(「中陰和讃」続き)
六七日まもる弥勒菩薩
六道の辻に踏み迷い
自力の心を振り捨てて
他力の一つで超えるなり
(七七日に続く)
浄土系中陰和讃、六七日の部分である。
六七日は十王説では変成王の審判、十三仏信仰では弥勒菩薩の守護となるので、和讃の内容と一致している。
ここは真言系のものと比べて内容に大きな相違がある。真言系では後二行が「朝夕唱うる光明真言の 声を聞きつつ一人で越えるなり」となっている。「光明真言」は大日如来に救いを求める唱え言葉のことだ。
比較して浄土系の方は極めて鎌倉浄土教的な味わいで、「自力」を否定し「他力」を強調する内容になっている。通常「他力」とは阿弥陀如来の力を指す。
中陰和讃では「天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄」の六道の分かれ目が、六七日にあると設定されているようだ。弥勒菩薩の見守る中、他力によって六道の迷いの世界を超えていけると説いている。
この部分、さらりと歌われているが、「六道の辻に迷わず、超える」ということは、地獄・餓鬼・畜生・修羅だけでなく天界や人間界に生まれ変わる道をも振り捨てることを意味する。
前段の五七日、三途の川において、諸々の執着を「なみだ」とともに流し去り、ここでは六道輪廻の道も「迷い」として振り捨てなければならないらしい。