2011年01月01日

2011年新年のご挨拶

【新年のご挨拶】
 なんだかんだ言いながらブログ開設から5年が経過。今年から六年目に突入です。
 アクセス解析によると、だいたい一日に150人前後の訪問を頂いているようで、地味な内容のブログとしてはそこそこ健闘中と言ったところでしょう。
 なかなかまとまった記事をアップするのが難しくなってきていますが、気長に読んでいただければ、それなりの内容になってくると思いますので、よろしくお付き合いください。

【ロゴ画像変更】
 今から十二年前、干支で言うと一巡り前の年賀状を元に、ロゴflashを作成。
 私が今まで作った年賀状の中で、おそらく一番受けたデザインです。

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 それでは本年も「縁日草子」をよろしくお願いいたします。
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2011年01月04日

「うわあああ」再び

 昨年、シイタケの栽培をやった記事を書きました。
 1500円ぐらいのセットで食べきれないほどキノコが出たのでけっこう楽しかったのですが、株から小さなシイタケが無数に出てくる様は、衝撃でした。

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 去年かなり楽しかったので、今年も挑戦してみたのですが、よほど条件が揃ってしまったのか、前回以上に一気に生えてきてしまいました。

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 衝撃映像と、キノコをふんだんに使った料理を堪能した年末年始でした。
 あまりに一気に生え過ぎて、知人に半分以上おすそわけも出来ました。

 色々な料理に使ったのですが、細かく刻んだシイタケをたこ焼きに入れてみると、ものすごく濃厚な味わいになって美味しかったです(笑)

 来年もまたやってしまいそうだ……
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 季節の便り | 更新情報をチェックする

2011年01月09日

宵ゑびす

 1月10日はゑびすの縁日。
 九日は宵ゑびす、十日が本ゑびす、十一日が残り福で、各地の恵比寿神社が一年のうちでもっともにぎわう時期だ。
 今夜は宵宮。
 近所に、十日恵比寿でけっこう盛り上がる神社がある。
 ちょっと出かけてきて、今帰ってきたところだ。

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 商売繁盛の神様らしく、縁起物の出店が立ち並び、俗で猥雑な何とも言えない色彩を闇の中に浮かび上がらせている。
 他にも神社の周囲には所狭しと様々なテキ屋がひしめいて、そぞろ歩きの足取りも自然に浮き立ってくる。
 たまらず屋台にとびこんで、一杯ひっかける。

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 サザエの壺焼きと日本酒。
 前から一回やってみたかったのだが、今までなんとなく他のお店や食べ物が優先されて、試してみずにいた。
 いや、なかなかいいものですね。
 各地の神社仏閣の縁日から、だんだんテキ屋さんの姿が消えつつある昨今だが、ここではまだまだ健在だ。やっぱり縁日の風景は、こうでなければ。
 サザエのスープをすすり、縁日模様を眺めながら、色々妄想する。

 えべっさん、ゑびす神は、日本神話のヒルコ、またはコトシロヌシであるとされる。
 ヒルコは蛭子、イザナギ・イザナミの長子でありながら、不完全な神であるとして流された漂泊の神。
 コトシロヌシは、出雲の大国主の息子で、国譲り神話で最後の決断を任された神。今ポピュラーな「釣りをするゑびす」の姿は、この神のものをベースにしている。
 二つの由来は全く系統が違うが、「追放された漂泊の神」という点では、何故か一致している。
 縁起物にはよく「恵比寿大黒」のコンビで登場しており、まるで友人かよく似た兄弟のような雰囲気だ。
 しかし大黒の淵源はインド神話の破壊神であり、同時に日本神話の大国主でもある。
 大黒が大国主であるとするならば、このコンビは「親子」ということになる。(大黒については、カテゴリ大黒で詳述)
 縁起物では、このコンビに加えて「おかめ」の面が加わる場合も多いが、この「おかめ」を女神の象徴ととらえるなら、「弁天」のイメージも重なってくる。
 そうなると、「恵比寿・大黒・おかめ」のトリオの縁起物は、もしかしたら三面大黒と近い神話的なイメージがあるのではないか?

 ゑびすの縁起物と言えば、すぐに笹や熊手、箕をベースにしたものが思い浮かぶ。
 笹や竹を素材にした工芸品と言えば、今の私がすぐに連想してしまうのが、山の民。
 ここにも「漂泊」のイメージ。

 ふと気づいてみれば、自分は今まさにテキ屋さんの店先で一杯飲んでいる。
 縁日が終われば、風のように消えていく「市」の真っただ中。
 徐々に縁日の風景からの排除が進む店先。
 ゑびす神は商売の神で、日本では商業が発達した中世の時点では、商人はいわゆる「良民」の部類からは外れた存在であったという。

 酔っ払いの妄想は一巡りして、何かが繋がりそうな予感に、ぶるっと身を震わせる。
 そんな宵宮。

【関連記事】
漂着神
ゑびす大黒
お盆2010
posted by 九郎 at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 季節の便り | 更新情報をチェックする

2011年01月10日

ゑびす縁起物

 十日戎の風景から発想を得て、おりがみで縁起物を作ってみた。

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 ホームセンターで小型の熊手を購入、その上に主に和紙を使った各種のネタをのせてみる。
 主役はゑびす大黒で、下部には笹をイメージした御幣風の飾りをつける。
 その他のアイテムは、実際の縁起物を色々見てみた結果、「ありがたいものならなんでもOK」ということがわかったので、自分なりに考えて折れるものをのせてみた。
 下から紹介すると、宝船、貝殻、鯛、海老、亀、俵、打ち出の小槌、金扇、鶴、提灯だ。

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 主役のお二方は、以下の本を参照している。



●「折り顔」松尾貴史(リトルモア)
 タレントの松尾貴史さんによる「おりがみ似顔絵」の本。1995年刊行なので、取り上げられている人物はやや古い感があるが、どれも見事な出来で、おりがみによる仮面制作に興味がある私には非常に参考になった。
 七福神も網羅されているのだが、残念ながら折り方は掲載されていない。
 しかし、その他の人物の折り方を参照すれば、なんとか今回の「ゑびす大黒」は似たような感じのものが折れた。


今年の十日戎も、そろそろ終盤へ……
posted by 九郎 at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 紙(カミ) | 更新情報をチェックする

2011年01月15日

野巫医者

 十日戎が終わってそろそろ一週間、縁日は過ぎ去ってみると余韻もすぐに消えてしまう。
 あれだけ露店が密集し、寒い中あれだけ人が集まっていたのに、十一日の残り福の翌朝には、もう影も形も無くなって、夢のよう消え去った。
 
 縁日を彩る露店、テキ屋稼業の風景がどのようなルーツを持つのかを知るのに、絶好の一冊がある。



●「旅芸人のいた風景―遍歴・流浪・渡世」沖浦和光(文春新書)
 今日、神社仏閣の縁日を彩る露店風景には、今はもうほとんど消滅してしまった中世以来の旅芸人「道々の者」の姿の痕跡が残っている。
 よりふかく遡れば、諸国を遍歴する遊芸者は、芸人であり、職人であり、宗教者であり、薬売りでもあり、様々な要素が混在した実態があった。
 著者はそうした存在・ヤブ医者に「野巫医者」という字をあてて捉え、広範に論じている。


 近代医療が一般に行き渡る以前には、病に苦しむ庶民はただ本人の自然治癒力に任せるか、そうでなければ諸国を遍歴する拝み屋や祈祷師に頼るほか無かった。
 そうした「野巫医者」たちは、何よりもまず患者の心を力付けるために、加持祈祷等の「芸」を執り行うのだが、それだけでは中々病気治しの成果が上がらないことは実体験としてよく知っていたので、同時に整体や漢方薬等の東洋医療の技術もある程度持ち合わせており、医療に縁の無い一般庶民にとっては最後のセーフティーネットでもあったのだ。
 西洋医術が本格的に国内に導入された明治以降も、高額な医療費を個人で払いきれない庶民にとっては、長い間「野巫医者頼み」が続いてきた。
 一応「国民皆保険」が制度化される戦後になって初めて、一般庶民も近代医療の恩恵を受けるようになったのだが、同時に法的な「野巫医者排除」が進行していった。
 薬事法等の各種法令により、身分の定かでない遍歴者が医療行為に類することはできなくなり、必然的に、物売りや芸人に限定された稼業に変容して行ったのだ。
 戦後になってTVが普及すると「芸人」も遍歴する層はほぼ消滅。
 かくて神社仏閣の縁日には、ただ物販部門だけが痕跡として残ることになった。

