【8月の予定】
引き続き、雑賀衆・石山合戦・蓮如に関連した記事を投稿していきます。勉強しながらなので遅々とした歩みになりますが、他の記事も織り交ぜながら。
カテゴリ「琵琶法師」を新設します。
なんだかやたらに風呂敷を広げるばかりですが、気長にお付き合いいただければ、いずれ畳んでいきます。
【ロゴ画像変更】
夏なので花火を。
一説によると、花火職人の発祥は、江戸の太平で仕事を失った鉄砲火薬職人であったとか。
素晴らしい平和利用ですね(笑)

2010年08月01日
2010年08月11日
試作「大坂本願寺絵図」
まだまだ試作スケッチの段階だが、石山合戦当時の大坂本願寺や、周辺の地理条件を編集した絵図を描いてみた。
(クリックすると画像が大きくなります)
以前の記事大坂本願寺の風景を求めてでも書いたとおり、蓮如による創建〜石山合戦当時、直接その風景を見て描かれたと思われる絵図は、どうやら現存していないようだ。
戦国時代、覇者・信長と真っ向勝負を戦い抜いた大勢力であるにも関わらず、当時の大坂本願寺の様子を知るための史料は非常に少ない。したがって、現代に制作された復元図や復元模型にも、「これが決定版」と呼べるものが中々無い。
そもそも、大坂本願寺の厳密な所在地すら確定していない現状では、正確な復元図が描けるはずもなく、どれも「想像図」にならざるを得ない。
それでも絵描きのはしくれとしては、興味のある歴史の舞台の風景はなんとか自分なりに再現してみたいという願望はあるので、ぼちぼち描き始めてみた。
大坂本願寺やその寺内町については諸説ある中で、私が個人的に最も納得できたのは、以下の資料等で読むことができる仁木宏説だった。
●「難波宮から大坂へ 」(大阪叢書)
今回はその仁木説を参考に試作してみた。今後も順次検討を加えていきたいと思っている。
制作意図としては、正確な作図の鳥瞰図ではなく、感覚的に大坂本願寺と周辺の地理条件を理解できるようにしたイメージ図だ。
本願寺の大寺院は、阿弥陀如来の西方極楽浄土を拝するために、寺院自体は東向きに建設されることが多い。当時の大坂本願寺も、上町台地北端の小高い丘陵から西方を遥拝するイメージで御堂を建てたとする説には説得力がある。寺内町はその御堂を中心に、地形なりに順次増設されて行っただろう。
この「西を拝する」という要素が、大坂本願寺の基本的な構想であったとするならば、絵図もそれに従って西向きに描いて見るのが良いと判断した。
織田軍と交戦状態になってからは、援軍の毛利・村上水軍は、真西から船で来訪することになる。本願寺に集う一般の一向宗にとって、日々遥拝する西方からの船団は、まさに西方極楽浄土からの援軍のように感じられたことだろう。
また、さらに妄想を逞しくするならば、信長はその極楽からの援軍を、希望を込めた門徒達の眺めている前で「鉄甲船」によって殲滅することにより、精神的な揺さぶりを意図していたのではないかとも思えてくる。
本願寺寺内町の一般門徒が一日の労働の疲れを癒せる一時であるはずの夕方の勤行や、新しい気力を充填する朝の勤行のとき、西方に広がる海を眺めてみると、そこに禍々しい黒色で巨大な「鉄甲船」が停泊しているのを見れば、「浄土から分断されている」という素朴な感想を持っても不思議はないのではないか。
今回は大坂湾周辺を主に描きこんでみたが、欲を言えば、もっと左右の横幅を広げて、右は琵琶湖畔の安土城から、左は伊勢長島あたりまでを吉田初三郎ばりに空間を捻じ曲げて収録してみたいところだ(笑)
その目標に向けて、今後もこのカテゴリ石山合戦を通じて妄想力を蓄積していきたい。
(クリックすると画像が大きくなります)
以前の記事大坂本願寺の風景を求めてでも書いたとおり、蓮如による創建〜石山合戦当時、直接その風景を見て描かれたと思われる絵図は、どうやら現存していないようだ。
戦国時代、覇者・信長と真っ向勝負を戦い抜いた大勢力であるにも関わらず、当時の大坂本願寺の様子を知るための史料は非常に少ない。したがって、現代に制作された復元図や復元模型にも、「これが決定版」と呼べるものが中々無い。
そもそも、大坂本願寺の厳密な所在地すら確定していない現状では、正確な復元図が描けるはずもなく、どれも「想像図」にならざるを得ない。
それでも絵描きのはしくれとしては、興味のある歴史の舞台の風景はなんとか自分なりに再現してみたいという願望はあるので、ぼちぼち描き始めてみた。
大坂本願寺やその寺内町については諸説ある中で、私が個人的に最も納得できたのは、以下の資料等で読むことができる仁木宏説だった。
