このカテゴリ和歌浦では、雑賀衆について様々に語ってきました。記事数も今回でちょうど30になりますので、ここまで調べてきた中から、自分なりに意外に思った事柄について、まとめておきます。
私は専門の研究者でもなんでもなく、また広く一般的な感覚を代表しているわけでもありませんが、雑賀衆について興味を持った皆さんの理解の一助になればと思います。
【忍者ではない】
まずは基本的なことから。
古今を問わず、大衆向けの物語作品の中には、雑賀衆を忍者のように扱ったものがけっこうありますし、最近刊行の戦国本の中にもそのように解説しているものもありますが、私の調べた範囲ではどうもそのような事実はなかったようです。
鉄砲という技能やゲリラ戦術に長け、傭兵活動を行っていた事実はあるので、そのあたりの印象からいわゆる「忍者」と混同されたのかなと思っています。
【石山合戦は傭兵活動ではなかった】
雑賀衆が鉄砲隊として傭兵活動を行っていたのは事実ですが、それだけを生業としていたわけではなく、漁業や海運業等を手広く営んで莫大な収益を上げていたようで、そうした商売の中の一部門として、傭兵活動も行っていたようです。
ただ、石山合戦に関しては、本願寺から金で雇われて参戦した訳ではなく、自ら持ち出しで戦っています。石山合戦も雇われ仕事であったように描いている作品もありますので注意です。
【顕如上人は意外と若い】
漫画等の中で描かれる本願寺のリーダー・顕如上人は、けっこう年配に描かれることが多いようです。これは「偉いお坊さん」「長男・教如との確執」という要素からの先入観からだと思われますが、史実ては石山合戦時の顕如上人は27歳〜37歳で、現代で言えば「青年」でも通用する年齢だったわけです。
肖像画でも「若々しい二枚目」の姿で描かれていますね。
ちなみに対信長強硬派の息子・教如は、石山合戦開戦時には12〜3歳で、まだ得度(簡単に言うと僧になること)したばかりだったはずです。多感な時代を戦争の空気の中で過ごした若者が、敗北を認めることに納得できなかったのは、無理のないことだったのかもしれません。
【一向一揆は農民一揆ではない】
創作作品の中では「信長の敵役」として登場し、「筵旗に南無阿弥陀仏」「竹槍や鋤鍬を振りかざした狂信的な農民集団」という類型で描かれることが多い一向一揆勢力ですが、これははっきりと間違っています。
当時の一向宗の実態は、本願寺系列の寺を中心とした「寺内町」の国境を越えたネットワークで、農民や武士、とりわけ様々な職能を持つ雑多な民衆が集い、信仰によって一致協力したことが力の源泉でした。
農具や竹槍を手にした農民だけがいくら熱狂したところで、織田軍の鉄砲の的になって死体の山を築くばかりだったでしょう。強固な経済力や軍事力の裏付けがあったからこそ、信長とがっぷり四つに組み合ったまま、十年以上に及ぶ石山合戦を戦い抜くことができたわけです。
【本願寺に僧兵はいない】
本願寺は門徒に武装した集団(例えば雑賀衆)を抱えていましたので、比叡山や根来寺のように僧が自ら武装する必要はありませんでした。「本願寺の僧兵」と書いてある資料もありますが、間違いです。
【織田軍の鉄砲隊は戦国最強ではない】
一般には鉄砲といえば信長、信長といえば鉄砲で、最強の鉄砲隊を抱えたことが信長を天下人に押し上げた要因のように語られることが多いわけですが、これも史実を押さえればすぐに否定できます。
石山合戦において織田軍は雑賀衆あいてに散々てこずり、業を煮やして雑賀の地を直接攻撃したものの結局滅ぼせず、戦術レベルではどうしても勝てないので最後は政治的決着で石山合戦を終結させざるを得ませんでした。
参考図書も色々紹介してきましたが、その中から読み易く、入手も容易な三冊を再掲しておきます。
●「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木真哉(平凡社新書)
雑賀衆全般についてはこの一冊。こちらやこちらを参照。
●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
石山合戦全般についてはこの一冊。こちらを参照。
●「宗教都市と前衛都市」五木寛之(五木寛之こころの新書)
寺内町についてはこの一冊。こちらを参照。