一週間前の金曜日、ぎっくり腰をやってしまった。
生涯二度目。確か5〜6年前にも一回やった。
とくに重労働をやったわけではない。朝起きて、朝食前に10kg弱のものをちょっとどけようとした時に、
「ぴき」
と、背中から腰にかけて何かが走った。
前回も朝、トイレに行って便座に座ろうとした瞬間、「ぴき」となった。その経験があったので瞬間的に「あ、やった!」と分かった。
幸い、仕事が一段落した直後だったので、周囲への迷惑は最小限に抑えられた。子供の頃、普段は元気なのに学校の終業式の直後に熱を出したりしていたことを思い出した。
当日、寝転んだまま身動き一つ取れなかった。腰を動かさないまま腕の力だけで這って、トイレに行ったり入浴したりした。
二日目、ものにつかまって立ち、ヨチヨチ歩きは可能になった。
三日目、細心の注意を払いながら、スローペースの日常生活はこなせるようになった。
四日目、痛みはかなり軽減されたが、腰を庇い続けたためにその周辺があちこち痛くなってきた。
五日目、あちこち痛めながら、ようやく社会復帰。
一週間経った現在、微妙に違和感は残るものの、ほぼ回復。
二回やった経験から言うと、ぎっくり腰はちょっと防ぐのが難しい感じがする。重労働をやるときならそれなりに気をつけて無理な力が腰にかからないようにするが、聞いた話によると単なるクシャミがきっかけでやってしまったりもするらしい。
それでも一応自分なりに分析しておくと、以下の要因が考えられる。
・朝起き抜けで身体が固まっていた。
・おそらく就寝中に腰を冷やしていた。
・背中を丸めて腰が伸びきった状態でなった。
こういう条件が重なると、何気ない日常の動作でも簡単に腰の限界を超えてしまうことがあるらしい。注意なされよ皆様方。
治すにはとにかく患部を動かさないことと、温めることだと思う。
前回やった時に、思うところあって色々と身体に関する本を読んだ。毎年行っていた熊野遍路等で、あちこち身体にガタが来ているのを感じていたこともある。
その中で特に心ひかれたのが、古武術研究の甲野善紀さんの著書だった。手に入るだけの本をかき集めて読みふけり、自分なりに可能な身体操作を試みた。
腰をなるべく捻らない日常動作を心がけると、感じていた痛みや違和感が多少やわらいだ気がした。
山野を駆ける遍路の時にも、歩き方を工夫することによって、もう過ぎてしまった体力の絶頂期よりも、楽に速く移動できるようになった。
最近ちょっと、身体に対する意識が雑になっていたかもしれない。
昔読んだ本をもう一度引っ張り出して読み返してみよう。
●「古武術の発見」養老孟司/甲野善紀 (知恵の森文庫)

2009年07月24日
2009年07月25日
「風の王国」から続く道
人生の中で、これまでも、そしてこれからも何度となく読み返すであろう、大切な物語がいくつかある。私にとっての五木寛之「風の王国」は、そうした物語の中の一つだ。
表の歴史として豊富な文字記録が残っている世界、平地に定住し、農耕を営む「常民」の世界と並行し、かつて存在したもう一つの世界。
定まった住居を持たず、農耕に関わらず、山・川・海を経巡って暮らす「化外の民」の世界。
葛城二上山を本拠とし、作中で活躍する山民をルーツに持つ人々の姿は、著者の綿密な考証により、まるで実在する集団のように生き生きと描かれている。
素晴らしい物語を読み終えると、その甘美な余韻の中で、「この物語は本当にこれで終ってしまったのだろうか?」とか「続きはもう無いのだろうか?」と、無いものねだりをしたくなる。
無いものねだりは程々に、そうした「楽しくて、やがて寂しき」感覚こそ、大切に味わうのが良い。それはもうそこそこの年齢になった今なら理解できるのだが、はじめて「風の王国」を読んだ時にはまだそのような諦念に至っていなかった。
同じ作者の「戒厳令の夜」を読んだり、その他の著者の「サンカ」をテーマにした本を読んでみたりしたが、直接「風の王国」に続くものは見出せなかった。
小説ではなかったが、五木寛之の仏教をテーマにした一連の著書は気に入ったので「日本幻論」「蓮如―聖俗具有の人間像」「日本人のこころ1〜6」と、折に触れて読み進めるうちに、「風の王国」の後日譚と言える記述に出会った。
中国地方に実在する山の民に連なる人々が、フィクションとして描かれた「風の王国」を読み、熱烈な読者になり、五木寛之自身がそうした人たちに直接会って対話することになる物語。
虚構と現実が交錯して新しい歴史が生み出されていく過程を、ドキドキしながら私は読み耽った。
●「サンカの民と被差別の世界」五木寛之(講談社 五木寛之こころの新書)
そしてその仲介の役割を果たした沖浦和光との対談も刊行される。
●「辺界の輝き」五木寛之/沖浦和光(講談社 五木寛之こころの新書)
葛城二上山から当麻寺、金剛山。紀ノ川を通過して瀬戸内、中国地方へと、漂白に生きた人々の文字に残されなかった歴史が、対談と言う「語り」の中で描き出されていく。
小説「風の王国」から続く道は、本という文字の世界の枠を超える。それぞれの土地に足を運び、今回紹介した本を道しるべに歩き回ることで、それぞれの心の中に補完されるのかもしれない。
表の歴史として豊富な文字記録が残っている世界、平地に定住し、農耕を営む「常民」の世界と並行し、かつて存在したもう一つの世界。
定まった住居を持たず、農耕に関わらず、山・川・海を経巡って暮らす「化外の民」の世界。
葛城二上山を本拠とし、作中で活躍する山民をルーツに持つ人々の姿は、著者の綿密な考証により、まるで実在する集団のように生き生きと描かれている。
素晴らしい物語を読み終えると、その甘美な余韻の中で、「この物語は本当にこれで終ってしまったのだろうか?」とか「続きはもう無いのだろうか?」と、無いものねだりをしたくなる。
無いものねだりは程々に、そうした「楽しくて、やがて寂しき」感覚こそ、大切に味わうのが良い。それはもうそこそこの年齢になった今なら理解できるのだが、はじめて「風の王国」を読んだ時にはまだそのような諦念に至っていなかった。
同じ作者の「戒厳令の夜」を読んだり、その他の著者の「サンカ」をテーマにした本を読んでみたりしたが、直接「風の王国」に続くものは見出せなかった。
小説ではなかったが、五木寛之の仏教をテーマにした一連の著書は気に入ったので「日本幻論」「蓮如―聖俗具有の人間像」「日本人のこころ1〜6」と、折に触れて読み進めるうちに、「風の王国」の後日譚と言える記述に出会った。
中国地方に実在する山の民に連なる人々が、フィクションとして描かれた「風の王国」を読み、熱烈な読者になり、五木寛之自身がそうした人たちに直接会って対話することになる物語。
虚構と現実が交錯して新しい歴史が生み出されていく過程を、ドキドキしながら私は読み耽った。
●「サンカの民と被差別の世界」五木寛之(講談社 五木寛之こころの新書)
そしてその仲介の役割を果たした沖浦和光との対談も刊行される。
●「辺界の輝き」五木寛之/沖浦和光(講談社 五木寛之こころの新書)
葛城二上山から当麻寺、金剛山。紀ノ川を通過して瀬戸内、中国地方へと、漂白に生きた人々の文字に残されなかった歴史が、対談と言う「語り」の中で描き出されていく。
小説「風の王国」から続く道は、本という文字の世界の枠を超える。それぞれの土地に足を運び、今回紹介した本を道しるべに歩き回ることで、それぞれの心の中に補完されるのかもしれない。