【10月の予定】
諸事情により10月末まで記事更新がどうなるか見通しが立ちません。案外普段通りいくかもしれませんが、あまり投稿できなくなるかもしれません。
気長にお付き合いください。
【ロゴ画像変更】
以前、誰もが知っているさる著名ブログで月の舟のことを知りました。
月を見るという、ただそれだけのことなのですが、色々楽しみ方があるものです。
今年の「中秋の名月」は10月3日だそうです。

2009年10月01日
2009年10月03日
中秋の名月2009
今夜は中秋の名月。
毎年この時期の満月の夜には、ある小さな海岸で月をながめるおまつりが開かれる。私も毎年のように遊びに行っているのだが、今年は残念ながら不参加。
そろそろライブが始まって盛り上がり始める時間帯だなあ……
遠くからおまつりのお天気を祈りつつ、昔描いた絵を一枚アップ。

当ブログにはお月様に関する記事がたくさんあります。
秋の夜長のつれづれに、どうぞ。
お月様のおしっこ
月影
つ、つ、つきよだ
月のウサギ
蝕
太陽と月を喰う悪魔
月を喰う悪魔のロゴ画像動画
月のモノガタリあれこれ
深夜の航路
毎年この時期の満月の夜には、ある小さな海岸で月をながめるおまつりが開かれる。私も毎年のように遊びに行っているのだが、今年は残念ながら不参加。
そろそろライブが始まって盛り上がり始める時間帯だなあ……
遠くからおまつりのお天気を祈りつつ、昔描いた絵を一枚アップ。

『二人の月』(アクリル)
当ブログにはお月様に関する記事がたくさんあります。
秋の夜長のつれづれに、どうぞ。
お月様のおしっこ
月影
つ、つ、つきよだ
月のウサギ
蝕
太陽と月を喰う悪魔
月を喰う悪魔のロゴ画像動画
月のモノガタリあれこれ
深夜の航路
2009年10月04日
雑賀衆に関する参考図書3
雑賀衆の在り方を考えるとき、「寺内町」という概念は避けて通れない。
寺内町は「じないまち」または「じないちょう」と読む。中世では特に本願寺の寺院を中心とした寺内町が栄えたという。
本願寺の寺内町の多くは川の中州のような土地に作られた。そうした土地は参考図書2で紹介したように、縁に縛られた農村社会から外れ、市場経済や都市生活が芽生え始めた所だった。
河原や中洲では農耕民以外の様々な民衆、海の民・山の民・職能民・芸能民が集い、新たな勢力となりつつあった。蓮如の再興した本願寺の信仰は、それまでの仏教が救いの手を差し伸べなかった、そうした様々な民衆に対しても開かれており、寺とそれを支える民が一蓮托生の関係で力を合わせて寺内町が形成されていった。
本願寺の寺内町のうち、戦国時代に最大規模を誇ったのが大坂の石山本願寺であり、今の大阪城跡地がほぼ所在地と重なる。後の「城下町」の中には、本願寺の寺内町が解体された後、それに覆いかぶさるようにして形成されたものが多数ある。
城下町はあくまで城に住まう武士階級を中心とした構造で、一度戦争が起これば周囲の町は即切り捨てられる発想で形成されている。これに対して寺内町は、町全体を外堀や水路で囲み、中心にある寺と一蓮托生で自衛措置がとらている。そして、各地の寺内町と水路によって繋がれた強力なネットワークがその力の源泉であった。
●「宗教都市と前衛都市」五木寛之(五木寛之こころの新書)
寺内町について専門書以外で平易な解説をしている本は数少ないが、これはそんな本の中の一冊。「大阪」という都市の成り立ちについて、過去に存在し、今は埋没してしまった石山本願寺の寺内町を切り口に、縦横に語っている。
●「辺界の輝き」五木寛之/沖浦和光(五木寛之 こころの新書)
参考図書2で紹介した沖浦和光「瀬戸内の民俗誌」と、上掲の五木寛之の著書を繋ぐ一冊。
二冊とも「雑賀衆」について直接触れた本ではないが、その存在を念頭において読むと、理解できることが多い。
雑賀衆の本拠地の紀ノ川河口部には相当な規模の寺内町が形成されていた。「雑賀孫市」率いる雑賀衆が、織田信長と本願寺による戦国最大の戦い・石山合戦において、本願寺方の主力部隊であった史実がある。
石山合戦は中世一向一揆の最後を飾る大戦争であった。一般に「一向一揆」と言うと「南無阿弥陀仏」の六字名号の筵旗を掲げた農民たちが、農具を武器に、死を恐れない一種の「狂信的」な信仰に支えられて領主に反抗し、時には追い出した、と言うようなイメージがある。
特に、戦国武将の中では人気の高い織田信長側の視点からの作品では、そのように描かれがちではある。
しかし実際の一向一揆は農民だけでなく、武士や職能民、芸能民、海の民や山の民たちが、本願寺の信仰により身分を超えた「同朋」として一致協力し、自治を勝ち取る戦いを繰り広げたものだった。
そこには「当時としては」という限定はつくものの、精神の解放や生き方の自由があったはずで、だからこそ一揆に参加した人々は死をも恐れぬ戦いができたのだろう。
