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2010年06月01日

2010年6月の予定

【6月の予定】
 引き続き、雑賀衆・石山合戦・蓮如に関連した記事を投稿していきます。勉強しながらなので遅々とした歩みになりますが、他の記事も織り交ぜながら。
 
 ちょっと腰に違和感。
 去年の7月にぎっくり腰をやってしまったので要注意。
 気温の一定しない季節の変わり目、皆さんもご注意を。
 
【ロゴ画像変更】
 6月といえばアジサイ。
 すでに新しいご近所のアジサイスポットもチェック済み。
posted by 九郎 at 06:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2010年06月09日

VC与太話

 六月に入り、ようやく私の花粉症も一段落した。
 毎年4〜5月の花粉症の時期には、ビタミンCの大量(1日10gほど)摂取で乗り切ってきて、そのことは何度か記事でも書いてきた。
 ビタミンCを大量摂取する健康法は、私の敬愛するある作家が著書の中で紹介していたのを見て知った。さらにその作家のサイトで花粉症にも効くらしいことを知り、実践するようになった。
 いわゆる「メガビタミン健康法」は、いまだ一般的な健康法になってはおらず、否定的な意見もけっこうある。
 どのような健康法・療法にも様々な意見はあり、何を選択するかは個人の考え方や「縁」による、とはかの作家の言だ。
 医療に関する詳しい説明は、一介の神仏絵描きである私の任ではないだろうが、メガビタミンを提唱したライナス・ポーリング博士について検索してみれば、それなりに信頼が置ける健康法であることは理解していただけると思う。
 関連する書籍も紹介しておこう。



●「ポーリング博士のビタミンC健康法」ライナス ポーリング(平凡社ライブラリー)
●「ビタミンCがガン細胞を殺す」柳澤厚生(角川SSC新書)


 さてここからは私の阿呆な与太話。
 各自それぞれに体質があり、健康法・療法に合う・合わないはあるだろうが、私個人の体感としては、花粉症対策のメガビタミン健康法は物凄く良く効き、目立ったマイナス(副作用など)は存在しない。
 以下に良い点をまとめてみよう。

・花粉症に即効性がある。VCを服用すれば目のかゆみ等がぴたりと収まる。
・副作用は全くない。
・摂取中、風邪やインフルエンザ等にはまったく罹らない。
・健康法・療法としては安上がりである。私の場合は4〜5月の大量摂取時でも月額4000円弱。

 念のため欠点(というほどのものでもないが)も挙げておこう。

・急激にVC摂取量を増やすと下痢気味になることはある。徐々に増やして体を慣れさせれば通常に戻り、むしろ便秘知らずになる。
・オナラはよく出る。
・すっぱい。

 これぐらいだろうか。

 最後の「すっぱい」という項目についてもう少し書いてみる。
 VCの大量摂取は、それ自体に副作用は無いのだが、注意すべきは摂取方法だ。サプリメントとして販売されているVCには、他に混ぜ物があるものが多い。VC自体に問題がなくても、他のものまで一緒に大量摂取することは絶対に避けた方がいい。そのためにはカプセルやタブレットはやめておき、VC原末で購入しなければならない。
 購入したVC原末を必要量ミネラルウオーターに溶かし、小型のペットボトルで携帯して随時飲むのが私のスタイルだ。
 味はとにかくすっぱい!
 レモンからすっぱい要素だけ抽出したような味に、最初はびっくりするかもしれない(笑)
 しかしまあ、人間何にでも慣れるもので、すぐに大丈夫になる。
 私は唐揚げの類にレモン汁代わりに原末を振りかけて食ったりすることもあるが、さすがにこういう気違いじみた行為は初心者にお勧めできない。上級者向きの荒業というべきだろう。
 くれぐれも良い子は真似しないように!


 私の阿呆な文章で紹介すると如何にも胡散臭く見えるかもしれないが、メガビタミンはごくまっとうなものだ(本当)
 関心のある人は上掲参考書籍を一度手にとって見てほしい。


 あとは自己責任で夜露死苦!
posted by 九郎 at 11:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2010年06月11日

ブッダと蓮如

 以前から読もう読もうと思いながら果たせずにいた五木寛之「21世紀 仏教の旅」シリーズにようやく手を伸ばした。まずは最初の二冊「インド編上下巻」を読了。


●「21世紀 仏教への旅 インド編・上下」五木寛之(講談社)

