【9月の予定】
懸案の「地獄ツアー」に旅立ちたいと思いますが、いま少し準備期間を。
【ロゴ画像変更】
9月に入り、暗くなると虫の音も聞こえてくるようになりました。
暑さはもうひと仕切り続きそうですね。
そろそろヒガンバナの芽を探してみましょう。
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2008年09月01日
2008年09月14日
月のモノガタリあれこれ
2008年09月24日
夏の名残
9月に入ってバタバタしているうちに、矢のように時は流れてしまった(苦笑)
昼間の暑さに夏の名残が残るうちに、とある海辺へ。
午後の海辺はまだまだ夏そのものだが、日が傾き始めるとすぐに夕暮れの気配が漂ってくる。
気がつけばもう、秋のお彼岸。
ヒガンバナの鮮やかな赤は、ある日突然眼に飛び込んでくる。
まだ秋へと心の準備が整う前に、毎年不意を突かれてしまう。
昼間の暑さに夏の名残が残るうちに、とある海辺へ。
午後の海辺はまだまだ夏そのものだが、日が傾き始めるとすぐに夕暮れの気配が漂ってくる。
気がつけばもう、秋のお彼岸。
ヒガンバナの鮮やかな赤は、ある日突然眼に飛び込んでくる。
まだ秋へと心の準備が整う前に、毎年不意を突かれてしまう。
2008年09月25日
赤鉛筆
子供の頃、筆箱には赤鉛筆が入っていた。
小学校の授業中、答え合わせをするときに使うためだ。
ある時期から、「赤鉛筆」と「色鉛筆の赤」が違う色であることに気付き、そのことが気になって仕方がなかった。
色鉛筆の「赤」は、オーソドックスな赤で、「赤鉛筆」は朱が入った赤。なぜなんだろうと、ずっと考えていた。
今もってその答えは知らない。
そして赤鉛筆の色は、秋に咲くヒガンバナの色によく似て見えた。
実際にヒガンバナの色を観察してみると、「赤鉛筆」の色とは違ってやや沈んだ赤であることが多いのだが、秋の日差しを浴びた風景の中で眺めると、朱がかって見える。
逆にF1のフェラーリの赤は、実際の塗料は明るく朱がかって赤鉛筆に近い色なのだが、屋外の風景の中で見ると落ち着いた赤に見える。
そんなことをあれこれ考えながら、赤鉛筆で一枚スケッチ。
小学校の授業中、答え合わせをするときに使うためだ。
ある時期から、「赤鉛筆」と「色鉛筆の赤」が違う色であることに気付き、そのことが気になって仕方がなかった。
色鉛筆の「赤」は、オーソドックスな赤で、「赤鉛筆」は朱が入った赤。なぜなんだろうと、ずっと考えていた。
今もってその答えは知らない。
そして赤鉛筆の色は、秋に咲くヒガンバナの色によく似て見えた。
実際にヒガンバナの色を観察してみると、「赤鉛筆」の色とは違ってやや沈んだ赤であることが多いのだが、秋の日差しを浴びた風景の中で眺めると、朱がかって見える。
逆にF1のフェラーリの赤は、実際の塗料は明るく朱がかって赤鉛筆に近い色なのだが、屋外の風景の中で見ると落ち着いた赤に見える。
そんなことをあれこれ考えながら、赤鉛筆で一枚スケッチ。
2008年09月26日
2008年09月27日
2008年09月28日
竹内街道3
(↑画像をクリックすると大きくなります)
大和の西方、日没の方角の秀麗な山。
寄り添うようにそびえる雄岳と雌岳。
大和に背を向けるように二上山頂に葬られた大津皇子。
麓に鎮座する当麻寺の、中将姫にまつわる物語。
大和から西へ竹内街道を抜けると、多数の墳墓が築かれていること。
二上山にまつわる様々なイメージの断片は、近代以降も怪しの物語を生み続けてきた。折口信夫「死者の書」がその代表であるし、現代作家の作品では五木寛之「風の王国」がある。これらの作品は、先行する物語を巧みに取り入れながら、二上山周辺の里山に異様なリアリティを持つ物語を覆い被せていく。
物語を読んでから山野を巡ると、どうしてもそのようなことがあったとしか、思えなくなってくるのだ。
とくに秋のお彼岸の季節、葛城の里にヒガンバナが咲き乱れる今頃は、普段は地下に埋もれている古い物語が、朱の花の形をとって噴き出してくるような雰囲気がある。
2008年09月29日
五木寛之「風の王国」
二上山へ向かう道行きの間、十数年ぶりで五木寛之「風の王国」を読んでいた。ここ数年、書店の新潮文庫の棚から五木寛之の黒い背表紙が姿を消していたように思うのだが、しばらく前にぽつんと「風の王国」だけ復活しているのを見かけて購入していた。
この作品はアメーバブックスから、ケータイ小説風に横書きの本にもなったらしい。多少加筆されているそうなので興味はあるのだが、小説を横書きで読むのにはちょっと馴染めない。どうやら私も時代に取り残されつつあるようだ(苦笑)
子供の頃から「歩く」ことが好きだった。特に山登りが楽しかった。山に登って景色を見たり、お弁当を食べたりするのはもちろんのこと、息を切らせながら自然の中を歩いている感覚そのものが好きだった。
それからずっと、歩いてきた。登山や歩行について、とくに指導を受けたことはなかったが、自分なりに「歩く」経験を積んできた。
車にもバイクにもあまり興味はなかった。自転車にはやや関心があり、高校生の頃にはまだ流行る前のマウンテンバイクを乗り回していたが、結局「歩き」に戻った。
長い間、自分が好きな「歩き」が、果たして他と共有されうる趣味嗜好なのかどうか、分からなかった。本格的な登山とも違うし、いわゆるアウトドアとも少し違う。
ただ、歩く。
できれば自然の中がいい。
自然の中を歩く過程で、必要があればアウトドアもやるが、それも必要最小限の装備がいい。野宿が可能ならそれでいい。
歩きたい自然豊かな道を探しているうちに、熊野を歩くようになった。熊野をあるくようになって、自分のやりたいことは「遊行」「遍路」なんだなと、ようやく気がついた。そんな風に自分の嗜好に名がついた頃、五木寛之の「風の王国」を読んだ。
ただ「歩く」というたった一つの行為を軸に、古代・中世・近代・現代がつなぎ合わされ、「歩く」ということが思想にまで高められる不思議な物語。貪るように読み耽った。
十数年たって読み返してみると、私自身の身体にたっぷり「歩き」が蓄積されてきた分だけ、はるかに物語を楽しむことが出来た。まだ作中の登場人物のように翔ぶように山野をノルことは出来ないが、以前より多少は歩けるようになった。体力になるべく頼らない「歩き」の技術を少しは身につけてきた。
今の私は、自分が「歩き」を好む理由をいくらか言葉にすることができる。
歩きによる「遊行」や「遍路」は「離れる」ことだ。
車や電車などの乗り物に乗ると、「繋がり」ができやすい。端的に言えばナンバープレートや運行ダイヤ、監視カメラ等によって、自分の行動が常に他者に捕捉されやすい状態になる。
別にことさら隠密行動をとりたい理由がある訳ではないのだが、そうした「行動の捕捉」に端的に表れるような、様々な「繋がり」からふっつり離れて、ただ一人で足の向くままに流れてみたいという衝動があるのだ。
この小説は、誰の心にもふと兆す瞬間があるはずのそうした衝動に、魅惑的な筋立てを与えてくれる、一幕の甘美な夢だ。
ネットやケータイで常に誰かと繋がっていることが常態となった今日この頃、このような小説が再発されていることは興味深い。
この作品はアメーバブックスから、ケータイ小説風に横書きの本にもなったらしい。多少加筆されているそうなので興味はあるのだが、小説を横書きで読むのにはちょっと馴染めない。どうやら私も時代に取り残されつつあるようだ(苦笑)
子供の頃から「歩く」ことが好きだった。特に山登りが楽しかった。山に登って景色を見たり、お弁当を食べたりするのはもちろんのこと、息を切らせながら自然の中を歩いている感覚そのものが好きだった。
それからずっと、歩いてきた。登山や歩行について、とくに指導を受けたことはなかったが、自分なりに「歩く」経験を積んできた。
車にもバイクにもあまり興味はなかった。自転車にはやや関心があり、高校生の頃にはまだ流行る前のマウンテンバイクを乗り回していたが、結局「歩き」に戻った。
長い間、自分が好きな「歩き」が、果たして他と共有されうる趣味嗜好なのかどうか、分からなかった。本格的な登山とも違うし、いわゆるアウトドアとも少し違う。
ただ、歩く。
できれば自然の中がいい。
自然の中を歩く過程で、必要があればアウトドアもやるが、それも必要最小限の装備がいい。野宿が可能ならそれでいい。
歩きたい自然豊かな道を探しているうちに、熊野を歩くようになった。熊野をあるくようになって、自分のやりたいことは「遊行」「遍路」なんだなと、ようやく気がついた。そんな風に自分の嗜好に名がついた頃、五木寛之の「風の王国」を読んだ。
ただ「歩く」というたった一つの行為を軸に、古代・中世・近代・現代がつなぎ合わされ、「歩く」ということが思想にまで高められる不思議な物語。貪るように読み耽った。
十数年たって読み返してみると、私自身の身体にたっぷり「歩き」が蓄積されてきた分だけ、はるかに物語を楽しむことが出来た。まだ作中の登場人物のように翔ぶように山野をノルことは出来ないが、以前より多少は歩けるようになった。体力になるべく頼らない「歩き」の技術を少しは身につけてきた。
今の私は、自分が「歩き」を好む理由をいくらか言葉にすることができる。
歩きによる「遊行」や「遍路」は「離れる」ことだ。
車や電車などの乗り物に乗ると、「繋がり」ができやすい。端的に言えばナンバープレートや運行ダイヤ、監視カメラ等によって、自分の行動が常に他者に捕捉されやすい状態になる。
別にことさら隠密行動をとりたい理由がある訳ではないのだが、そうした「行動の捕捉」に端的に表れるような、様々な「繋がり」からふっつり離れて、ただ一人で足の向くままに流れてみたいという衝動があるのだ。
この小説は、誰の心にもふと兆す瞬間があるはずのそうした衝動に、魅惑的な筋立てを与えてくれる、一幕の甘美な夢だ。
ネットやケータイで常に誰かと繋がっていることが常態となった今日この頃、このような小説が再発されていることは興味深い。
2008年09月30日
赤と白
今月の縁日草子はなんだかヒガンバナ尽くし。
月初めの予定とは全然違ってしまっていますが、その辺はご愛嬌。
葛城の質量には及びませんが、近所にも何箇所かヒガンバナスポットがあります。ピンポイントではなかなか素晴らしい開花です。
豪華な花束みたいに密集した赤いヒガンバナに、白い花がほんの数本。隠し味のようにお互い引き立てあっています。
白いヒガンバナの存在に気付いたのは3年前。そういう花が存在するという意識を持って観察すると、けっこうあちこちで咲いています。
それでも、さすがに下の写真のような状態は珍しいです。
一枚目の写真とちょうど逆の状態で、まるで日の丸弁当のようです。
この場所は毎年観察しているのですが、こんなに真っ白になったのははじめてのような気がします。来年はどうなるのでしょうか。
ヒガンバナは日陰ほど早く咲き、日当たりのいい場所ほど遅く咲きます。探せばまだまだ見頃の場所があるでしょう。
私の好きな葛城のヒガンバナも、今週末頃までは盛りが続いているはずです。ヒガンバナの花見をお考えの方には、本当にお勧めです。
月初めの予定とは全然違ってしまっていますが、その辺はご愛嬌。
葛城の質量には及びませんが、近所にも何箇所かヒガンバナスポットがあります。ピンポイントではなかなか素晴らしい開花です。
豪華な花束みたいに密集した赤いヒガンバナに、白い花がほんの数本。隠し味のようにお互い引き立てあっています。
白いヒガンバナの存在に気付いたのは3年前。そういう花が存在するという意識を持って観察すると、けっこうあちこちで咲いています。
それでも、さすがに下の写真のような状態は珍しいです。
一枚目の写真とちょうど逆の状態で、まるで日の丸弁当のようです。
この場所は毎年観察しているのですが、こんなに真っ白になったのははじめてのような気がします。来年はどうなるのでしょうか。
ヒガンバナは日陰ほど早く咲き、日当たりのいい場所ほど遅く咲きます。探せばまだまだ見頃の場所があるでしょう。
私の好きな葛城のヒガンバナも、今週末頃までは盛りが続いているはずです。ヒガンバナの花見をお考えの方には、本当にお勧めです。