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2010年07月01日

2010年7月の予定

【7月の予定】
 引き続き、雑賀衆・石山合戦・蓮如に関連した記事を投稿していきます。勉強しながらなので遅々とした歩みになりますが、他の記事も織り交ぜながら。
 
 昨日までの一週間、凄まじい睡眠不足と戦っておりました。
 一段落したので休み休み進めていきます。
 
【ロゴ画像変更】
 暑くなってきたので、涼を取るため金魚でも。
 デザインはオリジナルのらんちうです。
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2010年07月03日

カテゴリ「海」

 海についての記憶の断片。

 私の生まれ育った土地は、さほど近くは無かったけれども、一応沿海部にあった。自転車で海辺に行ける範囲だったし、鉄道使用の際には路線沿いに広がる海がまぶしく眺められた。

 中高生の頃、学校の裏山に登れば、海を眺望できた。部活の合間に一人登り、岩場に腰掛けて海をぼんやり眺める時間が好きだった。
 当時の友人の一人が港町に住んでいて、遊びに行った時にはよく海岸沿いをブラブラした。
 その友人は都合により、高校の半ばで引っ越していったのだが、奇しくもその十年後、ある海辺のお祭りで再会することになる。このお祭もまた、当ブログ「縁日草子」の源流の一つになった。

 高2から高3にかけての受験生時代には、美術の実技対策のために通っていた絵画教室が、海辺の小さな街にあった。
 日曜午前、自転車を飛ばして教室に行き、授業が終わった後は近所の海浜公園で休憩していた。

 二十代の頃、ベランダから広く海の眺望できるアパートに住んでいた。家賃二万五千円、四畳半風呂無しトイレ共同。激安家賃と海の眺めが気に入って、よくベランダで過ごしていた。

 夏、毎年のように出かけていた熊野修行も、一週間近く山や里をほっつき歩いた後には、いつも新宮や那智の海岸で、補陀落の波を莞爾ながら一日休息してから街へ帰っていた。

 そして沖縄。まだ数回しか行っていないが、海の向こうにはあの島もある。

 近年はずっと海から離れた住居で過ごしていたのだが、去年また海辺の街に移ってきた。
 休日には自転車で港へ向かい、海を眺めながら、沖縄や和歌浦、熊野のこと、そして最近は石山合戦で活躍した「海の民」のあれこれを、空想している。

 そろそろ「海」についても語り始めてみよう。

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(「船出」MBM紙 木炭 パステル)
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2010年07月06日

病み抜けて

 日曜夜から月曜にかけて、ダウンしていた。
 明らかに一週間前の徹夜続きが原因だ。
 多忙が一段落した土日は、割とのんびり過ごせたのだが、夜になってひどい吐き気に襲われた。
 すぐに「来たな!」と思った。
 私にとってはおなじみの感覚だ。一、二年に一回、疲労がたまりきった極限に、全部をひっかぶった胃が悲鳴を上げる。

(以下、食事中の人は注意!)

 そこからはよく知った症状が始まる。
 胃の内容物が空になるまでおう吐は続く。暑いさなか、脱水症状を起こさないように飲んだ水や麦茶も、しばらくすると戻してしまう。
 背中と腹筋がギシギシ軋む。
 蒲団からの移動がつらくなって、トイレの前に寝転び始める。
 傍から見れば重篤に見えるかもしれないが、本人も非常に苦しんではいるけれども「やり過ごせば大丈夫」と分かっているので不安は無い。
 賢い体が、阿呆な頭に強制休養を命じているのだ。
 私の頭は阿呆に出来ているので、すぐ根性論でなんとかしようとする。本当に危険な状態になる前に体の方がブレーキを踏み、胃の大掃除をしてくれているのだ。
 苦しいのは今夜一晩、そのうち嘔吐感より疲労が勝って眠ってしまうだろう。眼がさめれば多少マシな状態になっているはずだ。
 それにしても水分を受け付けないのは困りものだ。
 なんとかならないか……
 回らない頭で「スポーツドリンク!」と思き、マンションの前にある自販まで這って行って、ペットボトルを購入。その場でフタを空けて、一口含む。
 喉から胃に流れこんだ感じは悪くない。お茶や水は吸収されるより先に嘔吐感が来てしまうのだが、スポーツドリンクなら吸収が速いので嘔吐感の先を行けるようだ。(あとで医者に聞くと「スポーツドリンクはいいけど、アミノ酸飲料はやめといた方がいいから、気を付けてくださいね」とのこと)
 部屋に戻ると体力も尽きて、眠りに落ちることができた。

 月曜、朝。
 激しい嘔吐は去っていたが、「動けない・飲めない・もちろん食べられない」の状態は続いていた。昨夜の酷使で背中の筋肉がだるく、重い。
 しかし、後は一日休んでいれば動けるようになるとわかっており、事実その通りになった。

 火曜からは、豆腐やお粥は食べられるようになった。
 空腹を感じられればもう大丈夫。体が徐行運転を許可してくれているのだ。
 後は調子に乗らないように、ゆっくり動き始めればいい。

 休んでいる間、土曜日に購入しておいて後で読もうと思っていた雑誌に目を通していた。
 買ったのは「ゴング格闘技」という雑誌。昔はよく格闘技やプロレス誌を買っていて、発売日の早朝にコンビニにダッシュしたりしていたものだが、この十年ほどはほとんど手を出していなかった。
 たまたま買う気になったのは、ムツゴロウさんのインタビュー記事が掲載されていたからだ。
 ムツゴロウ・畑正憲さんは、何人かいる私の「心の中の大先達」のお一人。
 一般にはTVの「ムツゴロウの動物王国」で、動物たちと戯れる風変わりなおじいさんというイメージが強いかもしれないが、格闘技やギャンブル、囲碁将棋などの勝負事にも造詣が深く、自身で達者なイラストも描き、映像作家の一面もあり、もちろん本職(?)は動物学者で……
 肩書きを並べれば並べるほど、ことの本質が見えなくなってしまうようで幻惑されてしまうのだが、それはともかく、数々の修羅場を潜り抜け、超人的なエピソードを持った「怪人」であることは確かだ。(興味のある人は「ムツゴロウ インタビュー」で検索してみると、物凄い記事がヒットしてくるかも……)
 今回の「ゴング格闘技」の記事も、それ自体はそこそこ抑えられた内容だった。もしかしたら「当たり障りのある内容」は世の良識に従ってカットされているのかもしれないが、それでもムツゴロウ節はいかんなく発揮されており、印象に残った表現もあった。
 動物との接し方についての答えを引用してみよう。
「植物はみんなそうですよね。ポッと出るんですけど、そこから落ちて病気みたいになる。でもまた殻を破って出てくる。それを囲碁の世界でも病み抜けるって言うんです。そうすると技量がフッと上がるんです。動物に対してもあれこれ考えて、ああしたらいいか、こうしたらいいかと、っていろいろ思っててはダメです」

 ここでの「病み抜ける」という言葉は、実際の健康状態とは無関係に使用されているが、畑正憲さんこそが文字通り肉体を酷使して「病み抜ける」ことで数々の伝説を残してきた人だった。
 自分を極限まで追い込みながら苦難をむしろ楽しんで、そこから生還してくる様は、まるでサイヤ人の不屈の生命力を見るようだった。
 ムツゴロウ名義のTVタレントとしての活動が良く知られているけれども、私は畑正憲名義の著作の愛読者だ。おそらく九割以上は読んでいるはずだが、中でも畑正憲の明暗織り交ぜた内面が赤裸々に描かれた自伝的な作品が好きで、何度も繰り返し読んでいる。
 何冊か紹介しておこう。


●「さよならどんべえ」畑正憲 (角川文庫)
 ちょっと表現する言葉が見つからないぐらい凄まじい一冊。「ムツゴロウさんが北海道でクマと暮らしていた」ということを知る人は多いだろう。しかしイメージだけで言えば一見牧歌的にさえ感じられるそのエピソードの実態を知る人は少ない。畑正憲さんは、檻の中でヒグマを「飼育」し、サーカスのように鞭とアメで芸をさせていた訳ではないのだ。生まれたばかりの小熊をなるべく野生に近い状態で育てるために家族そろって無人島に移住し、やや成長してやむなく檻に入れた後も、自ら檻に入って生身で相対してきたのだ。
 そしてどうしようもなくやってくるどんべえの「親離れ」のとき。野生のヒグマが親離れ、子離れするために対決する時を、畑正憲さんは「親」として身をもって体験することになる。
 その「対決」のあと、やがてあっけなくやってくるどんべえとの別れ。悪化していく畑正憲さんの体調と不思議なリンクを感じさせる死は、読後ずっと記憶に残り続ける。
 数ある著作の中でも、特別な一冊ではないだろうか。今こうして短い紹介文を書いているだけでも、内容が蘇ってきて背筋がぞくぞくしてくる。
 人体というものは、生物学的には他の動物に比べて、その大きさの割りにとてつもなく脆いものだ。そういう人間が十分に成長したヒグマとまともに「親離れ」の儀式に臨み、生還したということ自体が、まず空前絶後だろう。
 そしてその生還者が稀有の文学的才能の持ち主であったという事例は、おそらく人類史上で二度と繰り返されることがないのではないか。
 自然だけ
 人間だけ
 事実だけ
 文学だけ
 そのどれでもなくて、自然と人間、事実と文学が渾然一体となった凄みが、この一冊に凝縮されている。
 同角川文庫「どんべえ物語」の続編にあたるので、あわせて読むのがお勧めだが、単独でも十分読める。