●「難波宮から大坂へ 」(大阪叢書)
今回はその仁木説を参考に試作してみた。今後も順次検討を加えていきたいと思っている。
制作意図としては、正確な作図の鳥瞰図ではなく、感覚的に大坂本願寺と周辺の地理条件を理解できるようにしたイメージ図だ。
本願寺の大寺院は、阿弥陀如来の西方極楽浄土を拝するために、寺院自体は東向きに建設されることが多い。当時の大坂本願寺も、上町台地北端の小高い丘陵から西方を遥拝するイメージで御堂を建てたとする説には説得力がある。寺内町はその御堂を中心に、地形なりに順次増設されて行っただろう。
この「西を拝する」という要素が、大坂本願寺の基本的な構想であったとするならば、絵図もそれに従って西向きに描いて見るのが良いと判断した。
織田軍と交戦状態になってからは、援軍の毛利・村上水軍は、真西から船で来訪することになる。本願寺に集う一般の一向宗にとって、日々遥拝する西方からの船団は、まさに西方極楽浄土からの援軍のように感じられたことだろう。
また、さらに妄想を逞しくするならば、信長はその極楽からの援軍を、希望を込めた門徒達の眺めている前で「鉄甲船」によって殲滅することにより、精神的な揺さぶりを意図していたのではないかとも思えてくる。
本願寺寺内町の一般門徒が一日の労働の疲れを癒せる一時であるはずの夕方の勤行や、新しい気力を充填する朝の勤行のとき、西方に広がる海を眺めてみると、そこに禍々しい黒色で巨大な「鉄甲船」が停泊しているのを見れば、「浄土から分断されている」という素朴な感想を持っても不思議はないのではないか。
今回は大坂湾周辺を主に描きこんでみたが、欲を言えば、もっと左右の横幅を広げて、右は琵琶湖畔の安土城から、左は伊勢長島あたりまでを吉田初三郎ばりに空間を捻じ曲げて収録してみたいところだ(笑)
その目標に向けて、今後もこのカテゴリ石山合戦を通じて妄想力を蓄積していきたい。
2010年08月15日
2010年08月24日
地蔵盆2010
毎月24日は地蔵の縁日。
中でも8月24日は地蔵盆。(地域によって日付の異同はある)
最近は8月24日付近の土日にする地域も多いが、私の住んでいるあたりは日付通り本日執り行われている所が多かった。
いつもはひっそりとしているお地蔵さまの周辺に提灯の列ができ、お供え物がたくさん集まり、子供たちがにぎやかに駆け巡っている。
提灯にも色々あるが、この辺りでよく見かけるのは下図のような色合い。

とくに一番右の色合いのものには、側面に蓮の花が描かれていたりして、素朴なデザインながら、たくさん並んでいるととても美しい。
地蔵盆については、日付や風習だけでなく、たぶんこうした提灯の色合いにも地域色があるはずなので、機会があれば調べてみたい。
まだまだ暑い日が続いているが、やっぱり地蔵盆あたりになると、ふとした瞬間に涼しい風を感じることがある。
子供のころに感じた「夏休みの終わり」の空気が、とっくに大人になった今年も、同じようによみがえってくる。
中でも8月24日は地蔵盆。(地域によって日付の異同はある)
最近は8月24日付近の土日にする地域も多いが、私の住んでいるあたりは日付通り本日執り行われている所が多かった。
いつもはひっそりとしているお地蔵さまの周辺に提灯の列ができ、お供え物がたくさん集まり、子供たちがにぎやかに駆け巡っている。
提灯にも色々あるが、この辺りでよく見かけるのは下図のような色合い。

とくに一番右の色合いのものには、側面に蓮の花が描かれていたりして、素朴なデザインながら、たくさん並んでいるととても美しい。
地蔵盆については、日付や風習だけでなく、たぶんこうした提灯の色合いにも地域色があるはずなので、機会があれば調べてみたい。
まだまだ暑い日が続いているが、やっぱり地蔵盆あたりになると、ふとした瞬間に涼しい風を感じることがある。
子供のころに感じた「夏休みの終わり」の空気が、とっくに大人になった今年も、同じようによみがえってくる。
2010年08月28日
あくまで約束
本ブログは宗教的なテーマを扱っているのだが、無所属であり、特定の宗派の宣伝・布教をするものではないことを一応の建前としている。そうは言いながらも、筆者の生まれた家は祖父の代から浄土真宗僧侶だったこともあり、私が今現在真宗僧侶をやっているわけではないのだが、本願寺系の事象には関心があるので多くの記事を書いてきた。
そんな私なのだが、ここで「重大な」カミングアウト、信仰告白をしようと思う(笑)
私は過去に、ある宗教団体の、それなりに熱心な信者であったことがるのだ!