利にさとい傭兵集団の雑賀鉄砲衆が、石山合戦に際しては採算度外視で多大な貢献をしたことを考えるとき、その動機が単純な「信仰」だけでは説明がつきづらく感じる。
雑賀衆が守ろうとしたのは、様々な民衆が集い、身分に関係なく実力次第で存分に活躍できた、「当時としては」先進的な寺内町の「自治・自由」だったのではないだろうか。
寺内町は「じないまち」または「じないちょう」と読む。中世では特に本願寺の寺院を中心とした寺内町が栄えたという。
本願寺の寺内町の多くは川の中州のような土地に作られた。そうした土地は参考図書2で紹介したように、縁に縛られた農村社会から外れ、市場経済や都市生活が芽生え始めた所だった。
河原や中洲では農耕民以外の様々な民衆、海の民・山の民・職能民・芸能民が集い、新たな勢力となりつつあった。蓮如の再興した本願寺の信仰は、それまでの仏教が救いの手を差し伸べなかった、そうした様々な民衆に対しても開かれており、寺とそれを支える民が一蓮托生の関係で力を合わせて寺内町が形成されていった。
本願寺の寺内町のうち、戦国時代に最大規模を誇ったのが大坂の石山本願寺であり、今の大阪城跡地がほぼ所在地と重なる。後の「城下町」の中には、本願寺の寺内町が解体された後、それに覆いかぶさるようにして形成されたものが多数ある。
城下町はあくまで城に住まう武士階級を中心とした構造で、一度戦争が起これば周囲の町は即切り捨てられる発想で形成されている。これに対して寺内町は、町全体を外堀や水路で囲み、中心にある寺と一蓮托生で自衛措置がとらている。そして、各地の寺内町と水路によって繋がれた強力なネットワークがその力の源泉であった。
●「宗教都市と前衛都市」五木寛之(五木寛之こころの新書)
寺内町について専門書以外で平易な解説をしている本は数少ないが、これはそんな本の中の一冊。「大阪」という都市の成り立ちについて、過去に存在し、今は埋没してしまった石山本願寺の寺内町を切り口に、縦横に語っている。
●「辺界の輝き」五木寛之/沖浦和光(五木寛之 こころの新書)
参考図書2で紹介した沖浦和光「瀬戸内の民俗誌」と、上掲の五木寛之の著書を繋ぐ一冊。
二冊とも「雑賀衆」について直接触れた本ではないが、その存在を念頭において読むと、理解できることが多い。
雑賀衆の本拠地の紀ノ川河口部には相当な規模の寺内町が形成されていた。「雑賀孫市」率いる雑賀衆が、織田信長と本願寺による戦国最大の戦い・石山合戦において、本願寺方の主力部隊であった史実がある。
石山合戦は中世一向一揆の最後を飾る大戦争であった。一般に「一向一揆」と言うと「南無阿弥陀仏」の六字名号の筵旗を掲げた農民たちが、農具を武器に、死を恐れない一種の「狂信的」な信仰に支えられて領主に反抗し、時には追い出した、と言うようなイメージがある。
特に、戦国武将の中では人気の高い織田信長側の視点からの作品では、そのように描かれがちではある。
しかし実際の一向一揆は農民だけでなく、武士や職能民、芸能民、海の民や山の民たちが、本願寺の信仰により身分を超えた「同朋」として一致協力し、自治を勝ち取る戦いを繰り広げたものだった。
そこには「当時としては」という限定はつくものの、精神の解放や生き方の自由があったはずで、だからこそ一揆に参加した人々は死をも恐れぬ戦いができたのだろう。
利にさとい傭兵集団の雑賀鉄砲衆が、石山合戦に際しては採算度外視で多大な貢献をしたことを考えるとき、その動機が単純な「信仰」だけでは説明がつきづらく感じる。
雑賀衆が守ろうとしたのは、様々な民衆が集い、身分に関係なく実力次第で存分に活躍できた、「当時としては」先進的な寺内町の「自治・自由」だったのではないだろうか。
2009年10月05日
雑賀衆に関する参考図書4
雑賀衆という特異な集団を通して戦国史を見直すと、通説とは違った様相が見えてくる。
織田信長と本願寺教団との間に勃発した戦国最大の戦、石山合戦において、雑賀鉄砲衆は本願寺方の主力部隊として活躍した。単に「活躍した」と言うだけでなく、強大な信長軍を卓越した鉄砲戦術で翻弄し、石山合戦を十年間に及ばせて、信長の天下布武のスケジュールを大幅に遅らせた。
信長といえば先進的な鉄砲戦術や楽市楽座で知られるが、鉄砲戦術においては紀州の雑賀・根来衆の方が本家であり、信長はついにそのレベルには至らなかった。楽市楽座についても信長のオリジナルではなく、本願寺の寺内町でも既に同様の経済活動が行われていた。
石山合戦は信長が本願寺へ大坂寺内町からの退去を命じたことに端を発するが、その動機は本願寺寺内町の地の利や経済的な優位、雑賀衆の軍事力を、信仰から切り離した形で我が物にしたかったからではないかと考えられる。
結局、石山合戦は一応信長の勝利に終るのだが、その後の本願寺教団は東西分裂状態になりながらも、日本最大の宗教勢力として江戸時代から現代まで続くことになる。
これは本当に信長の勝利だったのだろうか?
