雑賀衆の在り方を考えるとき、「寺内町」という概念は避けて通れない。
寺内町は「じないまち」または「じないちょう」と読む。中世では特に本願寺の寺院を中心とした寺内町が栄えたという。
本願寺の寺内町の多くは川の中州のような土地に作られた。そうした土地は参考図書2で紹介したように、縁に縛られた農村社会から外れ、市場経済や都市生活が芽生え始めた所だった。
河原や中洲では農耕民以外の様々な民衆、海の民・山の民・職能民・芸能民が集い、新たな勢力となりつつあった。蓮如の再興した本願寺の信仰は、それまでの仏教が救いの手を差し伸べなかった、そうした様々な民衆に対しても開かれており、寺とそれを支える民が一蓮托生の関係で力を合わせて寺内町が形成されていった。
本願寺の寺内町のうち、戦国時代に最大規模を誇ったのが大坂の石山本願寺であり、今の大阪城跡地がほぼ所在地と重なる。後の「城下町」の中には、本願寺の寺内町が解体された後、それに覆いかぶさるようにして形成されたものが多数ある。
城下町はあくまで城に住まう武士階級を中心とした構造で、一度戦争が起これば周囲の町は即切り捨てられる発想で形成されている。これに対して寺内町は、町全体を外堀や水路で囲み、中心にある寺と一蓮托生で自衛措置がとらている。そして、各地の寺内町と水路によって繋がれた強力なネットワークがその力の源泉であった。
●「宗教都市と前衛都市」五木寛之(五木寛之こころの新書)
寺内町について専門書以外で平易な解説をしている本は数少ないが、これはそんな本の中の一冊。「大阪」という都市の成り立ちについて、過去に存在し、今は埋没してしまった石山本願寺の寺内町を切り口に、縦横に語っている。
●「辺界の輝き」五木寛之/沖浦和光(五木寛之 こころの新書)
参考図書2で紹介した沖浦和光「瀬戸内の民俗誌」と、上掲の五木寛之の著書を繋ぐ一冊。
二冊とも「雑賀衆」について直接触れた本ではないが、その存在を念頭において読むと、理解できることが多い。
雑賀衆の本拠地の紀ノ川河口部には相当な規模の寺内町が形成されていた。「雑賀孫市」率いる雑賀衆が、織田信長と本願寺による戦国最大の戦い・石山合戦において、本願寺方の主力部隊であった史実がある。
石山合戦は中世一向一揆の最後を飾る大戦争であった。一般に「一向一揆」と言うと「南無阿弥陀仏」の六字名号の筵旗を掲げた農民たちが、農具を武器に、死を恐れない一種の「狂信的」な信仰に支えられて領主に反抗し、時には追い出した、と言うようなイメージがある。
特に、戦国武将の中では人気の高い織田信長側の視点からの作品では、そのように描かれがちではある。
しかし実際の一向一揆は農民だけでなく、武士や職能民、芸能民、海の民や山の民たちが、本願寺の信仰により身分を超えた「同朋」として一致協力し、自治を勝ち取る戦いを繰り広げたものだった。
そこには「当時としては」という限定はつくものの、精神の解放や生き方の自由があったはずで、だからこそ一揆に参加した人々は死をも恐れぬ戦いができたのだろう。
利にさとい傭兵集団の雑賀鉄砲衆が、石山合戦に際しては採算度外視で多大な貢献をしたことを考えるとき、その動機が単純な「信仰」だけでは説明がつきづらく感じる。
雑賀衆が守ろうとしたのは、様々な民衆が集い、身分に関係なく実力次第で存分に活躍できた、「当時としては」先進的な寺内町の「自治・自由」だったのではないだろうか。