ここまでで紹介した夢枕獏の三作品「キマイラ・シリーズ」「涅槃の王」「上弦の月を喰べる獅子」は、内容的に相互にリンクしている可能性もある。本文中やあとがき等でそのように記述されているわけではないが、仏教の世界観やインド神話、仏陀の悟りを扱った作品という点で共通している。「キマイラ」と「涅槃の王」は、人が獣に変わる設定で共通点がうかがわれるし、「涅槃の王」と「上弦〜」は人名で共通するものがあり、舞台設定に須弥山が大きく関係している。
夢枕獏の作品には別シリーズでありながら世界観を共有すると明記してある作品もある。上記三作品について、執筆途上である「キマイラ」作中で、今後何らかのリンクが判明することもあるかもしれない。
作品世界が繋がっているかどうかはさておいても、この三作品には「西域」への憧憬が色濃く描かれている。「西域」という言葉はあまり厳密に定義された言葉ではないが、中国中西部からモンゴル、チベット周辺を含む、中央アジアの辺りと考えれば、大きくは外れないだろう。
玄奘三蔵が長安から天竺へ向けて旅した、その道のりがぐるりと囲む範囲、と大雑把に表現すればイメージしやすいだろうか。
約2500年前にインドで発祥した仏教は千数百年の時間をかけて進化したが、結局本国のインドには定着しなかった。仏教経典の最終進化段階の後期密教は、巨大な山脈で囲まれた「西域」にだけ保存される事になった。
日本でも近代になって、そこに残された精神文化の遺産に憧れる人々が出てきた。
東北の農村でいくつもの「西域幻想」を描いた宮沢賢治。
巨大な財力を注ぎ込んで西域に探検隊を派遣し、自らも乗り込んで文化遺産の蒐集を行った浄土真宗の大谷光瑞。
満州から大陸に入り、中央アジアを横断してエルサレムを目指そうと試み、旅の途上で挫折した出口王仁三郎。
日本人としてはじめて単身チベットに入り、多くの文物を日本に持ち帰った河口慧海。
21世紀になった現在でも西域には「あそこにはまだまだ何かがある」と思わせるだけの幻想が残っており、政治的・軍事的にもますます難しい状況になるにつれ、貴重な仏教の遺産が今現在進行形で急速に失われていっているのではないかという喪失感とともに、その幻想は強化されていく。
私はチベットの寺院の壁画で、できることなら一度実見してみたい曼荼羅があるのだが、彼の地はまでの距離(地理的な距離だけでなく)はあまりに遠く、それは淡い夢でしかない。
夢枕獏はそうした「西域」の地に自ら足を運んでいる。作品制作のための取材が主目的なのであろうが、それ以上に「西域」を自分の目で見、足で踏み、なるべく個人の力で体感してみたいという、やむにやまれぬ衝動が先にあったのだろう。
現実ではない虚構の物語を、何万枚にも及ぶ紙に文字の羅列で描き出していくという行為には、そうしたある意味不条理な衝動がなければ出来ることではない。
自分の中のやむにやまれぬ衝動と、生業を自然な形で結合させているところが、夢枕獏の人間力なのだろう。
●「西蔵回廊―カイラス巡礼」夢枕獏(知恵の森文庫)
半年ほどかけて「キマイラ」を再読していた。
高校生の頃読み始めて以来、何度目かの再読だ。
その間の人生で私は様々な神仏に関する文書を渉猟し、旧跡を巡ってきたのだが、体験を通過してから「キマイラ」を読み返すたび、作中の表現の素材に思い当たるものが見つかった。
とくにチベット密教に関する部分でいくつもの再発見があった。
一般にも入手しやすいチベット密教関連書籍が増えてきたのは、90年代辺りからだったと記憶している。とくにここ数年は、安価で質の良いチベット密教入門書や、現代チベットの情勢を伝える書籍が途切れることなく発行されている。アジア雑貨ではチベット・タンカが人気だ。
こうした状況が招来された要因の一つに、夢枕獏の活動があるのは間違いないだろう。
ちょうど今、大阪にある「みんぱく」(国立民族学博物館)で、企画展「チベット ポン教の神がみ」が開催されている。ポン教はチベットの民族宗教が仏教の影響を受けて独自に発展を遂げた宗教で、日本では発行された資料も少なく、なかなか触れる機会がなかった。
展示は期待以上の規模で、多数の美麗な曼荼羅と至近距離で対面することが出来た。おそらく、この規模でポン教が紹介されるチャンスは、今後もほとんど無いだろう。ポン教の歴史や教理の解説も豊富なカラー図版が1600円で販売されているのにも感激した。(4月にはチベット学僧と我等が夢枕獏による対談もセットされていたようだが、残念ながらそちらには行けなかった)
展示を見学した興奮冷めやらぬ中、ミュージアムショップに飾られたポン教タンカのうちの一枚に、ふと引き止められた。
結跏趺坐した人体のチャクラにそれぞれ曼荼羅が描かれ、人体の周囲を神々と文字が埋め尽くす特殊な図像で、展示されずにショップの棚に並んでいるのが不思議な、素晴らしい一枚だった。
肉筆作品で価格も表示されておらず、ただ「貴重な図像である」旨をポップに記述されていたのみなので、貧乏な私に手出しできるものではなかったが、「夢枕獏はこの図像をどう見たのだろう?」と気になった。
構図がキマイラに描写された「外法絵」と、少し似ていると思える部分があったのだ。
この企画展は7月21日まで。
新型インフルエンザによる閉館措置は既に解除済みだ。