【10月の予定】
バタバタです。
できることをできるときにできるだけ。
この忙しいのに使用頻度の高いPainterClassicが使用不可能になってしまった……
そもそもメモリ1GのPCでは使えない所を、方法をネットで調べてなんとかしていたのに、何かのはずみでその設定を削除してしまい、修復できなくなってしまいました。
まあ、そろそろ「買い」かな。
【ロゴ画像変更】
10月。中秋の名月はもう過ぎましたが、やっと涼しくなったので「秋の夜長」はまだまだこれからといったところですね。
2010年10月01日
2010年10月10日
外法曼陀羅
この1,2年、夢枕獏の作品が数多く刊行されている。
長く続いたシリーズものの最新刊が出るのに合わせて、旧作が再刊行されているのだ。
夢枕獏については、以前にいくつか記事にしたことがある。
夢枕獏1
夢枕獏2
夢枕獏3
夢枕獏の西域幻想
今年八月末には、多くのファンが待ちわびていたであろう、キマイラ・シリーズの最新刊「玄象変」が刊行された。数巻続いていた「昔語り」の流れがいよいよ収束し、物語が現代に返ってきたところまで収録されている。
個人的に、この最新刊にはかなり「驚くべき」描写を見出した。
キマイラ・シリーズには物語の核心となる一つの絵図が設定されている。「外法絵」とか「外法曼陀羅」と表現されている絵図で、「人が獣になる」ための「外法」が図示されているとされている。その絵図はとあるチベットの密教寺院の隠し部屋に存在し、描いたのはその「外法」を自身で試みた天才絵師であり、他に何枚かその写しが存在するらしいことが、これまでの既刊分の物語の中で判明していた。
その架空の曼陀羅に関する描写が、キマイラという物語の前半のクライマックスになっており、高校生の頃の私は、はじめて読んだその凄まじい描写に衝撃を受け、「いつの日かこの曼陀羅を自分で描いてみたい」と夢想したものだ。
それからはるかに時は流れ、私も「若気の至り」という言葉を正しく理解できる年齢になった(笑)
インド、日本、チベット等の密教図像や、その教義について、高校生の頃より多少は理解できるようになった今となっては、キマイラ作中の「外法曼陀羅」を、文字に書かれた描写そのままに図像で再現することは、ほぼ不可能であることはわかった。
詳しくは書かないけれども、いくつかの点で「これをチベット密教図像風に描くのは無理」と、判断せざるを得なくなったのだ。そもそも、作中の文章表現そのものが、明確な図像を想定したものというよりは、「外法曼陀羅」というモチーフの持つ「力」とか「勢い」を描くことを主目的としていると思われ、実際に「描く」ための解説にはなっていないのだ。
さらに、最新刊を読んでみたところ、図像の描写にこれまでの説明とはっきり違った表現が盛り込まれており、ちょっとショックを受けている。
その改変部分には、元々の描写より、ややチベット密教図像に近づけている印象があった。著者の中で設定に何らかの変更があったのかもしれないし、あるいは同じ図像ではなく、バージョン違いだという暗示なのかもしれない。
チベット寺院の隠し部屋にこもり、自らの狂気を吐きだすように曼陀羅を描くということを、そのまま実行することは、今生の私にはもう不可能なことはよく理解している。しかし、まだ「自分なりの表現で外法曼陀羅に挑む」ということ自体は諦めていなかったりする。私はけっこう執念深いのだ(笑)
新しく書き加えられた描写により、ちょっと何か描けそうな感じがしたので、一枚スケッチしてみた。作中の「外法曼陀羅」そのものの再現ではなく、描写から触発されたイメージスケッチと言ったところ。
もしこのブログ読者の中にキマイラシリーズのファンがおられるなら、一つのお遊びとして楽しんでほしい。
長く続いたシリーズものの最新刊が出るのに合わせて、旧作が再刊行されているのだ。
夢枕獏については、以前にいくつか記事にしたことがある。
夢枕獏1
夢枕獏2
夢枕獏3
夢枕獏の西域幻想
今年八月末には、多くのファンが待ちわびていたであろう、キマイラ・シリーズの最新刊「玄象変」が刊行された。数巻続いていた「昔語り」の流れがいよいよ収束し、物語が現代に返ってきたところまで収録されている。
個人的に、この最新刊にはかなり「驚くべき」描写を見出した。
キマイラ・シリーズには物語の核心となる一つの絵図が設定されている。「外法絵」とか「外法曼陀羅」と表現されている絵図で、「人が獣になる」ための「外法」が図示されているとされている。その絵図はとあるチベットの密教寺院の隠し部屋に存在し、描いたのはその「外法」を自身で試みた天才絵師であり、他に何枚かその写しが存在するらしいことが、これまでの既刊分の物語の中で判明していた。
その架空の曼陀羅に関する描写が、キマイラという物語の前半のクライマックスになっており、高校生の頃の私は、はじめて読んだその凄まじい描写に衝撃を受け、「いつの日かこの曼陀羅を自分で描いてみたい」と夢想したものだ。
それからはるかに時は流れ、私も「若気の至り」という言葉を正しく理解できる年齢になった(笑)
インド、日本、チベット等の密教図像や、その教義について、高校生の頃より多少は理解できるようになった今となっては、キマイラ作中の「外法曼陀羅」を、文字に書かれた描写そのままに図像で再現することは、ほぼ不可能であることはわかった。
詳しくは書かないけれども、いくつかの点で「これをチベット密教図像風に描くのは無理」と、判断せざるを得なくなったのだ。そもそも、作中の文章表現そのものが、明確な図像を想定したものというよりは、「外法曼陀羅」というモチーフの持つ「力」とか「勢い」を描くことを主目的としていると思われ、実際に「描く」ための解説にはなっていないのだ。
さらに、最新刊を読んでみたところ、図像の描写にこれまでの説明とはっきり違った表現が盛り込まれており、ちょっとショックを受けている。
その改変部分には、元々の描写より、ややチベット密教図像に近づけている印象があった。著者の中で設定に何らかの変更があったのかもしれないし、あるいは同じ図像ではなく、バージョン違いだという暗示なのかもしれない。
チベット寺院の隠し部屋にこもり、自らの狂気を吐きだすように曼陀羅を描くということを、そのまま実行することは、今生の私にはもう不可能なことはよく理解している。しかし、まだ「自分なりの表現で外法曼陀羅に挑む」ということ自体は諦めていなかったりする。私はけっこう執念深いのだ(笑)
新しく書き加えられた描写により、ちょっと何か描けそうな感じがしたので、一枚スケッチしてみた。作中の「外法曼陀羅」そのものの再現ではなく、描写から触発されたイメージスケッチと言ったところ。
もしこのブログ読者の中にキマイラシリーズのファンがおられるなら、一つのお遊びとして楽しんでほしい。
2010年10月17日
焚火の夜
前回記事で紹介した夢枕獏「キマイラ」に登場する「外法曼陀羅」の、詳しい描写の初出は以下の巻になる。物語の作中時間にして、約二十年前、チベット密教寺院の隠し部屋においての目撃談として語られている。
●「キマイラ6 胎蔵変/金剛変」夢枕獏(ソノラマノベルス)
語っているのは「吐月」という登場人物。
自ら「沙門」と名乗り、正式な仏教僧にはならずに、釈迦と同じように独力で仏陀となることを、本気で志した人物として描かれている。
はっきりとした年齢は記述されていないが、おそらく作中で五十歳前後。今でも悟りを求めて山岳修行を続けている。
物語は「人が獣に変ずる」という主題にそって展開されていくのだが、その核心部分に接近した経験を持つことから、主人公周辺の人物がその体験談を聴きに、大峰山系で修行を続ける吐月に会いに行く。
山中、夜の焚火を囲んで、人が悟るということや、獣に変ずるということについて、静かに語り合われるシーンは印象的だ。
私も以前は、毎年夏から秋にかけて、一週間ほど時間を作って熊野の山々をほっつき歩いていた。
山中や川原で夜を過ごすとき、やはり火を焚いた。
夕刻、人気のない山奥で徐々に暗くなってくるのは、けっこう怖い。
完全に暗くなってしまえばかえって平気になるのだが、夕刻の心細さはまた格別だ。
まだ明るいうちに焚き木と枯れ草を集めておいて、日が落ちてしまう前に焚火をはじめる。
お粥を炊いたり、食べ物を温めたりして食事をとり、あとは眠くなるまでただ火を見つめる。
とりとめもなく、色々ものを考える……
キマイラ作者の夢枕獏は、自身も手練れの登山家で、専門家と言ってもよい。作中にはよく登山シーンが描かれるし、登山そのものを主題にした作品もある。
だからこの「キマイラ」の、山中の焚火シーンも物凄く雰囲気が出ていて、私も自分の山での経験が蘇ってくる。
ここ数年、まとまった日程で山に行けていないので、読んでいるとなんだかムズムズしてきてしまう。
焚火を囲んだ会話の中で、吐月がふと本音を漏らす。
「何年もなにも、おれは仏になれぬよ。覚ったとすれば、そのくらいのところのようだな」
それに対する昔馴染みの言葉。
「おいおい、何を言うか。我らの中では、ぬしだけが、まだ、現役なのだ。夢を壊さんでくれ」
読んでいて思わず「現役って何!」と呟く(笑)
前後の文脈からすれば、かつて「彼ら」は本気で「悟り」に近づこうとした経験があったということだろうか。または、仏教の言う「悟り」に限らず、それぞれの志す道において、描いた理想に到達することを目指したということか。
同年代の他の仲間はそこからはリタイアし、吐月だけがまだ「おりて」いなかったと言うほどのニュアンスと受け取れる。
野球のようなスポーツならば、「現役引退」というのは具体的に理解できるが、何事かの「道」を求めることにおいて、現役であるかどうかというのは、どういう感覚なのだろうか?
わかるような気もするが、考え始めるとわからなくなってくる。
例えば、自分は?
またいつか、山に入る日が来たら、焚き火を眺めながら考えてみたい。
●「キマイラ6 胎蔵変/金剛変」夢枕獏(ソノラマノベルス)
語っているのは「吐月」という登場人物。
自ら「沙門」と名乗り、正式な仏教僧にはならずに、釈迦と同じように独力で仏陀となることを、本気で志した人物として描かれている。
はっきりとした年齢は記述されていないが、おそらく作中で五十歳前後。今でも悟りを求めて山岳修行を続けている。
物語は「人が獣に変ずる」という主題にそって展開されていくのだが、その核心部分に接近した経験を持つことから、主人公周辺の人物がその体験談を聴きに、大峰山系で修行を続ける吐月に会いに行く。
山中、夜の焚火を囲んで、人が悟るということや、獣に変ずるということについて、静かに語り合われるシーンは印象的だ。
私も以前は、毎年夏から秋にかけて、一週間ほど時間を作って熊野の山々をほっつき歩いていた。
山中や川原で夜を過ごすとき、やはり火を焚いた。
夕刻、人気のない山奥で徐々に暗くなってくるのは、けっこう怖い。
完全に暗くなってしまえばかえって平気になるのだが、夕刻の心細さはまた格別だ。
まだ明るいうちに焚き木と枯れ草を集めておいて、日が落ちてしまう前に焚火をはじめる。
お粥を炊いたり、食べ物を温めたりして食事をとり、あとは眠くなるまでただ火を見つめる。
とりとめもなく、色々ものを考える……
キマイラ作者の夢枕獏は、自身も手練れの登山家で、専門家と言ってもよい。作中にはよく登山シーンが描かれるし、登山そのものを主題にした作品もある。
だからこの「キマイラ」の、山中の焚火シーンも物凄く雰囲気が出ていて、私も自分の山での経験が蘇ってくる。
ここ数年、まとまった日程で山に行けていないので、読んでいるとなんだかムズムズしてきてしまう。
焚火を囲んだ会話の中で、吐月がふと本音を漏らす。
「何年もなにも、おれは仏になれぬよ。覚ったとすれば、そのくらいのところのようだな」
それに対する昔馴染みの言葉。
「おいおい、何を言うか。我らの中では、ぬしだけが、まだ、現役なのだ。夢を壊さんでくれ」
読んでいて思わず「現役って何!」と呟く(笑)
前後の文脈からすれば、かつて「彼ら」は本気で「悟り」に近づこうとした経験があったということだろうか。または、仏教の言う「悟り」に限らず、それぞれの志す道において、描いた理想に到達することを目指したということか。
同年代の他の仲間はそこからはリタイアし、吐月だけがまだ「おりて」いなかったと言うほどのニュアンスと受け取れる。
野球のようなスポーツならば、「現役引退」というのは具体的に理解できるが、何事かの「道」を求めることにおいて、現役であるかどうかというのは、どういう感覚なのだろうか?
わかるような気もするが、考え始めるとわからなくなってくる。
例えば、自分は?
またいつか、山に入る日が来たら、焚き火を眺めながら考えてみたい。
2010年10月20日
茶粥
自分で勝手に「熊野修行」と称し、夏から秋にかけての一週間ほど、奈良や和歌山の山間部をほっつき歩いていた時、よく食べていたのが「茶粥」だ。
元々熊野地域の伝統食なのだが、あっさり食べやすく、調理も簡単なので、アウトドアの食事に向いている。
昼間、歩きに歩いて疲労困憊し、日が傾き始めると、そろそろ野宿の準備にかかる。
熊野古道と呼ばれるルートの要所要所には、わりと屋根つきのベンチや、水場があるので、慣れてくると夏場はテント無しでも行けなくはない。(←決して推奨しているわけではない)
私がアウトドアの調理に愛用しているのは、ステンレス製の丸型飯ごうと、百円ショップで売っているような小型の金網だ。
単独行が多いので飯ごうは丸型で問題ない。
金網は小さいものでも1枚あると非常に便利だ。火の周りに適当に3〜4個大きめの石を置いて、その上に金網をのせれば、飯ごうも置けるし、食べ物も焼ける。
飯ごうにたっぷり水を入れて、火にかける。
沸いてきたらほうじ茶のパックをぶちこんで色を出す。
それから米を1合ザラッと注ぎ込んで、あとはあまりかき混ぜずに柔らかくなるのを待つ。
米は1合ごとにビニール袋に小分けにしておくのが事前の一工夫。
煮る時間はその時の火力によるので何とも言えないが、ともかく火を眺めながらしばらく休んでいると、ほうじ茶の香ばしさと、米の甘さが楽しめる茶粥が出来上がる。
最初の3分の1は素のままで美味しくいただき、後半は塩の効いた梅干しや漬物で食べると、この世にこんな美味いものがあったのかと思う。
昼間、延々と歩き続けてくたくたに疲れ切り、腹が減りきっているためと、大量に汗をかいて胎内の塩分が欠乏しているためだ。
茶粥には納豆もけっこう合うと思うのだが、さすがに夏季の山歩きには持っていけない(笑)
食べおわった後始末も、お粥なので水でさっと洗えばおしまい。ご飯を炊くよりかなり楽だ。
アウトドアには「茶粥」!
九郎のオススメです!
朝食や、胃腸が疲れているときにもいいですよ。
元々熊野地域の伝統食なのだが、あっさり食べやすく、調理も簡単なので、アウトドアの食事に向いている。
昼間、歩きに歩いて疲労困憊し、日が傾き始めると、そろそろ野宿の準備にかかる。
熊野古道と呼ばれるルートの要所要所には、わりと屋根つきのベンチや、水場があるので、慣れてくると夏場はテント無しでも行けなくはない。(←決して推奨しているわけではない)
私がアウトドアの調理に愛用しているのは、ステンレス製の丸型飯ごうと、百円ショップで売っているような小型の金網だ。
単独行が多いので飯ごうは丸型で問題ない。
金網は小さいものでも1枚あると非常に便利だ。火の周りに適当に3〜4個大きめの石を置いて、その上に金網をのせれば、飯ごうも置けるし、食べ物も焼ける。
飯ごうにたっぷり水を入れて、火にかける。
沸いてきたらほうじ茶のパックをぶちこんで色を出す。
それから米を1合ザラッと注ぎ込んで、あとはあまりかき混ぜずに柔らかくなるのを待つ。
米は1合ごとにビニール袋に小分けにしておくのが事前の一工夫。
煮る時間はその時の火力によるので何とも言えないが、ともかく火を眺めながらしばらく休んでいると、ほうじ茶の香ばしさと、米の甘さが楽しめる茶粥が出来上がる。
最初の3分の1は素のままで美味しくいただき、後半は塩の効いた梅干しや漬物で食べると、この世にこんな美味いものがあったのかと思う。
昼間、延々と歩き続けてくたくたに疲れ切り、腹が減りきっているためと、大量に汗をかいて胎内の塩分が欠乏しているためだ。
茶粥には納豆もけっこう合うと思うのだが、さすがに夏季の山歩きには持っていけない(笑)
食べおわった後始末も、お粥なので水でさっと洗えばおしまい。ご飯を炊くよりかなり楽だ。
アウトドアには「茶粥」!
九郎のオススメです!
朝食や、胃腸が疲れているときにもいいですよ。
2010年10月22日
どんと1
今夜は満月。
中秋の名月はすでに先月終わっているが、秋真っただ中の名月が夜空に浮かんでいる。
10月の満月を眺めていると、あの年のことを思い出す。
奇しくも今日と同じ日付。
あれからもう、十数年が過ぎてしまった。
その年の同じ十月の満月の夜、とある小さな海岸で行われたお祭り、岸壁に築かれた特設ステージで、ライブが行われた。
当時のスケッチが、今でも何枚か手元に残っている。
そのさらに数か月前、私はふと思い立って古い友達に手紙を書いた。
もう何年も会っておらず、消息も定かではない友達。
連絡がつくことはほとんど期待しないままに、瓶に詰めた手紙を海に流すような気分で、投函した。
そして手紙を出したことも忘れかけていた頃、彼から思いがけず返信をもらった。
お祭りのスタッフをしていた彼は、チラシを同封して私をその海岸に誘ってくれたのだ。
初めて訪れたとき、「果たしてここは本当に日本なのだろうか?」と思った。
廃墟のような、と表現するとイメージは悪いけれども、そこはまさに廃墟に見えた。
かつて栄えた観光地が一旦寂れ、施設の数々が廃れ、半ば海岸の自然風景に溶けつつあった。
そこに思い思いの荷を担いだ人々が参じて、風のような「市」が形成され、祭りを彩っていた。
当時の私にはまだ「中世のような」という語彙はなく、90年代という時代の空気もあって、「世界が滅んだ後のお祭り」というような印象を強く受けた。
漂着した流木や竹、簾、アウトドア用品やブルーシートで組み立てられた会場。
インディアンのテントもある。
色とりどりの衣装を身につけて集まってくる人々。
中心には喫茶軽食や簡単なライブのできる「海の家」があるのだが、そのお店の雰囲気を拡大するように、フリーマーケットの仮設店舗が周囲に増殖している。
まるでアジアの市場のような風景……
その場の雰囲気に圧倒されながらも、私はスケッチブックにカラーペンを走らせ続けた。
どこを切り取っても絵になる風景に、夢中になっていた。
誘ってくれた古い友人とも無事再会。
久々に会ってみれば、彼はモヒカン刈りになっていた。
やがて特設ステージの方でリハーサルがはじまった。
音合わせのために、出演するミュージシャンの面々が順にステージに立っていく。
海に向かった岸壁のステージとビーチの客席の距離は物凄く近く、仕切りも何もないので、スタッフも客もごちゃ混ぜのままリハーサルは進行していった。
そもそも、そのお祭り自体が「キャスト・スタッフ」と「観客」の境目の曖昧な構造になっていた。
プログラムに載っているような公式な出演者でなくても、何か楽器を持っている人が砂の上に座って演奏し始めれば、それを見物する人が周囲に集まり、私のように絵を描く人がいればその周囲に見物人が集まった。
フリーマーケットのお店はそれ自体が舞台装置のような「作品」になっていたし、客として行きかう人も、それぞれに個性的だった。
私が砂の上に座って眺めていると、すぐ隣に、同じようにステージを眺めているノッポさんがいた。
ジーンズの上下に雪駄を履き、しきりに立ったり座ったりしながら眺めている。
しばらくすると飽きてきたのか、そのあたりにいた子供を四人ほど集めて話し始める。
「みんな年いくつや? へ〜みんな四才か。ほんなら四才が四人やな〜」
とかすごくテキトーなことをしゃべっていた。
何か見覚えがある顔だと思ったら、出演予定の「どんと」(当時ボ・ガンボスvocal)だった。
中秋の名月はすでに先月終わっているが、秋真っただ中の名月が夜空に浮かんでいる。
10月の満月を眺めていると、あの年のことを思い出す。
奇しくも今日と同じ日付。
あれからもう、十数年が過ぎてしまった。
その年の同じ十月の満月の夜、とある小さな海岸で行われたお祭り、岸壁に築かれた特設ステージで、ライブが行われた。
当時のスケッチが、今でも何枚か手元に残っている。
そのさらに数か月前、私はふと思い立って古い友達に手紙を書いた。
もう何年も会っておらず、消息も定かではない友達。
連絡がつくことはほとんど期待しないままに、瓶に詰めた手紙を海に流すような気分で、投函した。
そして手紙を出したことも忘れかけていた頃、彼から思いがけず返信をもらった。
お祭りのスタッフをしていた彼は、チラシを同封して私をその海岸に誘ってくれたのだ。
初めて訪れたとき、「果たしてここは本当に日本なのだろうか?」と思った。
廃墟のような、と表現するとイメージは悪いけれども、そこはまさに廃墟に見えた。
かつて栄えた観光地が一旦寂れ、施設の数々が廃れ、半ば海岸の自然風景に溶けつつあった。
そこに思い思いの荷を担いだ人々が参じて、風のような「市」が形成され、祭りを彩っていた。
当時の私にはまだ「中世のような」という語彙はなく、90年代という時代の空気もあって、「世界が滅んだ後のお祭り」というような印象を強く受けた。
漂着した流木や竹、簾、アウトドア用品やブルーシートで組み立てられた会場。
インディアンのテントもある。
色とりどりの衣装を身につけて集まってくる人々。
中心には喫茶軽食や簡単なライブのできる「海の家」があるのだが、そのお店の雰囲気を拡大するように、フリーマーケットの仮設店舗が周囲に増殖している。
まるでアジアの市場のような風景……
