2009年11月10日
2009年11月16日
2009年11月17日
音遊び「不動明王」
しばらくお休みして復帰後最初の投稿を何にしようかと考えていたのだが、久々に「音遊び」をアップしてみることにした。
不動明王は日本の神仏のうちでも人気の高い仏尊で、お祀りしている寺や行場も多く、様々な図像が造られている。
私も山へ行った折などには辛い道行きの中、何度も石のお不動さんに元気づけられたことがあるし、そうした「行」の場で唱える不動真言は、理屈抜きで「効く」のがはっきりわかる。
不動明王は民間信仰の中にも広がっており、修験者の唱えるものの中には「不動尊祈り経」というちょっと変わった和製のお経まである。
このお経、全体が漢文ではなく和文で構成されている短いもので、お経というよりは祭文に近い。内容も神仏混交で、ぶっちゃけて言えば「かなり怪しい偽経」ということになる。
実際に行者さんが唱えている音源を聴くと、非常にリズミカルでラップみたいにも聞こえるのだが、意味がわかりそうでわからない呪文のような文言には理屈抜きの迫力が感じられ、好きなお経の一つだ。
今回は不動真言〜不動尊祈り経の流れで、私が独自に唱えたものを元に構成してみた。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
【真言〜不動尊祈り経】(4分20秒/mp3ファイル/8MB)
非常に怪しいです! ヘッドフォン推奨!
前半部分の「不動真言」は、以前友ヶ島の岩窟映像に、「祈り経」冒頭の祈願の言葉は縁日組曲「第六天」に使ったことがあるので、お手すきの人はそちらもどうぞ。
不動明王は日本の神仏のうちでも人気の高い仏尊で、お祀りしている寺や行場も多く、様々な図像が造られている。
私も山へ行った折などには辛い道行きの中、何度も石のお不動さんに元気づけられたことがあるし、そうした「行」の場で唱える不動真言は、理屈抜きで「効く」のがはっきりわかる。
不動明王は民間信仰の中にも広がっており、修験者の唱えるものの中には「不動尊祈り経」というちょっと変わった和製のお経まである。
このお経、全体が漢文ではなく和文で構成されている短いもので、お経というよりは祭文に近い。内容も神仏混交で、ぶっちゃけて言えば「かなり怪しい偽経」ということになる。
実際に行者さんが唱えている音源を聴くと、非常にリズミカルでラップみたいにも聞こえるのだが、意味がわかりそうでわからない呪文のような文言には理屈抜きの迫力が感じられ、好きなお経の一つだ。
今回は不動真言〜不動尊祈り経の流れで、私が独自に唱えたものを元に構成してみた。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
【真言〜不動尊祈り経】(4分20秒/mp3ファイル/8MB)
非常に怪しいです! ヘッドフォン推奨!
前半部分の「不動真言」は、以前友ヶ島の岩窟映像に、「祈り経」冒頭の祈願の言葉は縁日組曲「第六天」に使ったことがあるので、お手すきの人はそちらもどうぞ。
2009年11月30日
面授
前回の記事の音遊び「不動明王」で素材にした「不動尊祈り経」は、本来は修験者が師から弟子へと面授で受け継ぎ、行の場で使用するものだが、文字に起こし、実際唱えている音源付きで公開している書籍もある。
●「修験道秘経入門」羽田守快(原書房)
著者は学研の「宗教の本」シリーズにも執筆している行者。この本には「不動尊祈り経」以外にも、なかなか目にする機会のない様々な修験道のお経がCDの音源付きで公開されている。
明治期まではこうした神仏習合の唱え言葉がたくさん残っており、それを駆使する修験者たちが民間のカウンセラーとして広く一般に役割を果たしていた時代もあったのだろう。
今、日常生活の中から行者さんたちは姿を消したが、こうしていまだに現役で使われている唱え言葉の数々が、デジタル音源で残されたことはとても貴重であると思う。
資料として音源が残されたことは喜ばしく、そうした公開があってこそ私も気楽に「音遊び」を楽しむことができているのだが、これはあくまで資料。今後もこうした「行」の在り方が「面授」で伝承される上で、特定の音源が広く公開されたことがどのように影響するか、考えさせられる部分もある。
このカテゴリカミノオトズレの最初の記事を、久々に自分で読み返してみたりした。
●「修験道秘経入門」羽田守快(原書房)
著者は学研の「宗教の本」シリーズにも執筆している行者。この本には「不動尊祈り経」以外にも、なかなか目にする機会のない様々な修験道のお経がCDの音源付きで公開されている。
明治期まではこうした神仏習合の唱え言葉がたくさん残っており、それを駆使する修験者たちが民間のカウンセラーとして広く一般に役割を果たしていた時代もあったのだろう。
今、日常生活の中から行者さんたちは姿を消したが、こうしていまだに現役で使われている唱え言葉の数々が、デジタル音源で残されたことはとても貴重であると思う。
資料として音源が残されたことは喜ばしく、そうした公開があってこそ私も気楽に「音遊び」を楽しむことができているのだが、これはあくまで資料。今後もこうした「行」の在り方が「面授」で伝承される上で、特定の音源が広く公開されたことがどのように影響するか、考えさせられる部分もある。
このカテゴリカミノオトズレの最初の記事を、久々に自分で読み返してみたりした。