【5月の予定】
引き続き、雑賀衆・石山合戦・蓮如に関連した記事を中心に投稿していきます。
鉄砲や海の民。寺内町のことは、調べれば調べるほど面白く、今まで持っていた戦国時代についての既成概念が次々と破壊され、新しい視野が開けてきます。なかなか記事にまとめる時間がとりにくい状況が続いていますが、少しずつでも進めていきたいですね。
もうすぐ端午の節句。毎年紹介してきた「おりがみ かぶと」の記事は、以下のリンクから。
【折り紙 兜 関連記事】
おりがみ兜
おりがみ兜の色々
おりがみ兜の色々2
おりがみ兜の色々3
八咫烏の兜
おりがみ兜の色々4
【ロゴ画像変更】
今月のテーマは「鉄砲」
火縄銃には様々な種類があるのですが、今回は「紀州筒」と呼ばれる種類のものを使ってみました。
戦国時代に実戦で使用された鉄砲はほぼ現存しないと言われており、現在見られるのは江戸期以降のものが中心です。
紀州の雑賀衆が使用した鉄砲についても実際のところは不明なのですが、おそらくこの紀州筒に近いものだったのではないかと思われます。
2010年05月03日
2010年05月12日
意外と「なむあみだぶつ」とは唱えない
私は浄土真宗の家に生まれ、祖父と父が僧侶なのだが、これまで意外と「なむあみだぶつ」とは唱えてこなかった。
もちろん真宗とは普段無縁な一般家庭よりは、勤行に参加した回数ははるかに多いことだろう。しかしそれでも意外と「なむあみだぶつ」とは唱えてこなかった。
単に私が門徒の不熱心な子弟なせいもあるだろう。しかし、少なくとも真宗西本願寺に関して言えば、多くの熱心な門徒の皆さん、毎日朝夕欠かさず勤行をしている皆さんですら、日常的には「なむあみだぶつ」とは唱えていないだろう。
どういうことかというと、勤行に含まれる六字名号「南無阿弥陀仏」は、実際唱える場合には「なむあみだぶつ」とは発音しないのだ。
念仏和讃の中では「なーもあーみだーんぶ」と発音するし、ふり仮名にもそう表記してある。
また、日常唱える場合には、私の知る範囲においては「なまんだぶ」とか「なまんだぶつ」とか唱える場合が多いと思う。
声に出して「なむあみだぶつ」と唱えてみれば誰もがすぐにわかると思うが、「なむあみだぶつ」そのままでは何度も繰り返し唱える場合にけっこう発音しにくく、ストレスがかかる。
繰り返しのリズムやメロディにのせるためには、やはり「なーもあーみだーんぶ」や「なまんだぶ」の方が適しているのだ。
こういうことは門徒にとってはごく当たり前で、不思議に思うこと自体が不思議な感じがするだろうが、逆に門徒以外の人にとっては「真宗門徒は意外と『なむあみだぶつ』とは唱えない」と聞くと、驚く人も多いことだろう。
日本浄土教の念仏は称名念仏なのに、仏さまのお名前をちゃんと呼ばないのはマズいのではないかという疑問も、門徒外の皆さんからは当然起こりうると思う。
しかし、現在日本で「阿弥陀仏」と発音されている仏様の名も、そもそもその仏さまの発祥である昔のインドの発音とは違っているし、もっと言えば十万億土の彼方にある西方極楽浄土の公用語が「地球語」である証拠はどこにもない。
だから発音がどうかということよりも「西方極楽浄土におられるあの仏さま」に対する信心が重要なのであって、それぞれの時代や土地柄に応じて、繰り返し呼びやすいように名前の発音を変化させることは、むしろ慈悲の権化である「あの仏さま」の心に適うことなのかもしれない。
いつごろから今のような発音になったのか、ちょっと確実なところは調べ切れていない。現行の本願寺の勤行スタイルは、蓮如上人の代あたりに確定されたとも伝えられているので、そのくらいまではさかのぼれるかもしれない。
長い間、人々が「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えるうちに、自然に生まれてきた発音であり、抑揚なのだろう。教団がある時点で上から決めたのではなくて、自然に生まれてきたものを採用したものなのだろうという気はする。
このあたり、もう少しちゃんと調べてみたいところだ。
ということで、音遊び「念仏和讃」を新しいバージョンで紹介する。例によって「音遊び」なので真宗の勤行そのままではないが、基本的なメロディラインは踏襲している。
【念仏和讃】(7分/mp3ファイル/12MB)ヘッドフォン推奨!
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
記事中で紹介した「なーもあーみだーんぶ」は4分17秒あたりから、「なまんだぶ」は6分40秒あたりから聴ける。
もちろん真宗とは普段無縁な一般家庭よりは、勤行に参加した回数ははるかに多いことだろう。しかしそれでも意外と「なむあみだぶつ」とは唱えてこなかった。
単に私が門徒の不熱心な子弟なせいもあるだろう。しかし、少なくとも真宗西本願寺に関して言えば、多くの熱心な門徒の皆さん、毎日朝夕欠かさず勤行をしている皆さんですら、日常的には「なむあみだぶつ」とは唱えていないだろう。
どういうことかというと、勤行に含まれる六字名号「南無阿弥陀仏」は、実際唱える場合には「なむあみだぶつ」とは発音しないのだ。
念仏和讃の中では「なーもあーみだーんぶ」と発音するし、ふり仮名にもそう表記してある。
また、日常唱える場合には、私の知る範囲においては「なまんだぶ」とか「なまんだぶつ」とか唱える場合が多いと思う。
声に出して「なむあみだぶつ」と唱えてみれば誰もがすぐにわかると思うが、「なむあみだぶつ」そのままでは何度も繰り返し唱える場合にけっこう発音しにくく、ストレスがかかる。
繰り返しのリズムやメロディにのせるためには、やはり「なーもあーみだーんぶ」や「なまんだぶ」の方が適しているのだ。
こういうことは門徒にとってはごく当たり前で、不思議に思うこと自体が不思議な感じがするだろうが、逆に門徒以外の人にとっては「真宗門徒は意外と『なむあみだぶつ』とは唱えない」と聞くと、驚く人も多いことだろう。
日本浄土教の念仏は称名念仏なのに、仏さまのお名前をちゃんと呼ばないのはマズいのではないかという疑問も、門徒外の皆さんからは当然起こりうると思う。
しかし、現在日本で「阿弥陀仏」と発音されている仏様の名も、そもそもその仏さまの発祥である昔のインドの発音とは違っているし、もっと言えば十万億土の彼方にある西方極楽浄土の公用語が「地球語」である証拠はどこにもない。
だから発音がどうかということよりも「西方極楽浄土におられるあの仏さま」に対する信心が重要なのであって、それぞれの時代や土地柄に応じて、繰り返し呼びやすいように名前の発音を変化させることは、むしろ慈悲の権化である「あの仏さま」の心に適うことなのかもしれない。
いつごろから今のような発音になったのか、ちょっと確実なところは調べ切れていない。現行の本願寺の勤行スタイルは、蓮如上人の代あたりに確定されたとも伝えられているので、そのくらいまではさかのぼれるかもしれない。
長い間、人々が「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えるうちに、自然に生まれてきた発音であり、抑揚なのだろう。教団がある時点で上から決めたのではなくて、自然に生まれてきたものを採用したものなのだろうという気はする。
このあたり、もう少しちゃんと調べてみたいところだ。
ということで、音遊び「念仏和讃」を新しいバージョンで紹介する。例によって「音遊び」なので真宗の勤行そのままではないが、基本的なメロディラインは踏襲している。
【念仏和讃】(7分/mp3ファイル/12MB)ヘッドフォン推奨!