石山合戦から江戸時代に至る過程で本願寺が得たものと失ったものを考えることが、石山合戦とは何だったのかを知ることに繋がる。
●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館 歴史文化セレクション)
信長と一向宗の戦いについては、ある程度「通説」めいたイメージが存在する。「一向宗は顕如を絶対的な教主と仰ぎ、その号令一下死をも恐れず戦う熱狂的な集団であった」「信長は一向宗を徹底的に殲滅し、石山合戦に勝利した」などなど。
この本はそうした通説の一つ一つについて、丁寧に史料を紹介しつつその実態を解き明かしてくれる。
中でも「一向宗」と呼ばれる集団が必ずしも本願寺教団とイコールでは無く、一応本願寺の名の下に結集してはいるが、山伏や琵琶法師などかなり雑多な集団を抱えていたことや、顕如が必ずしも「絶対的な君主」ではなく、教団内の力のバランスの上に乗った象徴的なリーダーだったらしいことなど、意外な印象を受けた。
●「第六天魔王信長―織田信長と異形の守護神」藤巻一保(学研M文庫)
織田信長と言えば戦国随一の合理主義者であり、無神論者であるかのような印象がある。しかし実際には様々な異形の神を勧請したり、「第六天魔王」を名乗ったりと、必ずしも無神論から仏教教団を攻撃し続けたのではないことが分かってくる。
著者は中世の秘教的な神仏の研究者であり、安倍晴明関連の著作でも知られているが、本質的には「作家」だろう。丁寧に材料を集めた後、独自に想像の翼を広げる所に真骨頂がある。
この本の中には安土城について「これは須弥山を模しているのではないか」という説が提示されているが、物語としては十分「有り」であると思わせてくれる材料を示してあり、興味深い。
信長は大坂石山本願寺の寺内町を欲したがなかなか果たせず、理想の都市計画は安土城の方で実現されることになる。
信長の考案した「天主閣」(天「守」閣ではなく)を持つ城を中心とした城下町構造は、力のある個人をトップにした上下関係で構成される社会を端的に表現している。
これは高層建築を作らず、次々と同じ構造の町を増やしていくことでネットワークを広げていく本願寺の寺内町の在り方と好対照に見える。
須弥山上空から欲界を見下ろす第六天魔王を名乗った信長が垂直構造の都市計画を作り、西方極楽浄土の阿弥陀仏を信仰する本願寺教団が水平方向に伸びていくネットワークを作ったのは興味深い対比だ。
織田信長と本願寺教団との間に勃発した戦国最大の戦、石山合戦において、雑賀鉄砲衆は本願寺方の主力部隊として活躍した。単に「活躍した」と言うだけでなく、強大な信長軍を卓越した鉄砲戦術で翻弄し、石山合戦を十年間に及ばせて、信長の天下布武のスケジュールを大幅に遅らせた。
信長といえば先進的な鉄砲戦術や楽市楽座で知られるが、鉄砲戦術においては紀州の雑賀・根来衆の方が本家であり、信長はついにそのレベルには至らなかった。楽市楽座についても信長のオリジナルではなく、本願寺の寺内町でも既に同様の経済活動が行われていた。
石山合戦は信長が本願寺へ大坂寺内町からの退去を命じたことに端を発するが、その動機は本願寺寺内町の地の利や経済的な優位、雑賀衆の軍事力を、信仰から切り離した形で我が物にしたかったからではないかと考えられる。
結局、石山合戦は一応信長の勝利に終るのだが、その後の本願寺教団は東西分裂状態になりながらも、日本最大の宗教勢力として江戸時代から現代まで続くことになる。
これは本当に信長の勝利だったのだろうか?
石山合戦から江戸時代に至る過程で本願寺が得たものと失ったものを考えることが、石山合戦とは何だったのかを知ることに繋がる。
●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館 歴史文化セレクション)
信長と一向宗の戦いについては、ある程度「通説」めいたイメージが存在する。「一向宗は顕如を絶対的な教主と仰ぎ、その号令一下死をも恐れず戦う熱狂的な集団であった」「信長は一向宗を徹底的に殲滅し、石山合戦に勝利した」などなど。
この本はそうした通説の一つ一つについて、丁寧に史料を紹介しつつその実態を解き明かしてくれる。
中でも「一向宗」と呼ばれる集団が必ずしも本願寺教団とイコールでは無く、一応本願寺の名の下に結集してはいるが、山伏や琵琶法師などかなり雑多な集団を抱えていたことや、顕如が必ずしも「絶対的な君主」ではなく、教団内の力のバランスの上に乗った象徴的なリーダーだったらしいことなど、意外な印象を受けた。
●「第六天魔王信長―織田信長と異形の守護神」藤巻一保(学研M文庫)
織田信長と言えば戦国随一の合理主義者であり、無神論者であるかのような印象がある。しかし実際には様々な異形の神を勧請したり、「第六天魔王」を名乗ったりと、必ずしも無神論から仏教教団を攻撃し続けたのではないことが分かってくる。
著者は中世の秘教的な神仏の研究者であり、安倍晴明関連の著作でも知られているが、本質的には「作家」だろう。丁寧に材料を集めた後、独自に想像の翼を広げる所に真骨頂がある。
この本の中には安土城について「これは須弥山を模しているのではないか」という説が提示されているが、物語としては十分「有り」であると思わせてくれる材料を示してあり、興味深い。
信長は大坂石山本願寺の寺内町を欲したがなかなか果たせず、理想の都市計画は安土城の方で実現されることになる。
信長の考案した「天主閣」(天「守」閣ではなく)を持つ城を中心とした城下町構造は、力のある個人をトップにした上下関係で構成される社会を端的に表現している。
これは高層建築を作らず、次々と同じ構造の町を増やしていくことでネットワークを広げていく本願寺の寺内町の在り方と好対照に見える。
須弥山上空から欲界を見下ろす第六天魔王を名乗った信長が垂直構造の都市計画を作り、西方極楽浄土の阿弥陀仏を信仰する本願寺教団が水平方向に伸びていくネットワークを作ったのは興味深い対比だ。
2009年10月11日
雑賀衆に関する映像作品
雑賀衆に関する映像作品を探してみた。
戦国時代の中ではマイナーな「雑賀衆」なので、映像作品を探すとなると、つまりは司馬遼太郎「尻啖え孫市」の実写版を探すことになる。
私が見つけられたのは以下の二作品。「信長の映画に脇役として少し出ている」という程度なら他にもあるだろう。
●NHK大河ドラマ「国盗り物語」総集編
司馬遼太郎の戦国小説作品「国盗り物語」「新史太閤記」「功名が辻」「尻啖え孫市」などなどをシャッフルして一遍の華やかな戦国絵巻に仕立て上げた1973年のNHK大河。
私はリアルタイムでは見ておらず、総集編を二本組のビデオで見ただけなのだが、あまりの面白さにびっくりした。全編見てみたいのだがDVD・BOX等では発売されていないらしい。
実質の主人公は若き日の高橋英樹演ずる織田信長だが、これまた若き日の林隆三演ずる雑賀孫市も、大活躍を見せてくれる。林隆三の孫市は「尻啖え孫市」の愛読者のほぼ全員が膝を打って「そう! これこれ! 小説に出てくる孫市はこんな感じ!」と喜んだのではないだろうか。
限られた尺の総集編後編の中で、「尻啖え孫市」の名シーンである「信長の御前での鉄砲演武」や「藤吉郎とのしんがり共闘」「雑賀川の決戦」や「雑賀踊り」などが収録されており、特に「鉄砲演武」や「雑賀踊り」でふてぶてしく舞い踊る孫市はカッコ良過ぎる!
