ほとんど就学前から、プラモデルを作ってきた。
最初にハマったのはイマイの「ロボダッチ」シリーズだったと記憶している。
当時よくTVコマーシャルで「♪人間だったら友達だけど〜、ロボットだからロボダッチ♪」という歌が流れていて、子供達の購買意欲をそそっていた。
上掲の商品はおそらく復刻されたものだと思うが、私の記憶の中の「ロボダッチ」とほぼ一致している。
このシリーズはアニメ等のキャラクターを玩具で再現したものではなく、プラモデルだけで展開されたものだったはずだ。
安い値段のロボット単体のプラモだけでなく、そうしたロボットたちを活動させるための、少し高価な情景モデルまで揃っており、「世界観」を提供する商品展開になっていた。
各キャラクターの性格付けや物語は、プラモデルの箱の横面や組み立て解説書に断片的に記されているのだが、シリーズを集めて情報が蓄積されてくると、けっこう壮大な作品世界が顕れてくる。
子供時代の私はプラモデルを集めているのと同時に、実はそうした物語の断片を集めて、より大きな物語が頭の中に出来上がることを喜んでいたはずだ。
こうした商品の特性は、後のヒット商品「ビックリマン・シール」の、一枚一枚の断片的神話情報をつなぎ合わせると壮大な神話体系が浮かび上がってくる構造にも共通するだろう。
ここまで書いてふと気付いたが、当ブログ「縁日草子」も、様々な神仏の断片的な物語を図像とともに記録して、そこから立ち上ってくる「より大きな物語」を楽しむという点では、子供の頃ハマっていた玩具のシリーズと同じだ。「三つ子の魂百まで」とはこのことか(笑)
プラモデルを組み立てていると、子供心にはまるで自分が本当にロボットを作っているように感じられた。「組み立て解説書」のことを「設計図」と読び、熱中していた。
メカものの模型にとっては「まるでホンモノを組み立てているような感覚」は強い訴求力を持っているらしく、最近よくある大人向けの「週刊〜」のシリーズでもよく使われている売り文句だ。
「ロボダッチ」は、プラモデルの成型色に2〜3色は使われていて、細かな色分けのためのシールもついていたので、解説書通りに組み立てれば、ほぼ箱絵と同じ仕上がりになった。
魅力的な箱絵と、微妙に違った色や形になることもあり、それが不満でなんとか同じ色に出来ないかと試してみたが、サインペンやクレパス、水彩絵具ではプラモにうまく着色できないことはすぐに学習した。
「プラモは買ったままの色で満足するしかない」
そんな風に思っていた時期がけっこう長く続いた。
子供の頃の私のプラモ制作の技術が上がって、それまで「はめ込み式」一辺倒だったのが、接着剤を使うものも作れるようになってきた。
今のプラモデルはかなり精巧なものでも「はめ込み式」が主流になってきているが、当時は模型の箱の中に接着剤の包みが付属していた。平行四辺形の包みの尖った先端を切って部品に接着剤を塗るのだが、切るときに失敗すると、大量の接着剤がこぼれてしまうという、なんとも使いにくい代物だった。
接着剤付きプラモで最初にハマったのは「宇宙戦艦ヤマト」のシリーズだった。一番小さいスケールのものが一箱百円だったので、子供のお小遣いでもコレクションしやすかった。
ちょっと調べてみると、当時の百円シリーズが今でも二百円で入手できることに驚いた(笑)
その頃、行きつけのプラモ屋さんの一画で、模型用塗料というものが存在することを知った。当時は水性アクリル塗料の出始めた頃で、その種類なら部屋をシンナー臭くせずに使用でき、スポンサーである親の理解も得やすかった。
一生懸命塗ってもムラだらけ、はみ出しだらけになってしまったが、自分の力で「箱のカッコいい絵と同じ色にできる」という満足感は、何者にもかえがたかった。
最近、荷物整理をしていてガラモンとともに、ヤマト関連のプラモも発見した。
いつ作ったものなのかは憶えていないが、塗装技術から判断すると小学生当時のものではなくて、中高生ぐらいの時に作ったものだろうか。
箱の全幅15cm、模型の全長10cmの小品ながら、模型そのものの出来が素晴らしいことがわかる。
「ロボダッチ」は子供の頃の私の意識の中でも完全に「オモチャ」だった。成長とともに私は模型にも「ホンモノっぽさ」を求めるようになっており、その志向と「ヤマト」の模型シリーズはぴたりと一致していたのだ。
それからほどなく空前の「ガンプラ・ブーム」が始まった。
様々な関連本が出版され、中でも私が子供心に衝撃を受けたのが模型雑誌ホビージャパンの別冊「HOW TO BUILD GUNDAM」だった。
表紙に大写しになったガンダムの色合いを見て、すぐに「ホンモノの色だ」と思った。それまで赤や青や黄色の原色で塗り分けていた自慢のガンダム模型コレクションが、とたんにちゃちな「オモチャの色」に見えてきた。
この色使いは一体どうやってるんだろう?
子供の私はプラモ制作を通して、徐々に色の「彩度」という概念の門をくぐろうとしていたのだった。