2010年03月01日

2010年3月の予定

【3月の予定】
 2月中に蓮如上人のことについて、記事を書き始めておきたかったのですが果たせませんでした。
 今後も予定通りにはならないと思いますが、ぼちぼちと……

【ロゴ画像変更】
 3月といえば雛祭。
 雛祭の発祥の一つに「ひとがた」というものがあります。
 紙や木でできた人型に、願いごとや罪穢れを書き付けて、川に流す素朴な神事が、今でも各地の節分行事などに残されているのですが、そうした習俗が雛流しとなり、そのうち精巧な作りの雛人形ができると水に流さなくなって、現在の雛祭になったと考えられています。
 今回はそうした雛祭の発祥をテーマにしてみました。
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2010年03月02日

おりがみ雛人形2010

 2007年から継続して制作している折り雛。
 今年もお目見えです。

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(↑クリックすると画像が大きくなります)

 なんだ去年からちっとも変わってないじゃないか、と思われるかもしれませんが、今年は赤い和紙で雛壇を制作しました。
 将来的に三人官女や五人囃子、左右大臣……と拡張していきたいので、余裕を持たせた三段構成です。

hina2010-02.jpg

(↑クリックすると画像が大きくなります)

 この雛壇は「ポップアップ(popup)」と呼ばれる手法で作ってあります。いわゆる「飛び出す絵本」のシンプルな形式で、カードなどに良く使われます。
 一枚の紙に切り込みを入れて折り曲げてあるだけなので、伸ばしたり完全に畳み込んだりが簡単にできます。
 強度と収納性に優れているのでお勧めです。
 展開図をアップしておきますので、よろしければ適当な大きさに拡大・縮小して、皆さんの折り雛を乗せてみてください。
 私の場合は40cm×46cmの紙で制作し、最上段に7p角の台座の雛人形を二体乗せてあります。

hina2010-03.PNG

(↑クリックすると画像が大きくなります)

 今回は厚手の和紙に糊を含ませ、乾燥させた後、ニスなどの樹脂で更に固めてあります。そこまでしなくても、厚手の紙であれば、折り雛を乗せてしばらくは保つと思います。
 使用する紙の裏面に展開図を書き写し(またはコピーし)、折り線をカッターの背などで切ってしまわないように線引きしておくと、完成させやすいと思います。
 実線が切り取り、破線二種類がそれぞれ山折り、谷折りです。


 おりがみ雛人形に関する記事は、以下にまとめてあります。
 おりがみ雛人形まとめ
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2010年03月03日

おりがみ雛人形参考図書

 おりがみ雛人形の折り方が載っている本についてはこれまでも紹介してきましたので、今回はそれ以外の参考図書をとりあげてみます。



●「お雛さまをたずねて」藤田順子(JTBキャンブックス)
 日本各地の名品雛人形を多数の写真で紹介してあるので、おりがみで制作するときにも非常に参考になります。雛人形は時代や地方ごとに顔立ちや装束が違うので、好みのお手本を探してみましょう。
 雛祭の歴史や薀蓄についても詳しく解説してあります。
 それによるとそもそも雛人形の発祥は、和紙や木で作った「ひとがた」であったとのこと。そこから紙製の立ち雛になり、徐々に今の形に変遷してきたそうです。
 ということは、雛人形を表現するときに、おりがみという手法を使うことは、伝統に沿っていることになりますね。



●「折り紙建築 グリーティングカード集」中沢圭子(彰国社)
 今年の当ブログのお雛様は、ポップアップで作った雛壇に乗せてみました。今回はごく単純なものですが、このポップアップと言う手法も置くが深く楽しいものです。
 いずれ作品をアップしてみます。


 おりがみ雛人形に関する記事でコメントをいただいていたsumakoさんから、素敵な作品の写真を送ってもらいました。sumakoさんのおりがみ雛人形
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2010年03月04日

カテゴリ「蓮如」

 和歌浦の神話的な風景に心惹かれ、当地の戦国ヒーロー・雑賀孫一について考え、孫一率いる雑賀衆と織田信長との死闘・石山合戦について語り続けるうちに、どうしても避けて通れない人物として蓮如に行き当たった。
 現在に至る日本史の流れを、ある意味決定付けたようにさえ思える石山合戦の顛末も、元を辿ればそれよりずっと前の蓮如の活動が生み出したものだ。

 個人的なことを書けば、私は祖父と父が浄土真宗の僧侶をやっている家に生まれた。浄土真宗の、とくに本願寺の流れでは、勤行の中に「阿弥陀経」や、親鸞による「正信偈」「念仏和讃」、蓮如の「御文章」が組み込まれている。私も子供の頃からそれらをよく唱えてきて、体の中に基本的なリズムやメロディーが刻み込まれている。
 中でも蓮如の「御文章」には、他のお経とはちょっと変わったものを、子供心にも感じていた。

 自分のような子供にも結構意味の分かる、なんだかあまりお経らしくない「普通」の言葉。
 不思議な抑揚の、語るような、歌うような言葉。
 これの作者(?)の蓮如さんというのはいったいどんな人なのだろう?