総集編ですらこれだけ見せ場が多いことから考えると、ドラマ全編から「孫市」に関する部分だけを抽出して編集しなおしたら、立派な二時間映画版「尻啖え孫市」が出来上がるのではないだろうか?
孫市率いる雑賀鉄砲隊が「雑賀鉢」を被っていないのはやや残念だが、朱塗りの提灯兜で統一された百戦錬磨の鉄砲衆の描写は、これはこれで中々存在感がある。
小説「尻啖え孫市」愛読者は必見!
●「尻啖え孫市」
こちらは中村錦之助が「孫市」を演ずる1969年大映作品。
年代的に私はスクリーンはもちろん、ビデオやDVDですら観ておらず、実は一年ほど前にYouTubeで断片的に観ただけなので、本来はこのように記事で紹介できるほどの資格はない。
そのような前提で敢えて紹介してみると「まあ、つまらない映画ではない」という程度になると思う。
孫市の身につける「白い皮袴」がなんだかジーンズみたいに見えたり、勝新が織田信長を演じていたり、ちょっと微妙に思えるシーンがけっこうあったのだが、さすがに「信長御前の鉄砲演武」は見事だった。
司馬版「孫市」は非常に魅力的な素材なので、実写版で二作品が楽しめることはなんとも嬉しいことだが、そろそろ「鈴木孫一」「本願寺寺内町」「鉄砲戦術」などの史実にこだわった映像作品の登場が待たれるところだ。
戦国時代の中ではマイナーな「雑賀衆」なので、映像作品を探すとなると、つまりは司馬遼太郎「尻啖え孫市」の実写版を探すことになる。
私が見つけられたのは以下の二作品。「信長の映画に脇役として少し出ている」という程度なら他にもあるだろう。
●NHK大河ドラマ「国盗り物語」総集編
司馬遼太郎の戦国小説作品「国盗り物語」「新史太閤記」「功名が辻」「尻啖え孫市」などなどをシャッフルして一遍の華やかな戦国絵巻に仕立て上げた1973年のNHK大河。
私はリアルタイムでは見ておらず、総集編を二本組のビデオで見ただけなのだが、あまりの面白さにびっくりした。全編見てみたいのだがDVD・BOX等では発売されていないらしい。
実質の主人公は若き日の高橋英樹演ずる織田信長だが、これまた若き日の林隆三演ずる雑賀孫市も、大活躍を見せてくれる。林隆三の孫市は「尻啖え孫市」の愛読者のほぼ全員が膝を打って「そう! これこれ! 小説に出てくる孫市はこんな感じ!」と喜んだのではないだろうか。
限られた尺の総集編後編の中で、「尻啖え孫市」の名シーンである「信長の御前での鉄砲演武」や「藤吉郎とのしんがり共闘」「雑賀川の決戦」や「雑賀踊り」などが収録されており、特に「鉄砲演武」や「雑賀踊り」でふてぶてしく舞い踊る孫市はカッコ良過ぎる!
総集編ですらこれだけ見せ場が多いことから考えると、ドラマ全編から「孫市」に関する部分だけを抽出して編集しなおしたら、立派な二時間映画版「尻啖え孫市」が出来上がるのではないだろうか?
孫市率いる雑賀鉄砲隊が「雑賀鉢」を被っていないのはやや残念だが、朱塗りの提灯兜で統一された百戦錬磨の鉄砲衆の描写は、これはこれで中々存在感がある。
小説「尻啖え孫市」愛読者は必見!