その場の雰囲気に圧倒されながらも、私はスケッチブックにカラーペンを走らせ続けた。
どこを切り取っても絵になる風景に、夢中になっていた。
誘ってくれた古い友人とも無事再会。
久々に会ってみれば、彼はモヒカン刈りになっていた。
やがて特設ステージの方でリハーサルがはじまった。
音合わせのために、出演するミュージシャンの面々が順にステージに立っていく。
海に向かった岸壁のステージとビーチの客席の距離は物凄く近く、仕切りも何もないので、スタッフも客もごちゃ混ぜのままリハーサルは進行していった。
そもそも、そのお祭り自体が「キャスト・スタッフ」と「観客」の境目の曖昧な構造になっていた。
プログラムに載っているような公式な出演者でなくても、何か楽器を持っている人が砂の上に座って演奏し始めれば、それを見物する人が周囲に集まり、私のように絵を描く人がいればその周囲に見物人が集まった。
フリーマーケットのお店はそれ自体が舞台装置のような「作品」になっていたし、客として行きかう人も、それぞれに個性的だった。
私が砂の上に座って眺めていると、すぐ隣に、同じようにステージを眺めているノッポさんがいた。
ジーンズの上下に雪駄を履き、しきりに立ったり座ったりしながら眺めている。
しばらくすると飽きてきたのか、そのあたりにいた子供を四人ほど集めて話し始める。
「みんな年いくつや? へ〜みんな四才か。ほんなら四才が四人やな〜」
とかすごくテキトーなことをしゃべっていた。
何か見覚えがある顔だと思ったら、出演予定の「どんと」(当時ボ・ガンボスvocal)だった。
(続く)
2010年10月25日
どんと2
当時のどんとは、まだボ・ガンボスのヴォーカルだった。
お祭りのチラシにもそう表記してあったし、熱心なファンの間でも何の疑問もなくそう考えられていただろう。
その時の私自身は、ボ・ガンボスやどんとの熱心なファンと言うほどではなかった。ただ、先輩に好きな人がいて、カセットテープに曲をいっぱい詰め込んだものを貰ったので、よく聴いていた。
十月下旬のこのお祭りの後、ほとんど時間をおかない十一月、どんとはバンドの脱退を表明し、その後は沖縄に移住。独自のソロ活動を行うことになる。
この夜のライブはかなり葛藤を抱えたものだったのかもしれないが、もちろんそんなことは外からうかがい知れるものではなく、すべては「今にして思えば」ということになる。
日が落ちると、いよいよライブが始まった。
昼間から考えると「どこから湧いてきたのか」と思うほど、わらわらと人がたくさん集まってきた。小さな海岸に、二百人くらいは集まっていたのではないだろうか。
特設ステージ背後の崖にはいたるところに蝋燭の灯が揺れ、赤ん坊から大人まで、あらゆる年齢層の皆さんが集まっていた。
スピーカーからの大音量とは逆に、海上にはぽっかりと満月が浮かび、客席の背後にはひしひしと潮が静かに満ちてきていた。
座っている人は一人もおらず、みんな思い思いに踊り狂っていた。
もう十月の夜だというのに、海に駆け込んで水しぶきを上げながら踊り続ける女の人もいた。
ライブ中盤、ついにどんとがステージに駆け上がってきた。
黒いハットに赤いチェックのスーツ、バカでかい蝶ネクタイに、とんがったサングラス。その時は「バカバカしくてカッコいいな」と思っただけだったが、後にどんとの曲を聴きこんでいく過程で、その時の「赤い服と黒い帽子」の衣装は、けっこう意味深いものであったかもしれないと思うようになる。
しかし、全ては後のお話だ。
ステージ上に飛び込んできたどんとはひったくるようにマイクを握り、
「それではどんとのロックンロールショーをはじめます!」
と宣言した。
派手に宣言してはみたものの、基本全部自分で準備しなければならない手作りライブなので、そこからギターの箱を開けておもむろに準備し始めたことに、客席からは爆笑が起こった。
本人は少しも気にしている様子はなく、ロックの定番曲を中心に、盛り上げていった。
途中でギターを三線に持ち替えて演奏した曲が印象的だった。
当時の私はそれがなんという曲か知らなかったのだが、今から考えると、おそらく「よいよい」だったのかなと思う。
出番を終えたどんとは、また律儀に楽器を片付けて、本当に「スタコラサッサ」という感じではけていった。
それからライブはもうぐちゃぐちゃの狂乱状態になり、再び出てきたどんとも含めて小さな海岸は集団発狂の場のようになり果てた……
ライブが終わった後もお祭りは続いた。
昼間から絵を描き続けていた私はそれなりに顔が売れていて、頼まれればフリマの店の看板を即興で描いたり、似顔絵を描いたりして、引き換えにお酒や食べ物を御馳走してもらった。
その日、私は少なくとも二十枚くらいはスケッチを描いたと思うのだが、酔った勢いでどんどん人にあげてしまって、手元に残ったのは今回紹介した数枚だけだ。
明け方くらいまで焚き火を囲んで話したり歌ったりした。私をこの異空間に誘ってくれた古い友人とも、ゆっくり風呂に入りながら話した。
やがてみんな力尽きてそれぞれのねぐらへ帰り、私も寝袋を出して海岸で寝た。
顔がじりじりと熱くなって目が覚めると、もう太陽は高く昇っていた。
周囲を見渡しても、あまり人影はない。
当時の私は時計を持ちあるかなかったので、時間がわからない。
テントの前の焚火でナンを焼いている人に「すみません、今何時ですか?」と聞くと、笑って首を振っていた。
その日はみんなで祭りの余韻を楽しむ「あとのまつり」ということで、私も一日海岸でのんびりした。
子供が四人ぐらい走りまわっていたので、一緒に遊んだ。
その中の一人が、波打ち際で竹の棒を拾ってきて「これ、サンシン!」と言いながら、弾く真似をしてくれた。
当時はまだ沖縄音楽もそれほど本土で知られておらず、三線のことも「蛇皮線」と呼ばれがちだったのだが、後で聞くとその子はどんとの息子さんだったそうで、「さすが!」と感心した。
子供たちと遊んでいた流れで、のんびりしていたどんととも、少しだけ雑談した。
昨夜のライブやその海岸の風景など、なんということもない話題だったが、誰とも知らない人間の雑談に構えずに付き合ってくれたのが嬉しかった。
日が暮れて、友人に送ってもらいながらバス停に向かっていると、向こうから一人歩いてきたどんとは静かに微笑みながら「お帰りですか?」と声を掛けてくれた。
それから数年経過した2000年、たまたま立ち読みしていた音楽雑誌で、どんとの訃報を知った。
本屋で立ちつくしながら、あの時のどんとの微笑を思い出した。
祭りの会場で、隣のハンモックで眠っていた赤ちゃんの手をしげしげと眺めながら、
「ちっちゃいなあ…… なんで動いてんねやろう……」
と呟いていたどんとの姿を、今も憶えている。
お祭りのチラシにもそう表記してあったし、熱心なファンの間でも何の疑問もなくそう考えられていただろう。
その時の私自身は、ボ・ガンボスやどんとの熱心なファンと言うほどではなかった。ただ、先輩に好きな人がいて、カセットテープに曲をいっぱい詰め込んだものを貰ったので、よく聴いていた。
十月下旬のこのお祭りの後、ほとんど時間をおかない十一月、どんとはバンドの脱退を表明し、その後は沖縄に移住。独自のソロ活動を行うことになる。
この夜のライブはかなり葛藤を抱えたものだったのかもしれないが、もちろんそんなことは外からうかがい知れるものではなく、すべては「今にして思えば」ということになる。
日が落ちると、いよいよライブが始まった。
昼間から考えると「どこから湧いてきたのか」と思うほど、わらわらと人がたくさん集まってきた。小さな海岸に、二百人くらいは集まっていたのではないだろうか。
特設ステージ背後の崖にはいたるところに蝋燭の灯が揺れ、赤ん坊から大人まで、あらゆる年齢層の皆さんが集まっていた。
スピーカーからの大音量とは逆に、海上にはぽっかりと満月が浮かび、客席の背後にはひしひしと潮が静かに満ちてきていた。
座っている人は一人もおらず、みんな思い思いに踊り狂っていた。
もう十月の夜だというのに、海に駆け込んで水しぶきを上げながら踊り続ける女の人もいた。
ライブ中盤、ついにどんとがステージに駆け上がってきた。
黒いハットに赤いチェックのスーツ、バカでかい蝶ネクタイに、とんがったサングラス。その時は「バカバカしくてカッコいいな」と思っただけだったが、後にどんとの曲を聴きこんでいく過程で、その時の「赤い服と黒い帽子」の衣装は、けっこう意味深いものであったかもしれないと思うようになる。
しかし、全ては後のお話だ。
ステージ上に飛び込んできたどんとはひったくるようにマイクを握り、
「それではどんとのロックンロールショーをはじめます!」
と宣言した。
派手に宣言してはみたものの、基本全部自分で準備しなければならない手作りライブなので、そこからギターの箱を開けておもむろに準備し始めたことに、客席からは爆笑が起こった。
本人は少しも気にしている様子はなく、ロックの定番曲を中心に、盛り上げていった。
途中でギターを三線に持ち替えて演奏した曲が印象的だった。
当時の私はそれがなんという曲か知らなかったのだが、今から考えると、おそらく「よいよい」だったのかなと思う。
出番を終えたどんとは、また律儀に楽器を片付けて、本当に「スタコラサッサ」という感じではけていった。
それからライブはもうぐちゃぐちゃの狂乱状態になり、再び出てきたどんとも含めて小さな海岸は集団発狂の場のようになり果てた……
ライブが終わった後もお祭りは続いた。
昼間から絵を描き続けていた私はそれなりに顔が売れていて、頼まれればフリマの店の看板を即興で描いたり、似顔絵を描いたりして、引き換えにお酒や食べ物を御馳走してもらった。
その日、私は少なくとも二十枚くらいはスケッチを描いたと思うのだが、酔った勢いでどんどん人にあげてしまって、手元に残ったのは今回紹介した数枚だけだ。
明け方くらいまで焚き火を囲んで話したり歌ったりした。私をこの異空間に誘ってくれた古い友人とも、ゆっくり風呂に入りながら話した。
やがてみんな力尽きてそれぞれのねぐらへ帰り、私も寝袋を出して海岸で寝た。
顔がじりじりと熱くなって目が覚めると、もう太陽は高く昇っていた。
周囲を見渡しても、あまり人影はない。
当時の私は時計を持ちあるかなかったので、時間がわからない。
テントの前の焚火でナンを焼いている人に「すみません、今何時ですか?」と聞くと、笑って首を振っていた。
その日はみんなで祭りの余韻を楽しむ「あとのまつり」ということで、私も一日海岸でのんびりした。
子供が四人ぐらい走りまわっていたので、一緒に遊んだ。
その中の一人が、波打ち際で竹の棒を拾ってきて「これ、サンシン!」と言いながら、弾く真似をしてくれた。
当時はまだ沖縄音楽もそれほど本土で知られておらず、三線のことも「蛇皮線」と呼ばれがちだったのだが、後で聞くとその子はどんとの息子さんだったそうで、「さすが!」と感心した。
子供たちと遊んでいた流れで、のんびりしていたどんととも、少しだけ雑談した。
昨夜のライブやその海岸の風景など、なんということもない話題だったが、誰とも知らない人間の雑談に構えずに付き合ってくれたのが嬉しかった。
日が暮れて、友人に送ってもらいながらバス停に向かっていると、向こうから一人歩いてきたどんとは静かに微笑みながら「お帰りですか?」と声を掛けてくれた。
それから数年経過した2000年、たまたま立ち読みしていた音楽雑誌で、どんとの訃報を知った。
本屋で立ちつくしながら、あの時のどんとの微笑を思い出した。
祭りの会場で、隣のハンモックで眠っていた赤ちゃんの手をしげしげと眺めながら、
「ちっちゃいなあ…… なんで動いてんねやろう……」
と呟いていたどんとの姿を、今も憶えている。
(続く)
2010年10月28日
どんと3
十数年前、とある海岸の月の祭が終わり、日常生活に戻った後も、私はことあるごとにあの夜のことを反芻していた。
月、海、祝祭、市、芸能など、つらつら物思いにふけるテーマには事欠かなかった。
そして、あの日体感した空気の中心に近い部分に、どんとの面影を見ていた。
ライブでの派手なパフォーマンスと、普段のもの静かな佇まいが、あのお祭りの夜と昼とシンクロしているように感じていた。
祭り自体はその後も年に一回、中秋の名月の時期に開催され、沖縄に移住してソロ活動に入ったどんとも毎年参加していたそうなのだが、私はあれ以後、祭りには行かなかった。
お祭りでない時に、二回ほどその海岸に立ち寄ったことはあったのだが、それだけだった。
もし十数年前のあの夜が、ほどよく楽しいものだったとしたら、私はすっかり気に入って毎年お祭りに駆け付けたことだろう。
しかし、私にとってあのお祭りの印象はあまりに鮮烈だった。
毎年恒例にしてある種の「慣れ」が出てきてしまうのが怖いほどに、特別な思い入れが出来てしまっていた。
また、90年代後半の数年間は、個人的に様々な出来事があって、かなり内向的な精神状態になっていたこともあった。
それまでは劇団の舞台美術等を担当したりして、けっこう人と交わる表現活動などもしていたのだが、あのお祭り以降の一年間で、思うところあって、チームプレイに属する表現は全て休止した。
一人になって、興味のある仕事だけを続けながら、前から気になっていた宗教書をあれこれ読みふけり、熊野の山々を単独で歩きまわり、実験的に小さなサイズの絵を描きためたりしていた。
自分のやりたいことにまだ名前を付けられずにいたが、あのお祭りの夜と昼の空気や「月、海、祝祭、市、芸能」には「何かある」とずっと考え続けていた。
先輩の作ったボ・ガンボスのカセットテープはずっと聴いていた。
90年代の終わりごろには、ボ・ガンボスのCDの類がほとんど入手不可能になっており、当時はまだインターネットも一般化していなかったので、どんとの沖縄でのソロ活動についてはあまり情報を得られないままだった。
擦り切れかけたカセットテープの中に「夢の中」という曲があった。
ボ・ガンボスの中でも名曲と呼ばれる作品なのだが、歌詞に当時の私の心情にぴったりな箇所があって、自分でもよく口ずさんでいた。
ボ・ガンボス時代のどんとの曲には、届かない「あこがれの地」を思ったり、そこに入りこもうと試みたりするテーマの詞が数多くあった。名曲「夢の中」などはその代表だ。
それがある時期から、完全に「彼岸」に入りこんだり、向こうからこちらを眺めていたり、こちら側とあちら側の視点が混在して区別のつかなくなるような不思議な歌詞が出てくるようになる。
そのことが2000年のどんとの死によって、どんとの歌を愛する全ての者に、謎を投げかけることになっていく。
2000年以降、どんとののこした不思議な言葉の数々が、これも不思議な符合で現実化していくことになるのだ。
どんとの死に衝撃を受けた多くのファンが、廃盤になっていたCD再発の署名活動を開始し、その作品の全てが、再びCDショップに並ぶようになった。
バンド、ソロなど様々な活動の中からピックアップされた2枚組「どんとスーパーベスト 一頭象」が発売された。このCDはどんとの死後、ベスト盤が制作される過程で、本人の私物の中から既に完全に選曲された状態のDATが偶然発見され、結局そのDATのままの曲目で発行されたというエピソードがあるという。
この「一頭象」にも収録されている「どんとマンボ」という曲の歌詞に、以下のような一節がある。
歌詞はそれから、「どんとマン」がたくさんのお土産を持って復活する描写に続いて行く……
2001年9月、私は一週間の熊野修行から帰る途中、ふと思い立って、あの海岸に久々に立ち寄ることにした。どんとのことが、気まぐれの一因になったのは間違いない。
見覚えのあるスタッフの人がいたので声をかけてみると、あの月のお祭りは2000年で一旦終結したとのことだった。
その代わり10月にどんと追悼の「どんと院まつり」が、そこで開催されることになったという。
一ヶ月後、もちろん私は駆け付けた。
月、海、祝祭、市、芸能など、つらつら物思いにふけるテーマには事欠かなかった。
そして、あの日体感した空気の中心に近い部分に、どんとの面影を見ていた。
ライブでの派手なパフォーマンスと、普段のもの静かな佇まいが、あのお祭りの夜と昼とシンクロしているように感じていた。
祭り自体はその後も年に一回、中秋の名月の時期に開催され、沖縄に移住してソロ活動に入ったどんとも毎年参加していたそうなのだが、私はあれ以後、祭りには行かなかった。
お祭りでない時に、二回ほどその海岸に立ち寄ったことはあったのだが、それだけだった。
もし十数年前のあの夜が、ほどよく楽しいものだったとしたら、私はすっかり気に入って毎年お祭りに駆け付けたことだろう。
しかし、私にとってあのお祭りの印象はあまりに鮮烈だった。
毎年恒例にしてある種の「慣れ」が出てきてしまうのが怖いほどに、特別な思い入れが出来てしまっていた。
また、90年代後半の数年間は、個人的に様々な出来事があって、かなり内向的な精神状態になっていたこともあった。
それまでは劇団の舞台美術等を担当したりして、けっこう人と交わる表現活動などもしていたのだが、あのお祭り以降の一年間で、思うところあって、チームプレイに属する表現は全て休止した。
一人になって、興味のある仕事だけを続けながら、前から気になっていた宗教書をあれこれ読みふけり、熊野の山々を単独で歩きまわり、実験的に小さなサイズの絵を描きためたりしていた。
自分のやりたいことにまだ名前を付けられずにいたが、あのお祭りの夜と昼の空気や「月、海、祝祭、市、芸能」には「何かある」とずっと考え続けていた。
先輩の作ったボ・ガンボスのカセットテープはずっと聴いていた。
90年代の終わりごろには、ボ・ガンボスのCDの類がほとんど入手不可能になっており、当時はまだインターネットも一般化していなかったので、どんとの沖縄でのソロ活動についてはあまり情報を得られないままだった。
擦り切れかけたカセットテープの中に「夢の中」という曲があった。
ボ・ガンボスの中でも名曲と呼ばれる作品なのだが、歌詞に当時の私の心情にぴったりな箇所があって、自分でもよく口ずさんでいた。
明日もどこか祭りを探して
この世の向こうへ連れていっておくれ
夢の中 雲の上 夢の中 雲の上……
ボ・ガンボス時代のどんとの曲には、届かない「あこがれの地」を思ったり、そこに入りこもうと試みたりするテーマの詞が数多くあった。名曲「夢の中」などはその代表だ。
それがある時期から、完全に「彼岸」に入りこんだり、向こうからこちらを眺めていたり、こちら側とあちら側の視点が混在して区別のつかなくなるような不思議な歌詞が出てくるようになる。
そのことが2000年のどんとの死によって、どんとの歌を愛する全ての者に、謎を投げかけることになっていく。
2000年以降、どんとののこした不思議な言葉の数々が、これも不思議な符合で現実化していくことになるのだ。
どんとの死に衝撃を受けた多くのファンが、廃盤になっていたCD再発の署名活動を開始し、その作品の全てが、再びCDショップに並ぶようになった。
バンド、ソロなど様々な活動の中からピックアップされた2枚組「どんとスーパーベスト 一頭象」が発売された。このCDはどんとの死後、ベスト盤が制作される過程で、本人の私物の中から既に完全に選曲された状態のDATが偶然発見され、結局そのDATのままの曲目で発行されたというエピソードがあるという。
この「一頭象」にも収録されている「どんとマンボ」という曲の歌詞に、以下のような一節がある。
そして一年 みんな忘れた頃
ふと気がついた どんとマンがいない
どこへ消えた おれのどんとマンよ
どこにもいない 死んじゃったのかな
歌詞はそれから、「どんとマン」がたくさんのお土産を持って復活する描写に続いて行く……
2001年9月、私は一週間の熊野修行から帰る途中、ふと思い立って、あの海岸に久々に立ち寄ることにした。どんとのことが、気まぐれの一因になったのは間違いない。
見覚えのあるスタッフの人がいたので声をかけてみると、あの月のお祭りは2000年で一旦終結したとのことだった。
その代わり10月にどんと追悼の「どんと院まつり」が、そこで開催されることになったという。
一ヶ月後、もちろん私は駆け付けた。
(続く)
2010年10月30日
どんと4
2001年10月、私は久々にあの懐かしい海岸のお祭りに参加することにした。
お祭りの名は「どんと院マツリCARNIVAL」で、2000年に亡くなったどんとの追悼ライブが中心のイベントだった。
チラシによると「楽器ナリモノ、おどり、仮装、大歓迎」ということで、私も自作の仮面とウクレレを持って、一路会場へ。
海辺のバス停で降りて漁港を抜けると、会場の方から太鼓の音が聞こえてきて、色とりどりの衣装に身を包んだ参加者の皆さんが行きかうようになった。
私が衝撃を受けたあの夜から、決して短くない時が流れていたのだが、まるで昨日のことのように、何も変ったことがなく感じられた。
ボ・ガンボスの曲に「カーニバル」という作品がある。
どんとの歌詞には発表当時謎めいていたものが、死後になってからあまりに明確な形で現実化したように見えるものがいくつかあるのだが、この「カーニバル」も、そうした作品の一つだ。
その日、その海岸で開催されたお祭りは、まさに「カーニバル」に描かれる情景そのものだったと思う。
岸壁前の特設ステージには、手作りの象のオブジェが設置され、色とりどりの花で前面が飾られていた。
私が会場に着いたのは夕方で、既にステージには蝋燭の照明がともされて、ライブは始まっており、様々な出演者が入れ替わり立ち替わり、どんとの曲を演奏していた。
私はビールを片手に、ひとまず懐かしい海岸を散策した。
色とりどりの仮設店舗ではフリーマーケットが開かれ、一般のものとは一味違った食べ物やグッズが並べられていた。
思い思いに楽器を演奏したり、おどったり、絵を描いたりする参加者の姿。
焚火でジャガイモを焼きながら、詩集を売っているおっちゃん。
「飲んでも飲まれるな」と大書してあるカクテル屋。
国籍も年齢層もばらばらで、カオスななりに、小さな海岸の中で調和している。
やはり、あの時と、なにも変わったことはない。
日が落ちると、ライブはいよいよ佳境に入る。どんとと縁の深かった出演者による「カーニバル」「坊さんごっこ」「波」など、今ここで演奏することの意味深い曲の数々。
会場の背景はあのときと同じ月夜の海。
踊り狂う人々。
ラストの「どんとマンボ」では、本当にどんとが帰って来たとしか思えない盛り上がり……
ライブが終わると、あとはそれぞれにばらけて夜を味わう。
思い思いに話したり、歌ったり、踊ったり、月や海を眺めたり。
詩人のおっちゃんの焚火では朗読会。
そのうち一人二人と力尽きていく。
私はなんとなく寝付けなくて、一人明け方ごろまでステージに座って海を眺める。
ふとステージ奥に目をやると、小さな岩のくぼみにどんとの写真が飾ってあった。
緑が目にしみるような、おそらく沖縄の風景の中、そっと微笑んで立っているどんとの姿。
写真には線香とお灯明、お経の本が供えてあった。
どんとの家は浄土真宗で、和讃も好きだったらしいことを知っていたので、私は本を手にとってパラパラめくってみる。
念仏和讃の一節をゆっくり唱えると、そろそろ眠くなってきた。
(念仏和讃については、このブログでも何度か紹介してきた)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
翌日、また昼ごろ目が覚めると、海岸で一日のんびり遊んだ。
これもまた、あのときと同じ。
夕方になり、どんとの遺灰の一部を流した岩場に、みんなで花を流しに行こうということになった。
ステージを飾っていた自然物で、花に包まれた小さな舟が作られ、残りの花を参加者がそれぞれに手にして、岩場にむかった。
様々な衣装に身を包んだ人々が百人ぐらい、手に手に花を持って更新してきたので、件の岩場で釣りをしていた人はびっくりしていた。
スタッフの人が事情説明していたが、怪しい宗教団体か何かに取り囲まれたと思ったかもしれない(笑)
こういうバカバカしさ、怪しさもまた、どんとの作品世界そのものだ。
花の小舟は沖へ沖へとゆっくり流れ、みんなが投げた花々が、渦巻きながらそれを追いかけていった。
流れてしまった後も、みんななんとなく立ち去り難く、その場で海を眺め続けていた。
夕陽を背景にした不思議な美しい風景。
私もいつまでも眺めながら、「ああ、いい法事だったなあ」と、思っていた。
お祭りの名は「どんと院マツリCARNIVAL」で、2000年に亡くなったどんとの追悼ライブが中心のイベントだった。
チラシによると「楽器ナリモノ、おどり、仮装、大歓迎」ということで、私も自作の仮面とウクレレを持って、一路会場へ。
海辺のバス停で降りて漁港を抜けると、会場の方から太鼓の音が聞こえてきて、色とりどりの衣装に身を包んだ参加者の皆さんが行きかうようになった。
私が衝撃を受けたあの夜から、決して短くない時が流れていたのだが、まるで昨日のことのように、何も変ったことがなく感じられた。
ボ・ガンボスの曲に「カーニバル」という作品がある。
どんとの歌詞には発表当時謎めいていたものが、死後になってからあまりに明確な形で現実化したように見えるものがいくつかあるのだが、この「カーニバル」も、そうした作品の一つだ。
その日、その海岸で開催されたお祭りは、まさに「カーニバル」に描かれる情景そのものだったと思う。
岸壁前の特設ステージには、手作りの象のオブジェが設置され、色とりどりの花で前面が飾られていた。
私が会場に着いたのは夕方で、既にステージには蝋燭の照明がともされて、ライブは始まっており、様々な出演者が入れ替わり立ち替わり、どんとの曲を演奏していた。
私はビールを片手に、ひとまず懐かしい海岸を散策した。
色とりどりの仮設店舗ではフリーマーケットが開かれ、一般のものとは一味違った食べ物やグッズが並べられていた。
思い思いに楽器を演奏したり、おどったり、絵を描いたりする参加者の姿。
焚火でジャガイモを焼きながら、詩集を売っているおっちゃん。
「飲んでも飲まれるな」と大書してあるカクテル屋。
国籍も年齢層もばらばらで、カオスななりに、小さな海岸の中で調和している。
やはり、あの時と、なにも変わったことはない。
日が落ちると、ライブはいよいよ佳境に入る。どんとと縁の深かった出演者による「カーニバル」「坊さんごっこ」「波」など、今ここで演奏することの意味深い曲の数々。
会場の背景はあのときと同じ月夜の海。
踊り狂う人々。
ラストの「どんとマンボ」では、本当にどんとが帰って来たとしか思えない盛り上がり……
ライブが終わると、あとはそれぞれにばらけて夜を味わう。
思い思いに話したり、歌ったり、踊ったり、月や海を眺めたり。
詩人のおっちゃんの焚火では朗読会。
そのうち一人二人と力尽きていく。
私はなんとなく寝付けなくて、一人明け方ごろまでステージに座って海を眺める。
ふとステージ奥に目をやると、小さな岩のくぼみにどんとの写真が飾ってあった。
緑が目にしみるような、おそらく沖縄の風景の中、そっと微笑んで立っているどんとの姿。
写真には線香とお灯明、お経の本が供えてあった。
どんとの家は浄土真宗で、和讃も好きだったらしいことを知っていたので、私は本を手にとってパラパラめくってみる。
念仏和讃の一節をゆっくり唱えると、そろそろ眠くなってきた。
(念仏和讃については、このブログでも何度か紹介してきた)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
翌日、また昼ごろ目が覚めると、海岸で一日のんびり遊んだ。
これもまた、あのときと同じ。
夕方になり、どんとの遺灰の一部を流した岩場に、みんなで花を流しに行こうということになった。
ステージを飾っていた自然物で、花に包まれた小さな舟が作られ、残りの花を参加者がそれぞれに手にして、岩場にむかった。
様々な衣装に身を包んだ人々が百人ぐらい、手に手に花を持って更新してきたので、件の岩場で釣りをしていた人はびっくりしていた。
スタッフの人が事情説明していたが、怪しい宗教団体か何かに取り囲まれたと思ったかもしれない(笑)
こういうバカバカしさ、怪しさもまた、どんとの作品世界そのものだ。
花の小舟は沖へ沖へとゆっくり流れ、みんなが投げた花々が、渦巻きながらそれを追いかけていった。
流れてしまった後も、みんななんとなく立ち去り難く、その場で海を眺め続けていた。
夕陽を背景にした不思議な美しい風景。
私もいつまでも眺めながら、「ああ、いい法事だったなあ」と、思っていた。
(続く)
2010年10月31日
どんと5
2001年、久々にあの懐かしい海岸のお祭りに参加してから、一年おいた2003年以降、私は毎年のようにその場所で開催される秋の満月の時期のお祭りに参加するようになった。
