2008年09月29日

五木寛之「風の王国」

 二上山へ向かう道行きの間、十数年ぶりで五木寛之「風の王国」を読んでいた。ここ数年、書店の新潮文庫の棚から五木寛之の黒い背表紙が姿を消していたように思うのだが、しばらく前にぽつんと「風の王国」だけ復活しているのを見かけて購入していた。
 この作品はアメーバブックスから、ケータイ小説風に横書きの本にもなったらしい。多少加筆されているそうなので興味はあるのだが、小説を横書きで読むのにはちょっと馴染めない。どうやら私も時代に取り残されつつあるようだ(苦笑)



 子供の頃から「歩く」ことが好きだった。特に山登りが楽しかった。山に登って景色を見たり、お弁当を食べたりするのはもちろんのこと、息を切らせながら自然の中を歩いている感覚そのものが好きだった。
 それからずっと、歩いてきた。登山や歩行について、とくに指導を受けたことはなかったが、自分なりに「歩く」経験を積んできた。
 車にもバイクにもあまり興味はなかった。自転車にはやや関心があり、高校生の頃にはまだ流行る前のマウンテンバイクを乗り回していたが、結局「歩き」に戻った。
 長い間、自分が好きな「歩き」が、果たして他と共有されうる趣味嗜好なのかどうか、分からなかった。本格的な登山とも違うし、いわゆるアウトドアとも少し違う。

 ただ、歩く。
 できれば自然の中がいい。
 自然の中を歩く過程で、必要があればアウトドアもやるが、それも必要最小限の装備がいい。野宿が可能ならそれでいい。

 歩きたい自然豊かな道を探しているうちに、熊野を歩くようになった。熊野をあるくようになって、自分のやりたいことは「遊行」「遍路」なんだなと、ようやく気がついた。そんな風に自分の嗜好に名がついた頃、五木寛之の「風の王国」を読んだ。
 ただ「歩く」というたった一つの行為を軸に、古代・中世・近代・現代がつなぎ合わされ、「歩く」ということが思想にまで高められる不思議な物語。貪るように読み耽った。

 十数年たって読み返してみると、私自身の身体にたっぷり「歩き」が蓄積されてきた分だけ、はるかに物語を楽しむことが出来た。まだ作中の登場人物のように翔ぶように山野をノルことは出来ないが、以前より多少は歩けるようになった。体力になるべく頼らない「歩き」の技術を少しは身につけてきた。
 今の私は、自分が「歩き」を好む理由をいくらか言葉にすることができる。
 歩きによる「遊行」や「遍路」は「離れる」ことだ。
 車や電車などの乗り物に乗ると、「繋がり」ができやすい。端的に言えばナンバープレートや運行ダイヤ、監視カメラ等によって、自分の行動が常に他者に捕捉されやすい状態になる。
 別にことさら隠密行動をとりたい理由がある訳ではないのだが、そうした「行動の捕捉」に端的に表れるような、様々な「繋がり」からふっつり離れて、ただ一人で足の向くままに流れてみたいという衝動があるのだ。
 この小説は、誰の心にもふと兆す瞬間があるはずのそうした衝動に、魅惑的な筋立てを与えてくれる、一幕の甘美な夢だ。

 ネットやケータイで常に誰かと繋がっていることが常態となった今日この頃、このような小説が再発されていることは興味深い。
posted by 九郎 at 22:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 葛城 | 更新情報をチェックする