その宗教団体の名は「聖飢魔U」、言わずと知れた悪魔教の布教団体だ。この宗教団体は、表面上はロックバンド、ヘビメタバンドの体裁を持っているが、アルバムのことは「大教典」、シングルのことは「小教典」、と呼び、コンサートやライブの類は「ミサ」、「教典」を購入したり「ミサ」に参加するファンは「信者」として扱うことになっていた。(また、バンドの各構成員のひいきのファンはそれぞれに「宗派」を構成したりしている。例えば「デーモン宗」とか)
私自身はミサに参加したりファンクラブに入会したりするほどの熱心な信者ではなかったのだが、それでも大教典・小教典は出るたびに全て購入し、1999年の解散までも、またそれ以降も音を聴きこんで様々にものを考え続けた信者だった。
世間的にはリーダーであるデーモン閣下のキャラクターだけが先行し、肝心の音楽活動の方は「所詮コミックバンド」という扱いで軽視され続けてきたのだが、聖飢魔Uというバンドは知る人ぞ知る、凄まじい実力を秘めた日本有数のロックバンドでもあった。
ボーカルであるデーモン閣下が「意外と、というか物凄く歌の上手い人、いや悪魔」であることは、TVのバラエティー番組等を通じてけっこう知られている。しかしその他の構成員、歴代ギタリストはもちろんのこと、とくにリズムセクションであるベースとドラムのコンビ「RX」は、技術面では世界レベルに余裕で達していることを知る人は少ない。
リズムセクション「RX」については、ジョン・ウェットンと交流があり、そのロンドン公演に参加したことがあると書けば、ちょっと驚く人もいるかもしれない。
聖飢魔Uのそうしたテクニカルな凄みがよくわかる映像としては、たとえばこのようなものがある。
よく知る信者にとっては「凄まじい実力派バンド」であった聖飢魔Uだが、世間的にはその実力に見合う評価のなされないまま、1999年、華々しく解散した。
これはデビュー当初、いやバンド結成当初からの予定通りの解散で、デーモン閣下の発言によれば「1999年までどんなに売れなくなっても続ける。また、1999年時点で物凄く売れていたとしても解散する」という強固な決意と、私を含めた信者たちとの「約束」の履行だったのだ。
悪魔教の公式教義としての聖飢魔Uというバンドは「地獄から地球征服の先兵として、まず若者たちの精神を洗脳するためにやってきた」という設定で、さらに「1999年までには地球征服を完了させ、解散すること」が任務とされていた。
しかし現実世界の1999年当時、聖飢魔Uは「知る人ぞ知る実力派」という位置に甘んじていて、およそ「地球征服」と表現できる状態にはなかった。デーモン閣下の「すでに世界征服のための布石は打ち終わったので、約束通り解散する」という公式見解も、それなりに熱心な信者であった私ですら「ちょっと苦しいな……、まだまだ地球征服には時間がかかるのだから、これからもずっと続けてくださいよ、閣下……」などと不遜なことを考えていた。
そんな一信者の思惑を超えて、聖飢魔Uは約束通り解散してしまった。
ところがである。
あれから十年を過ぎてみれば、動画サイト上にアップされた聖飢魔U関連の数多くの映像がきっかけとなり、世界中のハードロック・ヘビーメタルファンの注目が集まる機運が高まってきており、デーモン閣下の「布石は打ち終わった」という発言が、「苦しい言い訳」とばかりは言えなくなってきた。つくづく言葉の重みを大切にする悪魔たちだ。
海外からも聖飢魔Uの活動に関する問い合わせが来るようになっていたそうなのだが、あいにくバンド本体が解散してしまっており、「約束」を大切にする悪魔たちは期間限定の再集結以外の復活を拒否し続けていた。
そして解散十周年に当たる昨年から、地球デビュー二十五周年にあたる今年にかけて、再び期間限定の再集結、大教典の発布やミサ活動が行われることになった。海外からのオファーも視野に入れ、歴代大教典の中から選りすぐりの名曲たちが全て英語歌詞に置き換えられ、演奏も全て新録で復活することになったのだ。
その出来の凄まじさたるや……
解散までの数限りないミサ活動で熟成されまくった名曲たちが、今現在の「音」として見事に定着されている。一部構成員に変化があったことが逆に幸いして、完成された中にも荒削りな激しさが加味され、見事な迫力を醸し出している。