●「命に恋して―さよなら『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』」畑正憲(フジテレビ出版)
 タイトル通り、TVシリーズ「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」の終了に合わせて出版された一冊だが、実質はこれまでに執筆されてきた自伝的作品の続編になると思う。畑正憲さんが繰り返してきた文字通りの「病み抜け」の中の、ごく近年の体験についても触れられている。
●「ムツゴロウの放浪記」畑正憲(文春文庫)
 私個人としては、たぶんこの一冊を畑正憲さんの著作の中でもっとも再読した。TV等でおなじみの明るいキャラクターは畑さん生来の資質であるけれども、明るさには必ず影がある。ピカソの「青の時代」に似た雰囲気がある、と書けばこの作品の雰囲気の一端を表現できるだろうか。
 優れた才を持ちながら、かえって光に背を向けてしまう陰鬱な青春時代。東大を離れ、流れ流れて、どこまでも遠く旅は続いていく。
 その果ての、病み抜け。
 再び立ち上がるシーンで筆は置かれており、私の知る限り直接の続編は出ていなかった思うのだが、上掲「命に恋して」が、あるいはそれに相当するかもしれない。


 東大生になるまでの来歴については、以下の作品で読める。

●「ムツゴロウの少年記・青春記・結婚記」畑正憲(いずれも文春文庫)
 中でも「青春記」は、いまでも多くの人に愛される名著。
 私も青春時代をこの一冊の影響下で過ごした。物事を習得するということ、「学ぶ」ということの根本、若い時代の無鉄砲……
 いまも私はお尻にその貝殻を引きずっている感じがする。



 
 しかし、ムツゴロウさんではない凡人たる私は、やっぱり「普通」の範囲内で健康に気をつけないとね……
posted by 九郎 at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2010年07月09日

調べようとするとなかなか難しい

 海を眺めるのは無条件に楽しい。
 ずっと眺めていても飽きない。
 海に浮かんだ船を眺めるのも楽しい。
 ゆっくり行きかう船ならいくらでも眺めていられる。

 しかし。

 いざ調べようとするとけっこう苦労する。
 私の現在の興味の対象は、日本の戦国時代の海の民・海賊・水軍のあれこれだ。
 出版界は「戦国ブーム」と呼ばれて久しく、各種特集本も出続けているのだが、「海」という切り口で当時の水軍や海戦、流通をまともに取り扱ったものは少ない。
 毛利、村上、九鬼等の主要な水軍の本はもちろん出ているが、一冊で「海の民・海賊・水軍」について広範に取り扱った入門書となると、注文が贅沢すぎるようだ(笑)
 一冊選ぶとしたら、以前カテゴリ和歌浦でも紹介したこの一冊。紹介文とともに再録しておこう。


●「瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて」沖浦和光(岩波新書)
 陸路の交通機関が発達しきった現代人には理解しづらくなっているが、中世において「水路」は交通・物流の中心だった。とりわけ西は関門海峡から東は紀淡海峡にまで及ぶ「瀬戸内」は、交通の大動脈であった。海や河川の道を中心に据えてみれば、現在は僻地にしか見えない孤島や浦が、交通の要地として賑わっていた事実が浮かび上がってくる。
 この本にも「雑賀衆」はほとんど登場しないが、同じ瀬戸内の非常に緊密に交流し合っていた「海賊」「水軍」に関する記述を読んでいると、「海の民」としての雑賀衆が理解できてくる。
 何故こうした「海の民」に本願寺の信仰が広まり、一向一揆、そして石山合戦を戦い抜いた力の源泉になったのかが明らかになってくる。


 書店で望む本が見当たらない場合は図書館へが鉄則。
 専門書架を巡るのはもちろんだが、意外に良い入門書が見つかるのが児童書のコーナーだ。


●「まんが日本史キーワード 海賊の表と裏」高野澄 ムロタニツネ象(さ・え・ら書房)
 絵は「往年の学研まんがの歴史モノでよく見たあの絵柄」と言えば、三十代〜四十代には通じるだろうか。素朴な絵ながら内容は極めてわかりやすく、なじみの薄い「海の勢力」について解説されている。
 海の民・海賊・水軍は、陸上から見た分類であって、それぞれ分かちがたく結びついている。特に海賊と水軍は、本質的には同一の集団を指していると考えてよい。陸上の権力者に対し、独立して勢力をふるう場合は「海賊」と表現されやすく、協力的な場合に「水軍」と表現されやすい、といった程度の違いしか実は存在しないのだ。
 中世までの長い期間、海上は海の民の取り仕切る、一種の治外法権の世界だった。陸上の権力機構が戦国期を経て強力な中央集権に変化する過程で、各地の海上勢力は解体され、自由だった交易を管理下に置かれるようになり、「海の上のもう一つの日本」は終息していく。
 そうした流れを決定づけたのも、石山合戦だったのではないかと思える。


 それでは中世の海の民が操っていた「舟」は、どんなものだったのだろうか?
 これも図書館の児童書コーナーでぴったりの本を見つけた。


●「調べ学習日本の歴史15日本の船の研究―日本列島をむすんださまざまな船」安達裕之(監修)(ポプラ社)
 日本史上に登場した様々な和船について、豊富なカラー図版とともに解説。図版の選び方が絶妙で、決して「子供向け」のぬるい内容ではない。贅沢を承知で難を言えば、戦国時代の史料がさほど多く収録されていないことと、図面資料が少ないことか。

 
 私は現在、ある港町に住んでいる。さすがというか、海事に強い書店を一軒見つけることが出来たので、そこでも探してみる。
 すると日本各地の海洋博物館の類で発行された冊子や、開催された展示の図録を集めたコーナーがあった。
 小躍りしながら物色し、手に取ったのがこの一冊。

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●「日本の船 和船編」安達裕之(船の科学館)
 和船の歴史、構造の変遷等を、豊富な図版で詳しく解説。図面も多数収録され、戦国時代の資料も豊富。上掲「日本の船の研究」と同じ著者で、児童書ではないだけに文章部分はさらに踏み込んだ内容になっている。
 和船に関する概要は、この二冊でほぼ事足りるのではないだろうか。


 良い入門書が見つかったことに満足し、ページを繰りながら楽しんでいると、ふと何度も繰り返される引用元の書名が気になった。

 「図説 和船史話」

 どうやらこれが、和船資料界のボスキャラの名なのか?

 なにやら凄まじそうな本の匂いが漂ってきた。
 私の本マニアとしての感覚が騒ぎ出しきた。

 ゾク
 ゾク
 ゾク……
(続くw)
posted by 九郎 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2010年07月12日

和船資料のラスボス

 安宅船、関船、小早などなど……
 水軍、海賊関係の史料を漁っていると、よく目にする船の種類の名だ。
 ではそれぞれの詳細な構造や、分類はどのようになされているのかという解説には中々お目にかかれない。
 和船というものそのものをテーマにした良い解説書は無いものか?
 前回の記事でもいくつか紹介してきたが、最後に「ラスボス」ともいうべき物凄い本を見つけてしまったのでご紹介。 


●「図説和船史話(図説日本海事史話叢書)」石井謙治(至誠堂)
 約400頁。百科事典のようなボリュームを「和船」というワンテーマで書き尽くした、まさに和船資料のラスボス的一冊。カラー白黒含めて図版もきわめて豊富。和船関係を調べていくと、誰もが必ず辿りつくのではないだろうか。戦国時代の軍船についても、極めて詳細に解説されている。


 この本がどのくらい詳しく広範な内容を誇っているかというと、たとえば戦国時代の船なら実在が確実なものはもちろん、地方の水軍書に断片的な記述が残されているだけの、実在には疑問符がつく特異な船についても、真正面から解説され尽くしていることに現われている。
 安宅船など、主要な軍船については後々このカテゴリでも紹介していきたいが、今回は試みにそうした「特異な和船」について、この「図説和船史話」を元に紹介してみよう。

【竜宮船】
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 この異様な姿の船は「野島流」という瀬戸内水軍の一派の伝書に記述された「潜水艦」という触れ込みである。一応戦国時代の書であることになっており、当時の日本人の発明の才を顕彰する意味で、戦中・戦後に賞賛された経緯もあるらしい。
 船の前後には竜頭が張り出しており、潜望鏡や通気口の機能を果たしている。その竜頭部分両方に舵が設置されていて、前後自由に航行することができたとされている。船の両舷側部には外車がついていて推進力を得ることになっているのだが、実はこの部分が最も問題とされて実在には疑問符がつく箇所だ。
 この人力による「外車」は現在でもスワンボート等に使用されているが、推進力を得るためには上半分が水上に出ている必要があり、この「竜宮船」が本当に潜水艦であるならば、完全に水中に没している状態では外車が使用不可能になってしまう。完全に水中で回転式の推進力を得ようとするならば「スクリュー」でなければならないのだが、元図は非常に稚拙なのだが、それでも構造的に「外車」でしかないことは確実だ。
 実在したとしても「半潜水」の船であったか、または元図自体が「将来的にはこんな戦術も考えられる」というアイデア・メモだったのかもしれない。