 縁日の風景を形成する仮設店舗は、混雑する祭礼の安全を確保するセーフティーネットでもある。
 隙間の多い、緩やかな構造の店舗が参道を区切ることによって、人の流れを誘導し、時には増えすぎた人を吸収し、脇に逃がす役割を果たしている。
 クリーンに整理しきらない猥雑さや緩さ、怪しいものをある程度まで許容する包容力は、突発する危機を緩和する作用がある。

 日本経済の低迷が続く昨今、健康保険料を支払えず無保険状態になる層も増加しているという。
 とくに児童の無保険状態は深刻なテーマとして報道でも取り上げられるようになった。
 ところが昔の庶民が頼った「野巫医者」という最後のセーフティーネットは、もう存在しない。
 医者にかからず健康状態を維持するために役立ってきた季節ごとの風習や食べ物の知識も、多くは廃れ、形骸化し、急病の際に対処法を教え、支えてくれる地域共同体も崩れ去った。
 戦後多くの命を救い、健康を守ってきた医療保険制度と法規制が、反転して低所得層を追い詰める時代が到来しつつあるのかもしれない。
 そうした事態を国がなんとかしてくれるのかと言えば、たぶんなんともしてくれない。
 国だけでなく世間の風潮として「保険料払わないのが悪い! 自己責任!」という風に切って捨ててしまいそうな怖さがある。
 
 社会の様々な局面で、曖昧な領域を「合理化」の名の下に削りすぎた弊害が、今あちこちに出てきている気がする。
 個人的な体感では、そうした「世の中を短絡的に清潔にし過ぎる」傾向が急速に進行し始めたのが、90年代後半あたりからではないかという気がしている。
posted by 九郎 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2011年01月16日

カテゴリ「90年代」

 しばらく前に個人的などんと体験のことを紹介する記事を書いていて、90年代当時の記憶が色々よみがえってきた。
 今の自分が形成された原点のような年代で、振り返ってみると、今もそこから一歩も動かずに、ただ同じ場所を黙々と掘り続けてきたような気がする。
 当時は(今もそうだが)なんとか生きて行くだけで精いっぱいで、整理がつかずに棚上げにしていたあれこれのことが、少しは棚卸しできそうな気がしてきた。
 カテゴリ「どんと」と同じく、極私的な覚書になると思うが、もしかしたら何らかの参考にしていただける内容もあるかもしれない。

 パソコンもインターネットもまだまだ一般化していなかった時代。
 携帯電話を持っていないことが、まだ「変わり者」ではなかった時代。
 写真と言えばまだフィルムだった時代。
 ほんの十年〜二十年前なのに、今では当たり前の前提が存在せず、社会の在り方が全く違っていた時代。
 多くの人が心のどこかで「世紀末」のぼんやりした不安を感じていた時代。

 私は自分のやりたいことにまだ名前をつけられずにいて、絵筆をとったり遍路したりしながらもがいていた。

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 当時の記憶や、手元に残った作品を元に、ぼちぼち整理していこうと思う。
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2011年01月17日

GUREN1

 今日の日付1月17日を、特別な感慨を持って迎える人は多い。
 私もその一人だ。

 十六年前の今日、その場所に私もいた。

 夜明け前、私は何の前触れもなく目が覚めた。
 目がさめた瞬間、無意識のうちに私は布団の中で頭部を抱え、危機回避の姿勢をとった。
 その直後である。
 これまでに経験したこともないような激しい振動が私を襲った。
 体ごと巨大なシェイカーに入れられ、猛スピードで揺すられているような感覚。
 
 今考えても不思議なことだが、振動の始まる一瞬前に、私は突然目を覚ましてそれに備えたのだった。
 あるいは初期微動のような何らかの前兆現象を無意識のうちに感じ取っていたのだろうか、もしあの回避行動がなかったら、私の頭部には、部屋中を跳ねまわるTVやその他の大型家電が直撃していたかもしれない。
 後で聞いてみると、私以外にも「なぜか揺れが始まる少し前に目が覚めた」と言う人はけっこういたようだ。

 激しい揺れは、ほとんど永遠かと思えるほどに長く続いた。
 実際に何秒間揺れが続いたのかは知らないが、体感としては本当に長かった。
 自分の体の上に、何か部屋の中の物がゴツゴツと降り注いでくるのがわかった。
 季節が真冬で、厚い掛け布団を頭からかぶって寝ていたことも幸いして、直撃は無さそうだったのだが、揺れの最中にそういうことに思考が及ぶほど長く感じた。
 それと同時に、けっこう日常的な心配事も、頭の中では繰り返されていた。

 あ〜、これは大地震やな……
 えらいことになったあ〜
 明日のバイト、どうなるんやろ?

 後から考えるとなんとものん気な想像を巡らしていたものだが、ともかくその時の私は律儀にバイト先の心配もしていた。

 阪神大震災発生のまさにその時、動転する意識の中で、人は様々な想像を巡らせるようだ。
 ある知人は激しい揺れを感じた瞬間、「ついに関東大震災が再発した」と思ったそうだ。
 東京を凄まじい巨大地震が襲い、その余波で神戸も揺れていると、とっさに妄想したらしい。
 またある友人は、前夜に泥酔していたために震災でも目が覚めず、朝起きてみると瓦礫の中だったという。
 その時とっさに出てきた想像は「ついにアメリカが攻めてきた」だったそうだ。
 ちなみにその人は戦争経験者でもなんでもない、当時二十代の若者だった。
 他にも色々、珍妙な「震災妄想」の例はあるが、きりがないので以下略。

 ようやく揺れがおさまった。
 暗闇の中、おそるおそる両手で体の各所をチェックしてみる。
 どこにも異常は無く、出血しているような手触りも無い。
 身をおこしてみると、部屋中に物は散乱しているらしいが、「生き埋め」ということも無さそうだと分かった。

 よかった。たすかった!

 私は隣の部屋に声をかけてみた。
 「おーい、大丈夫か?」
 アパートのお隣が友人だったのだ。
 「大丈夫や! そっちは?」
 声が返ってきた。壁の薄い安アパートの利点だった。
 「こっちも大丈夫。えらい地震やったなあ!」

 まだ夜明け前で、しかも大停電の最中であったからまるで外の様子がわからない。
 私たちはそれぞれの部屋のベランダに出てみた。
 多少眺望の効くベランダに出てみると、遠景にいくつかのオレンジ色の煙の柱が光っているのが見える。
 どうやらあちこちで火事が起こっているらしい。

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 「こういう時に知り合いが近所におると心強いなあ」
 隣室の友人がぽつりと言った。
 全く同感だった。
 私たちの住むアパート自体には大した被害が無さそうだとわかり、一安心した。
 すると現金なもので、他の場所の被害も大した事が無さそうに思えてきた。
 火災も起こっているが、ほどなく消防がなんとかしてくれるだろうと楽観していた。
 私達は寒いし電気も点かない事だからと、しっちゃかめっちゃかの部屋の中から酒瓶を掘り返し、明け行く風景を眺めながら酒盛りを始めたのだった。
 知らないというのは幸せなことである。
 ほんの1時間後には、能天気な私たちも、事態の深刻さに直面することになった。
(続く)
posted by 九郎 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2011年01月18日

GUREN2

 やがて夜が明けたので、私達は周囲の様子を見に行くことにした。
 正直なところ、始めは物見遊山の気分だった。
 たまたま雪が降った日にどれぐらい積もったか見に行くような、台風の日にどれぐらい荒れているか見物に行くような、そんなちょっと不謹慎な気分があったことは否定できない。
 こうした「現地の人間の率直な気分」は、巨大災害の記録としてはなかなか表に出ない部分でもある。
 当ブログのような極私的な空間であれば、記しておくことに何らかの意味もあろうかと思うので、なるべく率直に当時の心情を書いておこうと思う。

 はじめは状況を何も知らず、きわめて能天気な私であったが、阪急沿線からJR沿線に南下するにつれ、予想外に被害が甚大であることがわかってきた。
 完全に倒壊した建物が多数あったし、近所のあちこちで火災が起こっていた。
 火災の数が多すぎるのか、消防の手が足りないようで、消火活動されている様子が全くうかがえず、このままでは延焼がどんどん広がっていくのではないかと不安を感じた。
 JRの高架が、ガクンと落ち込んでしゃがまないと通れなくなっている光景には、さすがに慄然とした。
 普段、頑丈そうに見えていた高架橋が、途中で爆発したように砕け、ぐにゃりと曲がった鉄筋が提灯の骨のように露出していた。
 何がどうなればそんな風になるのか理解できず、ただ茫然と倒壊現場を眺めていた。

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 私達同様、確かな目的もなくウロウロとさまよう人間が多数いて、その中には使い捨てカメラを手に自転車で回っている者もけっこういた。
 当時はまだデジカメも、カメラ機能のついた携帯も無かったのだ。
 今どこかで震災が起これば、携帯をかざした人の群れが大量に壊れた街をさまようことになるだろう。
 ただ、ちゃんと書いておかなければならないのは、こうした(私も含めて)興味本位の野次馬連中の多くは、見物の途中に救援を求められる場面に出くわせば、迷わず手を差し伸べる善意の持ち合わせも、当然あったということだ。
 
 倒壊したJRの駅周辺は、足の踏み場も無いほどにガラスが散乱していた。
 見上げてみると、ビルの窓という窓のガラスが全て粉砕されていた。
 激震が襲ったまさにその時には、この膨大な窓ガラスの破片が雨となって降り注いだのだろう。

 どこから漏れているのか、周囲にはガスの臭いも立ち込めていた。
 そんな中、タバコをふかしながら歩いているおっさんを見かけたときは頭がくらくらした。

 また、あるビルの一階入り口では、自動ドアが故障したのか延々と開閉を繰り返していた。

 通い慣れた大通りを歩いていると、いきなり壁で行き止まりになっていて、何事かと思えば通りに面していたビルがそのまま横倒しになっていた。

 普段、街中の風景は水平垂直が守られているのだが、その朝目にとびこんでくる風景には傾いた建物や電柱が多すぎて、その中を歩いていると、軽く車酔いをしたような気分の悪さも感じた。

 ボーリング場の看板に使用されていた巨大なピンが、地面にゴロンと転がっている光景を見たときには、思わず乾いた声なき笑いが口から洩れた。

 何もかも狂っていた。
 
 (そうだ、Kは?)
 
 私は当時在籍していた劇団のリーダーのことを思い出した。
 Kは当時、JR沿線からさらに南下した阪神沿線の、老朽木造アパートに住んでいた。
 ここまでの視察では、どうやら地震被害は南に行くほど酷い。
 不安になった私と隣室の友人は、足を速めた。
(続く)
posted by 九郎 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2011年01月19日

GUREN3

 ここで簡単に関連する地理について書いておく。
 神戸は大坂湾と六甲山に挟まれ、南北に狭く、東西に薄く広がった地域だ。
 中心である三宮から大阪に向けて、阪急線、JR線、阪神線の三本の鉄道路線が並行して走っている。
 大雑把にいえば、阪急沿線は山手に差し掛かったやや高い地域を走っており、阪神線はかなり海沿いを走っている。JR線はその中間だ。
 したがって南にいくほど地盤は軟弱になり、阪神大震災の場合には、より震源地に近づいていくという悪条件も重なって、被害は凄まじいものになった。

 到着してみると、Kの住むアパートは瓦礫の山と化していた。
 それを見た瞬間、私は「ああ、死んだ!」と呻いてしまった。それほどの惨状だった。
 絶望的な気分で大声で名前を呼びながら南に回りこむと、そこには既に何人かの劇団員が集まっていて、その中心に、横たわるKがいた。
 「大丈夫、生きてます」
 一人が言った。
 その場にいる劇団員も皆被災者だったのだが、夜が明けて周囲の様子うかがってから考えたことは誰しも同じだったようで、「あのアパートは危ない」と、順次ここに駆け付けてきたそうだ。
 瓦礫に埋まっていたKは、ついさっき掘り出されたばかりだという。
 怪我をしているらしく、問いかけにも言葉での反応は無く、かなり辛そうだった。
 私達はとにかく近くの病院に運ぶことにした。
はたして病院が機能しているのかどうか分からなかったが、そうする以外に選択肢は無かった。
 Kは体をおこすこと自体が不可能な様子なので、何か戸板のようなものは無いか探してみたが、なかなか適当なものが見つからない。
結局、元は窓の外に設置されていたらしい金属柵を瓦礫の中からひっぱり出してきて、応急のタンカにすることになった。
 寒い季節の朝であることに加え、負傷していることで体温が下がっているらしく、Kはガチガチと歯を鳴らしていた。
 カーテンや布団など、布をひっぱり出せるだけひっぱり出してKを包み、数人がかりで病院に運んだ。
 金属柵の応急タンカはけっこうな重量で、道路事情も最悪。
 荷物運びにはそれなりに慣れているはずの劇団員にとっても、それはかなりの重労働だった。

 ようやく運び込んだ病院は、戦場だった。
 電気も無く、水も無い。
 それなのに怪我人は数限りなく運ばれてくる。その場で亡くなった人も多数出ているらしい。
 殺気立った医師や看護婦が絶望的な戦いを強いられていた。
 被災地では救出する方もされる方も、ともに被災者であることに変わりはない。
 程度の差により、その場その場で立場は変化していくことになる。
 うす暗い病院の半地下スペースに、何列にも蒲団が敷かれて、多数の人が治療を待ちわびていた。
 私たちもなんとかKを寝かせるスペースを確保することができた。
 ひとまずKを病院まで運べたことで、「さてこれからどうするか?」という話になった。
私たちの交友関係は貧乏暮しをしている人間が多く、したがって老朽アパートに居住している割合も高かった。
 それぞれに友人知己の安否確認をする必要があった。
 簡単な話し合いの結果、Kの付き添いを残して、劇団員は一旦解散することになった。

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 ちなみにここまでの時点で、私は警察や消防等の公的な救援活動を、一度も目にしていない。
 まったく活動していないということはもちろん無かったのだろうけれども、配備に対して被害件数の分母があまりに大きすぎたのだろう。
 巨大災害が起こった場合、公的機関は基本的に「助けに来ないもの」と認識しておいた方が良い。
 救援は待っていても決して来ない。
 その場その場の判断で、動けるものが自分で動かなければならない。
(続く)
posted by 九郎 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2011年01月30日

GUREN4

 友人Kを病院に残して劇団仲間が解散した後、私はその他の友人知己の安否確認をするために、一人で各所を巡回した。
 何件かの安アパートやワンルームマンションを確認したが、幸いなことにその範囲では救出が必要な知人はいない模様だった。
 それでも何人か、住居が倒壊、半壊している者があり、本人に会って確認する前には緊張感が走った。
 ある知人のマンションは、二階部分がグシャッと潰れており、三階に住んでいたその知人は就寝中に約2メートル分ほど落下して目が覚めたという。
 貴重品をビニール袋に詰め込んで脱出してきた知人は、興奮状態でその時の様子を語ってくれた。
 阪神大震災では、だいたい5階建て以上の高層の鉄筋コンクリートの建造物に、あちこちでこのように「ある特定の階だけ潰れる」という現象が見られた。
 一見、倒壊していないように見えても、ダルマ落としのように一階分潰れたビルというのは、実際に見てみるとじわじわ恐怖感の沸いてくる、本当に厭な眺めだった。
 ビルの構造や震源の位置によって、どの階が潰れるかはまさにロシアンルーレットのようなものだったのだろう。
 潰れてしまった階の居住者には甚大な被害が出たし、同じビルの住民は、震災時に直接の打撃を受けなくても、ビル全体が破壊されたのと同等の経済的損失を被ることになる。
 補修か建て替えかの結論が出ないまま、立ち入り禁止になって延々放置され続けたマンションも多数に上るのだが、それはまた後の話になる。
 またある知人は、ほとんど柱数本だけで辛うじて倒壊を免れたような木造アパートで、グラグラ揺れる二階部分から必死に貴重品を回収していた。
 早朝の激震以降も、度々震度3〜5クラスの余震が続いていたので危険極まりなく、その場に居合わせた友人知己は声をそろえて「はやく逃げろ」と道から呼びかけていた。

 まわれる範囲の知人の安否を確認した後、私は一旦自室に帰った。
 四畳半の部屋は洗濯機をかきまわしたような状態で、足の踏み場も無かった。電話を掘り起こしてみたものの、もちろん不通。
 当時はまだ携帯電話は完全に普及しておらず、当然ながら私も持っていなかったので、親元との連絡も取れなくなった。
 とにかく情報が必要なので、ラジオを調達しようと部屋を発掘する。
 登山のためのポケットラジオもあったはずなのだが見つからず、ラジカセの電池が生きていることを確認したので、スイッチを入れてみる。
 一応震災の情報は流れているのだが、しばらく聴いてみても一向に要領を得ず、報道機関自体が情報を求めて右往左往していることだけが判明した。
 結局、自分の足で歩き、目で見てきた範囲のことだけが確実な情報なのだ。
 部屋にいる間も、度々余震は続いた。
 今から振り返れば、そのあと被害が出るほどの激震はやってこないということが分かっているのだが、当日はそんなことを予測できないので、揺れが襲ってくるたびに非常に恐ろしい思いをした。
 いくつも倒壊したマンションを見、火災の発生現場も見てきたことで、恐怖感にも具体的なイメージが伴っていたのだ。
 このままではいつ自室も倒壊したり火災にあったりするか分かったものではない。
ともかく、山手に避難しようと思った。
 自分の見聞きしてきた範囲では、海手に行くほど被害が酷く、山手に行くほど被害が少なかった。
 山手にはいくつかの学校があったので、そこまでいけばなんとか死なずには済むだろうと思った。
それに、上手くいけば救援も望めるかもしれない。
 私はリュックに貴重品と寝袋、ラジカセ等を詰め、着られるだけの服を身につけて、近くにある学校施設に向かった。
 アパートの自室ドアには、自分や知り合いの安否情報を張り紙しておいた。

 あちこち様子をたしかめるために歩き回ってから、夕方、学校に着いた。
さすがに山手だけあって目立った被害は無かったが、学校当局も混乱しているらしく、救援物資等も届いていなかった。
 休校になっていたのだが、食堂や売店にある食料は定価で販売してくれたが、すぐに売り切れ。
 朝から何も食べていなかったので、わずかでも口に入ったことに感謝しなければならなかった。
 食堂スペースを開放してくれたので、その日はそこで就寝。
 コンクリートの床に寝袋を敷いていたので、夜、しんしんと冷え込んできた。
 食堂裏手から段ボールを何枚もひっぱり出してきて床に何重にも敷き詰め、周りに囲いを作ってみると多少寒さが緩和された。
 イヤホンをつないだラジカセからは、徐々に情報が具体的になってきた震災報道が流れていた。
 刻々と、死傷者数が増加していった。

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(続く)
posted by 九郎 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする