2010年03月04日

カテゴリ「蓮如」

 和歌浦の神話的な風景に心惹かれ、当地の戦国ヒーロー・雑賀孫一について考え、孫一率いる雑賀衆と織田信長との死闘・石山合戦について語り続けるうちに、どうしても避けて通れない人物として蓮如に行き当たった。
 現在に至る日本史の流れを、ある意味決定付けたようにさえ思える石山合戦の顛末も、元を辿ればそれよりずっと前の蓮如の活動が生み出したものだ。

 個人的なことを書けば、私は祖父と父が浄土真宗の僧侶をやっている家に生まれた。浄土真宗の、とくに本願寺の流れでは、勤行の中に「阿弥陀経」や、親鸞による「正信偈」「念仏和讃」、蓮如の「御文章」が組み込まれている。私も子供の頃からそれらをよく唱えてきて、体の中に基本的なリズムやメロディーが刻み込まれている。
 中でも蓮如の「御文章」には、他のお経とはちょっと変わったものを、子供心にも感じていた。

 自分のような子供にも結構意味の分かる、なんだかあまりお経らしくない「普通」の言葉。
 不思議な抑揚の、語るような、歌うような言葉。
 これの作者(?)の蓮如さんというのはいったいどんな人なのだろう?

 浄土真宗を開いた親鸞聖人や、そのお師匠に当たる法然上人については、子供向けの解説や漫画などがいくらでもあったのだが、蓮如と言う人物についてはほとんど何の説明も見つからなかった。
 盆暮れに泊まりに行った祖父宅に仏具のカタログが置いてあって、それをパラパラめくっていると、よく知っている阿弥陀像や親鸞聖人の図像とともに、恰幅の良い、たくましい感じのお坊さんの図像が載っていた。
 私が蓮如と言う人の具体的なイメージに触れたのは、それが最初だった。しかしそれ以後は、とくに関心を引くような情報には行き当たらなかった。
 どうやら蓮如には、活字で取り上げられるのがはばかられる、何らかの理由があるのかなという感触を持っていた。そしてそれは日本最大の宗教勢力である本願寺教団を中興したこととも、どこかでつながっていそうな、そんな印象をもっていた。
 
 それからずっと時は流れて、二十代の頃、五木寛之の「日本幻論」という本を読んで、ずっと疑問に思ってきた蓮如のことが、かなりのページを割いて解説されているのを見つけた。
 親鸞の血を引き、親鸞の教えだけを頼りに民衆の中に分け入り、乱世にうずまく民衆のパワーを汲み上げながらも、翻弄された波乱の生涯。
 一読して、もっと続きが読みたくなり、五木寛之の著書の中から蓮如をテーマにしたものをかき集め、読み耽った。

 今回カテゴリ「蓮如」を開始するにあたり、私が蓮如を学ぶスタート地点になった五木寛之の一連の著書について、紹介しておきたいと思う。
 


●「蓮如―聖俗具有の人間像」五木寛之(岩波新書)
●「蓮如―われ深き淵より」五木寛之(中公文庫)
●「蓮如物語」五木寛之(角川文庫)

 そこに描かれるのは、一般的なイメージである、巨大教団を一代で築き上げた乱世の宗教権力者、とは全く違った蓮如像だった。
 情に厚く、優柔不断で、女性を頼りにせずには生きていけない蓮如。
 幼い頃に離別した生母の面影を、いつまでも乞い慕い、探し求める蓮如。
 四十過ぎまで食うや食わず、鳴かず飛ばずの不遇な生活の中、幼子のオムツを洗いながら寸暇を惜しんで親鸞の教えを学び続ける蓮如。
 恵まれず、差別を受けた者に対して、どうしようもなく共感せずにはおれない蓮如。
 そうした蓮如が、戦乱の世に遅咲きながら旋風を巻き起こし、自ら翻弄されていく姿。
 「五木蓮如」と表現されるそうしたアプローチは、実在の蓮如そのものではないかもしれないが、私にとって多くの疑問が解消される、一つの優れた「解釈」だった。
 その後も同じアプローチの蓮如像は、五木寛之の手のよって繰り返し描かれている。



●「宗教都市と前衛都市」 (五木寛之 こころの新書)
●「信仰の共和国・金沢 生と死の結界・大和」(五木寛之 こころの新書)


 まだ蓮如についての私の勉強は始まったばかりだ。
 なかなかまとまった記事にはならず、このカテゴリも断片的なメモの集積になると思うが、よろしくお付き合いを。
posted by 九郎 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 蓮如 | 更新情報をチェックする