何よりもデーモン閣下の復活が嬉しい。ハードロックボーカルとして、肉体的なピークは既に過ぎているのだろうけれども、それを補って余りある「演技力」「表現力」が備わっている。歌い手と言うより、「千両役者」という賛辞が似合いそうだ。
単なる懐古的な「ベスト盤」ではなく、この教典こそが最高傑作ではないかと思わせる勢いが全曲に満ちている。
昨年以来発布されている英詩大教典にはいくつかのバージョンがあるが、古参信者でない一般に広く聴いてもらいたいのは以下の一枚(というか二枚組)。
●「A QUARTER CENTURY OF REBELLION“世界的極悪集大成盤”」聖飢魔U
当ブログは「いかなる宗派の布教も宣伝もしない」と約束して運営してきたのだが、今回だけは禁を破って宗教団体「聖飢魔U」の教典を宣伝する。
上掲大教典には計二十一曲が収録されているのだが、実は聖飢魔Uの名曲はまだまだ多数あって、あと余裕で二枚くらいは同様の教典が出せるはずなのだ。今回の再集結が商業的にそこそこ成功してくれれば、「ではあと1〜2枚」という声が上がっても不思議はない。
信者としては、ささやかながら自分のブログで布教し、売上枚数、試聴数、動画再生数何でもいいのだが、少しでも貢献しておきたいと願うばかりだ。
この記事を私の人生の中の相当な時間と、「表現」というものを考えるためのたくさんのヒントを、豊かに提供してくれた悪魔たちにささげる。
そんな私なのだが、ここで「重大な」カミングアウト、信仰告白をしようと思う(笑)
私は過去に、ある宗教団体の、それなりに熱心な信者であったことがるのだ!
その宗教団体の名は「聖飢魔U」、言わずと知れた悪魔教の布教団体だ。この宗教団体は、表面上はロックバンド、ヘビメタバンドの体裁を持っているが、アルバムのことは「大教典」、シングルのことは「小教典」、と呼び、コンサートやライブの類は「ミサ」、「教典」を購入したり「ミサ」に参加するファンは「信者」として扱うことになっていた。(また、バンドの各構成員のひいきのファンはそれぞれに「宗派」を構成したりしている。例えば「デーモン宗」とか)
私自身はミサに参加したりファンクラブに入会したりするほどの熱心な信者ではなかったのだが、それでも大教典・小教典は出るたびに全て購入し、1999年の解散までも、またそれ以降も音を聴きこんで様々にものを考え続けた信者だった。
世間的にはリーダーであるデーモン閣下のキャラクターだけが先行し、肝心の音楽活動の方は「所詮コミックバンド」という扱いで軽視され続けてきたのだが、聖飢魔Uというバンドは知る人ぞ知る、凄まじい実力を秘めた日本有数のロックバンドでもあった。
ボーカルであるデーモン閣下が「意外と、というか物凄く歌の上手い人、いや悪魔」であることは、TVのバラエティー番組等を通じてけっこう知られている。しかしその他の構成員、歴代ギタリストはもちろんのこと、とくにリズムセクションであるベースとドラムのコンビ「RX」は、技術面では世界レベルに余裕で達していることを知る人は少ない。
リズムセクション「RX」については、ジョン・ウェットンと交流があり、そのロンドン公演に参加したことがあると書けば、ちょっと驚く人もいるかもしれない。
聖飢魔Uのそうしたテクニカルな凄みがよくわかる映像としては、たとえばこのようなものがある。
よく知る信者にとっては「凄まじい実力派バンド」であった聖飢魔Uだが、世間的にはその実力に見合う評価のなされないまま、1999年、華々しく解散した。
これはデビュー当初、いやバンド結成当初からの予定通りの解散で、デーモン閣下の発言によれば「1999年までどんなに売れなくなっても続ける。また、1999年時点で物凄く売れていたとしても解散する」という強固な決意と、私を含めた信者たちとの「約束」の履行だったのだ。
悪魔教の公式教義としての聖飢魔Uというバンドは「地獄から地球征服の先兵として、まず若者たちの精神を洗脳するためにやってきた」という設定で、さらに「1999年までには地球征服を完了させ、解散すること」が任務とされていた。
しかし現実世界の1999年当時、聖飢魔Uは「知る人ぞ知る実力派」という位置に甘んじていて、およそ「地球征服」と表現できる状態にはなかった。デーモン閣下の「すでに世界征服のための布石は打ち終わったので、約束通り解散する」という公式見解も、それなりに熱心な信者であった私ですら「ちょっと苦しいな……、まだまだ地球征服には時間がかかるのだから、これからもずっと続けてくださいよ、閣下……」などと不遜なことを考えていた。