●「尻啖え孫市」
こちらは中村錦之助が「孫市」を演ずる1969年大映作品。
年代的に私はスクリーンはもちろん、ビデオやDVDですら観ておらず、実は一年ほど前にYouTubeで断片的に観ただけなので、本来はこのように記事で紹介できるほどの資格はない。
そのような前提で敢えて紹介してみると「まあ、つまらない映画ではない」という程度になると思う。
孫市の身につける「白い皮袴」がなんだかジーンズみたいに見えたり、勝新が織田信長を演じていたり、ちょっと微妙に思えるシーンがけっこうあったのだが、さすがに「信長御前の鉄砲演武」は見事だった。
司馬版「孫市」は非常に魅力的な素材なので、実写版で二作品が楽しめることはなんとも嬉しいことだが、そろそろ「鈴木孫一」「本願寺寺内町」「鉄砲戦術」などの史実にこだわった映像作品の登場が待たれるところだ。
2009年10月17日
その男の名は「孫一」1
一般に「雑賀孫市」という名で知られる戦国時代の人物の実像は、雑賀衆に関する参考図書1で紹介した以下の二冊で知ることができる。
●「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木真哉(平凡社新書)
●「紀州雑賀衆鈴木一族」鈴木真哉(新人物往来社)
上掲二冊によると、本願寺と織田信長の間で争われた石山合戦で活躍し、本願寺方の軍事的リーダーとして信長をてこずらせた実在の「鈴木孫一」は、次のような人物像であるらしい。
・実名は「鈴木重秀」で、通称として「孫一」を名乗っていた。
・紀州雑賀庄の人物だったので「雑賀孫一」または「雑賀孫市」と呼ばれることもあったが、自分では「鈴木孫一」と記していた。
・紀ノ川北岸の「平井」を本拠としていたため「平井孫一」とされることもあった。
・本業はおそらく海運業で、鉄砲隊を率いて傭兵活動も行っていた。
・自身も鉄砲や槍を得意としていたらしい。
・石山合戦には「傭兵」としてではなく「持ち出し」で参加していた。また、後年には「孫一入道」と宛書されたものも残っており、これらは本願寺の信仰を持っていた傍証にはなる。
・生没年は不詳。信長と同年代か、年上にあたるらしい。
・石山合戦後は信長・秀吉に仕え、雑賀の地を離れることになったらしい。
ここまで箇条書きにしただけでも色々と司馬遼太郎「尻啖え孫市」との相違点が出てきている。とくに最後の項目は司馬版「孫市」を愛する者には「?」が浮かぶところだろう。
その疑問点についてはいずれ詳しく触れる。
今回は「孫一」という名前についてあれこれ考えてみたい。
実在の「鈴木孫一」は、特定の支配者を持たず、強固な一枚岩の組織とも言えない「雑賀衆」において、とくに軍事面で実力を認められた存在だった。雑賀庄内だけでなく、戦国当時は広く武名を馳せた一種の「名物男」であったらしい。
石山合戦における対信長の戦ぶりで「孫一」の名はブランド化し、鈴木一族内では「孫一郎」「孫三郎」等々、それにちなんだ名前を名乗るものが出た。その中には当の「孫一」の縁者(兄弟や息子など)もいたらしい。
孫一率いる雑賀鉄砲衆の中には、ちょっと変わった名前の鉄砲名手が多数いたらしい。司馬版「尻啖え孫市」にも描写があるが、「蛍、小雀、下針(さげはり)、鶴首(つるのくび)、発中(はっちゅう)、但中(ただなか)、無二(むに)」といったメンバーだ。
普通に解釈すれば、蛍や小雀や下げた針、鶴の首などを外さず打ち抜いたり、用意した的を寸分たがわず打ち抜く腕前をもっていることを表現したあだ名ということだろう。
もしかしたら演武でそのような「芸」を戯れにやってのけることからついた「芸名」のようなものだったのかもしれない。
こうした「土俗的」とも「そのまま」ともとれる変わった名前は、家柄のはっきりした武士の名とはとても思えない。当時としては比較的身分制の緩い雑賀庄や本願寺寺内町の中で、いかにも「実力だけでのし上がってきた」感じがして興味深い。
ここで「孫一」の名を振り返ってみると、この名も「そのまま」の意味で解釈できるのではないかと想像してみたくなる。
もしかしたら「孫一」の祖父か曽祖父の代あたりに、鈴木一族の中で何らかの理由から敬意を払われた人物がいたのかもしれない。「その人物」の子孫の中で特に輝いた男に付けられたニックネームが「孫一」だったのではないか?
これはあくまで「空想」である(笑)
●「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木真哉(平凡社新書)
●「紀州雑賀衆鈴木一族」鈴木真哉(新人物往来社)
上掲二冊によると、本願寺と織田信長の間で争われた石山合戦で活躍し、本願寺方の軍事的リーダーとして信長をてこずらせた実在の「鈴木孫一」は、次のような人物像であるらしい。
・実名は「鈴木重秀」で、通称として「孫一」を名乗っていた。
・紀州雑賀庄の人物だったので「雑賀孫一」または「雑賀孫市」と呼ばれることもあったが、自分では「鈴木孫一」と記していた。
・紀ノ川北岸の「平井」を本拠としていたため「平井孫一」とされることもあった。
・本業はおそらく海運業で、鉄砲隊を率いて傭兵活動も行っていた。
・自身も鉄砲や槍を得意としていたらしい。
・石山合戦には「傭兵」としてではなく「持ち出し」で参加していた。また、後年には「孫一入道」と宛書されたものも残っており、これらは本願寺の信仰を持っていた傍証にはなる。
・生没年は不詳。信長と同年代か、年上にあたるらしい。
・石山合戦後は信長・秀吉に仕え、雑賀の地を離れることになったらしい。
ここまで箇条書きにしただけでも色々と司馬遼太郎「尻啖え孫市」との相違点が出てきている。とくに最後の項目は司馬版「孫市」を愛する者には「?」が浮かぶところだろう。
その疑問点についてはいずれ詳しく触れる。
今回は「孫一」という名前についてあれこれ考えてみたい。
実在の「鈴木孫一」は、特定の支配者を持たず、強固な一枚岩の組織とも言えない「雑賀衆」において、とくに軍事面で実力を認められた存在だった。雑賀庄内だけでなく、戦国当時は広く武名を馳せた一種の「名物男」であったらしい。
石山合戦における対信長の戦ぶりで「孫一」の名はブランド化し、鈴木一族内では「孫一郎」「孫三郎」等々、それにちなんだ名前を名乗るものが出た。その中には当の「孫一」の縁者(兄弟や息子など)もいたらしい。
孫一率いる雑賀鉄砲衆の中には、ちょっと変わった名前の鉄砲名手が多数いたらしい。司馬版「尻啖え孫市」にも描写があるが、「蛍、小雀、下針(さげはり)、鶴首(つるのくび)、発中(はっちゅう)、但中(ただなか)、無二(むに)」といったメンバーだ。
普通に解釈すれば、蛍や小雀や下げた針、鶴の首などを外さず打ち抜いたり、用意した的を寸分たがわず打ち抜く腕前をもっていることを表現したあだ名ということだろう。
もしかしたら演武でそのような「芸」を戯れにやってのけることからついた「芸名」のようなものだったのかもしれない。
こうした「土俗的」とも「そのまま」ともとれる変わった名前は、家柄のはっきりした武士の名とはとても思えない。当時としては比較的身分制の緩い雑賀庄や本願寺寺内町の中で、いかにも「実力だけでのし上がってきた」感じがして興味深い。
ここで「孫一」の名を振り返ってみると、この名も「そのまま」の意味で解釈できるのではないかと想像してみたくなる。
もしかしたら「孫一」の祖父か曽祖父の代あたりに、鈴木一族の中で何らかの理由から敬意を払われた人物がいたのかもしれない。「その人物」の子孫の中で特に輝いた男に付けられたニックネームが「孫一」だったのではないか?
