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2009年10月18日

その男の名は「孫一」2

(続き)

 司馬遼太郎「尻啖え孫市」で活躍する雑賀孫市は、戦国の世を女性を愛し、唄い、踊りながら駆け抜けたヒーローとして描かれている。
 中でも印象的なのは、雑賀合戦において攻め寄せる信長軍を見事撃退した孫市が、足に負傷を追いながらも杖をついて舞い狂ったクライマックスだろう。
 この「踊る孫市」というイメージは、おそらく地元の矢宮神社に残る伝承が元になっているのだろう。創作にあたって司馬遼太郎が集めた資料の中には、何か別の「踊る孫市」の元ネタがあったのかもしれないが、それはわからない。

 今回雑賀衆について調べていて、ふと気付いたことがある。
 名前に「〜大夫」と付く人物が、けっこう多いのだ。鈴木孫一の父と目されることもある鈴木佐大夫や、孫一と並ぶ雑賀衆のリーダーの一人である土橋若大夫など、他にも度々「〜大夫」の名前に出くわす。
 この「〜大夫」という名、元々は官位を表現する呼称で、武士の名として珍しいものではないが、中世以降では芸能民や、陰陽師等の民間宗教者の呼称としてよく使用されたものだ。
 「それらしき呼称が多い」というだけの理由で「雑賀衆=芸能民である」などと主張するつもりはないが、雑賀衆が本拠地としていた地域の中でも、とくに雑賀川(和歌川)西部は、芸能民が大勢集まっていたとしても不思議はない地域だ。
 戦国当時はまだ陸地が形成されて歴史の浅い地域であるし、弥勒寺山や鷺ノ森を中心に本願寺の寺内町が栄えていた。こうした地域は以前の記事で紹介した書籍によれば、農耕民以外の雑多な民衆が集って「市」が開かれる場所であった。

 雑賀衆に関する参考図書2
 雑賀衆に関する参考図書3
 雑賀衆に関する参考図書4

 様々な身分のものが集い、本願寺の信仰の元、一応身分差を超えて賑わっていた雑賀衆(とくに西〜北沿岸部)が、芸能民と交流を結び、あるいは婚姻関係を結んでいたとしても不思議は無さそうに思える。
 そして芸能民の中でも「琵琶法師」という存在に注目したとき、「孫一」という名や、司馬版「唄い踊る孫市」という人物描写について、ある空想が生まれてくるのだ……

(続く)
posted by 九郎 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 和歌浦 | 更新情報をチェックする