【亀甲船】
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 こちらは「全流水軍書」に記述されているという「亀甲船」の図から、独自に描き起こしてみた図。元図は写実性が弱く、「亀甲」部分がペタンと平面的に描かれているのだが、機能面から考えて「ドーム状である」と解釈して再現してみた。
 この「亀甲船」は上記の「竜宮船」とは違って、元々半浮上式の軍船として記述されているようだ。推進力は外からは隠れているが、船内に設置された「外車」で、前後の動きを自在にするためにこちらも舵が前後両方に表現されている。
 戦国当時の軍船の推進力は手漕ぎの櫓が主流だった。帆船形式よりも小回りが利き、戦術が組み立てやすかったからだ。
 手漕ぎではない「外車式」の利点としては、前後の動きの切り替えがスピーディーであったことが挙げられる。反面、人力では機動力に限界があること、波の高い時には使用が難しいことなどの欠点も多かったため、この方式が主流になることはなかったようだ。
 この「亀甲船」は「竜宮船」に比べるとよほど実在性のある軍船なのだが、実在したと仮定しても、一撃離脱型の夜間の奇襲など、限定された局面で活用されたのだろう。
 元図の「亀甲」部分は黒ベタ塗りで表現されているが、それこそ織田軍の「鉄甲船」のように、鉄板などを貼って防弾・防火処理がなされていたのかもしれない。


 他にも、とにかく「読んで面白い」エピソード満載の、強烈な和船資料だった。
 戦国水軍の装備が知りたい場合、一度は手に取るべき一冊だと思う。
posted by 九郎 at 00:41| Comment(6) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2010年07月13日

和船を折る

 戦国時代の勇壮な軍船の資料をあたっていると、元プラモ少年の血がざわざわと騒いでくる。
 どこかに模型売ってないかね?
 これまでの記憶から、模型売り場を脳内に再現してみる。

 20世紀の軍艦のプラモは人気だ。
 帆船模型は模型趣味の中でも「高い」部類に入る。
 戦国時代なら、城や兜のプラモは売られている。

 さて、それでは戦国時代の軍船は?

 今まで和船の模型を探そうと思い立ったことは無かったので、なんとなく「有りそうで、無さそうで」というぼんやりとしたイメージしかわかない。
 それでは、とネットで調べてみたが、どうやら現在「和船」というカテゴリで写実的な模型は(少なくとも大手メーカーからは)販売されていないようだ。
 昔「科学と学習」の付録で「遣唐使船」がついていたことがあったと思うのだが、あれなどは例外中の例外であるらしい。
 
 和船には「雛型」という伝統がある。船大工の皆さんが腕をふるって実際の船を忠実に小型化した模型を神社に奉納したりするのだ。
 そうした伝統のある我がニッポンとしては、和船のプラモ一つ手に入らないこの現状は寂しい限りだ。
 戦国ブームに沸く今ならば、たとえば織田軍の「鉄甲船」なんかが発売されたらそれなりに売れると思うのだが、どうだろうか。あの「鉄甲船」が史料に乏しく、実在性にも疑問符がつくので模型化しにくいということであれば、単に「戦国軍船」という名で安宅船を模型化し、色違いで「織田軍バージョン」を作ればよいと思うのだが……
 週刊「戦国軍船」とか、一つよろしくお願いしますよ!

 後は海洋博物館等ののグッズショップで、和船の模型やペーパークラフトがないかどうか探してみよう。


 当ブログではおりがみのこともたまに記事にしてきた。和船とは全く無関係におりがみの本を調べていたところ、その名もずばり「舟のおりがみ」という本を発見してびっくりした。


●「舟のおりがみ」桃谷好英(誠文堂新光社)
 伝承の「笹舟」からはじまり、「二そう舟」「帆掛け舟」「宝船」や、その他著者が創作した時代も地域も様々な「舟のおりがみ」36種で埋め尽くされた一冊。洋物の帆船や、現代のモーターボートなど、とても幅広く、もちろん「和船」に属するものも多数収録されている。

 残念ながら「戦国軍船」そのものは収録されていなかったが、いくつか和船的なものを折ってみたので紹介してみよう。

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 まずは「カヌー」として収録されているもの。

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 雰囲気的には原始的な「丸木舟」として十分通用するだろう。

 次は「屋形船」。

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 純粋な和船とは言えないが、日本の船にも大きな影響を与えた、中国の帆船「ジャンク」。

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 各所の形状が物凄くリアルな「和船」。

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 最後に伝承おりがみの「宝船」。

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 この「宝船」は、基本になる折り方は一応決まっているのだが、各自の解釈で様々な形状が生まれてくる。伝承おりがみの持つ懐の深さが素晴らしい。

 舟の折り紙は微妙な角度が要求されるので、頑丈な和紙で折ることがお勧めだ。



 和船の模型がなかなか手に入らない私の心も、おりがみで少し癒された気がする(笑)
posted by 九郎 at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 紙(カミ) | 更新情報をチェックする

2010年07月16日

浄土真宗、本願寺、一向宗

 浄土真宗、本願寺、一向宗。
 中世の一向一揆や石山合戦を語る文脈の中で、この三つの言葉はあまり厳密に区別されずに使用される場合が多い。
 同義として扱われている場合がほとんどであると言ってよいだろう。
 私も長らくそれらの言葉が何を指すかについて意識せずにいたのだが、石山合戦について調べる過程で一度整理しておいた方が良いことに気づいた。
 備忘として記事にまとめておく。

【浄土真宗】
 鎌倉時代、六字名号「南無阿弥陀仏」の称名念仏を提唱し、日本仏教に「革命」を起こした法然(浄土宗)。その高弟の一人である親鸞を開山としたのが浄土真宗。

【本願寺】
 親鸞八世の子孫・蓮如の活躍で飛躍的に勢力を拡大した本願寺は、戦国〜江戸時代を通じて日本で最大の門徒を抱える巨大教団になった。
 その規模の大きさから「浄土真宗」といえば「東西本願寺」と認識しがちであるが、本願寺以外の浄土真宗の流れも一定の勢力を持って現存している。
 そもそも蓮如が登場するまでの本願寺は弱小勢力で、先行して勢力を広げていた浄土真宗高田派等から見れば「後発団体」に過ぎなかった。
 石山合戦の過程においても、浄土真宗全体が一枚岩となって織田軍と戦ったわけではなく、抗戦したのは主に本願寺勢力だった。高田派や三門徒派はむしろ織田方についており、各地域で降伏した本願寺派門徒を転宗させる際の受け皿になったこともあった。
 だから石山合戦を「浄土真宗vs織田軍」と認識するのは正確ではなく、「本願寺vs織田軍」とした方がより適切になるだろう。

【一向宗】
 今回まとめる三つのキーワード「浄土真宗、本願寺、一向宗」の中で、もっとも実態のつかみづらいのが、この「一向宗」という括りだ。
 石山合戦当時までに、浄土真宗に属する派の中で自ら「一向宗」と公称した例は無いはずだ。(時宗の一派にはその例がある)
 なぜ浄土真宗本願寺派の門徒が主導したと考えられる一揆勢力が「一向一揆」と呼ばれるにいたったのか、明確な理由は認識していなかったのだが、以下の参考図書に、一応納得できる解説があったので紹介しておこう。


●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館)
 この書籍の中では、「一向宗」と呼ばれる集団が、本願寺本体とは別個に存在したという仮説が提示されている。
 この「一向宗」の集団的特徴を様々な実例をひきながら解説しているのだが、私なりにまとめると以下のような点が挙げられている。
・阿弥陀一仏のみを尊び、その他の諸神諸仏を軽んじる。
・「どんな悪事を働いても念仏さえ唱えておれば救われる」と短絡し、自ら悪を為すことを避けない「造悪無碍」という傾向。
・山伏、社人(下級神官)、巫女、念仏僧、琵琶法師、旅人、商人などによって布教され、土俗的な霊能を布教手段としている。
・一揆を起こすことに積極的である。

 多少なりとも親鸞の教説を調べたことがあればすぐに気付くはずだが、これらの傾向はすべて、親鸞の在世当時から親鸞自身によって批判されてきた傾向だ。
 本願寺を中興した蓮如も、こうした傾向は変わらず批判しており、「一向宗」と「浄土真宗/本願寺」の間には、実は真逆と言ってよいほどの教義の相違が存在するのだ。
 つまり一向一揆勢力というものの全体像は、土俗的な信仰と反体制的な傾向を持った膨大な数の民衆が、頭に「本願寺」という教団組織を乗せて結集した一大勢力、という構図になってくる。
 このような構図を念頭に置くと、確かに石山合戦や一向一揆についての疑問点の多くに説明がつき易くなってくる。

 それではなぜ教義の全く違う集団同士が一致協力することができたのかと言えば、以下の二点がやはり重要になってくるだろう。
 まず「一向宗」側から見れば、「本願寺」は開山聖人・親鸞の血脈を引いているという、素朴な血脈信仰があっただろう。
 そして「本願寺」側から見れば、特に蓮如以降の布教傾向として、「一向宗」的な土俗的信仰を持った民衆こそが教化の主たる対象であった。
 両者が教義的には「ねじれ」を持ちながらも、石山合戦に至るまでの協力関係を築くことができたのはそんな経緯があったからだと考えれば、様々な点で辻褄が合ってくると感じる。
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2010年07月18日

進者往生極楽、退者無間地獄

 現代に創作された戦国物語の中で、一向一揆や石山合戦を描いたシーンの中で必ずと言ってよいほど登場するのが、「南無阿弥陀仏」と墨書された筵旗を掲げた狂信的な農民集団だ。
 史実としての中世一向一揆は江戸時代の「農民一揆」とは全く異なり、専門の武装階級が実際の戦闘を担当していたので、「鋤鍬や竹槍を得物に、筵旗を掲げた農民の集団」が戦場に現れることはほとんどなかったと考えられるので、そのようなイメージは完全に間違ったフィクションだと言える。

