新年明けましておめでとうございます。
本年も「縁日草子」をよろしくお願いいたします。
私にとっての2009年はまさに激動の一年でした。
まだ詳しくは書けないのですが、ブログと現実の活動が微妙に工作し始めたり……
2010年、まだまだ面白くなりそうです!
【2010年1月の予定】
引き続き、雑賀衆についての基礎勉強を続けながら、小ネタをはさみつつ進めていきます。
【ロゴ画像変更】
今年は寅年。
道教思想では東西南北の四方にそれぞれ聖獣をあてており、西の方角が「白虎」に相当します。
詳しくはこちら
2010年01月01日
2010年01月04日
年末年始の風景
今度の年末年始はバタバタしつつも余暇を楽しんでいました。
テレビでM-1を観て、笑い飯の「鳥人」のネタで笑い死にそうになり、「ああ、2009年で一番笑ったなあ」と思っていたら、大晦日にたまたま紅白を覗いたときに映っていたのが「巨大小林幸子」で、不覚にも「鳥人」より笑ってしまいました。
全く関係ないんですが、年末に「シイタケ栽培セット」と言うものをもらったので育ててみました。解説書どおりに設置して二三日たってみると、思わず
と声を上げてしまいました。
わらわらと小さなシイタケが繁茂してくる様子は衝撃だったのですが、どんどん成長して見慣れた大きさになってくると、「美味そう」という食欲がわいて来ました。
最初に生え始めた分はすべて収穫し、美味しくいただきました。
解説書によるともう一回収穫は見込めるようです。
けっこう楽しめます。
もうひとつハマったのが、これ。
●「大人の科学マガジン Vol.26 ミニエレキギター」(学研)
子供の頃、「科学と学習」の愛読者だった私は、この「大人の科学」シリーズのことはずっと気にかかっていました。これまでにも何度か手が伸びかけてなんとか耐えてきたのですが、暮れに本屋で「ミニエレキ」を見つけたときはついつい買ってしまいました。
さっそく組み立てて音を出してみると、信じがたいことに「ちゃんとエレキの音」が鳴るではありませんか!
構造上、どうしても音程が甘くなるのはご愛嬌、かなり遊べます。
音遊びにも使ってみたいなあ……
年末に買ったのがこの本。
●「親鸞上(上)(下) 」五木寛之(講談社)
実は他に目を通さなければならない本が多すぎて、買ったまままだ読んでいません(笑)
しかし、親鸞や蓮如、念仏について幾多の本を出してきたこの作者が、満を持して出したこのタイトル。
面白くないわけがない、いわば「テッパン」なので、ちょっと紹介しておきます。
そんな年末年始でした。
テレビでM-1を観て、笑い飯の「鳥人」のネタで笑い死にそうになり、「ああ、2009年で一番笑ったなあ」と思っていたら、大晦日にたまたま紅白を覗いたときに映っていたのが「巨大小林幸子」で、不覚にも「鳥人」より笑ってしまいました。
全く関係ないんですが、年末に「シイタケ栽培セット」と言うものをもらったので育ててみました。解説書どおりに設置して二三日たってみると、思わず
と声を上げてしまいました。
わらわらと小さなシイタケが繁茂してくる様子は衝撃だったのですが、どんどん成長して見慣れた大きさになってくると、「美味そう」という食欲がわいて来ました。
最初に生え始めた分はすべて収穫し、美味しくいただきました。
解説書によるともう一回収穫は見込めるようです。
けっこう楽しめます。
もうひとつハマったのが、これ。
●「大人の科学マガジン Vol.26 ミニエレキギター」(学研)
子供の頃、「科学と学習」の愛読者だった私は、この「大人の科学」シリーズのことはずっと気にかかっていました。これまでにも何度か手が伸びかけてなんとか耐えてきたのですが、暮れに本屋で「ミニエレキ」を見つけたときはついつい買ってしまいました。
さっそく組み立てて音を出してみると、信じがたいことに「ちゃんとエレキの音」が鳴るではありませんか!
構造上、どうしても音程が甘くなるのはご愛嬌、かなり遊べます。
音遊びにも使ってみたいなあ……
年末に買ったのがこの本。
●「親鸞上(上)(下) 」五木寛之(講談社)
実は他に目を通さなければならない本が多すぎて、買ったまままだ読んでいません(笑)
しかし、親鸞や蓮如、念仏について幾多の本を出してきたこの作者が、満を持して出したこのタイトル。
面白くないわけがない、いわば「テッパン」なので、ちょっと紹介しておきます。
そんな年末年始でした。
2010年01月11日
史料の狭間の物語
雑賀衆を扱った小説をまた一つ、紹介しておく。
●「海の伽耶琴 雑賀鉄砲衆がゆく(上)(下)」神坂次郎(講談社文庫)
雑賀孫市の息子(と設定されている)雑賀孫市郎を主人公にした小説だが、主人公以外の登場人物や、歴史背景の描写が大半を占めている。
戦国〜江戸期に書かれた様々な文献を大量に引用しつつ、その合間合間にストーリーが挿入される構成になっているので、エンターテインメントとして小説を楽しみたい読者にとっては、やや「物語が弱い」と感じられるかもしれないが、雑賀衆やその周辺についてより詳しく知りたいと思う読者には、非常に参考になる。
雑賀衆に関する参考図書1で紹介した鈴木真哉の著書二冊「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」「紀州雑賀衆鈴木一族」は様々な伝承の中から史実として確実なものだけを抽出していく方法を取っていたが、こちらは「過去に語られた雑賀衆」を最大限に集積し、隙間を想像力で埋めていくという方法を取っている。
上巻では「石山合戦」から雑賀衆が崩壊する「太田城水攻め」までが描かれており、孫市の出番も多い。石山合戦以降、雑賀衆が完全に分裂し、孫市が宿敵であるはずの信長・秀吉方に付くという、一見「寝返り」ともとれる史実は、雑賀衆と孫市を愛する多くの人々にとって複雑な思いで受け取られるのだが、この作品内では孫市に代表される沿岸部の「流通業者」と、雑賀内陸部の農業主体の地域との感受性の差が、その後の分裂につながったと分析されており、非常に説得力がある。
下巻では自治崩壊後の雑賀衆が描かれており、ようやく主人公・孫市郎が物語の中心になっていく。秀吉の国内統一、朝鮮出兵に従軍する雑賀鉄砲衆残党が、最後には秀吉に敵対していくところで終幕するのだが、このあたりは「伝承の狭間から立ち上ってきたリアルな夢」と言った趣だ。
著者は和歌山に住み、自身も火縄銃を打つというだけあって、雑賀の言葉や気風、鉄砲戦術の詳細を究めた描写が非常にリアルだ。小説冒頭でいきなり2ページにわたって鉄砲射撃の手順が解説されたり、雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べたりといった描写はこの著者ならではで、雑賀衆に興味を持つ人はそこだけでも一見の価値があるだろう。
現在、新本では見つからないようだが、Amazonでの入手は容易な模様。
●「海の伽耶琴 雑賀鉄砲衆がゆく(上)(下)」神坂次郎(講談社文庫)
雑賀孫市の息子(と設定されている)雑賀孫市郎を主人公にした小説だが、主人公以外の登場人物や、歴史背景の描写が大半を占めている。
戦国〜江戸期に書かれた様々な文献を大量に引用しつつ、その合間合間にストーリーが挿入される構成になっているので、エンターテインメントとして小説を楽しみたい読者にとっては、やや「物語が弱い」と感じられるかもしれないが、雑賀衆やその周辺についてより詳しく知りたいと思う読者には、非常に参考になる。
雑賀衆に関する参考図書1で紹介した鈴木真哉の著書二冊「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」「紀州雑賀衆鈴木一族」は様々な伝承の中から史実として確実なものだけを抽出していく方法を取っていたが、こちらは「過去に語られた雑賀衆」を最大限に集積し、隙間を想像力で埋めていくという方法を取っている。
上巻では「石山合戦」から雑賀衆が崩壊する「太田城水攻め」までが描かれており、孫市の出番も多い。石山合戦以降、雑賀衆が完全に分裂し、孫市が宿敵であるはずの信長・秀吉方に付くという、一見「寝返り」ともとれる史実は、雑賀衆と孫市を愛する多くの人々にとって複雑な思いで受け取られるのだが、この作品内では孫市に代表される沿岸部の「流通業者」と、雑賀内陸部の農業主体の地域との感受性の差が、その後の分裂につながったと分析されており、非常に説得力がある。
下巻では自治崩壊後の雑賀衆が描かれており、ようやく主人公・孫市郎が物語の中心になっていく。秀吉の国内統一、朝鮮出兵に従軍する雑賀鉄砲衆残党が、最後には秀吉に敵対していくところで終幕するのだが、このあたりは「伝承の狭間から立ち上ってきたリアルな夢」と言った趣だ。
著者は和歌山に住み、自身も火縄銃を打つというだけあって、雑賀の言葉や気風、鉄砲戦術の詳細を究めた描写が非常にリアルだ。小説冒頭でいきなり2ページにわたって鉄砲射撃の手順が解説されたり、雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べたりといった描写はこの著者ならではで、雑賀衆に興味を持つ人はそこだけでも一見の価値があるだろう。
現在、新本では見つからないようだが、Amazonでの入手は容易な模様。
2010年01月29日
本願寺側から見た石山合戦
戦国史上で有名な「関ヶ原の戦い」は、「天下分け目」と呼ばれている。後の世から見て、日本の支配が徳川氏にほぼ確定した決戦と位置づけられているからだろう。
しかし視点を変えてみれば、「武家による中央集権」という方向性は既に織田信長の時点で決定的になっており、織田がそのまま続こうが、豊臣や徳川がその座に座ろうが、またはその他であろうが、頭がすげ変わるだけで基本的な支配構造に違いは無かったとも見ることもできる。
群雄割拠の戦国時代を収束に向かわせたのは信長の強烈な個性だったことは間違いないが、信長の戦いの過程で「ありえたかもしれないもう一つの社会構造」を垣間見させてくれるのは、やはり「石山合戦」だったのではないかと感じる。
本願寺の寺内町には、戦国大名が支配する縦型の身分社会とは全く違う原則で動く共同体があった。国境を超え、信仰と生活が一体となり、当時としては身分制が非常にゆるかった本願寺のネットワークが、信長に分断されずにそのまま残っていたとしたら、その後の歴史はまた別の流れになっていたのではないか。
信長物語の1エピソードとしてのみ語られることの多い「石山合戦」だが、視点を変えて本願寺側から見ると、全く違った視界が開けてくる。
以下に「本願寺側から見た石山合戦」についての、読み易い参考図書を紹介しておこう。
●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
戦国随一の人気を誇る織田信長が、専門書から入門書、特集本、創作物語まで数限りなくそろっているのに比べ、「石山合戦」を宿敵であった本願寺側から研究した本は探してみると少なく、入手と通読が容易な入門書としては、この本が良いだろう。
本願寺を支えた戦国大名との婚姻関係や、流通の民や雑賀衆についても相当なページが割かれており、「石山合戦」の本質を「専制体制vs中世的自由」と捉えているところは非常に納得できるし、伊勢長島の門徒衆大量虐殺の詳細には血も凍る思いがする。
とりわけ結びの部分での以下のようなまとめは、「石山合戦」の総括として的を射ていると感じた。
●「大阪城とまち物語―難波宮から砲兵工廠まで」「大阪城とまち物語」刊行委員会
社会科の資料集のような体裁で大阪城の歴史を古代から解説した一冊。石山合戦についても「第2章 大坂本願寺物語」として、簡潔にして詳細に解説されている。
石山合戦のあらすじを理解するには最適。
しかし視点を変えてみれば、「武家による中央集権」という方向性は既に織田信長の時点で決定的になっており、織田がそのまま続こうが、豊臣や徳川がその座に座ろうが、またはその他であろうが、頭がすげ変わるだけで基本的な支配構造に違いは無かったとも見ることもできる。
群雄割拠の戦国時代を収束に向かわせたのは信長の強烈な個性だったことは間違いないが、信長の戦いの過程で「ありえたかもしれないもう一つの社会構造」を垣間見させてくれるのは、やはり「石山合戦」だったのではないかと感じる。
本願寺の寺内町には、戦国大名が支配する縦型の身分社会とは全く違う原則で動く共同体があった。国境を超え、信仰と生活が一体となり、当時としては身分制が非常にゆるかった本願寺のネットワークが、信長に分断されずにそのまま残っていたとしたら、その後の歴史はまた別の流れになっていたのではないか。