 浄土真宗を開いた親鸞聖人や、そのお師匠に当たる法然上人については、子供向けの解説や漫画などがいくらでもあったのだが、蓮如と言う人物についてはほとんど何の説明も見つからなかった。
 盆暮れに泊まりに行った祖父宅に仏具のカタログが置いてあって、それをパラパラめくっていると、よく知っている阿弥陀像や親鸞聖人の図像とともに、恰幅の良い、たくましい感じのお坊さんの図像が載っていた。
 私が蓮如と言う人の具体的なイメージに触れたのは、それが最初だった。しかしそれ以後は、とくに関心を引くような情報には行き当たらなかった。
 どうやら蓮如には、活字で取り上げられるのがはばかられる、何らかの理由があるのかなという感触を持っていた。そしてそれは日本最大の宗教勢力である本願寺教団を中興したこととも、どこかでつながっていそうな、そんな印象をもっていた。
 
 それからずっと時は流れて、二十代の頃、五木寛之の「日本幻論」という本を読んで、ずっと疑問に思ってきた蓮如のことが、かなりのページを割いて解説されているのを見つけた。
 親鸞の血を引き、親鸞の教えだけを頼りに民衆の中に分け入り、乱世にうずまく民衆のパワーを汲み上げながらも、翻弄された波乱の生涯。
 一読して、もっと続きが読みたくなり、五木寛之の著書の中から蓮如をテーマにしたものをかき集め、読み耽った。

 今回カテゴリ「蓮如」を開始するにあたり、私が蓮如を学ぶスタート地点になった五木寛之の一連の著書について、紹介しておきたいと思う。
 


●「蓮如―聖俗具有の人間像」五木寛之(岩波新書)
●「蓮如―われ深き淵より」五木寛之(中公文庫)
●「蓮如物語」五木寛之(角川文庫)

 そこに描かれるのは、一般的なイメージである、巨大教団を一代で築き上げた乱世の宗教権力者、とは全く違った蓮如像だった。
 情に厚く、優柔不断で、女性を頼りにせずには生きていけない蓮如。
 幼い頃に離別した生母の面影を、いつまでも乞い慕い、探し求める蓮如。
 四十過ぎまで食うや食わず、鳴かず飛ばずの不遇な生活の中、幼子のオムツを洗いながら寸暇を惜しんで親鸞の教えを学び続ける蓮如。
 恵まれず、差別を受けた者に対して、どうしようもなく共感せずにはおれない蓮如。
 そうした蓮如が、戦乱の世に遅咲きながら旋風を巻き起こし、自ら翻弄されていく姿。
 「五木蓮如」と表現されるそうしたアプローチは、実在の蓮如そのものではないかもしれないが、私にとって多くの疑問が解消される、一つの優れた「解釈」だった。
 その後も同じアプローチの蓮如像は、五木寛之の手のよって繰り返し描かれている。



●「宗教都市と前衛都市」 (五木寛之 こころの新書)
●「信仰の共和国・金沢 生と死の結界・大和」(五木寛之 こころの新書)


 まだ蓮如についての私の勉強は始まったばかりだ。
 なかなかまとまった記事にはならず、このカテゴリも断片的なメモの集積になると思うが、よろしくお付き合いを。
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2010年03月05日

蓮如と石山御坊

 織田信長と本願寺による十年戦争「石山合戦」の舞台になったのが、大坂石山本願寺だ。この本山は合戦終結後、火災によって失われ、現存していない。
 所在地も確定はしていないのだが、現在の大阪城のある辺りが、ほぼその場所ではないかと言われている。
 河川に囲まれ、護りに堅く、交通の要地でもあったので、この恵まれた立地を信長がのどから手が出るほど欲したことが、石山合戦の根本原因ではないかと思われる。

 蓮如はその最晩年である82歳のおり、この地に御坊を築き、それが後の本山に発展していったわけなのだが、その経緯について蓮如自身の言葉を確認してみよう。

【蓮如「御文章」四帖第十五通:大坂建立章】
 そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。
それについて、この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすく過し、栄華栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、あはれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざしをはこぶばかりなり。またいささかも世間の人なんども偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において執心のこころをやめて、退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人の御本意にたりぬべきものか。それについて愚老すでに当年は八十四歳まで存命せしむる条不思議なり。まことに当流法義にもあひかなふかのあひだ、本望のいたりこれにすぐべからざるものか。
しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
 明応七年十一月二十一日よりはじめてこれをよみて人々に信をとらすべきものなり。

 
 全体に遺書のようなトーンが漂う内容だ。事実、蓮如はこの文を書いてさほど時をおかず、85歳で亡くなっている。
 いくつか気になる点があるので、以下の参考図書の内容も踏まえながら読んでみよう。


●「蓮如 畿内・東海を行く」岡村喜史(国書刊行会)
●「宗教都市と前衛都市」 (五木寛之 こころの新書)
●「大阪城とまち物語―難波宮から砲兵工廠まで」「大阪城とまち物語」刊行委員会

  まず冒頭部分。

 そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。


 当時の御坊があった大坂上町台地の北端部分は、淀川や大和川などが大阪湾に流れ込む際に複雑に絡み合っており、水路を中心とした交通が発達していた。
 しかし七世紀頃には「難波宮」が存在したその場所も、交通の要地ではありながら、古都の風情は影も形も無く、蓮如の息子のややオーバーな表現によれば「虎狼のすみかなり、家の一もなく畠ばかりなりし所なり」という有様だったようだ。

 伝承によれば、蓮如が堺に行く途中、たまたま四天王寺の法要に参詣したところ、「聖徳太子の使者」と名乗る不思議な童子に導かれて、かの地にたどり着いたという。聖徳太子と言えば、蓮如の祖先にあたる浄土真宗の開祖・親鸞もまた、太子の導きを受けたという伝承がある。
 そしてそこに御坊を立てようとしたところ、土の中から礎石や瓦が大量に出てきたり、井戸を掘ればあっという間に清水がわいて、わずかな期間で坊舎を築くことができたという。後の「石山本願寺」と言う名も、このとき大量に出土した礎石の類にちなんでつけられた名前だという。
 これなどは単なる伝説かもしれないが、あるいは過去に存在した難波宮の遺構となんらかの関係があるのかもしれない。
 
 一代の風雲児であった蓮如の眼には、その土地の過去と未来について、なにごとかありありと見えてくるものがあったのかもしれない。上掲の御文章の中盤部分には、私のような「全て終わった後世の人間」が読んでいて、思わず息を呑むようなことも書かれている。
 
またいささかも世間の人なんども偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において執心のこころをやめて、退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人の御本意にたりぬべきものか。


 自分の死後、子孫である顕如や教如が巻き込まれる石山合戦の顛末を、まるでそのまま予見しているかのような内容である。

蓮如と言えば中世一向一揆の生みの親のようなイメージがあるかもしれないが、実際は門徒の武装蜂起に関しては、抑制の立場に回ることの方が多かった。
 このことはまた、いずれじっくりと検討しなければならないが、十年以上に及ぶ石山合戦を戦い抜いた顕如が、最後の最後には篭城をといて大坂を後にした心情の中に、蓮如のこの御文章があったことは間違いないだろう。


 蓮如上人、なかなか一筋縄では理解できない人物である。
posted by 九郎 at 22:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年03月21日

そろそろ春か

 バタバタしている間に三月も半ばを過ぎてしまいました。
 このような浮世離れしたブログを綴る私にも、否応なく浮世のつとめは存在します(笑)
 先週あたりがピークで、一息ついたので焼き鳥でも買って一杯やるかと店先を覗いていて、鶏の肝焼きに目がとまりました。
 この鶏肝というやつが私は子供の頃から好物で、よく母親が買って帰ってきていたのを思い出したのです。
 実は私、子供の頃は弱視だったのですが、「肝を食べると眼がよくなる」と母親に聞かされて食べているうちに、好きになったようです。
 肝の効果が表れたのかどうか、中高生の頃にはすっかり視力は回復して、人並み以上に見えるようになっていました。
 もちろん肝を食べるだけではなくて、それなりの視力回復訓練も積んできたわけですが、最近雑賀衆に関する本を色々漁っている時、神坂次郎の小説の中に「雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べている」という描写を見つけて、「へ〜、やっぱり肝って眼にいいのかな?」と、昔を思い出してしまいました。
 現在の私はせっかく治った眼を酷使するばかりなので、たまには労わろうと、鶏肝の香ばしい苦みを味わいながら一杯やりました。

 一山越えてあたりを眺める余裕ができると、そこここに春の兆しがありますね。
 私が早春の草花で一番好きなイヌノフグリを見つけました。

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 近所には生えていないのですが、土筆も貰いました。

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 教わった通りに爪先を黒くしながらハカマの部分を取り除いて、茹でてから味付け、玉子でとじると、普通に美味しかったです。



 そういえば今日はお彼岸の中日でしたか。
 かの地では、花が降ったかな?
 また行ってみたいなあ……
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2010年03月28日

縄文と沖縄

 暖かくなったり、また寒くなったりする中、桜がおずおずと咲き始めている。
 桜といえばお花見、お花見といえば当ブログでは縄文なのだが(なぜそうなのかはリンク先を参照)、今年はどうもお花見にかこつけた縄文土器作りができそうにない。
 実は昨年中に引っ越しをして、ちょっと雰囲気的に野焼が難しい地域になってしまったからだ。近所迷惑にならない範囲で方策は追々練っていくとして、今年の「縄文花見」は一回お休み。

 最近の私は下書きから着色まで全部PCで制作することが多くなっているのだが、やはり手書きには愛着があり、たまに小学生の頃使っていたようなシンプルな画材でスケッチを描き、手書きの感覚を蘇らせている。
 先日は「火焔土器」の写真を見ながら割り箸を削ったペンを墨汁につけながらグリグリ描いてみた。水彩絵具で思いつくままに着色しているうちに、沖縄で見た風景が思い出されてならなかった。

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 気根の絡み合ったガジュマルの肌合いや、亜熱帯植物の繁茂したの空気が、縄文土器写真の茶褐色に刻まれた渦巻く文様を通してありありと見えてきたのだ。

 縄文と沖縄については、関連性を指摘する説もいくつか読んだことがあるけれども、今回は絵描きのハシクレが眼と手を通した直感として「縄文人はガジュマルを見たことがあるのではないか?」という閃きがあった。

 今の段階では単なる閃きに過ぎないので、ここに覚書きとして残しておこう。
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2010年03月29日

鉄砲戦術を絵にするということ

 雑賀衆に関する漫画作品の連載が続いている。

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●「雑賀六字の城」(歴史街道増刊「コミック大河」連載)
 連載第三回にして、十七歳の主人公・七郎丸が初の実戦に臨む。戦場は雑賀の地から海路で石山本願寺に向かう途上、敵は織田軍に協力した近江・琵琶湖の水軍。
 主に湖上を主戦場とする織田水軍は、しょせん海戦に慣れた雑賀水軍の敵ではない。百匁筒や焙烙火矢など、雑賀水軍の火器術が圧倒的な強さを見せる。作中でもこうした火器類が、細部はともかく「雰囲気で流す」のではなく、絵としてきちんと描き分ける努力が払われていることは、十分評価されて良い。
 雑賀水軍の圧勝かと思われたその時、漫画版オリジナルの登場人物が颯爽と現れる。髑髏の兜の下に輝く鋭い眼光、鉄砲に長けた雑賀衆すら驚く、遠間からの正確な射撃。鉄砲術にかけては戦国当時、雑賀衆と並び称された、紀州根来からの助っ人である。
 七郎丸は初陣において、いきなり手強いライバルと遭遇することになった。
 根来は地域的には雑賀に近接しているものの、信仰も経済基盤も全く異なる集団で、石山合戦の史実の中でも織田軍に協力的であったことが知られている。
 原作には登場しない漫画的なライバルだが、根来衆であるという設定は、今後の物語の中で史実と矛盾なく活躍させることができるはずなので、読みながら思わず「上手い!」と呟いてしまった(笑)
 原作を尊重しつつ、このぐらいのアレンジは漫画として成功させるためには当然「有り」だろう。
 今後にますます期待!

●「ゴルゴ13」(ビッグコミック連載)
 第500話記念と銘打ち、脚本協力に「逆説の日本史」で知られる井沢元彦を迎え、二号連続で「あのゴルゴ13が火縄銃を使う!」という設定で描かれる物語。
 私は鉄砲の専門ではないのであくまで素人の感想になるが、作中で「火縄銃には不発がない」とされている点、戦国時代に名人とされた狙撃者が、火縄・銃身・火薬の関係でミスを犯していたとされる点は、少し疑問に感じた。
 しかしこうした名のある作品の中で火縄銃が登場するのは、昨今の戦国ブームの盛り上がりを反映しているようで、興味深い。


 戦国時代の鉄砲戦術については不明な点が多く、プロの漫画家のような手練れの皆さんであっても、けっこう悪戦苦闘しているようだ。
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2010年03月30日

雑賀衆についての中間報告

 このカテゴリ和歌浦では、雑賀衆について様々に語ってきました。記事数も今回でちょうど30になりますので、ここまで調べてきた中から、自分なりに意外に思った事柄について、まとめておきます。
 私は専門の研究者でもなんでもなく、また広く一般的な感覚を代表しているわけでもありませんが、雑賀衆について興味を持った皆さんの理解の一助になればと思います。

【忍者ではない】
 まずは基本的なことから。
 古今を問わず、大衆向けの物語作品の中には、雑賀衆を忍者のように扱ったものがけっこうありますし、最近刊行の戦国本の中にもそのように解説しているものもありますが、私の調べた範囲ではどうもそのような事実はなかったようです。
 鉄砲という技能やゲリラ戦術に長け、傭兵活動を行っていた事実はあるので、そのあたりの印象からいわゆる「忍者」と混同されたのかなと思っています。

【石山合戦は傭兵活動ではなかった】
 雑賀衆が鉄砲隊として傭兵活動を行っていたのは事実ですが、それだけを生業としていたわけではなく、漁業や海運業等を手広く営んで莫大な収益を上げていたようで、そうした商売の中の一部門として、傭兵活動も行っていたようです。
 ただ、石山合戦に関しては、本願寺から金で雇われて参戦した訳ではなく、自ら持ち出しで戦っています。石山合戦も雇われ仕事であったように描いている作品もありますので注意です。

【顕如上人は意外と若い】
 漫画等の中で描かれる本願寺のリーダー・顕如上人は、けっこう年配に描かれることが多いようです。これは「偉いお坊さん」「長男・教如との確執」という要素からの先入観からだと思われますが、史実ては石山合戦時の顕如上人は27歳〜37歳で、現代で言えば「青年」でも通用する年齢だったわけです。
 肖像画でも「若々しい二枚目」の姿で描かれていますね。
 ちなみに対信長強硬派の息子・教如は、石山合戦開戦時には12〜3歳で、まだ得度(簡単に言うと僧になること)したばかりだったはずです。多感な時代を戦争の空気の中で過ごした若者が、敗北を認めることに納得できなかったのは、無理のないことだったのかもしれません。

【一向一揆は農民一揆ではない】
 創作作品の中では「信長の敵役」として登場し、「筵旗に南無阿弥陀仏」「竹槍や鋤鍬を振りかざした狂信的な農民集団」という類型で描かれることが多い一向一揆勢力ですが、これははっきりと間違っています。
 当時の一向宗の実態は、本願寺系列の寺を中心とした「寺内町」の国境を越えたネットワークで、農民や武士、とりわけ様々な職能を持つ雑多な民衆が集い、信仰によって一致協力したことが力の源泉でした。
 農具や竹槍を手にした農民だけがいくら熱狂したところで、織田軍の鉄砲の的になって死体の山を築くばかりだったでしょう。強固な経済力や軍事力の裏付けがあったからこそ、信長とがっぷり四つに組み合ったまま、十年以上に及ぶ石山合戦を戦い抜くことができたわけです。

【本願寺に僧兵はいない】
 本願寺は門徒に武装した集団(例えば雑賀衆)を抱えていましたので、比叡山や根来寺のように僧が自ら武装する必要はありませんでした。「本願寺の僧兵」と書いてある資料もありますが、間違いです。

【織田軍の鉄砲隊は戦国最強ではない】
 一般には鉄砲といえば信長、信長といえば鉄砲で、最強の鉄砲隊を抱えたことが信長を天下人に押し上げた要因のように語られることが多いわけですが、これも史実を押さえればすぐに否定できます。
 石山合戦において織田軍は雑賀衆あいてに散々てこずり、業を煮やして雑賀の地を直接攻撃したものの結局滅ぼせず、戦術レベルではどうしても勝てないので最後は政治的決着で石山合戦を終結させざるを得ませんでした。


 参考図書も色々紹介してきましたが、その中から読み易く、入手も容易な三冊を再掲しておきます。



●「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木真哉(平凡社新書)
 雑賀衆全般についてはこの一冊。こちらこちらを参照。
●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
 石山合戦全般についてはこの一冊。こちらを参照。
●「宗教都市と前衛都市」五木寛之(五木寛之こころの新書)
 寺内町についてはこの一冊。こちらを参照。
posted by 九郎 at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 和歌浦 | 更新情報をチェックする