引き続き夢枕獏の作品の中から仏教をモチーフにしたものを紹介。
●「上弦の月を喰べる獅子 上・下」夢枕獏 (ハヤカワ文庫)
先に紹介した「キマイラ」「涅槃の王」は、著者が通常分類される「伝奇SF」のジャンルによく当てはまる作品だったが、夢枕獏の守備範囲は実際にはかなり幅広く、他にも様々な作風がある。
この「上弦の月を喰べる獅子」を名付けるとしたら「仏教SF」になるだろう。「須弥山」を中心とした仏教の世界像を背景に、宇宙の在り方を描いた長編だ。
著者自身を投影したと思われる「螺旋蒐集家」と、著者が敬愛する宮沢賢治を主人公とする特殊な構成で、作品のあらゆる要素が二重螺旋の構造をもって物語の推力となっている。
螺旋蒐集家と、宮沢賢治
物語本文と、各所に配置された架空の「螺旋教典」
夢枕獏の文体と、宮沢賢治の文体
現実世界と、異次元の須弥山
現在と、過去
離れた距離、離れた時間にあった様々な要素が、物語の進行・回転とともに徐々により合わされ、ぎりぎりと巻き込まれたいくつもの時空が、約2500年前の釈迦降誕の一点に収束する。
作中で「螺旋蒐集家」は宮沢賢治と一体化し、異次元の須弥山を登る旅に出ることになるのだが、これは著者にとって相当な覚悟が必要だったのではないかと思う。
著者がどれほどの想いを「一人の修羅」である岩手の孤独な詩人に持っていたかは、作品を読めば一目瞭然だ。物語各所にあらわれる賢治の経歴の詳細な描写や、まるで賢治本人が語っているかのような文体は、賢治を愛して読み込み、考え続けた年月の厚みを感じさせずにはおかない。
強い思い入れの対象を自分と一体化して描くというだけでも、普通はなかなか出来ない。しかもその対象は、多数のコアな読み手を抱えていることが明らかな「宮沢賢治」である。「夢枕獏」という看板を背負いながらそれをやるということは、下手をすればそれまで築いてきた何もかもを、自らの手で地に堕とす事にもなりかねない。
半端な覚悟でそれを書くことは、夢枕獏の読者も、宮沢賢治の読者も、そして誰よりも著者である夢枕獏自身が、許すことはできなかっただろう。敢えてそうした危うい領域に踏み込み、十年という歳月をかけてその重圧をくぐり抜け、この作品は完成された。
夢枕獏はその長く厳しい執筆の果てに、どのような世界にたどりつけたのだろうか。
物語最終盤に、その心情が垣間見えるシーンがある。
死の数日前の夜、小康状態を得た宮沢賢治が、床を出て地元の祭に足を運ぶ。
その祭の喧騒の中、長い旅を続けてきた一人の男が賢治に声をかける。
控えめに交わされる、いくつかの言葉。
言葉の数は少ないが、溢れ出る感情が結晶し、一言一言が余韻を残しながら響き合う。
ほんのしばらくの交錯の後、二人はまた別の道を行く。
そして物語は静かに終幕していく。