、照魔鏡で過去の罪を暴かれながら閻魔帳に判決を書き込まれることになる。
中陰和讃の世界観ではそのような厳しい審判の場面は出てこないが、死出の旅における七つの難所は設定されている。しかしいずれも遺された家族の追善供養や仏菩薩の守護によって乗り越えられることになっている。
和讃中の「なみだを流す三途川」という表現も、様々に味わうことが出来る。死んで慕わしきもの全てと分かれなければならない涙ともとれるし、目の前に出現した大河に思わず涙する様子とも取れる。
あるいは、自分の死にともなう諸々の「なみだ」を三途の川に流して、新たに旅立つ様子とも取れる。