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
記事中で紹介した「なーもあーみだーんぶ」は4分17秒あたりから、「なまんだぶ」は6分40秒あたりから聴ける。
なまんだーぶ……
2010年05月16日
もうすぐアジサイの季節
ふと気付くと、あちこちのお宅の庭先のアジサイが、つぼみを膨らませつつある。
ここ何年間か、曼荼羅みたいに見えるこの花が気になっていて、このブログでも毎年記事にしてきた。
ヤマアジサイ
今年のアジサイ
2008年、今年のアジサイ
アジサイ2009
そうしているうちに、アジサイのイメージと「須弥山」「蓮華蔵」といった仏教の言葉のイメージが結びついて、一枚絵が描けたのでご紹介。
(F10サイズ、アクリル使用)
住居が変わった今年は、どんな花が楽しめるだろうか。
ここ何年間か、曼荼羅みたいに見えるこの花が気になっていて、このブログでも毎年記事にしてきた。
ヤマアジサイ
今年のアジサイ
2008年、今年のアジサイ
アジサイ2009
そうしているうちに、アジサイのイメージと「須弥山」「蓮華蔵」といった仏教の言葉のイメージが結びついて、一枚絵が描けたのでご紹介。
(F10サイズ、アクリル使用)
住居が変わった今年は、どんな花が楽しめるだろうか。
2010年05月27日
フリーマーケットの中世的風景
たまにフリーマーケットに出店している。
売り物は当ブログにアップしているような神仏イラストを、ポストカードやポスターにしたものや、手作りTシャツなどなど。
フリマで売れ筋なのは古着や子供用品リサイクル、フィギュアなどだから、神仏という地味なテーマの私のブースから目立った売り上げが出るわけではない(苦笑)
それでもときにはアジア雑貨を好む層の皆さんが立ち寄って、あれこれ物色してくださったり、描かれている神仏について質問があったりして、出店料+交通費+食費と、さらに小遣い稼ぎくらいにはなり、楽しい時間が過ごせる。
ずっとお客さんがいるわけではないし、怪しげな商品を前にしてじっと座っていると怖いという印象を与えがちで、近づきがたい雰囲気になってくる。
だから客待ちの時間は、適当に絵を描いて過ごすことにしている。
絵を描いていれば道行く人々を睨みつけずに済むし、何をしているのかと興味を持った皆さんが近寄りやすい雰囲気になる。
今回は8号キャンバスに褐色系の色をナイフで塗りたくって下地を作り、その上からポスカ各色でアボリジナルアート風に描いてみた。
昔、TVでオーストラリアの原住民であるアボリジニの人々のアートを紹介していたのを観て以来、ずっと興味を持っていた。
晴れ渡った原野の中、地面の上に直接キャンバスを置き、その傍らにどっしりと座りこんだアボリジニの芸術家。ポタージュスープ状に溶いたアクリル絵の具を空き缶に入れ、木の枝をそれに浸し、褐色の画面に丹念に点描していく様子は、アートというものを物凄く自然に生活の中で実践しているようで感動した。
私が熱心にキャンバスに向かっていると、関心を持った人が一人二人とブースに歩み寄ってくる。そして店頭に置いてあるポストカードのファイルをめくったり、Tシャツを手に取ったり、描いてある神仏について質問してきたり……
フリーマーケットという場は、見知らぬ人々が物の売り買いという一点でつながっている。日常の人間関係や生活感覚から外れた「無縁」の空間だからこそ、浮世離れした神仏絵描きとしての私も、さほどの違和感なくその場にいることができ、私もお客さんもその不思議を楽しむことができる。
これは中世の「市」という場と同質のものだと、ここ一年ほど寺内町の勉強にハマっている私はついつい連想してしまう(笑)
最近、伝統的な地縁血縁の世界から疎外された「無縁社会」の問題が取りざたされるようになってきたが、人生の中で「無縁」という時間を持つことそれ自体は悪いことではない。
問題は互助の「身内の縁」だけが消滅し、それに代わって現れたのが「便利さ・経済性」という名目で、日常の行動も金の流れも常に他者に捕捉されてしまっているという、がんじがらめの息苦しさだけだったということだろう。
フリーマーケットの売り買いは、売る方も買う方も匿名で現金決済が基本だ。その場限りの取引で足もつかず、源泉徴収からも自由だ。(あくまで精神的な自由のオハナシ。念のために書いておくが、別に脱税を勧めているわけではない。フリマでもそれなりに収益が上がるならば、自己責任でちゃんとしましょう!)
何かと息苦しい世の中、「無縁」の世界を楽しむ場があることは、一服の清涼剤になるだろう。
売り物は当ブログにアップしているような神仏イラストを、ポストカードやポスターにしたものや、手作りTシャツなどなど。
フリマで売れ筋なのは古着や子供用品リサイクル、フィギュアなどだから、神仏という地味なテーマの私のブースから目立った売り上げが出るわけではない(苦笑)
それでもときにはアジア雑貨を好む層の皆さんが立ち寄って、あれこれ物色してくださったり、描かれている神仏について質問があったりして、出店料+交通費+食費と、さらに小遣い稼ぎくらいにはなり、楽しい時間が過ごせる。
ずっとお客さんがいるわけではないし、怪しげな商品を前にしてじっと座っていると怖いという印象を与えがちで、近づきがたい雰囲気になってくる。
だから客待ちの時間は、適当に絵を描いて過ごすことにしている。
絵を描いていれば道行く人々を睨みつけずに済むし、何をしているのかと興味を持った皆さんが近寄りやすい雰囲気になる。
今回は8号キャンバスに褐色系の色をナイフで塗りたくって下地を作り、その上からポスカ各色でアボリジナルアート風に描いてみた。
昔、TVでオーストラリアの原住民であるアボリジニの人々のアートを紹介していたのを観て以来、ずっと興味を持っていた。
晴れ渡った原野の中、地面の上に直接キャンバスを置き、その傍らにどっしりと座りこんだアボリジニの芸術家。ポタージュスープ状に溶いたアクリル絵の具を空き缶に入れ、木の枝をそれに浸し、褐色の画面に丹念に点描していく様子は、アートというものを物凄く自然に生活の中で実践しているようで感動した。
私が熱心にキャンバスに向かっていると、関心を持った人が一人二人とブースに歩み寄ってくる。そして店頭に置いてあるポストカードのファイルをめくったり、Tシャツを手に取ったり、描いてある神仏について質問してきたり……
フリーマーケットという場は、見知らぬ人々が物の売り買いという一点でつながっている。日常の人間関係や生活感覚から外れた「無縁」の空間だからこそ、浮世離れした神仏絵描きとしての私も、さほどの違和感なくその場にいることができ、私もお客さんもその不思議を楽しむことができる。
これは中世の「市」という場と同質のものだと、ここ一年ほど寺内町の勉強にハマっている私はついつい連想してしまう(笑)
最近、伝統的な地縁血縁の世界から疎外された「無縁社会」の問題が取りざたされるようになってきたが、人生の中で「無縁」という時間を持つことそれ自体は悪いことではない。
問題は互助の「身内の縁」だけが消滅し、それに代わって現れたのが「便利さ・経済性」という名目で、日常の行動も金の流れも常に他者に捕捉されてしまっているという、がんじがらめの息苦しさだけだったということだろう。
フリーマーケットの売り買いは、売る方も買う方も匿名で現金決済が基本だ。その場限りの取引で足もつかず、源泉徴収からも自由だ。(あくまで精神的な自由のオハナシ。念のために書いておくが、別に脱税を勧めているわけではない。フリマでもそれなりに収益が上がるならば、自己責任でちゃんとしましょう!)
何かと息苦しい世の中、「無縁」の世界を楽しむ場があることは、一服の清涼剤になるだろう。
2010年05月28日
大坂本願寺の風景を求めて
この一年ほど、素人なりに石山合戦関連の資料を探してきた。
まず何をおいても知りたかったのは、舞台になった大坂・石山本願寺の情景だ。(この「石山」という言葉は、合戦当時使われていたものではなく、江戸時代に入ってからの名称であるらしいのだが、ここでは通例に従ってそのまま使用しておくことにする)
ところが、無いのである。
まず、大坂本願寺が隆盛を極めた当時の絵図が見つけられない。当時の絵図がもし存在するのなら、石山合戦を扱った書籍をあたって行けば引用ぐらいはされているはずなのだが、私の探したかぎりでは一枚も見当たらなかった。
強いて言えば「石山合戦絵伝」という、江戸時代に描かれたものがあるにはあるが、史実としての正確さを求められる類のものではない。
大坂本願寺に先行する蓮如の時代からの本願寺の拠点・吉崎御坊の絵図は数種載っているのだが、肝心の大坂本願寺の絵図を例示した資料自体が見つからない。引用された図版すら見つからないのは、以下の1〜3の理由が考えられる。
戦国時代には日本国中の富の大半が集中したとも伝えられ、日本一の境涯、無双の城と称えられた大坂本願寺が、参詣絵図の一枚も描かれなかったと考えるのは極めて不自然なので、まず1は除外されるだろう。
大坂本願寺は一応、現在の大阪城のあたりに建っていたとする説が有力なのだが、はっきりした所在地や寺内町の区割りは諸説あって結論は出ていない。研究者それぞれが全く違った構成の図を発表している。考えてみれば、当時の絵図が非公開であれ一枚でも残っているならば、これほど意見が分かれるはずもなので、やはり「描かれたが現存していない」と考えるのが自然だろう。
それではなぜただの一枚も現存していないのだろうか?
神仏与太話ブログとしては、
「合戦終結後に信長あたりが大坂本願寺に対する崇敬を『根切り』にするため、一か所に集めて焚書したのではないか?」
などと筆を滑らせたくなるところだが、これはあくまで妄想、妄想(笑)
大坂本願寺に関する意見が分かれているため、現代に描かれた復元図の類も様々だ。近年観光の戦国テーマのムック本等に載っている3DCG復元図は、建物は丹念に再現してあるものの、水上交通の要所としての立地や、上町台地北端の見上げるような急峻な斜面、数万人が籠城したという寺内の巨大な規模が表現されていないものが多く、あまり良質とは言えない。
そもそも専門の研究者の皆さんの間ですら意見の分かれているのだから「これぞ決定版」という復元図が出てこないのは仕方がないだろう。
私も自分なりの復元図が描いてみたいので、ぼちぼち資料を集めているところだ。
これまであたった資料の中から、大坂という土地についての読みやすい概論的な書籍を紹介しておこう。
●「難波宮から大坂へ 」(大阪叢書)
古代から戦国時代までの大坂のありようを、それぞれの専門家が紹介してあり、なぜこの地が日本の要所となっていったのかが非常によくわかる一冊。
●「天下統一の城・大坂城」 (新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」)
大阪城がメインテーマの本だが、一章を割いて大坂本願寺に関する諸説を紹介してある。上掲「難波宮から大坂へ」以降、江戸期までの流れが把握できる。
また、大坂本願寺の風景を再現するには、そこに集まる人々の姿も重要になってくる。特に本願寺寺内町には、農民や武士とは違う様々な職能民や芸能民、民間宗教者も集まっていたと考えられ、そうした極めて中世的な人々の行きかう様は、時代劇などで描かれる江戸時代の情景とは全く違ったものだったはずだ。
そうした情景については時代的に近い「洛中洛外図屏風」や「一遍上人聖絵」が参考になるのではないかと思うのだが、ごく最近発行された本に面白そうなものがあったのでご紹介。
●「新発見 豊臣期大坂図屏風」高橋隆博 編集(清文堂)
残念ながら大坂本願寺そのものの絵図を扱った本ではないが、石山合戦から数十年後、豊臣期の大坂城下を詳しく描写した屏風を紹介した一冊。
城下に住む庶民の様子が見易い図版で多数収録してあり、こうした人々の姿は、おそらく時代的に近い本願寺時代とも共通するものだろう。