そんな一信者の思惑を超えて、聖飢魔Uは約束通り解散してしまった。
ところがである。
あれから十年を過ぎてみれば、動画サイト上にアップされた聖飢魔U関連の数多くの映像がきっかけとなり、世界中のハードロック・ヘビーメタルファンの注目が集まる機運が高まってきており、デーモン閣下の「布石は打ち終わった」という発言が、「苦しい言い訳」とばかりは言えなくなってきた。つくづく言葉の重みを大切にする悪魔たちだ。
海外からも聖飢魔Uの活動に関する問い合わせが来るようになっていたそうなのだが、あいにくバンド本体が解散してしまっており、「約束」を大切にする悪魔たちは期間限定の再集結以外の復活を拒否し続けていた。
そして解散十周年に当たる昨年から、地球デビュー二十五周年にあたる今年にかけて、再び期間限定の再集結、大教典の発布やミサ活動が行われることになった。海外からのオファーも視野に入れ、歴代大教典の中から選りすぐりの名曲たちが全て英語歌詞に置き換えられ、演奏も全て新録で復活することになったのだ。
その出来の凄まじさたるや……
解散までの数限りないミサ活動で熟成されまくった名曲たちが、今現在の「音」として見事に定着されている。一部構成員に変化があったことが逆に幸いして、完成された中にも荒削りな激しさが加味され、見事な迫力を醸し出している。
何よりもデーモン閣下の復活が嬉しい。ハードロックボーカルとして、肉体的なピークは既に過ぎているのだろうけれども、それを補って余りある「演技力」「表現力」が備わっている。歌い手と言うより、「千両役者」という賛辞が似合いそうだ。
単なる懐古的な「ベスト盤」ではなく、この教典こそが最高傑作ではないかと思わせる勢いが全曲に満ちている。
昨年以来発布されている英詩大教典にはいくつかのバージョンがあるが、古参信者でない一般に広く聴いてもらいたいのは以下の一枚(というか二枚組)。
●「A QUARTER CENTURY OF REBELLION“世界的極悪集大成盤”」聖飢魔U
当ブログは「いかなる宗派の布教も宣伝もしない」と約束して運営してきたのだが、今回だけは禁を破って宗教団体「聖飢魔U」の教典を宣伝する。
上掲大教典には計二十一曲が収録されているのだが、実は聖飢魔Uの名曲はまだまだ多数あって、あと余裕で二枚くらいは同様の教典が出せるはずなのだ。今回の再集結が商業的にそこそこ成功してくれれば、「ではあと1〜2枚」という声が上がっても不思議はない。
信者としては、ささやかながら自分のブログで布教し、売上枚数、試聴数、動画再生数何でもいいのだが、少しでも貢献しておきたいと願うばかりだ。
この記事を私の人生の中の相当な時間と、「表現」というものを考えるためのたくさんのヒントを、豊かに提供してくれた悪魔たちにささげる。
2010年08月29日
花火追憶
子供の頃、毎年夏休みには花火を何度もやった。
夏休みの楽しさと、普段は中々許してもらえない「夜外で遊ぶ」「火を遊びに使う」ということを、親公認で出来るということが興奮の元になって、今でも当時のことはよく覚えている。

大人になってから花火をやることはほとんどなくなっていたのだが、たまにやる機会があると、「あれ? こんなもんだったかな?」と、軽く失望したりする。
子供の時代を過ぎれば、夜外で遊ぶということも、火を使うということも、日常の一齣になってしまっているのだから、昔のような興奮が味わえなくてもそれは仕方がない。
しかし、なんだか気になったのは、売っている花火セット自体のレベルが下がっているように思えて仕方がないことだ。
昔は手で持って遊ぶタイプの簡単なセットであっても、点火後の風情が様々な種類が揃っていて、一本一本火をつけるごとに楽しみが濃かったように思う。
私が最近何度か手にしたセットがたまたま質の悪いものだったのかもしれないが、見た目は色とりどりで華やかなのだが、点火してみると結局2〜3種類の花火でしかなかったものばかりだった。
線香花火だって、昔はもっと緻密で持続力があり、一本点火すれば始めから終りまでで花火大会自体の雛型のようなドラマが味わえたような気がするのだが……
私は記憶の中で子供時代を美化しすぎているのだろうか?
私以外にも、最近の花火に同様の感想を持っている人はいないのだろうか?
ともかく、夏休みは過ぎ去っていこうとしている。
当ブログの夏の終わりの定番記事はこちら
夏休みの楽しさと、普段は中々許してもらえない「夜外で遊ぶ」「火を遊びに使う」ということを、親公認で出来るということが興奮の元になって、今でも当時のことはよく覚えている。

大人になってから花火をやることはほとんどなくなっていたのだが、たまにやる機会があると、「あれ? こんなもんだったかな?」と、軽く失望したりする。
子供の時代を過ぎれば、夜外で遊ぶということも、火を使うということも、日常の一齣になってしまっているのだから、昔のような興奮が味わえなくてもそれは仕方がない。
しかし、なんだか気になったのは、売っている花火セット自体のレベルが下がっているように思えて仕方がないことだ。
昔は手で持って遊ぶタイプの簡単なセットであっても、点火後の風情が様々な種類が揃っていて、一本一本火をつけるごとに楽しみが濃かったように思う。
私が最近何度か手にしたセットがたまたま質の悪いものだったのかもしれないが、見た目は色とりどりで華やかなのだが、点火してみると結局2〜3種類の花火でしかなかったものばかりだった。
線香花火だって、昔はもっと緻密で持続力があり、一本点火すれば始めから終りまでで花火大会自体の雛型のようなドラマが味わえたような気がするのだが……
私は記憶の中で子供時代を美化しすぎているのだろうか?
私以外にも、最近の花火に同様の感想を持っている人はいないのだろうか?
ともかく、夏休みは過ぎ去っていこうとしている。
当ブログの夏の終わりの定番記事はこちら
2010年08月30日
放浪者的こころ
ふとした瞬間に、耳に蘇ってくる「音の記憶」がいくつかある。
例えば私は夕刻になると、軽快な口笛のメロディが、たまに蘇ってきて耳の奥、頭の中で繰り返される。
何のメロディだったかなと、記憶を探ってみると、小学生の頃の情景に行き当たる。
当時私は、週二回剣道の教室に通っていた。当時も今も小柄で、スポーツは全般に不得意だった。短距離走や球技は特に苦手だったのだが、剣道は少しばかり適性があったらしく、同年代の中ではけっこう強い方だった。さほど熱心ではなかったが、高校生頃まで剣道を続けていたおかげで、体力的な貯金が今も残っている気がする。
小学生の頃通っていた剣道教室は、少し離れた校区の小学校体育館で開かれていた。防具一式を持って歩いて行くには距離があったので、バスか、父親の運転する車で送り迎えをしてもらっていた。
夕刻、父の車で送ってもらっている時に、カーラジオからよく流れてくる番組があった。
今でも耳に残っている軽快な口笛のメロディとともに始まるその番組は、「小沢昭一の小沢昭一的こころ」という。
ある年代以上にとっては説明の要もないほどに有名な長寿人気番組なのだが、私の年代以下でこの番組名を知っている人は少ないかもしれない。私も、父親の車に同乗していなければ、知ることはなかっただろう。
大学生の頃、サークル活動をやっている時になんとなくあのメロディを口笛で吹いていたら、一人だけ反応した後輩がいた。その後輩は、高校生の頃よく通っていた古本屋で番組を聴いていたそうだ。
ともかく、小沢昭一のことである。
今この名前を出すと、字面の類似から某政党の内紛の、一方の主役を連想されるかもしれないが、残念ながら当ブログでは基本的に時事ネタは扱わない(笑)
小沢昭一と言う人の肩書を一つに定めるのは難しい。一番無難なのは「俳優」ということになるのだろうけど、私はその方面の小沢昭一をほとんど知らない。
子供の頃に聴いた口笛のメロディに導かれ、歴史・民俗・宗教に関心を持つようになってから再会したのは、日本やアジアの「放浪芸」の大家としての小沢昭一だった。
今はもう失われつつある放浪芸の世界は、はるか日本の中世〜古代にまでつながり得る可能性を持つ。文字記録として残りにくい「音」と「声」の豊かな伝承世界だ。
そうした世界が、たとえば雅楽のように保護された伝統芸能ではなく、地べたを這いずるような俗の極みの領域の中で、連綿と繋がってきたことには、なんとも形容しがたい感情を覚える。
私は「放浪芸」の記録者としての小沢昭一に再会してまだ日が浅い。
amazonや図書館の検索サービスでこの名前を調べてみると、けっこうな分量の読みたい本や聴きたい音がヒットしてくる。
当ブログを介してとりあえず、小沢昭一という人物を知りたい人には、以下の二冊がお勧めだ。
●「文藝別冊 小沢昭一 芸能者的こころ」(KAWADE夢ムック 文藝別冊)
●「日本の放浪芸 オリジナル版」小沢昭一(岩波現代文庫)
今後も折々、紹介していくことになると思う。
【追記】
あの口笛のメロディを再現してるのを見つけたのであわせてご紹介。
例えば私は夕刻になると、軽快な口笛のメロディが、たまに蘇ってきて耳の奥、頭の中で繰り返される。
何のメロディだったかなと、記憶を探ってみると、小学生の頃の情景に行き当たる。
当時私は、週二回剣道の教室に通っていた。当時も今も小柄で、スポーツは全般に不得意だった。短距離走や球技は特に苦手だったのだが、剣道は少しばかり適性があったらしく、同年代の中ではけっこう強い方だった。さほど熱心ではなかったが、高校生頃まで剣道を続けていたおかげで、体力的な貯金が今も残っている気がする。
小学生の頃通っていた剣道教室は、少し離れた校区の小学校体育館で開かれていた。防具一式を持って歩いて行くには距離があったので、バスか、父親の運転する車で送り迎えをしてもらっていた。
夕刻、父の車で送ってもらっている時に、カーラジオからよく流れてくる番組があった。
今でも耳に残っている軽快な口笛のメロディとともに始まるその番組は、「小沢昭一の小沢昭一的こころ」という。
ある年代以上にとっては説明の要もないほどに有名な長寿人気番組なのだが、私の年代以下でこの番組名を知っている人は少ないかもしれない。私も、父親の車に同乗していなければ、知ることはなかっただろう。
大学生の頃、サークル活動をやっている時になんとなくあのメロディを口笛で吹いていたら、一人だけ反応した後輩がいた。その後輩は、高校生の頃よく通っていた古本屋で番組を聴いていたそうだ。
ともかく、小沢昭一のことである。
今この名前を出すと、字面の類似から某政党の内紛の、一方の主役を連想されるかもしれないが、残念ながら当ブログでは基本的に時事ネタは扱わない(笑)
小沢昭一と言う人の肩書を一つに定めるのは難しい。一番無難なのは「俳優」ということになるのだろうけど、私はその方面の小沢昭一をほとんど知らない。
子供の頃に聴いた口笛のメロディに導かれ、歴史・民俗・宗教に関心を持つようになってから再会したのは、日本やアジアの「放浪芸」の大家としての小沢昭一だった。
今はもう失われつつある放浪芸の世界は、はるか日本の中世〜古代にまでつながり得る可能性を持つ。文字記録として残りにくい「音」と「声」の豊かな伝承世界だ。
そうした世界が、たとえば雅楽のように保護された伝統芸能ではなく、地べたを這いずるような俗の極みの領域の中で、連綿と繋がってきたことには、なんとも形容しがたい感情を覚える。
私は「放浪芸」の記録者としての小沢昭一に再会してまだ日が浅い。
amazonや図書館の検索サービスでこの名前を調べてみると、けっこうな分量の読みたい本や聴きたい音がヒットしてくる。
当ブログを介してとりあえず、小沢昭一という人物を知りたい人には、以下の二冊がお勧めだ。
●「文藝別冊 小沢昭一 芸能者的こころ」(KAWADE夢ムック 文藝別冊)
●「日本の放浪芸 オリジナル版」小沢昭一(岩波現代文庫)
今後も折々、紹介していくことになると思う。
【追記】
あの口笛のメロディを再現してるのを見つけたのであわせてご紹介。
2010年08月31日
テレビのない夜
二十代の数年間、部屋にテレビがなかった。
あるときNHKの受信料徴収人が部屋にやってきた。
ドアを開けると「さあ、どんな理屈でも言って見やがれ。全て論破して払わせてやるぜ」と顔に書いてある(妄想)まだ若い男性が、にこやかに立っていた。
私が一言「うち、テレビ無いっすよ」と言うと、想定外だったらしく「エッ!」と絶句した。
「なんなら、部屋見ます?」
私が身をよけると、男性の視界が四畳半一間を一望できる形になった。
「あの……あれはテレビじゃないんですか?」
男性の指差す方を見てみると、当時ですら骨董品に近かったバカでかいブラウン管モニターのワープロ機が鎮座していた。
