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2009年05月01日

2009年5月の予定

【5月の予定】
 なかなか予定通りにはいかず、色々とっちらかしながら進行していますが、今月も行き当たりばったり。できる事からできるだけ手を付けていきます。気長にお付き合いください。

【ロゴ画像変更】
 もうすぐ端午の節句。和歌浦の英雄・雑賀孫市の兜をテーマに作ってみました。
posted by 九郎 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2009年05月02日

雑賀鉢2

 和歌浦の英雄・雑賀孫市の兜について、以前一度イメージスケッチしてみたことがある。
 雰囲気でざっくり描いてみただけなので、今回はもう少し詰めてデザインしてみよう。
 土台になるのはやはり「雑賀鉢」だろう。私の思う雑賀鉢の典型を三面図にしてみる。前立に使う八咫烏も、伝統的なデザインを元に加えてみた。

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 動き回りながら火縄銃を撃つという機能優先で考えるなら、前立は無しで防錆の黒漆で仕上げたシンプルなデザインになるだろう。

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 司馬遼太郎「尻啖え孫市」の作中では、ヒーロー雑賀孫市はそれぞれの戦で様々な甲冑を身につけて登場する。
 講談社文庫版P409では、本願寺の求めに応じて大阪に入る場面で「雑賀鉢に真黒な翼を広げた烏の前立を打ち」と描写されている。
 黒漆仕上げの兜に真黒の前立では識別しにくいので、この場合は鉄地の方が映えるだろう。

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 同文庫版P441の、信長軍との開戦シーンでは「具足は朱、それに金の金具を打った派手ないでたちで、カブトは雑賀鉢、それに金の八咫烏の前立を打ち」と描写されている。
 カブトの色を朱の具足と揃いと解釈すると、下図のような感じになるかもしれない。

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 作中の孫市は、通常の火縄銃の二倍の射程距離を持つ「愛山護法」を引っさげて活躍する。朱のカブトとあわせて考えると、どうしても「シャア専用?」とか妄想してしまうのは、おバカなガンダム世代の悪癖だ(笑)
posted by 九郎 at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 和歌浦 | 更新情報をチェックする

2009年05月03日

孤独な詩人

忌野清志郎さんがお亡くなりになってしまった。
 ちょっと語るべき言葉が見つからない。

 何度でも起き上がってきてくれるものと思っていた。
 しかしどんなステージでも終わりは来る。
posted by 九郎 at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

おりがみ兜の色々3

 これまでにも色々なおりがみ兜について調べてきましたが、今年も新しい折り方を見つけたので紹介します。

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 この折り方は創作おりがみ屋さん かわむらあきら創作折紙というサイト内で紹介されている折り方です。(トップページ一覧表の10番)
 かなり折りが重なって、出来上がりは小さく分厚くなるので、比較的大きな正方形の紙から折り始めるのがお勧めです。紹介されている図の手順で折っていけば、完成させるのはそれほど難しくないと思います。
 形状的には平安・鎌倉時代の雰囲気があってカッコいいです。
 去年紹介したものは戦国兜風でした。
 おりがみでも色々折って並べてみると、相当見栄えがします。

 オリジナルで新しい折り方を創作できる皆さんは、本当に素晴らしいですね。

 これまでのおりがみ兜のまとめ記事はこちらです。
posted by 九郎 at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 紙(カミ) | 更新情報をチェックする

2009年05月07日

雑賀鉢3

 戦国時代の和歌山市周辺「雑賀庄」は、一向宗(浄土真宗)への篤い信仰が広まっていたという。和歌浦の英雄・雑賀孫市ひきいる鉄砲部隊・雑賀衆が、強大な織田信長に対抗して本願寺側に助力したのも、その信仰に起因する。
 司馬遼太郎「尻啖え孫市」作中のヒーロー・雑賀孫市は、基本的には阿弥陀信仰を持たない人物として描写されている。「現代における物語作り」に限定して言えば、おそらく「信仰を持たない」孫市像が正解だろう。
 浄土真宗の家に育った私の目から見ても、最初から篤い信仰に支えられて信長と戦う孫市より、信仰から距離を置きつつも徐々に「南無阿弥陀仏」の六字名号と向き合わざるをえなくなって行く孫市の方が、はるかに魅力的に映る。

 雑賀孫市は史料に乏しい人物なので、その信仰や性格などの実像は不明なのだが、状況的に考えれば「阿弥陀信仰を持っていた」という可能性の方が高いかもしれない。大多数が同じ信仰を持つ地域の頭目として力を発揮するには、自身も同じ信仰を持っていたと仮定する方が自然に思える。
 その場合、孫市がどのような兜をかぶって戦場に立ったか、少し想像してみよう。

 浄土真宗が信仰するのは阿弥陀如来ただ一仏で、その他の神仏を拝むことは、基本的にはない。だから兜の前立も、八咫烏より阿弥陀信仰に関連したテーマを選ぶのが自然な発想になる。
 面白いことに「仏敵」である魔王・信長の家臣、森蘭丸所用と伝えられる甲冑に、「南無阿弥陀仏」の六字をデザインした前立を付けたものが残っている。

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 この前立を借用して雑賀鉢に装着してみれば、信仰を持っていた場合の孫市がかぶっていた兜の、一つの試案にできるだろう。

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 孫市自身がかぶっていなかったとしても、雑賀衆の中には上図に近いものを装着していた人物は、必ず居たはずだ。
posted by 九郎 at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 和歌浦 | 更新情報をチェックする

2009年05月16日

雑賀孫市と鈴木孫一

 ここまで「雑賀孫市」について書いてきたが、主に司馬遼太郎「尻啖え孫市」作中のヒーローのイメージを元に、あれこれ遊んでみたものだ。
 司馬遼太郎作中の「孫市」は、先行する様々な物語の中の「孫市」を下敷きにし、「阿弥陀信仰を持たない」と言う要素を加えて成立したきわめて魅力的なキャラクターだが、戦国時代に実在した雑賀衆のリーダーの一人である「鈴木孫一」とは、重なっている部分もあり、違っている部分もある。
 「孫市」の記事を書くために資料を読み進めるうちに、実在の人物としての「孫一」や「雑賀衆」について興味がどんどん広がってきた。
 一向一揆や海の民など、今まで関心を持ちながらも手を出せないでいた領域ともつながって、何かカタれそうな気がしてきた。

 雑賀衆をテーマにした本の中から、入手しやすい一冊についてメモしておこう。



●「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木真哉(平凡社新書)
 雑賀衆を扱った専門に扱った書籍が少ない中、史実として確認できる雑賀衆の姿と、物語の中の姿を丁寧に区別しながら、実像を浮かび上がらせた一冊。
 司馬遼太郎「尻啖え孫市」に描かれる姿とは違うが、中央から離れた紀州の地で、独自の方法論でしたたかに生き抜いてきた雑賀衆の姿が描き出されている。
 鉄砲を用いた戦術についても詳しく述べてあり、色々と眼からうろこが落ちるような読後感があった。


 しばらく充電してから、このカテゴリ「和歌浦」再開します。
(こういう予告をしながら果たせなかったことも多々ありますが……)
posted by 九郎 at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 和歌浦 | 更新情報をチェックする

2009年05月17日

疫病神の集い

 なにか大騒ぎになってますね。

 ものの本によると、沖縄には「美ら瘡(ちゅらかさ)」という言葉があるそうです。天然痘を意味する言葉なのですが、恐ろしい病を美しい名前で呼んで丁重に迎え入れ、穏やかに送り出すという伝統があったそうです。
 人やモノが奔流のように移動する現代では、流行り病は遅かれ早かれいずれ広がっていきます。

 さいわい今回の新型インフルエンザは弱毒性とのこと。
 あまり潔癖に騒ぎ立てるのではなく、備えるべきは備えつつ、静かに通過を待つのが良いでしょう。

 過去に投稿した記事の中から、疫病神に関するものをご紹介します。
蘇民将来神話
なまはげ
バグ
牛頭天王
鬼を統べる神

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オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ
posted by 九郎 at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 節分 | 更新情報をチェックする

2009年05月20日

夢枕獏

 高校生の頃「キマイラ・シリーズ」を手にとって以来、何年かごとに夢枕獏の作品にハマって読み続けてきた。「新作が出れば即買う」というほどの熱烈なファンではないけれども、数年ごとにハマる度に長編を読み切ってきたので、結果的には七割以上の作品を読んでいることになり、あらためて確認してみるとけっこう熱心な読者の部類に入りそうだ。
 何年も、時には十数年も、何十年もかかる長編を複数抱えた人気作家なので、リアルタイムで作品を追っていると細切れになってしまう。私ぐらいの付き合いがちょうど良い間合いなのかもしれない。
 夢枕獏と言えば、一般には「伝奇SF作家」のイメージが強いと思うが、実際には幅広い作風があり、伝奇SFの代名詞である「エロスとバイオレンス」だけで括れる作家ではない。今昔物語の空気感を現代小説として復活させたような「陰陽師」や「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」、昨今の総合格闘技ムーブメントを生み出す原動力の一つになった「飢狼伝」をはじめとする格闘小説などは、特定のジャンルだけの読者の範囲を超えて、広く読み継がれる作品になっている。

 夢枕獏の作品の重要なモチーフの一つに「仏教」がある。今昔物語などの中世説話集がそうであったように、この作家の背後には仏教の須弥山宇宙観が高くそびえている。私にとっての夢枕獏は、SF作家というよりは「仏教作家」だ。
 格闘小説に代表されるリアルな現実世界の約束事を守った作品群はもちろんのこと、ファンタジーの要素が強い作品であっても、宇宙観の範囲を逸脱しないように細心の注意を払ってバランスを保ちつつ、物語が紡がれている。安易に「何でもあり」に流されない作品世界を構築する作家であり、それぞれの物語の中の「理」を決して破綻させない作家であり、自分の中の「作家的良心」を裏切らない、信頼できる物語作者なので、どの本も安心して手に取ることができる。



●「キマイラ・シリーズ」夢枕獏 (ソノラマノベルス)
 作家活動の初期から三十年近くにわたって書き続けられ、いまだ未完のライフワークにして代表作。現在のライトノベル市場の源流の一つと思われる、往年のソノラマ文庫で刊行が開始され、私も高校生の頃から読み始めて既に○○年。
 時代の変化とともにソノラマ文庫が縮小され、「キマイラ・シリーズ」は去年から新書版ノベルスとして、2巻分を一冊にして刊行され始めた。良い機会なので私もノベルスの刊行にあわせて何度目かの通読を続けている。間もなく発売される第8巻で、物語本編の既刊分は揃うことになる。

 この作品もまた、他の夢枕作品同様、完全に「何でもあり」のファンタジーにはなってしまわず、作品内の約束事を丁寧に守りつつ、ぎりぎりのリアリティーを保ちながら、人が幻獣と化す「キマイラ化現象」を軸に、仏教や仙道、中国拳法、西洋神秘思想などがちりばめられて、壮大な物語を織り成していく。
 物語の始まりは発表媒体に相応しく「学園伝奇ロマン」の体裁を持っていたが、主人公の二人の少年の身体に生じた「キマイラ化現象」の謎はすぐにそんな小さな枠を食い破り、物語は遥か中国、チベットへと拡大していく。現代においてなお「西域幻想」を保っている遥かな中央アジアの地で、戦前の「大谷探検隊」の馳せた夢が、異形の美しい悪夢として読み替えられる。

 第6巻には物語の核心に触れると思われる「外法曼陀羅図」が登場する。チベット密教の凄まじい忿怒の仏画を更に凌駕する図像の描写は、おそらくこの作品の中盤のクライマックスと言える部分になるだろう。
 読み返していると、最初に読んだ高校生の頃の心情が甦ってくる。あの頃、「外法曼陀羅図」の描写に強烈に惹かれたことが、私の中の「仏の絵を描く動機」の一部に、確かにつながっていると感じるのだ。

 この作品、まだ完結する気配は無い。
 作者自身が「生涯小説」と表現するだけに、今後も読み手と書き手の要求するクオリティは巻を追うごとに増大し、刊行ペースは緩やかになっていくだろう。
 私の個人的な感触で言えば「道の半ばは既に過ぎている」と思うのだが、こればかりはおそらく作者自身にも「書いてみなければわからない」ということになるだろう。
「○×年に〜〜が起る!」といった類の予言がたいてい外れるように、たとえ作者本人が「あと○○巻で終る!」と表明しても、そんな告知はたいがい外れてしまう。
 生きた物語とはそうしたものだ。
 それでもおそらく後数巻、過去の大陸での長い回想シーンが終れば、「キマイラ」という物語の描く巨大な円の、直径の概算くらいはできるようになるだろう。

 願わくば、私がこの作品に重ねた想いの密度と量が、納得できるところまで物語が進められんことを。

 敢えて「完結」は望まない。
posted by 九郎 at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2009年05月22日

夢枕獏2

 前回に引き続いて夢枕獏の作品の中から、仏教をモチーフにしたものを紹介する。




●「涅槃の王1〜4」夢枕獏(祥伝社文庫)
 およそ2500年前の印度を舞台に、まだ仏陀として悟りを開く前の沙門シッダールタが、それぞれに異能を持つ一行とともにこの世ならぬ異世界を旅する物語。「不死」というテーマをインド神話の切り口から扱った異世界ファンタジー。物語終盤には仏陀として覚醒するイベントも用意されている。
 登場人物にお釈迦様が出てくるものの、既存のいかなる仏伝とも違う内容。沙門シッダールタの悟りは菩提樹下の瞑想中ではなく、異世界での命を懸けた冒険の最中にもたらされる。
 完全なるフィクションであることが前提の釈迦伝異聞で、こうして歴史的事実からはっきりと切り離すことによって描き出せる「物語の中の真実」というものがあり、この小説にはそうした「夢の中のまこと」「虚構の中のリアル」が確かに存在している。
 中でも若き沙門シッダールタの性格設定は、非常に納得できる。
 作中のシッダールタは、何よりも知的好奇心の人であり、身分制度や時代とともに変わる善悪などを超えた、不変の真理「天の法」を求める青年として描かれている。
 美貌で才能に溢れているが、自分のそうした天分にも拘らず、淡々と法を求める。
 どのような身分の者とも、どのような善人悪人とも、変わることなく対等な「友」として語れる。
 誰もがそんなシッダールタと語り合ううちに「真理」や「天の法」に関心を持ち、ふと今の自分の持つ全てを投げ捨てて、彼と同じ沙門になってしまおうかと、そんな気分にさせてしまう。
 一瞬後にはすぐ我に返り、そんなことが出来るわけがないと思い直すのだが、自分にはなれない「沙門」であるシッダールタのことが好きになってくる。
 いまだ「覚者」ではなく、真理について確信を持って語れる「偉大な師」にはなっていないのだが、できればその行く末を見届けたいと願うようになる。
 しかし本人は自分の人格の中の欠落、本質的な「感情の冷たさ」に気付いており、だからこそ真理を悟って「世界に対してもう少し優しくなりたい」と願っている。

 読んでいると、若き日のまだ悟りに至る前のお釈迦様は、まさにこうした青年だったのではないかと思えてくる。様々な野望渦巻くストーリーの本筋は、シッダールタが登場しなくても十分成立しうるものだが、おそらく作者の執筆動機の中に、このような沙門・シッダールタとともに冒険の旅がしてみたいという願いがあったのではないかと感じる。

 完結までに十五年の歳月をかけ、ファンタジーという切り口で仏陀の覚醒を描ききった、作者渾身の大長編だ。
posted by 九郎 at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2009年05月29日

夢枕獏3

 引き続き夢枕獏の作品の中から仏教をモチーフにしたものを紹介。



●「上弦の月を喰べる獅子 上・下」夢枕獏 (ハヤカワ文庫)
 先に紹介した「キマイラ」「涅槃の王」は、著者が通常分類される「伝奇SF」のジャンルによく当てはまる作品だったが、夢枕獏の守備範囲は実際にはかなり幅広く、他にも様々な作風がある。
 この「上弦の月を喰べる獅子」を名付けるとしたら「仏教SF」になるだろう。「須弥山」を中心とした仏教の世界像を背景に、宇宙の在り方を描いた長編だ。
 著者自身を投影したと思われる「螺旋蒐集家」と、著者が敬愛する宮沢賢治を主人公とする特殊な構成で、作品のあらゆる要素が二重螺旋の構造をもって物語の推力となっている。

 螺旋蒐集家と、宮沢賢治
 物語本文と、各所に配置された架空の「螺旋教典」
 夢枕獏の文体と、宮沢賢治の文体
 現実世界と、異次元の須弥山
 現在と、過去

 離れた距離、離れた時間にあった様々な要素が、物語の進行・回転とともに徐々により合わされ、ぎりぎりと巻き込まれたいくつもの時空が、約2500年前の釈迦降誕の一点に収束する。
 
 作中で「螺旋蒐集家」は宮沢賢治と一体化し、異次元の須弥山を登る旅に出ることになるのだが、これは著者にとって相当な覚悟が必要だったのではないかと思う。
 著者がどれほどの想いを「一人の修羅」である岩手の孤独な詩人に持っていたかは、作品を読めば一目瞭然だ。物語各所にあらわれる賢治の経歴の詳細な描写や、まるで賢治本人が語っているかのような文体は、賢治を愛して読み込み、考え続けた年月の厚みを感じさせずにはおかない。
 強い思い入れの対象を自分と一体化して描くというだけでも、普通はなかなか出来ない。しかもその対象は、多数のコアな読み手を抱えていることが明らかな「宮沢賢治」である。「夢枕獏」という看板を背負いながらそれをやるということは、下手をすればそれまで築いてきた何もかもを、自らの手で地に堕とす事にもなりかねない。
 半端な覚悟でそれを書くことは、夢枕獏の読者も、宮沢賢治の読者も、そして誰よりも著者である夢枕獏自身が、許すことはできなかっただろう。敢えてそうした危うい領域に踏み込み、十年という歳月をかけてその重圧をくぐり抜け、この作品は完成された。
 夢枕獏はその長く厳しい執筆の果てに、どのような世界にたどりつけたのだろうか。
 物語最終盤に、その心情が垣間見えるシーンがある。

 死の数日前の夜、小康状態を得た宮沢賢治が、床を出て地元の祭に足を運ぶ。
 その祭の喧騒の中、長い旅を続けてきた一人の男が賢治に声をかける。
 控えめに交わされる、いくつかの言葉。
 言葉の数は少ないが、溢れ出る感情が結晶し、一言一言が余韻を残しながら響き合う。
 ほんのしばらくの交錯の後、二人はまた別の道を行く。
 そして物語は静かに終幕していく。
posted by 九郎 at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする