しかし視点を変えてみれば、「武家による中央集権」という方向性は既に織田信長の時点で決定的になっており、織田がそのまま続こうが、豊臣や徳川がその座に座ろうが、またはその他であろうが、頭がすげ変わるだけで基本的な支配構造に違いは無かったとも見ることもできる。
群雄割拠の戦国時代を収束に向かわせたのは信長の強烈な個性だったことは間違いないが、信長の戦いの過程で「ありえたかもしれないもう一つの社会構造」を垣間見させてくれるのは、やはり「石山合戦」だったのではないかと感じる。
本願寺の寺内町には、戦国大名が支配する縦型の身分社会とは全く違う原則で動く共同体があった。国境を超え、信仰と生活が一体となり、当時としては身分制が非常にゆるかった本願寺のネットワークが、信長に分断されずにそのまま残っていたとしたら、その後の歴史はまた別の流れになっていたのではないか。
信長物語の1エピソードとしてのみ語られることの多い「石山合戦」だが、視点を変えて本願寺側から見ると、全く違った視界が開けてくる。
以下に「本願寺側から見た石山合戦」についての、読み易い参考図書を紹介しておこう。
●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
戦国随一の人気を誇る織田信長が、専門書から入門書、特集本、創作物語まで数限りなくそろっているのに比べ、「石山合戦」を宿敵であった本願寺側から研究した本は探してみると少なく、入手と通読が容易な入門書としては、この本が良いだろう。
本願寺を支えた戦国大名との婚姻関係や、流通の民や雑賀衆についても相当なページが割かれており、「石山合戦」の本質を「専制体制vs中世的自由」と捉えているところは非常に納得できるし、伊勢長島の門徒衆大量虐殺の詳細には血も凍る思いがする。
とりわけ結びの部分での以下のようなまとめは、「石山合戦」の総括として的を射ていると感じた。
いずれにせよ、石山本願寺は紆余曲折を経て、信長の前に屈服して、足かけ十一年に及ぶ合戦に終止符を打った。
それは同時に、中世的自由民の生活の終焉であり、宗教教団が政治に支配・統制される序章となったのである。
本願寺は、自ら内部対立を惹起したことで、やがて東西に分立する原因をつくり、それによって武家の宗教統制と身分制度の受け皿となったのである。
そして、本願寺に協力して信長と、さらに秀吉の支配に最後まで抵抗した門徒衆の一部は、自由な生活形態を奪われ、身分的差別の対象とされるようになったのである。
まさに石山本願寺合戦は、日本の中世と近世を画す大きなエポックとなる戦いであったといえよう。
●「大阪城とまち物語―難波宮から砲兵工廠まで」「大阪城とまち物語」刊行委員会
社会科の資料集のような体裁で大阪城の歴史を古代から解説した一冊。石山合戦についても「第2章 大坂本願寺物語」として、簡潔にして詳細に解説されている。
石山合戦のあらすじを理解するには最適。