私がその旨説明すると、狭い部屋のこと、他にはもうテレビらしきものの影も形もなく、男性はそそくさと退散していった。
ちなみに「テレビじゃないか?」と疑われた、その骨董品ワープロ機は、数年前、つまり当ブログ開設前後まで「実用」していた。もしかしたら同機種の中では実用されていた最後の一台だったかもしれない。処分したのは去年(笑)
テレビがなかったのは、まあ一番の理由としては貧乏だったからなのだが、日本にいる限り貧乏でもテレビくらい調達する方法はいくらもあった。
安いモノならその気になれば買えたし、友人知己の中古品は少し探せば回ってきただろう。当時アパートの向かいの部屋に住んでいたアメリカ人留学生のケント君は、テレビを含めた家財のほとんどを荒ゴミの日に拾って揃えていた。
その気になれば金がなくても入手できたのだが、敢えて入手しなかった理由は特にない。
強いて言えばめんどくさかったというのが一番大きい。
当時はまだインターネットも一般化していなかったので、長い夜はもっぱらラジオを聴いていた。
けっこう精神的に内向的な時期でもあったので、FMラジオの若者向き音楽番組等は聴く気が起きず、十代の頃みたいに思い切り笑える深夜放送を渉猟するほどテンションも上がらず、もっぱらAM放送の「NHKラジオ深夜便」なんかを聴いて過ごしていた。
古典芸能や演芸、昭和歌謡の面白さを知ったのは、この数年間「ラジオ深夜便」を聴いていたおかげだ。
そうした演芸の「語り」の中に、幼いころから親しんできた念仏和讃に似た音階を見出したりしているうちに、今現在このカテゴリ・カミノオトズレで扱っているような諸々の事象について、あれこれ考えるようになった。
たまにやっている音遊びも、あの数年間、映像抜きのラジオ放送を聴きこんだ延長線上にあるような気がする。
また、たまには聴いてみようか。
あるときNHKの受信料徴収人が部屋にやってきた。
ドアを開けると「さあ、どんな理屈でも言って見やがれ。全て論破して払わせてやるぜ」と顔に書いてある(妄想)まだ若い男性が、にこやかに立っていた。
私が一言「うち、テレビ無いっすよ」と言うと、想定外だったらしく「エッ!」と絶句した。
「なんなら、部屋見ます?」
私が身をよけると、男性の視界が四畳半一間を一望できる形になった。
「あの……あれはテレビじゃないんですか?」
男性の指差す方を見てみると、当時ですら骨董品に近かったバカでかいブラウン管モニターのワープロ機が鎮座していた。
私がその旨説明すると、狭い部屋のこと、他にはもうテレビらしきものの影も形もなく、男性はそそくさと退散していった。
ちなみに「テレビじゃないか?」と疑われた、その骨董品ワープロ機は、数年前、つまり当ブログ開設前後まで「実用」していた。もしかしたら同機種の中では実用されていた最後の一台だったかもしれない。処分したのは去年(笑)
テレビがなかったのは、まあ一番の理由としては貧乏だったからなのだが、日本にいる限り貧乏でもテレビくらい調達する方法はいくらもあった。
安いモノならその気になれば買えたし、友人知己の中古品は少し探せば回ってきただろう。当時アパートの向かいの部屋に住んでいたアメリカ人留学生のケント君は、テレビを含めた家財のほとんどを荒ゴミの日に拾って揃えていた。
その気になれば金がなくても入手できたのだが、敢えて入手しなかった理由は特にない。
強いて言えばめんどくさかったというのが一番大きい。
当時はまだインターネットも一般化していなかったので、長い夜はもっぱらラジオを聴いていた。
けっこう精神的に内向的な時期でもあったので、FMラジオの若者向き音楽番組等は聴く気が起きず、十代の頃みたいに思い切り笑える深夜放送を渉猟するほどテンションも上がらず、もっぱらAM放送の「NHKラジオ深夜便」なんかを聴いて過ごしていた。
古典芸能や演芸、昭和歌謡の面白さを知ったのは、この数年間「ラジオ深夜便」を聴いていたおかげだ。
そうした演芸の「語り」の中に、幼いころから親しんできた念仏和讃に似た音階を見出したりしているうちに、今現在このカテゴリ・カミノオトズレで扱っているような諸々の事象について、あれこれ考えるようになった。
たまにやっている音遊びも、あの数年間、映像抜きのラジオ放送を聴きこんだ延長線上にあるような気がする。
また、たまには聴いてみようか。