 親鸞・蓮如を中心として、日本の仏教について多くを語ってきた著者が、インド現地へ赴いて「ブッダ最後の旅」の足跡を辿る。
 道しるべは岩波文庫「ブッダ最後の旅」だ。


●「ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経」中村元・訳(岩波文庫)

 当時のインドでは異例の長命の80歳を越えたブッダが、自身の死期を悟って最後の伝道の旅に出る物語。
 構成の脚色が多々あると思われる経典の記述から、それでも滲みだしてくる生身で等身大の人間・ブッダの姿を、五木寛之が現地の見聞をもとに語り綴っていく。
 とりわけ作家の語りに力が入っていると感じられるのは、当時差別的に扱われていた階級の人々に対する、ブッダの分け隔てのない公平な態度だ。
 周知の通り、インドには今なおカーストと呼ばれる強固な身分制度が存在する。それは明文化された制度というよりは、生活規範そのものを支配するヒンドゥーという文化による。
 約2500年前登場したブッダの教説は、ヒンドゥー文化の前身であるバラモン教が、人間を氏素性で差別することに対する、鋭い批判を含むものだった。
 ブッダ在世時のインドは武士階級や商工階級、芸能民が力をつけ、流通経済の発達した「都市」が生まれ始めた時代だった。賤視を受けながらも都市生活の中で力をつけつつあった階級の人々は、生まれながらの平等を説くブッダを喜びを持って迎え、援助を惜しまなかったという。
 ブッダの死後数百年の間は国等の経済的な援助を受けて大いに発展した仏教だったが、やがてイスラムの破壊を受け、揺り戻されるように厳しいカースト制度を説くヒンドゥー教に飲み込まれて行くことになる。

 こうした内容は他の書物でもよく解説されていて、私も通り一遍の教科書的理解はしていたつもりだったのだが、著者が「あの」五木寛之であることも影響して、私の中で一気に様々なことが繋がって理解できた気がする。
 まず感じたことは、「蓮如の活躍した日本の戦国時代と、ほとんど同じことがブッダ在世当時のインドでも起こっていたのだな」ということだった。
 日本の戦国時代に生きた浄土真宗中興・蓮如も、ブッダと同じく当時の世の中でもっとも差別を受けながらも、時代の変化に乗じて力を付けつつあった人々、商工業者・芸能民の中にこだわりなく分け入った人だった。
 中年以降の後半生をほとんど全て「歩き」による伝道に費やし、当時としては異例の長寿を生き抜いたことでも共通しているし、本人の死後も「平等」を説く教えが長期にわたって国レベルの勢力を保持したが、やがては厳しい身分制の社会・文化に飲み込まれていったことも共通している。
 ブッダの説いた初期仏教と、日本で独自に発達した仏教の間の相違点ばかりが強調されやすい昨今だが、こうしてみると生きた時代も地域も遠く離れ、表現も大きく異なったブッダと蓮如の教説が、根っこの部分ではやはりしっかりと繋がっているように感じられた。

 もちろん、ブッダと蓮如の間にははっきりと違う点も存在する。
 出家以降は修行者の生活を生涯崩すことのなかったブッダと、多くの子孫を残し、教えに対するピュアな部分は持ちながらも「巨大な俗物」として生きることを避けなかった蓮如。
 教団の寝起きする場所を「都市」から「近すぎず、遠すぎず」の間合いに設定したブッダと、寺と都市を一体化させた「寺内町」を各地に作り続けた蓮如。
 蓮如とその後援者が築いた「本願寺王国」「寺内町」の存在は、やがて織田信長という特異な個性とぶつかり合って「石山合戦」という事象を生み出すことになるのだが、これは日本の中世だけに起こったレアケースではないのかもしれない。
 もしかしたら仏教と身分制を元にした現世勢力が互いに力を持ったとき、必然的に持ちあがってくる確執なのかもしれない。
 この「インド編」で紹介された、現代インドで少しずつ仏教が勢いを増しつつある様相はそうした予感を感じさせるし、経済格差がじわじわと固定化されつつあるように見える未来の日本でも、起こりえることなのかもしれない。

 今後も時間を作って読み続けてみたいシリーズだ。
posted by 九郎 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 蓮如 | 更新情報をチェックする

2010年06月17日

デザイン供養

 高齢者ドライバーの車に貼る、通称「もみじマーク」というものがありますが、あれがかなり不評だったそうです。
 初心者ドライバー用の「若葉マーク」との対比イメージからか、「枯葉みたい」という印象が強いらしく、当の高齢者ドライバーの皆さんに嫌われたそうです。
 私も初めてあのマークを見たとき「お灯明みたい」と思ってしまいました……
 それで新しいデザイン案が募集されていたのですが、このたび候補作品四点が決まったようです。

 実は私・九郎もデザイン案を応募していたのですが、残念ながら落選してしまいました(悲)
 自分では今でも「なかなかの出来だった」と思っておりますので(自画自賛)、せめてここに掲載して成仏させてあげましょう。

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 イメージは「長寿とゆっくり安全運転」ということで「亀」をモチーフにしてみました。


 ことのついでに、もう何年も前になりますが、編集家・竹熊健太郎さんのブログで、「キモカワキャラ」(気持ち悪いけど可愛いキャラクターデザイン)の募集をしていたときに応募した作品も紹介しておきましょう。
 名前は「らんちう」で、金魚のらんちゅうをモデルにしています。

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 こちらは人気投票で引っかかることができたので、当時雑誌連載していた『サルまん2.0』の一齣に使っていただきました。残念ながらその作品は連載が短期で終了したので単行本にはなっていません。
 こちらもあわせて成仏してもらいましょう。

 また何かあったらこのブログでも紹介しますね。
posted by 九郎 at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2010年06月19日

アジサイ2010

 ガクアジサイの面白さ、美しさに気づいてから、毎年アジサイの季節が楽しみになった。

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 一旦関心が向くと、年ごとに発見があった。

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 まだ咲き切る前の、蝋細工のように精巧な感じ。

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 光の当たりかた。アジサイにはやはり、日蔭が良く似合う。光が当たるにしても、せいぜい木漏れ日くらいが良い。

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 各家庭の庭先で丹精込められた花を見るのも楽しいが、森の中の一画に広い範囲で咲いているのを見るのは圧巻だ。まさに「蓮華蔵世界」を感じさせてくれる。

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 アジサイは同じ株の中でも、日の当たりかたやその他の条件で、淡い色彩が様々に変化する。この時期、散歩が本当に楽しい。

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 転居前に楽しませてくれた、あのアジサイやあのアジサイも、今頃きっと盛りを迎えているのだろうな……

【これまでのアジサイ関連記事】
2006年
2007年
2008年
2009年
posted by 九郎 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 季節の便り | 更新情報をチェックする

2010年06月22日

物語の中の石山合戦

 戦国ブームが浸透している昨今、統計を取ったわけではないが、若い世代の一番人気はやはり織田信長ではないかという感じがする。
 漫画やゲームでキャラクター化された「魔王・信長」が活躍するにつれ、「信長を最も手こずらせた男」としての「雑賀孫市」にも注目が集まるようになってきた。
 現在連載中、もしくは最近発表作の中にも、たくさんの孫市像や、雑賀衆の活躍が描かれつつある。

●「戦国八咫烏」小林裕和(週刊少年サンデー連載)
 主人公は「雑賀孫一」名義になっており、日本神話の中に登場する導きの神「八咫烏」の末裔としての性格が強調されている。来るべき外国勢の日本侵略に備え、国内の英傑を導いて成長させることを行動原理としている。少年漫画としては中々面白いアプローチで、今後避けがたく描かれるであろう本願寺との関わり方が注目される。

●「雷神孫市」さだやす圭(隔週刊プレイコミック連載)
 戦国時代を舞台に、雑賀孫市を使っておなじみのさだやす無頼派ヒーローの活躍が描かれている。登場する孫市は、もちろん非門徒だ。

●「孫市がいくさ」わらいなく(月刊COMICリュウ掲載)
 同誌の主催する新人賞受賞作品。
 何よりも絵が素晴らしい。新人らしく荒削りなタッチだが、この作者にしか出せない強烈な個性がある。ちょっとデビュー当時の三浦建太郎(「ベルセルク」作者)を思わせる勢いを感じるので、今後必ず活躍する人だと思う。選評でも触れられているが、絵・物語ともに、作品中に現われている以上の、奥行きと余裕がありそうだ。歴史物ではなく、完全なフィクションに向いているのかもしれないが、今回の作品の背景に横たわる、まだ描かれていない巨大な物語も、十分な商業漫画の経験値を積んだ後に、いつの日か見てみたい。
 私が見た範囲に限って言えば、ここ数年の新人漫画家の中では突出したものがあると感じた。

●「雑賀六字の城」(歴史街道増刊「コミック大河」連載)
 カテゴリ和歌浦これまでにも度々紹介してきた作品。現在発売中の号で、ついに「鈴木孫一」が登場している。
 原作小説を書いている津本陽の作品では、「孫一」の扱いはどれもそっけない。おそらく先行する司馬遼太郎作品との差別化をはかる意味もあるのだと思うが、漫画版では「本願寺方の猛将」として描かれるようだ。数少ない「門徒としての孫一」が見られる作品。
 比較的史実に沿った石山合戦を漫画で見たい場合は、この作品が現時点ではベストだと思う。

 実在の人物としての「鈴木孫一」も、キャラクター化された「雑賀孫市」も、ともに主戦場は信長と本願寺の戦いであった。徐々にではあるが、初心者向けの解説本などにも「石山合戦」や「大坂本願寺」「顕如」についての記事が出始めている。
 しかし現存する特定宗派(浄土真宗本願寺派)の教義とも絡んでくるせいか、あまりそのあたりに踏み込んだ作品や解説は出ていないようだ。
 信長の宿敵「雑賀孫市」の設定も、本願寺の信仰とは一線を画した形で描かれることが多い。
 そうした人物設定の嚆矢は、やはり司馬遼太郎「尻啖え孫市」だろう。この作品に描かれる、女性を愛し、何物にも縛られない非・門徒の「自由な孫市」像があまりに魅力的だったため、以後登場した孫市像の下敷きになっているのだろう。
 実在の「鈴木孫一」の場合は、いくつかの状況証拠から、本願寺の熱心な門徒であった可能性が高いと私は考えているが、現代の物語作品で広く一般に「ウケる」ヒーロー像としては、あまり宗派性を出さない方が良いと判断されることは理解できる。
 一方で、司馬遼太郎以前の物語の中で描かれた「孫市」は、全く違う姿だった。たとえば司馬遼太郎自身も参照していると思われる「石山軍記」等の中での孫市は、本願寺を守る門徒のヒーロー的な存在だ。

 実在の人物としての鈴木孫一が、史料に乏しい人物であることが、逆に様々な読み替えを可能にしているのだろう。
 それぞれの時代、求められるヒーロー像は様々だ。いずれまた、「門徒としての孫市」が輝きを放つ時期が来るかもしれない。
 また、中世において身分制を超えた自由都市であった「寺内町」や、その在り方の中核としての親鸞・蓮如の思想も、何かと息苦しい格差社会たる現代に、プラスのイメージで描かれる時期が来るかもしれない。

 実在の「孫一」や史実としての「石山合戦」に関心がある人は、以下の本をお勧めしておく。



●「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木真哉(平凡社新書)
●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館 歴史文化セレクション)
●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
posted by 九郎 at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年06月23日

巧みな嘘、まことの感情

 この一年半ほど、遅々とした歩みながら「石山合戦」や「雑賀衆」の実像を求めて資料を渉猟し続けている。
 直接の興味の対象は上記の二つなのだが、それを理解するためには戦国時代全般の知識も、当然必要になってくる。
 調べ始める前の私は自分のことを、をさほど濃くは無いものの一応「歴史ファン」であると思っていた。学生時代から日本史や中国史の成績はまあまあだったし、有名どころの歴史小説などにも一通りは目を通していた。端的にいえば、「そこそこ知っている」つもりだったのだ。
 ところがいざ「史実」ということにこだわりながら調べ始めてみると、自分の戦国時代に関する知識の大半が、実は史実であるかどうか疑わしいものばかりであることが分かってきた。なんのことはない、私は「歴史ファン」ではなく、小説や漫画やTV番組などの「歴史モノファン」だったわけだ。

 ゴメンナサイ、これからはちゃんと勉強します。

 と反省して事が済めば簡単なのだが、事態はそれほど単純ではない。 色々調べていると、疑う余地もないほど定説と化しているように思えたアレコレや、歴史モノの創作物ではない、一応マジメに出された歴史解説本の中にも、数え切れないほどのフィクションが混入していることが分かってきたのだ。
 試みに石山合戦の一方の主役である織田信長について、まとめてみよう。

【長篠の合戦における「鉄砲の三段撃ち」は無かった】
 まず、このお話のソースが後世に作られた軍記物であり、同時代の史料には一切出てこないという根本的な問題がある。
 その上、過去の歴史教科書等でも記述され、私も感心していた「三千丁の鉄砲を三隊に分けて、入れ替わり立ち替わり一斉射撃をした」という描写が、全く現実性のないものである点が致命的だ。
 当時の織田軍にはせいぜい千五百丁の「寄せ集め」の鉄砲隊しかおらず、生の火や火薬を扱う大量の火縄銃を、号令とともに整然と操れるような環境にはなかった。
 そもそも「三段撃ち」の的になった「武田の騎馬隊」自体の存在が疑わしく、舞台になった長篠の地理条件からも「馬による一斉突撃」はあり得なかった。

 もはや戦国の常識と化しているかに見える「長篠の合戦・織田軍三段撃ち」の物語は、「戦国時代に一人近代を先取りした信長の先見性」「戦国最強・織田鉄砲隊」などの物語に現実味を与え、実物以上に信長を優れた戦国武将としてイメージアップしてしまった。
 ところが実際には、以下のような指摘が可能なのだ。

・織田軍は鉄砲戦では最後まで雑賀衆に歯が立たなかった。むしろ雑賀衆の戦術を積極的にパクることによって、戦力を高めていった。
・鉄砲戦術においても、経済戦略においても、信長の独創と呼べるものは少なく、むしろ雑賀衆や寺内町の在り方を学習し、奪った手法が多かった。

 現代の「歴史ファン」の多くが共有していると思われる「中世にただ一人近代を先取りした男・信長」というイメージは、おそらく司馬遼太郎の戦国テーマの作品あたりが出典ではないかと思われるが、そのイメージは有態に言えば「与太話」に過ぎない。
 念のために書いておくと、私は国民的作家を非難しているわけではない。司馬作品は大好きだ。
 もっともらしい材料を拾い集め、あるいはでっち上げて与太話にリアリティを持たせることは、まさに作家の本分なのだから、ここで私は作家を大絶賛しているつもりですらある。
 私が愛してやまない司馬版「孫市」も、初めて読んだ時にはあまりに生き生きと描かれているため、「こういう人物が本当に実在したのか!」と感激したものだが、今はいくつかの点で実在の「鈴木孫一」とは全く別物であることは理解している。
 司馬遼太郎「尻啖え孫市」作中の、自由と女性と孤独を愛するあの快傑は、小説の中だけに存在するフィクションであるけれども、彼が雑賀合戦で「南無阿弥陀仏」と唱える瞬間に爆発した感情のピークは、まぎれもない「まことの感情」として、確かに読む者に伝わった。
 あのシーンを読んだ時の感動が、私をここまで石山合戦にのめり込ませた原点になっているのだ。

 物語の最も強力な武器は、巧みな嘘の中から本物の感情を創り出せることにある。そうして創り出された本物の感情は、単なる史実を超えて人を動かし、新たな史実の掘り起こしや、新たな物語の読み替えを生み、連鎖していくのだ。




 ただ、フィクションではない戦国本の著者、編集者、専門の学者の方々には、もう少し史実と物語の区別をはっきりさせた本づくりをしてほしいなと思う今日この頃……
posted by 九郎 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年06月30日

石の上、気根の下

 荷物整理をしていたら、昔の作品が出てきた。
 157o×226oのボードにアクリル絵の具で描かれた小品だ。

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 おそらく90年代後半頃の作品で、この時期初めて沖縄に行ったはずだ。
 文化財調査のバイトで行ったので、一日中お墓や御嶽、拝所みたいなところを、地図を片手に歩き回っていた。
 観光とは程遠い沖縄体験だったが、むしろ私は嬉々としてハブの出そうな藪の中に分け入っていた。
 無造作に積み上げられた琉球石灰岩の拝所は、ガジュマルやその他の生い茂った植物に半ば飲み込まれていた。
 下から積み上げた石の列と、上から垂れ下がったガジュマルの気根に縁取られた何もない空間に、もっとも何かの「気配」が感じられた。
 その体験があってからヤマトの国に帰ってきてみると、神社仏閣を参拝する時の感覚が一変してしまった。
 それまでは建物や神体になっている自然物に視線が行っていたのだが、沖縄体験を潜った後は、そうしたモノ自体よりも、モノに縁取られた空間の方に注意が向くようになっていた。
 彫刻作品を観るときなんかも、モノの周囲の「虚」の空間が気になって仕方がなくなった。ヘンリー・ムアの凄みに気付いたのもそのころだったと思う。

 この小品を雛型として、後にいくつかの絵(火の神胎内潜り)を描くことになった思い出の一枚だ。


 湿度と気温に蒸せる梅雨の日々に、沖縄をまた思い出す。
posted by 九郎 at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | 更新情報をチェックする