 もう一つ、よく登場するのが、以下に画像で紹介するような軍旗だ。

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 進者往生極楽
 退者無間地獄

 進まば往生極楽、退かば無間地獄

 戦って死ねば極楽往生、逃げて生き延びても地獄行き……

 石山合戦に臨んだ門徒の熱狂的な信仰が端的に表現されたキャッチコピーなので、物語の中で使用されるととりわけ印象に残る部分ではある。
 しかしこの旗印自体は確実な資料によるものではなく、「毛利水軍の軍旗として使用したという伝承のある古い旗」を出典としているに過ぎないが、当時の一般門徒が合戦に臨む心情は、だいたいにおいてこのようなものだったであろうという推定は成り立つ。
 しかし、それはあくまで「一般門徒」の心情であって、教団としての「本願寺」が公式に「進者往生極楽、退者無間地獄」というコピーを使用したわけではない。(一向宗と本願寺の違いについては前回の記事参照)
 本願寺が石山合戦当時のリーダーである顕如の名において門徒に求めたのは、多くの場合あくまで「開山聖人・親鸞への恩返し」だった。
 自分たち門徒は親鸞の教えにより、凡夫であっても極楽往生できることを知った。その親鸞の恩に報いるためには、その親鸞の血を引き、教えを正しく伝えた本願寺の存続のために尽くすことが肝要であるというロジックで、
ここには「本山のために戦って死ねば極楽、逃げれば地獄」というニュアンスは含まれていない。
 それもそのはずで、実は親鸞・蓮如の教説の中には門徒が武装蜂起して圧制者に対抗せよという内容は含まれていないのだ。中世身分社会への本質的な批判や、教えが弾圧された場合の「逃散」の勧めはあるが、「武器をとって戦え」という明確な指示は為されていない。
 ただ、ここからが非常に微妙な領域に入ってくるのだが、石山合戦の過程において、本願寺教団側が一向宗側の熱狂的な信仰、本願寺の公式教義からは逸脱した部分もあった信仰を、半ば放置することによって「戦争利用」したのではないかと思える局面がいくつか認められる。
 顕如は門徒に石山合戦に対する協力を求める際に、「協力しないものは破門にする」という意味の檄を飛ばしている。あくまで「本願寺を破門する」と言っているのであって、「協力しないものは地獄行きである」と恫喝しているわけではないのだが、当時の素朴な「一向宗」の信仰を持つものにとって、本山からの破門はほぼ堕地獄と同義であっただろうことは想像に難くない。そこから生まれたのが、有名な「進者往生極楽、退者無間地獄」というフレーズだったのだろう。
 こうした在り方は、公式には教義と矛盾しないよう注意を払いつつ、ある部分では門徒の「誤解」にまかせた、本願寺教団の巧妙な戦略という風にも受け取れる部分だ。
 しかし一方、素朴な「一向宗」の心情としては、本願寺教団や宗主・顕如に「そのように振舞って欲しい」という願望も確実にあったことだろう。
 戦乱に明け暮れる乱世、名もない民衆にとって、この世に生きることはそのまま地獄に生きることでもあった。地獄のような娑婆世界に生きるためには種々の悪を行う他なく、このままでは後生の安泰もおぼつかない。
 そんな希望のない生活の中で、親鸞の教えは間違いなく一筋の光であっただろうし、本願寺寺内町の平等で活気に満ちた情景は「この世の極楽」と感じられたことだろう。

 こうした生きる喜びのある生活の場を守りたい。
 守るための戦いに身を投じたい。
 戦いに倒れた仲間には、死後の安楽を約束して欲しい。

 そのような心情を持つことはごく自然なことであろうし、自分たちのリーダーである顕如にはその先頭に立って欲しいと願うことも、また自然な人間感情というものだろう。これは何も中世の民衆に限らず、現代における戦争でも変わらぬ構図が世界中に存在するだろう。

 果たして本願寺は門徒の感情を「戦争利用」したのか?
 厳格に教義を守り通すことよりも、門徒の感情を汲むことを選ばざるを得なかったのか?
 あるいはその両方か?

 どうやらそのあたりに、私の中の「石山合戦」の核心部分がありそうに感じる。
posted by 九郎 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年07月27日

偽悪と露悪の向こうがわ

 村崎百郎さんが、ファンを名乗る男に刺殺されたという。
 数日前のニュースだが、出てくる言葉がない。
 この人に対して「冥福を祈る」とか紋切り型の言葉をおくることは、少々ためらわれる。

「本、何度も繰り返して読みました。『電波系』と『赤泥』は、いまでも読み返してます」

 もしお会いすることがあったなら、たぶんこの一言だけ伝えて早々に退散しただろう。
 だから今は、これだけ書きとめておくことにする。


●「電波系」根本敬 村崎百郎(太田出版)
●「電波兄弟の赤ちゃん泥棒」村崎百郎 木村重樹(河出書房新社)



 事件の報道を知ってから数日、少しだけ追記が書けそうだ。
 まずは↓のyahoo知恵袋を覗いてみてほしい。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1027682090
息子が「ドグラ・マグラ」という本を持ってます
表紙のイラストが怪しげです
裏表紙に[これを読む者は一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書。]とあり、あらすじ的なことは書いてありません
どんな内容なのでしょう?
息子は大丈夫でしょうか?