じわじわ進めていきましょう。。。
まず何をおいても知りたかったのは、舞台になった大坂・石山本願寺の情景だ。(この「石山」という言葉は、合戦当時使われていたものではなく、江戸時代に入ってからの名称であるらしいのだが、ここでは通例に従ってそのまま使用しておくことにする)
ところが、無いのである。
まず、大坂本願寺が隆盛を極めた当時の絵図が見つけられない。当時の絵図がもし存在するのなら、石山合戦を扱った書籍をあたって行けば引用ぐらいはされているはずなのだが、私の探したかぎりでは一枚も見当たらなかった。
強いて言えば「石山合戦絵伝」という、江戸時代に描かれたものがあるにはあるが、史実としての正確さを求められる類のものではない。
大坂本願寺に先行する蓮如の時代からの本願寺の拠点・吉崎御坊の絵図は数種載っているのだが、肝心の大坂本願寺の絵図を例示した資料自体が見つからない。引用された図版すら見つからないのは、以下の1〜3の理由が考えられる。
1、そもそも描かれなかった
2、描かれたが現存しない
3、現存するが非公開
戦国時代には日本国中の富の大半が集中したとも伝えられ、日本一の境涯、無双の城と称えられた大坂本願寺が、参詣絵図の一枚も描かれなかったと考えるのは極めて不自然なので、まず1は除外されるだろう。
大坂本願寺は一応、現在の大阪城のあたりに建っていたとする説が有力なのだが、はっきりした所在地や寺内町の区割りは諸説あって結論は出ていない。研究者それぞれが全く違った構成の図を発表している。考えてみれば、当時の絵図が非公開であれ一枚でも残っているならば、これほど意見が分かれるはずもなので、やはり「描かれたが現存していない」と考えるのが自然だろう。
それではなぜただの一枚も現存していないのだろうか?
神仏与太話ブログとしては、
「合戦終結後に信長あたりが大坂本願寺に対する崇敬を『根切り』にするため、一か所に集めて焚書したのではないか?」
などと筆を滑らせたくなるところだが、これはあくまで妄想、妄想(笑)
大坂本願寺に関する意見が分かれているため、現代に描かれた復元図の類も様々だ。近年観光の戦国テーマのムック本等に載っている3DCG復元図は、建物は丹念に再現してあるものの、水上交通の要所としての立地や、上町台地北端の見上げるような急峻な斜面、数万人が籠城したという寺内の巨大な規模が表現されていないものが多く、あまり良質とは言えない。
そもそも専門の研究者の皆さんの間ですら意見の分かれているのだから「これぞ決定版」という復元図が出てこないのは仕方がないだろう。
私も自分なりの復元図が描いてみたいので、ぼちぼち資料を集めているところだ。
これまであたった資料の中から、大坂という土地についての読みやすい概論的な書籍を紹介しておこう。
●「難波宮から大坂へ 」(大阪叢書)
古代から戦国時代までの大坂のありようを、それぞれの専門家が紹介してあり、なぜこの地が日本の要所となっていったのかが非常によくわかる一冊。
●「天下統一の城・大坂城」 (新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」)
大阪城がメインテーマの本だが、一章を割いて大坂本願寺に関する諸説を紹介してある。上掲「難波宮から大坂へ」以降、江戸期までの流れが把握できる。
また、大坂本願寺の風景を再現するには、そこに集まる人々の姿も重要になってくる。特に本願寺寺内町には、農民や武士とは違う様々な職能民や芸能民、民間宗教者も集まっていたと考えられ、そうした極めて中世的な人々の行きかう様は、時代劇などで描かれる江戸時代の情景とは全く違ったものだったはずだ。
そうした情景については時代的に近い「洛中洛外図屏風」や「一遍上人聖絵」が参考になるのではないかと思うのだが、ごく最近発行された本に面白そうなものがあったのでご紹介。
●「新発見 豊臣期大坂図屏風」高橋隆博 編集(清文堂)
残念ながら大坂本願寺そのものの絵図を扱った本ではないが、石山合戦から数十年後、豊臣期の大坂城下を詳しく描写した屏風を紹介した一冊。
城下に住む庶民の様子が見易い図版で多数収録してあり、こうした人々の姿は、おそらく時代的に近い本願寺時代とも共通するものだろう。
じわじわ進めていきましょう。。。