その過程で、私を最初にその海岸に誘ってくれた古い友人とも、再会することができた。
そのうち、なんとなく頭の中で色んなことの整理がついて、自分でも何か始めたくなっていた。
はじめはそこに訪れてライブを見たりスケッチをしたりしていただけだったのが、2004年以降はフリーマーケットに出店するようになった。
90年代半ばのあのお祭り以降、好きで調べ続けていた神仏の物語をテーマに、Tシャツやポストカード、冊子を自作して、自分のスペースに並べた。
そこで開催されるお祭りに駆け付ける人々が客層なせいか、私の持ち込んだあまり一般受けするとは思えないシロモノの数々も、そこそこ売れた。
自分の描いた神仏の絵や、紹介した神仏の物語を、わざわざお金を払ってまで見てくれる人がけっこう存在するのは、素直に嬉しかった。
この「縁日草子」というささやかなブログが今あるのも、その海岸でのフリーマーケットの体験が元になっている。
立ち寄ったお客さんや、他のお店の皆さんと色々雑談したり、ステージのライブに耳を傾けたり、看板代わりの自作ウクレレをテキトーに弾いたりしていると、あの日のお祭りに衝撃を受け、どんとの物語に巻き込まれるようにここまで来てしまったことが、なんとも不思議な気がしていた。
どんとの、とくに沖縄移住後のソロ作品は、聴き手に友人として一対一で語りかけてくるような雰囲気が強く、私と同様、どんとの描くストーリーに自分も少し加わっていくような感覚を抱いたファンも、数多いのではないだろうか。
この「死後も周囲を物語に巻き込んでいく」という在り方は、優れた芸術家や宗教者の周辺で、よく起こる現象だということも、その時はわかるようになっていた。
お祭りに参加するうち、あの日のどんとのことを手記の形でまとめたものを、ライブに出演していたどんとのパートナー・小嶋さちほさんにお渡しすることができた。
見ず知らずの一ファンの冊子など御迷惑かなとも思ったのだが、どんとの記録の断片として渡すだけでも渡しておこうと思ったのだ。
幸いにして目を通していただけたようで、私の記憶に残るどんとが、微笑みながら眺めていたハンモックで眠る赤ちゃんが、どんとの下の息子さんであるらしいこともわかった。
今年8月、小嶋さちほさんの著書が発行された。
●「虹を見たかい? 突然、愛する人を亡くしたときに」小嶋さちほ(角川書店)
これまでも雑誌やCDの解説などで断片的に語られてきたどんとのことが、本の形でまとめられた一冊で、「ファン待望」と言ってよいだろう。
この本には、どんとにまつわる不思議な出来事が数多く紹介されているのだが、そのエピソードのうちの一つに目がとまった。
私も参加した2001年「どんと院マツリ」での、小さな出来事だ。
祭りの翌日、どんとの遺灰を流した岩場に、みんなで花を流しに行ったことは私もよく覚えているのだが、そこでどんとの息子さん(あのとき、ハンモックで眠っていた赤ちゃん)が、岩場に生えた小さな松の木に、どんとの姿を見ていたらしいのだ。
ジーンズの上下に、帽子をかぶって座っている様子……
読んでいて「そういうことがあったのか」と、深く納得できるものがあった。
あの「どんと院マツリ」は、翌日の岩場の情景まで含めて、本当にいいお祭りだった。
参加していた誰もが、どんとがそこに本当に帰ってきているように感じていた。
どんとの近親でまだ年若い息子さんが、素直な感受性でそこにどんとの姿を見たというエピソードも、たしかに不思議ではあるけれども、心の中で「さもありなん」とうなづけるお話だった。
あの時、確かにどんとはジーンズの上下に帽子をかぶっていた。
その過程で、私を最初にその海岸に誘ってくれた古い友人とも、再会することができた。
そのうち、なんとなく頭の中で色んなことの整理がついて、自分でも何か始めたくなっていた。
はじめはそこに訪れてライブを見たりスケッチをしたりしていただけだったのが、2004年以降はフリーマーケットに出店するようになった。
90年代半ばのあのお祭り以降、好きで調べ続けていた神仏の物語をテーマに、Tシャツやポストカード、冊子を自作して、自分のスペースに並べた。
そこで開催されるお祭りに駆け付ける人々が客層なせいか、私の持ち込んだあまり一般受けするとは思えないシロモノの数々も、そこそこ売れた。
自分の描いた神仏の絵や、紹介した神仏の物語を、わざわざお金を払ってまで見てくれる人がけっこう存在するのは、素直に嬉しかった。
この「縁日草子」というささやかなブログが今あるのも、その海岸でのフリーマーケットの体験が元になっている。
立ち寄ったお客さんや、他のお店の皆さんと色々雑談したり、ステージのライブに耳を傾けたり、看板代わりの自作ウクレレをテキトーに弾いたりしていると、あの日のお祭りに衝撃を受け、どんとの物語に巻き込まれるようにここまで来てしまったことが、なんとも不思議な気がしていた。
どんとの、とくに沖縄移住後のソロ作品は、聴き手に友人として一対一で語りかけてくるような雰囲気が強く、私と同様、どんとの描くストーリーに自分も少し加わっていくような感覚を抱いたファンも、数多いのではないだろうか。
この「死後も周囲を物語に巻き込んでいく」という在り方は、優れた芸術家や宗教者の周辺で、よく起こる現象だということも、その時はわかるようになっていた。
お祭りに参加するうち、あの日のどんとのことを手記の形でまとめたものを、ライブに出演していたどんとのパートナー・小嶋さちほさんにお渡しすることができた。
見ず知らずの一ファンの冊子など御迷惑かなとも思ったのだが、どんとの記録の断片として渡すだけでも渡しておこうと思ったのだ。
幸いにして目を通していただけたようで、私の記憶に残るどんとが、微笑みながら眺めていたハンモックで眠る赤ちゃんが、どんとの下の息子さんであるらしいこともわかった。
今年8月、小嶋さちほさんの著書が発行された。
●「虹を見たかい? 突然、愛する人を亡くしたときに」小嶋さちほ(角川書店)
これまでも雑誌やCDの解説などで断片的に語られてきたどんとのことが、本の形でまとめられた一冊で、「ファン待望」と言ってよいだろう。
この本には、どんとにまつわる不思議な出来事が数多く紹介されているのだが、そのエピソードのうちの一つに目がとまった。
私も参加した2001年「どんと院マツリ」での、小さな出来事だ。
祭りの翌日、どんとの遺灰を流した岩場に、みんなで花を流しに行ったことは私もよく覚えているのだが、そこでどんとの息子さん(あのとき、ハンモックで眠っていた赤ちゃん)が、岩場に生えた小さな松の木に、どんとの姿を見ていたらしいのだ。
ジーンズの上下に、帽子をかぶって座っている様子……
読んでいて「そういうことがあったのか」と、深く納得できるものがあった。
あの「どんと院マツリ」は、翌日の岩場の情景まで含めて、本当にいいお祭りだった。
参加していた誰もが、どんとがそこに本当に帰ってきているように感じていた。
どんとの近親でまだ年若い息子さんが、素直な感受性でそこにどんとの姿を見たというエピソードも、たしかに不思議ではあるけれども、心の中で「さもありなん」とうなづけるお話だった。
あの時、確かにどんとはジーンズの上下に帽子をかぶっていた。
(続く)