 ベストアンサーに思わず笑ってしまった。
 その回答だけで十分なはずなのだが、親切な人たちが一々補足しなければならない風潮には寂しさを感じる。
 こうした風潮は、『村崎百郎』のリアルが身も蓋もないやり方で葬られたことと、どこかでつながっているような気もする。
 
 今回の事件に何か意味があるとするなら、ここ数年あまりよい活動の場に恵まれていなかった(と私には見える)村崎百郎、被害にあった人の遺した『村崎百郎』というアバターが、再び日の目を見るきっかけになるだろうと言うことぐらいか。
 一人の人の死に対して礼を失した表現だと思われるかもしれないが、相手が『村崎百郎』ならば、それは失礼でも何でもないのだ。
 むしろ、もっと思い切った表現で笑い飛ばせない自分の器に、少々恥じ入る気分すらある……
posted by 九郎 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2010年07月30日

浄土真宗、本願寺、一向宗 2

 浄土真宗、本願寺、一向宗という記事の中で、それぞれの言葉の指す対象をまとめてみた。
 今回はもう少し詳しく検討してみよう。
 本願寺の信仰を端的に表現したものに、「領解文(りょうげもん)」という短い文章がある。
 本願寺門徒が蓮如の時代から朝夕の勤行に日常的に唱える一文で、今でも暗唱している人が多い。
 以下に引用してみよう。
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、
一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、
御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、
このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、
御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、
次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

このうへは定めおかせらるる御掟、
一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

 私は本願寺の信仰を正確に解説できる立場にはないのだが、文法的にはさほど難解でもなさそうなので極私的に読んでみる。以下のようなまとめ方で、大きく間違ってはいないはずだ。

「他力の念仏以外の様々な自力の行法をたのむ心をふり捨てて
 阿弥陀如来に後生をどうかお助けくださいと
 一心におすがりしましょう
 それだけで往生の心配はなくなるのだという信心が定まれば
 その後の称名念仏は助けていただいた感謝の言葉
 喜びの言葉となりましょう
 この理をお説きになった親鸞聖人の御恩と
 聖人の教えを正しく伝え、広めてくださった方々の御恩を
 深い感謝の心で受け止めております
 この上は定めおかれた掟を一生涯守ってまいります」

 当時としては平易な言葉遣いで、蓮如の受け止めた親鸞の思想が巧みに要約されている。
 石山合戦当時の門徒もおそらく日常的にこの「領解文」を唱えており、言葉の意味も大意としては理解していたはずだ。
 誰もが罪業を積まなければ生きてゆけない戦国の世、迷信を排し、罪を犯した者も救われるとする教えは、一条の光になったに違いない。
 しかし本願寺寺内町に集う膨大な数の一向一揆衆が、すべてこの「領解文」のような信仰の在り方を正しく身につけ、守っていたかというと、問題は別になってくる。
 一口に阿弥陀信仰と言っても、当時民衆の間に広まっていた信仰には非常に呪術的な要素を持つものも多かった。
 そうした呪術の担い手である民間宗教者や芸能民や、仏教がそれまで救いの対象としてこなかった層、農民よりも一段低く見られながらも経済的な実力を蓄えつつあった商工民、山の民、海の民に、蓮如以降の本願寺は積極的に布教していった。
 親鸞の教えは、構造こそシンプルであるけれども、それを本当に実践するためにはかなり高度な思索を要求される面がある。
 蓮如はその親鸞の教えをギリギリまで平易に語り、広めようとし、その際に、ともかく「多数の人を集め、広く知らしめる」ことに重点を置いたように見える。
 そうした蓮如の方向性が、雑多な信仰、雑多な職種を飲み込んだ「一向宗」を寺内町に集め、組織としての本願寺を神輿として担がせることを可能にしたのではないだろうか。

 石山合戦における「浄土真宗、本願寺、一向宗」の三者の関係について、試みに模式図を作成してみよう。
 一般的な理解としては下図のようになるだろう。

ik-02.png


 しかしこれはかなり単純化した理解であり、実際はそう簡単な話ではなかったことは、前回の記事でも解説した。
 石山合戦について、まだ私はほんの入り口に立ったばかりなのだが、現時点では下図のような図式が妥当ではないかと考えている。
 
ik-03.png

 
 一向宗と呼ばれた人々と本願寺の関係については、今後も注意深く考えていってみたい。
posted by 九郎 at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする