日本は変わった。
もう戻れない。
私も3月以前の意識にはもう戻れない。
1995年にも私ははっきり変わった。
同じようなことが規模を大きくして起こっているようだ。
しかしながら、利権屋どもの尻拭いで自分のやることを変えなければならないことも拒否する。
できることを、できるときに、できるだけ。
2011年04月01日
2011年04月07日
山に来た 里に来た 野にも来た
例年より一週間ほど遅れ気味に、春は来た。
早春の花で私が一番好きなイヌノフグリも、そろそろ終わりかけている。
今年は桜がゆっくりなので、その分、少し先行して咲くモクレンを堪能できた。
蕾から少し咲きかけた時は、木全体にお灯明が点っているように見え、開花が進むと蓮台に立像が立っているように見え、さらに進むと蓮の花が宙で乱舞しているように見える不思議な木だ。
そしてようやっと、桜の出番が来ようとしている。
東日本のかの地にも、春は来ていることだろう。
まだそれどころではないかもしれないが、かの地でも花見が行われればいいなと、願う。
私が震災にあった95年、4月の春の訪れは本当に嬉しかった。
生活はかなり厳しかったが、花見をしてほっと一息つけた。
自分の経験から言えば、被災者だからと言って24時間深刻な被災者でいることは無い。
良い飯にありつければ美味いと思うし、快便であれば気分の良い一日が始まる。
笑いもするし、のんびりもする。
被災者でない人が、被災者のために何かを自粛することなど、望んだことは一度もない。
春は誰にとっても無条件に楽しむものだ。
今回の震災以降、無関係な者が被災者感情を盾にとって、あちこち難癖をつけて回る姿を散見するが、そんな行為の方がよほど被災者に対して失礼だろうと思う。
ともかく今は、桜を。
早春の花で私が一番好きなイヌノフグリも、そろそろ終わりかけている。
今年は桜がゆっくりなので、その分、少し先行して咲くモクレンを堪能できた。
蕾から少し咲きかけた時は、木全体にお灯明が点っているように見え、開花が進むと蓮台に立像が立っているように見え、さらに進むと蓮の花が宙で乱舞しているように見える不思議な木だ。
そしてようやっと、桜の出番が来ようとしている。
東日本のかの地にも、春は来ていることだろう。
まだそれどころではないかもしれないが、かの地でも花見が行われればいいなと、願う。
私が震災にあった95年、4月の春の訪れは本当に嬉しかった。
生活はかなり厳しかったが、花見をしてほっと一息つけた。
自分の経験から言えば、被災者だからと言って24時間深刻な被災者でいることは無い。
良い飯にありつければ美味いと思うし、快便であれば気分の良い一日が始まる。
笑いもするし、のんびりもする。
被災者でない人が、被災者のために何かを自粛することなど、望んだことは一度もない。
春は誰にとっても無条件に楽しむものだ。
今回の震災以降、無関係な者が被災者感情を盾にとって、あちこち難癖をつけて回る姿を散見するが、そんな行為の方がよほど被災者に対して失礼だろうと思う。
ともかく今は、桜を。
2011年04月08日
2011年04月18日
穏やかな昼下がり
もう十数年前になるだろうか。
アルバイトの昼休みのこと。
天気がいいので公園のベンチで買ってきたパンをかじり、しばしのんびりしていた。
都市部だが川のほとりにある広い公園で、私と同じように昼休みを楽しむ勤め人の皆さんも、たくさんいた。
食事を終え、寝転がって持参した文庫本を開いていると、近づいてきたおじさんに声をかけられた。
「にいちゃん、仕事あるか? 紹介したろか?」
当時の私は(今もそうだが)どう贔屓目に見ても金を持っていそうには見えなかっただろうから、昼間から公園でゴロゴロしていれば、こういう風に声をかけられるのも無理はない。
「いや〜今、仕事の昼休みなんですよ」
「そうか。金いるんやったらええ仕事あるで」
興味本位でちょっと話を聞いてみる気になった。
「どんな仕事なんですか?」
「うん、場所は福井県でちょっと遠いんやけどな」
「……それ、もしかして原発ですか?」
「にいちゃん、よう知っとるな。まあ、金払いはええで。どや?」
私は丁重にお断りして、午後の仕事に戻ったのだった。
90年代当時から私は、興味があったので原発関連の資料をあれこれ読んでいた。
チェルノブイリ直後の80年代ほどではなかったが、まだまだ読める本はたくさんあった。2000年以降、原発の危険性を述べる書籍はほぼ壊滅状態になってしまうのだが、当時はまだ探せば見つけることができた。
原発労働者のおかれた厳しい実態については、以下の本などに詳述されており、私があの昼下がりにおじさんの誘いに乗らなかったも、それを読んでいたせいだ。
●「原発ジプシー」堀江邦夫(講談社文庫)
実際に原発労働の現場に入って書かれた、伝聞取材ではない貴重なルポ。
現在福島第一原発で進行中の「事象」の報道の中で、作業員の携帯する線量計が全員に行きわたっていないというものがあった。
よく報道写真等で写っている「防護服」には、基本的には放射線自体を大幅に遮断する機能は無い。主に作業現場に存在する放射性物質の、付着や吸入を防ぐためのものだ。
だから作業員は線量計を身につけ、規定の数値に達すると作業を中断して被曝量を管理しなければならない。ところがいわば作業員にとっては「命綱」ともいうべきその線量計が、故障などにより全員に行きわたっていないという、普通に考えれば信じ難いニュースがあったのだ。
上掲書のamazonブックレビューを読むと、そのことについての疑問が投稿されている。
東電側の言い分としては、ここでも「想定外の事象のため」というロジックが使われているのだが、そもそも本当に故障していなかったとしても十分な数の線量計は常備されていたのかという疑問が湧いてくるというのである。
本書「原発ジプシー」を読んでいた私も、ニュースを聞いた瞬間全く同じ感想を抱いた。
あくまで「疑問」であって、はっきりした「疑惑」というほどのものではないが、本に描かれる杜撰極まりない現場作業の実態から考えると、どうしてもそのような疑いを抱いてしまうのだ。
興味のある人はリンクを辿ってみてほしい。
福島の作業現場が決死隊の様相を帯びてきており、単純に「英雄視」できるような状態にないことはすでに周知の事実だが、原発労働と言うものは現在のような「非常時」だけでなく、「平時」においても悲惨な実態を持っていたことが、本書を読めば理解できるだろう。
文庫版の発行は講談社で、震災以降、反原発の急先鋒になった「週間現代」の発行元でもある。なんとか復刊してもらえないかと願っていたのだが、どうやら別の出版社から新装版が出るようだ。
●「原発ジプシー 新装改訂版」堀江邦夫(現代書館)
入手困難になって久しい本だったが、原発震災発生以降、ぜひ読まれるべき本の中の一冊だと思っていた。
他にも何冊か、復刊の望まれる本がある。
折りを見て紹介していきたい。
アルバイトの昼休みのこと。
天気がいいので公園のベンチで買ってきたパンをかじり、しばしのんびりしていた。
都市部だが川のほとりにある広い公園で、私と同じように昼休みを楽しむ勤め人の皆さんも、たくさんいた。
食事を終え、寝転がって持参した文庫本を開いていると、近づいてきたおじさんに声をかけられた。
「にいちゃん、仕事あるか? 紹介したろか?」
当時の私は(今もそうだが)どう贔屓目に見ても金を持っていそうには見えなかっただろうから、昼間から公園でゴロゴロしていれば、こういう風に声をかけられるのも無理はない。
「いや〜今、仕事の昼休みなんですよ」
「そうか。金いるんやったらええ仕事あるで」
興味本位でちょっと話を聞いてみる気になった。
「どんな仕事なんですか?」
「うん、場所は福井県でちょっと遠いんやけどな」
「……それ、もしかして原発ですか?」
「にいちゃん、よう知っとるな。まあ、金払いはええで。どや?」
私は丁重にお断りして、午後の仕事に戻ったのだった。
90年代当時から私は、興味があったので原発関連の資料をあれこれ読んでいた。
チェルノブイリ直後の80年代ほどではなかったが、まだまだ読める本はたくさんあった。2000年以降、原発の危険性を述べる書籍はほぼ壊滅状態になってしまうのだが、当時はまだ探せば見つけることができた。
原発労働者のおかれた厳しい実態については、以下の本などに詳述されており、私があの昼下がりにおじさんの誘いに乗らなかったも、それを読んでいたせいだ。
●「原発ジプシー」堀江邦夫(講談社文庫)
実際に原発労働の現場に入って書かれた、伝聞取材ではない貴重なルポ。
現在福島第一原発で進行中の「事象」の報道の中で、作業員の携帯する線量計が全員に行きわたっていないというものがあった。
よく報道写真等で写っている「防護服」には、基本的には放射線自体を大幅に遮断する機能は無い。主に作業現場に存在する放射性物質の、付着や吸入を防ぐためのものだ。
だから作業員は線量計を身につけ、規定の数値に達すると作業を中断して被曝量を管理しなければならない。ところがいわば作業員にとっては「命綱」ともいうべきその線量計が、故障などにより全員に行きわたっていないという、普通に考えれば信じ難いニュースがあったのだ。
上掲書のamazonブックレビューを読むと、そのことについての疑問が投稿されている。
東電側の言い分としては、ここでも「想定外の事象のため」というロジックが使われているのだが、そもそも本当に故障していなかったとしても十分な数の線量計は常備されていたのかという疑問が湧いてくるというのである。
本書「原発ジプシー」を読んでいた私も、ニュースを聞いた瞬間全く同じ感想を抱いた。
あくまで「疑問」であって、はっきりした「疑惑」というほどのものではないが、本に描かれる杜撰極まりない現場作業の実態から考えると、どうしてもそのような疑いを抱いてしまうのだ。
興味のある人はリンクを辿ってみてほしい。
福島の作業現場が決死隊の様相を帯びてきており、単純に「英雄視」できるような状態にないことはすでに周知の事実だが、原発労働と言うものは現在のような「非常時」だけでなく、「平時」においても悲惨な実態を持っていたことが、本書を読めば理解できるだろう。
文庫版の発行は講談社で、震災以降、反原発の急先鋒になった「週間現代」の発行元でもある。なんとか復刊してもらえないかと願っていたのだが、どうやら別の出版社から新装版が出るようだ。
●「原発ジプシー 新装改訂版」堀江邦夫(現代書館)
入手困難になって久しい本だったが、原発震災発生以降、ぜひ読まれるべき本の中の一冊だと思っていた。
他にも何冊か、復刊の望まれる本がある。
折りを見て紹介していきたい。
2011年04月25日
さらりと乾いた友情
4月17日、出ア統さんがお亡くなりになったという。
凄腕のアニメ監督であることは言うまでもないが、私にとっては他のどの作品よりも「あしたのジョー2」の、それも劇場版ではなくTV版の演出だった。
ちばてつやによる漫画版「あしたのジョー」は、永井豪の漫画「デビルマン」とともに、私にとってもっとも大切なバイブル的作品なのだが、何一つ足したり引いたりできないほど完成され、過剰な思い入れを持った膨大なファンを抱える漫画版を、まったく質的に落とすことなくアニメ化した手腕は凄まじいの一言だった。
とくにTVアニメ版「あしたのジョー2」は、かなり大胆なアレンジが加えられているにも関わらず、漫画版の力石徹死後の、寡黙で研ぎ澄まされたジョーを絶妙に表現していた。
漫画版のジョーは有名な「真っ白に燃え尽きた」ラストシーンに向けて、絵的にもどんどん研ぎ澄まされて行き、ホセ・メンドーサ戦前ぐらいになるとどんな小さいコマに登場するジョーも、黙って立っているだけでたっぷり感情がこもって見えるという、奇跡のような筆致に到達しているのだが、アニメ版「あしたのジョー2」のジョーも質的にはかなり近い線を行っている。
私がTVアニメ版を観たのはまだほんの子どもの頃のことだったが、画面からにじみ出る「大人」の雰囲気に圧倒され、一目で夢中になった。
シリーズ後半の主題歌MID NIGHT BLUESも、アニメの主題歌としては異色の本格的なブルースで作品に物凄く合っており、 今の私のブルース好きの原点になった。
アニメ版でかなりアレンジの加えられたキャラクターに「ゴロマキ権藤」がいる。
漫画版でもストーリーの節目にちらっと登場しては、独特の存在感を示していたが、アニメ版では登場回数が大幅に増えている。
力石死後のジョーは孤独癖が強くなり、ごく身近な丹下段平やマンモス西にも一定の距離をおくようになる。そんなジョーが、ふと本音を漏らしてしまう友人の一人に、アニメ版のゴロマキ権藤は読み替えられており、そのアレンジがまったく不自然ではない。
激しい試合の合間に、ぽかんとあいたジョーの心の隙間。
そんな空隙に、さりげなくゴロマキ権藤は現れて、ポツリポツリとごく短い会話をジョーと交わす。
少ない言葉のやり取りに「しょせん人間はたった一人」という諦念を前提にした、それでもあたたかい感情の交流がにじむ。
ほんの少しだけ、ジョーの心に灯がともるのを見て取ると、このヤクザは決してそれ以上には深入りしない。
煙草をふかしながら、たった一言を残して、あっけなく立ち去る。
「ごめんなすって」
凄腕のアニメ監督であることは言うまでもないが、私にとっては他のどの作品よりも「あしたのジョー2」の、それも劇場版ではなくTV版の演出だった。
ちばてつやによる漫画版「あしたのジョー」は、永井豪の漫画「デビルマン」とともに、私にとってもっとも大切なバイブル的作品なのだが、何一つ足したり引いたりできないほど完成され、過剰な思い入れを持った膨大なファンを抱える漫画版を、まったく質的に落とすことなくアニメ化した手腕は凄まじいの一言だった。
とくにTVアニメ版「あしたのジョー2」は、かなり大胆なアレンジが加えられているにも関わらず、漫画版の力石徹死後の、寡黙で研ぎ澄まされたジョーを絶妙に表現していた。
漫画版のジョーは有名な「真っ白に燃え尽きた」ラストシーンに向けて、絵的にもどんどん研ぎ澄まされて行き、ホセ・メンドーサ戦前ぐらいになるとどんな小さいコマに登場するジョーも、黙って立っているだけでたっぷり感情がこもって見えるという、奇跡のような筆致に到達しているのだが、アニメ版「あしたのジョー2」のジョーも質的にはかなり近い線を行っている。
私がTVアニメ版を観たのはまだほんの子どもの頃のことだったが、画面からにじみ出る「大人」の雰囲気に圧倒され、一目で夢中になった。
シリーズ後半の主題歌MID NIGHT BLUESも、アニメの主題歌としては異色の本格的なブルースで作品に物凄く合っており、 今の私のブルース好きの原点になった。
アニメ版でかなりアレンジの加えられたキャラクターに「ゴロマキ権藤」がいる。
漫画版でもストーリーの節目にちらっと登場しては、独特の存在感を示していたが、アニメ版では登場回数が大幅に増えている。
力石死後のジョーは孤独癖が強くなり、ごく身近な丹下段平やマンモス西にも一定の距離をおくようになる。そんなジョーが、ふと本音を漏らしてしまう友人の一人に、アニメ版のゴロマキ権藤は読み替えられており、そのアレンジがまったく不自然ではない。
激しい試合の合間に、ぽかんとあいたジョーの心の隙間。
そんな空隙に、さりげなくゴロマキ権藤は現れて、ポツリポツリとごく短い会話をジョーと交わす。
少ない言葉のやり取りに「しょせん人間はたった一人」という諦念を前提にした、それでもあたたかい感情の交流がにじむ。
ほんの少しだけ、ジョーの心に灯がともるのを見て取ると、このヤクザは決してそれ以上には深入りしない。
煙草をふかしながら、たった一言を残して、あっけなく立ち去る。
「ごめんなすって」