信長物語の1エピソードとしてのみ語られることの多い「石山合戦」だが、視点を変えて本願寺側から見ると、全く違った視界が開けてくる。
以下に「本願寺側から見た石山合戦」についての、読み易い参考図書を紹介しておこう。
●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
戦国随一の人気を誇る織田信長が、専門書から入門書、特集本、創作物語まで数限りなくそろっているのに比べ、「石山合戦」を宿敵であった本願寺側から研究した本は探してみると少なく、入手と通読が容易な入門書としては、この本が良いだろう。
本願寺を支えた戦国大名との婚姻関係や、流通の民や雑賀衆についても相当なページが割かれており、「石山合戦」の本質を「専制体制vs中世的自由」と捉えているところは非常に納得できるし、伊勢長島の門徒衆大量虐殺の詳細には血も凍る思いがする。
とりわけ結びの部分での以下のようなまとめは、「石山合戦」の総括として的を射ていると感じた。
いずれにせよ、石山本願寺は紆余曲折を経て、信長の前に屈服して、足かけ十一年に及ぶ合戦に終止符を打った。
それは同時に、中世的自由民の生活の終焉であり、宗教教団が政治に支配・統制される序章となったのである。
本願寺は、自ら内部対立を惹起したことで、やがて東西に分立する原因をつくり、それによって武家の宗教統制と身分制度の受け皿となったのである。
そして、本願寺に協力して信長と、さらに秀吉の支配に最後まで抵抗した門徒衆の一部は、自由な生活形態を奪われ、身分的差別の対象とされるようになったのである。
まさに石山本願寺合戦は、日本の中世と近世を画す大きなエポックとなる戦いであったといえよう。
●「大阪城とまち物語―難波宮から砲兵工廠まで」「大阪城とまち物語」刊行委員会
社会科の資料集のような体裁で大阪城の歴史を古代から解説した一冊。石山合戦についても「第2章 大坂本願寺物語」として、簡潔にして詳細に解説されている。
石山合戦のあらすじを理解するには最適。
2010年01月30日
蓮如の足跡
本願寺中興の蓮如上人は、その後半生を旅と布教に費やした。
雑賀衆の地元にも蓮如の足跡が遺されており、それぞれの場所が門徒の心の拠り所となって、後の石山合戦における雑賀衆の活躍の原動力となった。
●「蓮如 畿内・東海を行く」岡村喜史(国書刊行会)
タイトル通り、畿内・東海における蓮如の足跡をまとめた一冊。史実にとどまらず伝説の類まで網羅してあるのだが、民衆の中に分け入った蓮如の活動を考えるときには、そうした部分も欠かせない。
大坂「石山」本願寺の名の由来や、御坊建設にまつわる物語も多数収録されている。
雑賀衆との関連では以下のような項目が挙げられている。
・蓮如上人が休んだ休腰山(和歌山市永穂)
・行き先を変えた御影(和歌山市鷺森)
・移動する御坊(和歌山市/海南市)
・喜六太夫の帰依(海南市冷水浦)
・蓮如上人休息の地(海南市藤白峠)
上記の「移動する御坊」では、蓮如が築いた紀伊の御坊が、清水・黒江・弥勒山・鷺森と、徐々に北へ移動していく過程が解説されている。
石山合戦の当時は、和歌浦近くの弥勒山あたりが中心地で、その後鷺森が合戦後の顕如を迎え、本山となった。
余談になるが私はずっと以前、熊野古道を辿っている途中、海南市藤白峠を通りかかったときに、「蓮如上人休息の地」で一休みしたことがある。
当時はまだ雑賀衆のことも蓮如上人のことも、ほとんど知識を持っていなかったのだが、木立の間から海にかけての眺めが素晴らしかったので腰を下ろした。
かたわらの石碑を見て「ほう」と思い、休憩ついでに念仏和讃などを唱えてみた。
そのときたまたま発声の加減で、喉の奥から口蓋にかけて不思議な響きが加わるのを感じて、「ああ、これはモンゴルのホーミーの基本かもしれないな」と、何か一つ得た気分になった。
そんな思い出がある。
雑賀衆の地元にも蓮如の足跡が遺されており、それぞれの場所が門徒の心の拠り所となって、後の石山合戦における雑賀衆の活躍の原動力となった。
●「蓮如 畿内・東海を行く」岡村喜史(国書刊行会)
タイトル通り、畿内・東海における蓮如の足跡をまとめた一冊。史実にとどまらず伝説の類まで網羅してあるのだが、民衆の中に分け入った蓮如の活動を考えるときには、そうした部分も欠かせない。
大坂「石山」本願寺の名の由来や、御坊建設にまつわる物語も多数収録されている。
