何件かの安アパートやワンルームマンションを確認したが、幸いなことにその範囲では救出が必要な知人はいない模様だった。
それでも何人か、住居が倒壊、半壊している者があり、本人に会って確認する前には緊張感が走った。
ある知人のマンションは、二階部分がグシャッと潰れており、三階に住んでいたその知人は就寝中に約2メートル分ほど落下して目が覚めたという。
貴重品をビニール袋に詰め込んで脱出してきた知人は、興奮状態でその時の様子を語ってくれた。
阪神大震災では、だいたい5階建て以上の高層の鉄筋コンクリートの建造物に、あちこちでこのように「ある特定の階だけ潰れる」という現象が見られた。
一見、倒壊していないように見えても、ダルマ落としのように一階分潰れたビルというのは、実際に見てみるとじわじわ恐怖感の沸いてくる、本当に厭な眺めだった。
ビルの構造や震源の位置によって、どの階が潰れるかはまさにロシアンルーレットのようなものだったのだろう。
潰れてしまった階の居住者には甚大な被害が出たし、同じビルの住民は、震災時に直接の打撃を受けなくても、ビル全体が破壊されたのと同等の経済的損失を被ることになる。
補修か建て替えかの結論が出ないまま、立ち入り禁止になって延々放置され続けたマンションも多数に上るのだが、それはまた後の話になる。
またある知人は、ほとんど柱数本だけで辛うじて倒壊を免れたような木造アパートで、グラグラ揺れる二階部分から必死に貴重品を回収していた。
早朝の激震以降も、度々震度3〜5クラスの余震が続いていたので危険極まりなく、その場に居合わせた友人知己は声をそろえて「はやく逃げろ」と道から呼びかけていた。
まわれる範囲の知人の安否を確認した後、私は一旦自室に帰った。
四畳半の部屋は洗濯機をかきまわしたような状態で、足の踏み場も無かった。電話を掘り起こしてみたものの、もちろん不通。
当時はまだ携帯電話は完全に普及しておらず、当然ながら私も持っていなかったので、親元との連絡も取れなくなった。
とにかく情報が必要なので、ラジオを調達しようと部屋を発掘する。
登山のためのポケットラジオもあったはずなのだが見つからず、ラジカセの電池が生きていることを確認したので、スイッチを入れてみる。
一応震災の情報は流れているのだが、しばらく聴いてみても一向に要領を得ず、報道機関自体が情報を求めて右往左往していることだけが判明した。
結局、自分の足で歩き、目で見てきた範囲のことだけが確実な情報なのだ。
部屋にいる間も、度々余震は続いた。
今から振り返れば、そのあと被害が出るほどの激震はやってこないということが分かっているのだが、当日はそんなことを予測できないので、揺れが襲ってくるたびに非常に恐ろしい思いをした。
いくつも倒壊したマンションを見、火災の発生現場も見てきたことで、恐怖感にも具体的なイメージが伴っていたのだ。
このままではいつ自室も倒壊したり火災にあったりするか分かったものではない。
ともかく、山手に避難しようと思った。
自分の見聞きしてきた範囲では、海手に行くほど被害が酷く、山手に行くほど被害が少なかった。
山手にはいくつかの学校があったので、そこまでいけばなんとか死なずには済むだろうと思った。
それに、上手くいけば救援も望めるかもしれない。
私はリュックに貴重品と寝袋、ラジカセ等を詰め、着られるだけの服を身につけて、近くにある学校施設に向かった。
アパートの自室ドアには、自分や知り合いの安否情報を張り紙しておいた。
あちこち様子をたしかめるために歩き回ってから、夕方、学校に着いた。
さすがに山手だけあって目立った被害は無かったが、学校当局も混乱しているらしく、救援物資等も届いていなかった。
休校になっていたのだが、食堂や売店にある食料は定価で販売してくれたが、すぐに売り切れ。
朝から何も食べていなかったので、わずかでも口に入ったことに感謝しなければならなかった。
食堂スペースを開放してくれたので、その日はそこで就寝。
コンクリートの床に寝袋を敷いていたので、夜、しんしんと冷え込んできた。
食堂裏手から段ボールを何枚もひっぱり出してきて床に何重にも敷き詰め、周りに囲いを作ってみると多少寒さが緩和された。
イヤホンをつないだラジカセからは、徐々に情報が具体的になってきた震災報道が流れていた。
刻々と、死傷者数が増加していった。
(続く)