所在地も確定はしていないのだが、現在の大阪城のある辺りが、ほぼその場所ではないかと言われている。
河川に囲まれ、護りに堅く、交通の要地でもあったので、この恵まれた立地を信長がのどから手が出るほど欲したことが、石山合戦の根本原因ではないかと思われる。
蓮如はその最晩年である82歳のおり、この地に御坊を築き、それが後の本山に発展していったわけなのだが、その経緯について蓮如自身の言葉を確認してみよう。
【蓮如「御文章」四帖第十五通:大坂建立章】
そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。
それについて、この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすく過し、栄華栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、あはれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざしをはこぶばかりなり。またいささかも世間の人なんども偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において執心のこころをやめて、退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人の御本意にたりぬべきものか。それについて愚老すでに当年は八十四歳まで存命せしむる条不思議なり。まことに当流法義にもあひかなふかのあひだ、本望のいたりこれにすぐべからざるものか。
しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
明応七年十一月二十一日よりはじめてこれをよみて人々に信をとらすべきものなり。
全体に遺書のようなトーンが漂う内容だ。事実、蓮如はこの文を書いてさほど時をおかず、85歳で亡くなっている。
いくつか気になる点があるので、以下の参考図書の内容も踏まえながら読んでみよう。
●「蓮如 畿内・東海を行く」岡村喜史(国書刊行会)
●「宗教都市と前衛都市」 (五木寛之 こころの新書)
●「大阪城とまち物語―難波宮から砲兵工廠まで」「大阪城とまち物語」刊行委員会
まず冒頭部分。
そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。
当時の御坊があった大坂上町台地の北端部分は、淀川や大和川などが大阪湾に流れ込む際に複雑に絡み合っており、水路を中心とした交通が発達していた。
しかし七世紀頃には「難波宮」が存在したその場所も、交通の要地ではありながら、古都の風情は影も形も無く、蓮如の息子のややオーバーな表現によれば「虎狼のすみかなり、家の一もなく畠ばかりなりし所なり」という有様だったようだ。
伝承によれば、蓮如が堺に行く途中、たまたま四天王寺の法要に参詣したところ、「聖徳太子の使者」と名乗る不思議な童子に導かれて、かの地にたどり着いたという。聖徳太子と言えば、蓮如の祖先にあたる浄土真宗の開祖・親鸞もまた、太子の導きを受けたという伝承がある。
そしてそこに御坊を立てようとしたところ、土の中から礎石や瓦が大量に出てきたり、井戸を掘ればあっという間に清水がわいて、わずかな期間で坊舎を築くことができたという。後の「石山本願寺」と言う名も、このとき大量に出土した礎石の類にちなんでつけられた名前だという。
これなどは単なる伝説かもしれないが、あるいは過去に存在した難波宮の遺構となんらかの関係があるのかもしれない。
一代の風雲児であった蓮如の眼には、その土地の過去と未来について、なにごとかありありと見えてくるものがあったのかもしれない。上掲の御文章の中盤部分には、私のような「全て終わった後世の人間」が読んでいて、思わず息を呑むようなことも書かれている。
またいささかも世間の人なんども偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において執心のこころをやめて、退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人の御本意にたりぬべきものか。
自分の死後、子孫である顕如や教如が巻き込まれる石山合戦の顛末を、まるでそのまま予見しているかのような内容である。
蓮如と言えば中世一向一揆の生みの親のようなイメージがあるかもしれないが、実際は門徒の武装蜂起に関しては、抑制の立場に回ることの方が多かった。
このことはまた、いずれじっくりと検討しなければならないが、十年以上に及ぶ石山合戦を戦い抜いた顕如が、最後の最後には篭城をといて大坂を後にした心情の中に、蓮如のこの御文章があったことは間違いないだろう。
蓮如上人、なかなか一筋縄では理解できない人物である。