雑賀衆との関連では以下のような項目が挙げられている。
・蓮如上人が休んだ休腰山(和歌山市永穂)
・行き先を変えた御影(和歌山市鷺森)
・移動する御坊(和歌山市/海南市)
・喜六太夫の帰依(海南市冷水浦)
・蓮如上人休息の地(海南市藤白峠)
上記の「移動する御坊」では、蓮如が築いた紀伊の御坊が、清水・黒江・弥勒山・鷺森と、徐々に北へ移動していく過程が解説されている。
石山合戦の当時は、和歌浦近くの弥勒山あたりが中心地で、その後鷺森が合戦後の顕如を迎え、本山となった。
余談になるが私はずっと以前、熊野古道を辿っている途中、海南市藤白峠を通りかかったときに、「蓮如上人休息の地」で一休みしたことがある。
当時はまだ雑賀衆のことも蓮如上人のことも、ほとんど知識を持っていなかったのだが、木立の間から海にかけての眺めが素晴らしかったので腰を下ろした。
かたわらの石碑を見て「ほう」と思い、休憩ついでに念仏和讃などを唱えてみた。
そのときたまたま発声の加減で、喉の奥から口蓋にかけて不思議な響きが加わるのを感じて、「ああ、これはモンゴルのホーミーの基本かもしれないな」と、何か一つ得た気分になった。
そんな思い出がある。
2010年01月31日
蓮如のことば、連鎖することば
雑賀衆の住む地域のうち、とりわけ沿海部にあたる十ヶ郷・雑賀庄は陸地になってから歴史の浅い地域が多く、農耕には適さなかった。
そのため漁業や海運業を生業とする者が多く、特殊な副業として鉄砲隊による傭兵活動も行っていたようだ。
そうした農耕民以外の海山の民は、生業に仏教で禁じられた「殺生」を伴うことが多かった。農業を営み、租税を領主に納める「良民」である農耕民からは蔑視の対象になることが多く、また仏教の救いの対象からも漏れがちだった。
しかし河原や沿岸部には地縁・血縁から一旦離れた商売が行われる「市」が立ち、それは農村から離れた都市生活の始まりでもあり、経済力を武器にした中世的自由民が集っていた。
蓮如が中興した本願寺教団は、率先してそうした自由民に布教し、救いの道をもたらし、生活と信仰が一体となった寺内町のネットワークを築き上げて、戦国の世に一大勢力となっていた。
蓮如が布教に使用した「文(ふみ)」(御文章、御文)の中に、それが端的に表れたものがある。
以下に引用してみよう。
救われない職業の代表として「あきない」「奉公」「猟漁」が挙げてあるが、これは当時の社会通念として蔑視の対象であった身分に、阿弥陀如来への「信」をきっかけとして救いをもたらし、全ての人間に平等をもたらす為の教えだ。
こうした内容の源流は法然、親鸞の言説にも既にあるのだが、蓮如の「文」は蔑視されていた職業をはっきり名指しにすることでより明確に平等を志向していると感じる。
沿海部の雑賀衆は、まさに「あきない」「奉公」「猟漁」を生業とする人々であったので、そうした生き方を肯定し、救いをもたらすこの「文」は力を発揮したはずだ。
また「蓮如上人御一代記聞書」には、蓮如が積極的に門徒同士の会話・コミュニケーションを奨励したと分かる内容がある。
一日の仕事を終えた門徒衆が疲れも厭わず御坊に集い、信仰を深めていったのは、誰もが同じ高さに座して説法を聞き、声を合わせて念仏和讃を唱え、時には飲み食いしながら語らう「楽しさ」があったからに違いない。
そうした雰囲気が、元々の雑賀衆の気質にも合っていたのだろう。
ところで、雅な一騎打ち主体の平安・鎌倉時代に比べ、殺伐とした戦闘ばかりだった印象がある戦国時代だが、まだ「ことば戦い」という慣習も残っていたようだ。
武器による戦闘の前に、互いに大音声で自分達の正当性を述べ合うのが「ことば戦い」なのだが、戦国時代であってもまずは最初に口上を述べ合い、時にはそれだけで勝負が決することもあったという。
本願寺勢力が約百年間の自治を達成したことで有名な、加賀国一向一揆でも守護方と一揆方で激しい舌戦が繰り広げられたという。
日頃の語らいで磨き上げられた一揆衆の「ことば」には、さぞ守護方も苦戦したことだろう。
人気の高い織田信長の視点の物語では、「無知蒙昧な民衆が狂信的なカルトに駆り立てられて戦った」というイメージで描かれることが多い一向一揆だが、いくら中世でもそんな狂信・妄信だけで並み居る戦国大名に対抗できるほどの勢力が成立し、百年の長きにわたって持続するわけがない。
門徒宗には手広く交易を手がける海運業者や、諸国を巡る芸能民も数多く、御坊に集う者は農民も含めて、日々の交流や語らいを通じて、広い視野と相対的には高い知的水準を備えていただろう。
日々の生業に鍛えられた民衆のリアリズムとしっかり結びついていたことが、本願寺教団の強みだったのだろう。
蓮如については、まずはこの本をお勧めしておく。
●「蓮如―聖俗具有の人間像」五木寛之(岩波新書)
そのため漁業や海運業を生業とする者が多く、特殊な副業として鉄砲隊による傭兵活動も行っていたようだ。
そうした農耕民以外の海山の民は、生業に仏教で禁じられた「殺生」を伴うことが多かった。農業を営み、租税を領主に納める「良民」である農耕民からは蔑視の対象になることが多く、また仏教の救いの対象からも漏れがちだった。
しかし河原や沿岸部には地縁・血縁から一旦離れた商売が行われる「市」が立ち、それは農村から離れた都市生活の始まりでもあり、経済力を武器にした中世的自由民が集っていた。
蓮如が中興した本願寺教団は、率先してそうした自由民に布教し、救いの道をもたらし、生活と信仰が一体となった寺内町のネットワークを築き上げて、戦国の世に一大勢力となっていた。
蓮如が布教に使用した「文(ふみ)」(御文章、御文)の中に、それが端的に表れたものがある。
以下に引用してみよう。
一帖の三 猟漁(りょうすなどり)
まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。
このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明三年十二月十八日
救われない職業の代表として「あきない」「奉公」「猟漁」が挙げてあるが、これは当時の社会通念として蔑視の対象であった身分に、阿弥陀如来への「信」をきっかけとして救いをもたらし、全ての人間に平等をもたらす為の教えだ。
こうした内容の源流は法然、親鸞の言説にも既にあるのだが、蓮如の「文」は蔑視されていた職業をはっきり名指しにすることでより明確に平等を志向していると感じる。
沿海部の雑賀衆は、まさに「あきない」「奉公」「猟漁」を生業とする人々であったので、そうした生き方を肯定し、救いをもたらすこの「文」は力を発揮したはずだ。
また「蓮如上人御一代記聞書」には、蓮如が積極的に門徒同士の会話・コミュニケーションを奨励したと分かる内容がある。
蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信・不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。
一日の仕事を終えた門徒衆が疲れも厭わず御坊に集い、信仰を深めていったのは、誰もが同じ高さに座して説法を聞き、声を合わせて念仏和讃を唱え、時には飲み食いしながら語らう「楽しさ」があったからに違いない。
そうした雰囲気が、元々の雑賀衆の気質にも合っていたのだろう。
ところで、雅な一騎打ち主体の平安・鎌倉時代に比べ、殺伐とした戦闘ばかりだった印象がある戦国時代だが、まだ「ことば戦い」という慣習も残っていたようだ。
武器による戦闘の前に、互いに大音声で自分達の正当性を述べ合うのが「ことば戦い」なのだが、戦国時代であってもまずは最初に口上を述べ合い、時にはそれだけで勝負が決することもあったという。
本願寺勢力が約百年間の自治を達成したことで有名な、加賀国一向一揆でも守護方と一揆方で激しい舌戦が繰り広げられたという。
日頃の語らいで磨き上げられた一揆衆の「ことば」には、さぞ守護方も苦戦したことだろう。
人気の高い織田信長の視点の物語では、「無知蒙昧な民衆が狂信的なカルトに駆り立てられて戦った」というイメージで描かれることが多い一向一揆だが、いくら中世でもそんな狂信・妄信だけで並み居る戦国大名に対抗できるほどの勢力が成立し、百年の長きにわたって持続するわけがない。
門徒宗には手広く交易を手がける海運業者や、諸国を巡る芸能民も数多く、御坊に集う者は農民も含めて、日々の交流や語らいを通じて、広い視野と相対的には高い知的水準を備えていただろう。
日々の生業に鍛えられた民衆のリアリズムとしっかり結びついていたことが、本願寺教団の強みだったのだろう。
蓮如については、まずはこの本をお勧めしておく。
●「蓮如―聖俗具有の人間像」五木寛之(岩波新書)