これはあくまで「空想」である(笑)
(続く)
2009年10月18日
その男の名は「孫一」2
(続き)
司馬遼太郎「尻啖え孫市」で活躍する雑賀孫市は、戦国の世を女性を愛し、唄い、踊りながら駆け抜けたヒーローとして描かれている。
中でも印象的なのは、雑賀合戦において攻め寄せる信長軍を見事撃退した孫市が、足に負傷を追いながらも杖をついて舞い狂ったクライマックスだろう。
この「踊る孫市」というイメージは、おそらく地元の矢宮神社に残る伝承が元になっているのだろう。創作にあたって司馬遼太郎が集めた資料の中には、何か別の「踊る孫市」の元ネタがあったのかもしれないが、それはわからない。
今回雑賀衆について調べていて、ふと気付いたことがある。
名前に「〜大夫」と付く人物が、けっこう多いのだ。鈴木孫一の父と目されることもある鈴木佐大夫や、孫一と並ぶ雑賀衆のリーダーの一人である土橋若大夫など、他にも度々「〜大夫」の名前に出くわす。
この「〜大夫」という名、元々は官位を表現する呼称で、武士の名として珍しいものではないが、中世以降では芸能民や、陰陽師等の民間宗教者の呼称としてよく使用されたものだ。
「それらしき呼称が多い」というだけの理由で「雑賀衆=芸能民である」などと主張するつもりはないが、雑賀衆が本拠地としていた地域の中でも、とくに雑賀川(和歌川)西部は、芸能民が大勢集まっていたとしても不思議はない地域だ。
戦国当時はまだ陸地が形成されて歴史の浅い地域であるし、弥勒寺山や鷺ノ森を中心に本願寺の寺内町が栄えていた。こうした地域は以前の記事で紹介した書籍によれば、農耕民以外の雑多な民衆が集って「市」が開かれる場所であった。
雑賀衆に関する参考図書2
雑賀衆に関する参考図書3
雑賀衆に関する参考図書4
様々な身分のものが集い、本願寺の信仰の元、一応身分差を超えて賑わっていた雑賀衆(とくに西〜北沿岸部)が、芸能民と交流を結び、あるいは婚姻関係を結んでいたとしても不思議は無さそうに思える。
そして芸能民の中でも「琵琶法師」という存在に注目したとき、「孫一」という名や、司馬版「唄い踊る孫市」という人物描写について、ある空想が生まれてくるのだ……
司馬遼太郎「尻啖え孫市」で活躍する雑賀孫市は、戦国の世を女性を愛し、唄い、踊りながら駆け抜けたヒーローとして描かれている。
中でも印象的なのは、雑賀合戦において攻め寄せる信長軍を見事撃退した孫市が、足に負傷を追いながらも杖をついて舞い狂ったクライマックスだろう。
この「踊る孫市」というイメージは、おそらく地元の矢宮神社に残る伝承が元になっているのだろう。創作にあたって司馬遼太郎が集めた資料の中には、何か別の「踊る孫市」の元ネタがあったのかもしれないが、それはわからない。
今回雑賀衆について調べていて、ふと気付いたことがある。
名前に「〜大夫」と付く人物が、けっこう多いのだ。鈴木孫一の父と目されることもある鈴木佐大夫や、孫一と並ぶ雑賀衆のリーダーの一人である土橋若大夫など、他にも度々「〜大夫」の名前に出くわす。
この「〜大夫」という名、元々は官位を表現する呼称で、武士の名として珍しいものではないが、中世以降では芸能民や、陰陽師等の民間宗教者の呼称としてよく使用されたものだ。
「それらしき呼称が多い」というだけの理由で「雑賀衆=芸能民である」などと主張するつもりはないが、雑賀衆が本拠地としていた地域の中でも、とくに雑賀川(和歌川)西部は、芸能民が大勢集まっていたとしても不思議はない地域だ。
戦国当時はまだ陸地が形成されて歴史の浅い地域であるし、弥勒寺山や鷺ノ森を中心に本願寺の寺内町が栄えていた。こうした地域は以前の記事で紹介した書籍によれば、農耕民以外の雑多な民衆が集って「市」が開かれる場所であった。
雑賀衆に関する参考図書2
雑賀衆に関する参考図書3
雑賀衆に関する参考図書4
様々な身分のものが集い、本願寺の信仰の元、一応身分差を超えて賑わっていた雑賀衆(とくに西〜北沿岸部)が、芸能民と交流を結び、あるいは婚姻関係を結んでいたとしても不思議は無さそうに思える。
そして芸能民の中でも「琵琶法師」という存在に注目したとき、「孫一」という名や、司馬版「唄い踊る孫市」という人物描写について、ある空想が生まれてくるのだ……
(続く)
2009年10月25日
その男の名は「孫一」3
(続き)
中世から近世にかけて、盲目の僧が「平家物語」等の軍記物を琵琶の音にのせて語る、「琵琶法師」という芸能があった。その姿は、有名な「耳無し芳一」の物語によく表現されている。
琵琶法師は盲目であるがゆえに「音」に関する特別な感受性を持ち、この世のものならぬ音を聴き、仲介することが出来るとイメージされていたという。「平家物語」も単なる芸能というよりは、浮かばれぬ霊を慰める鎮魂の行為でもあり、また琵琶法師は「地神経」等を唱えて神事を執り行う民間宗教者としての側面も持っていた。
以前一度紹介した本にはそうした琵琶法師という在り方が詳細に解説されている。
●「琵琶法師―“異界”を語る人びと」兵藤裕己(岩波新書)
また、下で紹介する本によると、こうした芸能民であり、民間宗教者でもあった琵琶法師が、中世の本願寺教団に多数出入りしていた記録が残っているという。
●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館 歴史文化セレクション)
浄土真宗や本願寺教団と言えば、一般には「阿弥陀一仏を信仰する一神教的性格を持ち、雑多な呪術的行為を嫌う」と説明される。もちろん開祖・親鸞の説く教義はそうした説明から大きく外れるものではないのだが、中世以降隆盛を誇った「一向宗」という集団の実態は、必ずしも一般に説明されるように「純粋」な信仰だけで固まったものでは無かった。
外側から「一向宗」という言葉で括られる念仏集団の中でも、蓮如が再興した本願寺は、多数の門徒を抱える教団組織で中心的役割を果たした。
本願寺が多数の民衆を結集することが出来たのは、蓮如のある意味「融通無碍」な布教によるところが大きい。
開祖・親鸞の教えを中核に据え、その方向に教導することに力を注ぎながらも、雑多な信仰を持つ民衆や芸能民、民間宗教者を一旦は丸抱えにする在り方が、寺内町の持つエネルギーの源泉になった。
また、親鸞や蓮如自身も「声」「うた」「語り」という、芸能の持つ力を重視しており、多くの「声に出して読む」ための和讃や文章を残している。 そこから考えると、当時の本願寺の法要に多数の琵琶法師が招聘されていた記録があることも、さほど不思議ではなく思える。
ところで、ここで紹介した二冊の本のうちの一冊目「琵琶法師―“異界”を語る人びと」兵藤裕己(岩波新書)によると、中世琵琶法師には、主に三派の流れがあったと言う。
その三派はそれぞれ名前に特徴があり、所属する琵琶法師は名前の中の一字を共有していた。「○一」を名乗る「一方派」、「城○」を名乗る「八坂方派」、「真○」を名乗るもう一つの派が主だった三派を形成していたそうだ。おそらく物語「耳なし芳一」も「○一(〜いち)」の流れを汲む者であったのだろう。
名に「〜いち」を持つということは、「盲目である」というイメージの符丁であったふしもある。これは琵琶法師ではないが「座頭市」というキャラクターは、「座頭」も「いち」も「盲目」ということから繋がる名であるのかもしれない。
ここで思い返すのは「雑賀孫市」「鈴木孫一」と言う名の、我等がヒーローのことである。
これまでの内容を整理してみよう。
・彼の活躍した時代、そして地域は、本願寺寺内町が繁栄を誇っていた。
・本願寺寺内町にはさまざまな民衆、農耕民以外の職能民、芸能民、民間宗教者が集っており、その中には琵琶法師も多数出入りしていた。
・雑賀衆の中には「〜大夫」という芸能民や民間宗教者を思わせる名を持つ者が多数存在した。
・琵琶法師の有力な三派のうち一派は「○一」を名乗っていた。
司馬遼太郎の小説から「雑賀孫市」という人物に興味を持ち、さまざまな資料を読んで拾い集めた断片は以上のようなものであった。
ここからは私の単なる空想であるのだが、「雑賀孫市」「鈴木孫一」という人物は、もしかしたら琵琶法師と縁のある人物ではなかったかと思えてくるのだ。
もちろん戦国最強を誇る雑賀鉄砲衆のリーダーが、盲目の琵琶法師そのものではあり得ないのだが、近縁の親族の中に琵琶法師、とくに「○一」を名乗る一方派の存在があり、それにちなんだ通称が「孫一」だったのではないか?
あるいはその琵琶法師は、「孫一」の祖父の代に居たのではないだろうか?
とりとめもない空想の中、ある情景が浮かんでくる……
凄腕揃いの雑賀鉄砲衆
闇夜に蛍を撃ち落とすもの
庭先ではねまわる小雀を撃ち抜くもの
吊り下げた針に弾を当てて見せるもの
遠くの水辺で休息する鶴の首を撃ち抜くもの
狙った的に二つと穴を開けずに連射するもの
誰もが歌い踊る宴の中で
苦もなくそうした芸をやってのける名手達
そうした郎党の名人芸を
祖父から譲り受けた琵琶を爪弾きながら眺めていた「孫一」
おもむろに立ち上がって真打登場
愛用の鉄砲を受け取り、自分に目隠しをさせてみせる棟梁
鉄砲を換えながら次々と発射される弾丸は
見事違わず的の中心を打ち抜いていく
一同拍手喝采、宴はさらなるたけなわへ……
これは単なる空想である(笑)
中世から近世にかけて、盲目の僧が「平家物語」等の軍記物を琵琶の音にのせて語る、「琵琶法師」という芸能があった。その姿は、有名な「耳無し芳一」の物語によく表現されている。
琵琶法師は盲目であるがゆえに「音」に関する特別な感受性を持ち、この世のものならぬ音を聴き、仲介することが出来るとイメージされていたという。「平家物語」も単なる芸能というよりは、浮かばれぬ霊を慰める鎮魂の行為でもあり、また琵琶法師は「地神経」等を唱えて神事を執り行う民間宗教者としての側面も持っていた。
以前一度紹介した本にはそうした琵琶法師という在り方が詳細に解説されている。
●「琵琶法師―“異界”を語る人びと」兵藤裕己(岩波新書)
また、下で紹介する本によると、こうした芸能民であり、民間宗教者でもあった琵琶法師が、中世の本願寺教団に多数出入りしていた記録が残っているという。
●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館 歴史文化セレクション)
浄土真宗や本願寺教団と言えば、一般には「阿弥陀一仏を信仰する一神教的性格を持ち、雑多な呪術的行為を嫌う」と説明される。もちろん開祖・親鸞の説く教義はそうした説明から大きく外れるものではないのだが、中世以降隆盛を誇った「一向宗」という集団の実態は、必ずしも一般に説明されるように「純粋」な信仰だけで固まったものでは無かった。
外側から「一向宗」という言葉で括られる念仏集団の中でも、蓮如が再興した本願寺は、多数の門徒を抱える教団組織で中心的役割を果たした。
本願寺が多数の民衆を結集することが出来たのは、蓮如のある意味「融通無碍」な布教によるところが大きい。
開祖・親鸞の教えを中核に据え、その方向に教導することに力を注ぎながらも、雑多な信仰を持つ民衆や芸能民、民間宗教者を一旦は丸抱えにする在り方が、寺内町の持つエネルギーの源泉になった。
また、親鸞や蓮如自身も「声」「うた」「語り」という、芸能の持つ力を重視しており、多くの「声に出して読む」ための和讃や文章を残している。 そこから考えると、当時の本願寺の法要に多数の琵琶法師が招聘されていた記録があることも、さほど不思議ではなく思える。
ところで、ここで紹介した二冊の本のうちの一冊目「琵琶法師―“異界”を語る人びと」兵藤裕己(岩波新書)によると、中世琵琶法師には、主に三派の流れがあったと言う。
その三派はそれぞれ名前に特徴があり、所属する琵琶法師は名前の中の一字を共有していた。「○一」を名乗る「一方派」、「城○」を名乗る「八坂方派」、「真○」を名乗るもう一つの派が主だった三派を形成していたそうだ。おそらく物語「耳なし芳一」も「○一(〜いち)」の流れを汲む者であったのだろう。
名に「〜いち」を持つということは、「盲目である」というイメージの符丁であったふしもある。これは琵琶法師ではないが「座頭市」というキャラクターは、「座頭」も「いち」も「盲目」ということから繋がる名であるのかもしれない。
ここで思い返すのは「雑賀孫市」「鈴木孫一」と言う名の、我等がヒーローのことである。
これまでの内容を整理してみよう。
・彼の活躍した時代、そして地域は、本願寺寺内町が繁栄を誇っていた。
・本願寺寺内町にはさまざまな民衆、農耕民以外の職能民、芸能民、民間宗教者が集っており、その中には琵琶法師も多数出入りしていた。
・雑賀衆の中には「〜大夫」という芸能民や民間宗教者を思わせる名を持つ者が多数存在した。
・琵琶法師の有力な三派のうち一派は「○一」を名乗っていた。
司馬遼太郎の小説から「雑賀孫市」という人物に興味を持ち、さまざまな資料を読んで拾い集めた断片は以上のようなものであった。
ここからは私の単なる空想であるのだが、「雑賀孫市」「鈴木孫一」という人物は、もしかしたら琵琶法師と縁のある人物ではなかったかと思えてくるのだ。
もちろん戦国最強を誇る雑賀鉄砲衆のリーダーが、盲目の琵琶法師そのものではあり得ないのだが、近縁の親族の中に琵琶法師、とくに「○一」を名乗る一方派の存在があり、それにちなんだ通称が「孫一」だったのではないか?
あるいはその琵琶法師は、「孫一」の祖父の代に居たのではないだろうか?
とりとめもない空想の中、ある情景が浮かんでくる……
凄腕揃いの雑賀鉄砲衆
闇夜に蛍を撃ち落とすもの
庭先ではねまわる小雀を撃ち抜くもの
吊り下げた針に弾を当てて見せるもの
遠くの水辺で休息する鶴の首を撃ち抜くもの
狙った的に二つと穴を開けずに連射するもの
誰もが歌い踊る宴の中で
苦もなくそうした芸をやってのける名手達
そうした郎党の名人芸を
祖父から譲り受けた琵琶を爪弾きながら眺めていた「孫一」
おもむろに立ち上がって真打登場
愛用の鉄砲を受け取り、自分に目隠しをさせてみせる棟梁
鉄砲を換えながら次々と発射される弾丸は
見事違わず的の中心を打ち抜いていく
一同拍手喝采、宴はさらなるたけなわへ……
これは単なる空想である(笑)
(了)
2009年10月26日
しばし、さらば
超多忙の中、またPC壊れました。
ブログはしばし休息。
11月中旬に復帰予定。
ロゴflashぐらいは月初めに交換できるといいですね……
それではしばし、さらばノシ
ブログはしばし休息。
11月中旬に復帰予定。
ロゴflashぐらいは月初めに交換できるといいですね……
それではしばし、さらばノシ