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2009年05月07日

雑賀鉢3

 戦国時代の和歌山市周辺「雑賀庄」は、一向宗(浄土真宗)への篤い信仰が広まっていたという。和歌浦の英雄・雑賀孫市ひきいる鉄砲部隊・雑賀衆が、強大な織田信長に対抗して本願寺側に助力したのも、その信仰に起因する。
 司馬遼太郎「尻啖え孫市」作中のヒーロー・雑賀孫市は、基本的には阿弥陀信仰を持たない人物として描写されている。「現代における物語作り」に限定して言えば、おそらく「信仰を持たない」孫市像が正解だろう。
 浄土真宗の家に育った私の目から見ても、最初から篤い信仰に支えられて信長と戦う孫市より、信仰から距離を置きつつも徐々に「南無阿弥陀仏」の六字名号と向き合わざるをえなくなって行く孫市の方が、はるかに魅力的に映る。

 雑賀孫市は史料に乏しい人物なので、その信仰や性格などの実像は不明なのだが、状況的に考えれば「阿弥陀信仰を持っていた」という可能性の方が高いかもしれない。大多数が同じ信仰を持つ地域の頭目として力を発揮するには、自身も同じ信仰を持っていたと仮定する方が自然に思える。
 その場合、孫市がどのような兜をかぶって戦場に立ったか、少し想像してみよう。

 浄土真宗が信仰するのは阿弥陀如来ただ一仏で、その他の神仏を拝むことは、基本的にはない。だから兜の前立も、八咫烏より阿弥陀信仰に関連したテーマを選ぶのが自然な発想になる。
 面白いことに「仏敵」である魔王・信長の家臣、森蘭丸所用と伝えられる甲冑に、「南無阿弥陀仏」の六字をデザインした前立を付けたものが残っている。

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 この前立を借用して雑賀鉢に装着してみれば、信仰を持っていた場合の孫市がかぶっていた兜の、一つの試案にできるだろう。

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 孫市自身がかぶっていなかったとしても、雑賀衆の中には上図に近いものを装着していた人物は、必ず居たはずだ。
posted by 九郎 at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 和歌浦 | 更新情報をチェックする