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2011年01月18日

GUREN2

 やがて夜が明けたので、私は隣室の友人と連れ立って周囲の様子を見に行くことにした。
 正直なところ、始めは物見遊山の気分だった。
 たまたま雪が降った日にどれぐらい積もったか見に行くような、台風の日にどれぐらい荒れているか見物に行くような、そんなちょっと不謹慎な気分があったことは否定できない。
 こうした「現地の人間の率直な気分」は、巨大災害の記録としてはなかなか表に出ない部分でもある。
 当ブログのような極私的な空間であれば、記しておくことに何らかの意味もあろうかと思うので、なるべく率直に当時の心情を書いておこうと思う。

 はじめは状況を何も知らず、きわめて能天気な私であったが、阪急沿線からJR沿線に南下するにつれ、予想外に被害が甚大であることがわかってきた。
 完全に倒壊した建物が多数あったし、近所のあちこちで火災が起こっていた。
 火災の数が多すぎるのか、消防の手が足りないようで、消火活動されている様子が全くうかがえず、このままでは延焼がどんどん広がっていくのではないかと不安を感じた。
 JRの高架が、ガクンと落ち込んでしゃがまないと通れなくなっている光景には、さすがに慄然とした。
 普段、頑丈そうに見えていた高架橋が、途中で爆発したように砕け、ぐにゃりと曲がった鉄筋が提灯の骨のように露出していた。
 何がどうなればそんな風になるのか理解できず、ただ茫然と倒壊現場を眺めていた。

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 私達同様、確かな目的もなくウロウロとさまよう人間が多数いて、その中には使い捨てカメラを手に自転車で回っている者もけっこういた。
 当時はまだデジカメも、カメラ機能のついた携帯も無かったのだ。
 今どこかで震災が起これば、携帯をかざした人の群れが大量に壊れた街をさまようことになるだろう。
 ただ、ちゃんと書いておかなければならないのは、こうした(私も含めて)興味本位の野次馬連中の多くは、見物の途中に救援を求められる場面に出くわせば、迷わず手を差し伸べる善意の持ち合わせも、当然あったということだ。
 
 倒壊したJRの駅周辺は、足の踏み場も無いほどにガラスが散乱していた。
 見上げてみると、ビルの窓という窓のガラスが全て粉砕されていた。
 激震が襲ったまさにその時には、この膨大な窓ガラスの破片が雨となって降り注いだのだろう。

 どこから漏れているのか、周囲にはガスの臭いも立ち込めていた。
 そんな中、タバコをふかしながら歩いているおっさんを見かけたときは頭がくらくらした。

 また、あるビルの一階入り口では、自動ドアが故障したのか延々と開閉を繰り返していた。

 通い慣れた大通りを歩いていると、いきなり壁で行き止まりになっていて、何事かと思えば通りに面していたビルがそのまま横倒しになっていた。

 普段、街中の風景は水平垂直が守られているのだが、その朝目にとびこんでくる風景には傾いた建物や電柱が多すぎて、その中を歩いていると、軽く車酔いをしたような気分の悪さも感じた。

 ボーリング場の看板に使用されていた巨大なピンが、地面にゴロンと転がっている光景を見たときには、思わず乾いた声なき笑いが口から洩れた。

 何もかも狂っていた。
 
(そうだ、Kは?)
 
 私は当時在籍していた劇団のリーダーのことを思い出した。
 Kは当時、JR沿線からさらに南下した阪神沿線の、老朽木造アパートに住んでいた。
 ここまでの視察では、どうやら地震被害は南に行くほど酷い。
 不安になった私と隣室の友人は、足を速めた。
(続く)
posted by 九郎 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする