本願寺中興の蓮如上人は、その後半生を旅と布教に費やした。
雑賀衆の地元にも蓮如の足跡が遺されており、それぞれの場所が門徒の心の拠り所となって、後の石山合戦における雑賀衆の活躍の原動力となった。
●「蓮如 畿内・東海を行く」岡村喜史(国書刊行会)
タイトル通り、畿内・東海における蓮如の足跡をまとめた一冊。史実にとどまらず伝説の類まで網羅してあるのだが、民衆の中に分け入った蓮如の活動を考えるときには、そうした部分も欠かせない。
大坂「石山」本願寺の名の由来や、御坊建設にまつわる物語も多数収録されている。
雑賀衆との関連では以下のような項目が挙げられている。
・蓮如上人が休んだ休腰山(和歌山市永穂)
・行き先を変えた御影(和歌山市鷺森)
・移動する御坊(和歌山市/海南市)
・喜六太夫の帰依(海南市冷水浦)
・蓮如上人休息の地(海南市藤白峠)
上記の「移動する御坊」では、蓮如が築いた紀伊の御坊が、清水・黒江・弥勒山・鷺森と、徐々に北へ移動していく過程が解説されている。
石山合戦の当時は、和歌浦近くの弥勒山あたりが中心地で、その後鷺森が合戦後の顕如を迎え、本山となった。
余談になるが私はずっと以前、熊野古道を辿っている途中、海南市藤白峠を通りかかったときに、「蓮如上人休息の地」で一休みしたことがある。
当時はまだ雑賀衆のことも蓮如上人のことも、ほとんど知識を持っていなかったのだが、木立の間から海にかけての眺めが素晴らしかったので腰を下ろした。
かたわらの石碑を見て「ほう」と思い、休憩ついでに念仏和讃などを唱えてみた。
そのときたまたま発声の加減で、喉の奥から口蓋にかけて不思議な響きが加わるのを感じて、「ああ、これはモンゴルのホーミーの基本かもしれないな」と、何か一つ得た気分になった。
そんな思い出がある。