2010年05月28日

大坂本願寺の風景を求めて

 この一年ほど、素人なりに石山合戦関連の資料を探してきた。
 まず何をおいても知りたかったのは、舞台になった大坂・石山本願寺の情景だ。(この「石山」という言葉は、合戦当時使われていたものではなく、江戸時代に入ってからの名称であるらしいのだが、ここでは通例に従ってそのまま使用しておくことにする)

 ところが、無いのである。
 まず、大坂本願寺が隆盛を極めた当時の絵図が見つけられない。当時の絵図がもし存在するのなら、石山合戦を扱った書籍をあたって行けば引用ぐらいはされているはずなのだが、私の探したかぎりでは一枚も見当たらなかった。
 強いて言えば「石山合戦絵伝」という、江戸時代に描かれたものがあるにはあるが、史実としての正確さを求められる類のものではない。
 大坂本願寺に先行する蓮如の時代からの本願寺の拠点・吉崎御坊の絵図は数種載っているのだが、肝心の大坂本願寺の絵図を例示した資料自体が見つからない。引用された図版すら見つからないのは、以下の1〜3の理由が考えられる。
1、そもそも描かれなかった
2、描かれたが現存しない
3、現存するが非公開

 戦国時代には日本国中の富の大半が集中したとも伝えられ、日本一の境涯、無双の城と称えられた大坂本願寺が、参詣絵図の一枚も描かれなかったと考えるのは極めて不自然なので、まず1は除外されるだろう。
 大坂本願寺は一応、現在の大阪城のあたりに建っていたとする説が有力なのだが、はっきりした所在地や寺内町の区割りは諸説あって結論は出ていない。研究者それぞれが全く違った構成の図を発表している。考えてみれば、当時の絵図が非公開であれ一枚でも残っているならば、これほど意見が分かれるはずもなので、やはり「描かれたが現存していない」と考えるのが自然だろう。

 それではなぜただの一枚も現存していないのだろうか?
 神仏与太話ブログとしては、
 「合戦終結後に信長あたりが大坂本願寺に対する崇敬を『根切り』にするため、一か所に集めて焚書したのではないか?」
 などと筆を滑らせたくなるところだが、これはあくまで妄想、妄想(笑)

 大坂本願寺に関する意見が分かれているため、現代に描かれた復元図の類も様々だ。近年観光の戦国テーマのムック本等に載っている3DCG復元図は、建物は丹念に再現してあるものの、水上交通の要所としての立地や、上町台地北端の見上げるような急峻な斜面、数万人が籠城したという寺内の巨大な規模が表現されていないものが多く、あまり良質とは言えない。
 そもそも専門の研究者の皆さんの間ですら意見の分かれているのだから「これぞ決定版」という復元図が出てこないのは仕方がないだろう。
 私も自分なりの復元図が描いてみたいので、ぼちぼち資料を集めているところだ。

 これまであたった資料の中から、大坂という土地についての読みやすい概論的な書籍を紹介しておこう。



●「難波宮から大坂へ 」(大阪叢書)
 古代から戦国時代までの大坂のありようを、それぞれの専門家が紹介してあり、なぜこの地が日本の要所となっていったのかが非常によくわかる一冊。
●「天下統一の城・大坂城」 (新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」)
 大阪城がメインテーマの本だが、一章を割いて大坂本願寺に関する諸説を紹介してある。上掲「難波宮から大坂へ」以降、江戸期までの流れが把握できる。

 また、大坂本願寺の風景を再現するには、そこに集まる人々の姿も重要になってくる。特に本願寺寺内町には、農民や武士とは違う様々な職能民や芸能民、民間宗教者も集まっていたと考えられ、そうした極めて中世的な人々の行きかう様は、時代劇などで描かれる江戸時代の情景とは全く違ったものだったはずだ。
 そうした情景については時代的に近い「洛中洛外図屏風」や「一遍上人聖絵」が参考になるのではないかと思うのだが、ごく最近発行された本に面白そうなものがあったのでご紹介。



●「新発見 豊臣期大坂図屏風」高橋隆博 編集(清文堂)
 残念ながら大坂本願寺そのものの絵図を扱った本ではないが、石山合戦から数十年後、豊臣期の大坂城下を詳しく描写した屏風を紹介した一冊。
 城下に住む庶民の様子が見易い図版で多数収録してあり、こうした人々の姿は、おそらく時代的に近い本願寺時代とも共通するものだろう。



 じわじわ進めていきましょう。。。
posted by 九郎 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする