もう五月。
慣れてはいけない。
慣れることが恐ろしい。
2011年05月01日
2011年05月03日
2011年05月11日
死を思う
それなりに年をとった。
とは言え、まだ「死」について差し迫って考えるほどではないのだが、それでもこの年になると、さすがに直接の友人知己の死に、何度か向き合うこともある。
先日、昔の友人の墓参に行った。
昨年末に訃報を聞いていたのだが、お墓ができたと知り、動けるときにともかく行った。
彼とは学生時代の演劇サークルで同学年だった。
卒業後ほとんど交流は無かったが、彼のことはよく覚えていた。
ともに一つの演劇を作り上げるというプロセスは、役者スタッフ含めてかなり濃密な時間を共有することになるので、もう長い長い時間が流れてしまった今でも、当時の記憶は鮮明だ。
ニコニコといつも穏やかに笑う、人当たりの良い彼だった。
きっと家族に恵まれた人なんだろうなと、勝手に思ったりもしていた。
その彼が、症例の少ない難病にかかり、発病から五年で亡くなったという。
闘病中も彼らしい明るさを保って、周囲を楽しませていたという話を伝え聞いた。
そうか、彼は持ち前の人柄を、筋金入りの強さまで練り上げて逝ったのだなと、手を合わせるような気分になった。
彼や私が二十歳前後を過ごした街にある墓地の一角で、彼が好きだったドラえもんの小像が添えられたお墓を参りながら、できることなら自分も死に直面した時に、それをネタに冗談を言えるくらいの心は持っていたいと思った。
たとえば医者や家族に癌を告知されたら、ベタだけど「ガーン!」と答えるとか。
そういえば最近、昔読んだ本を久々に読み返していた。
●「大河の一滴」五木寛之(幻冬舎文庫)
初めて読んだのは初版が発行されて間もない頃。
私はまだ二十代で、仏教や諸宗教についてぼちぼち自分なりに学び始めていた頃だった。
そんな中で五木寛之の「日本幻論」に出会い、自分の家の宗派である浄土真宗の、とくに蓮如という人物にあらためて関心を持ち始めていた。
今この「大河の一滴」を読み返してみると、ほとんど始めて読んだ本のような印象を受ける。
おそらく、自分のものの感じ方が二十代に読んだ頃とはかなり違っており、面白いと思う箇所がスライドしているからだろう。
これからもきっと、読み返すたびに印象を新たにし、そのたびに「死」を思い、本とともに年を重ねていけそうに感じる。
そんな一冊だ。
とは言え、まだ「死」について差し迫って考えるほどではないのだが、それでもこの年になると、さすがに直接の友人知己の死に、何度か向き合うこともある。
先日、昔の友人の墓参に行った。
昨年末に訃報を聞いていたのだが、お墓ができたと知り、動けるときにともかく行った。
彼とは学生時代の演劇サークルで同学年だった。
卒業後ほとんど交流は無かったが、彼のことはよく覚えていた。
ともに一つの演劇を作り上げるというプロセスは、役者スタッフ含めてかなり濃密な時間を共有することになるので、もう長い長い時間が流れてしまった今でも、当時の記憶は鮮明だ。
ニコニコといつも穏やかに笑う、人当たりの良い彼だった。
きっと家族に恵まれた人なんだろうなと、勝手に思ったりもしていた。
その彼が、症例の少ない難病にかかり、発病から五年で亡くなったという。
闘病中も彼らしい明るさを保って、周囲を楽しませていたという話を伝え聞いた。
そうか、彼は持ち前の人柄を、筋金入りの強さまで練り上げて逝ったのだなと、手を合わせるような気分になった。
彼や私が二十歳前後を過ごした街にある墓地の一角で、彼が好きだったドラえもんの小像が添えられたお墓を参りながら、できることなら自分も死に直面した時に、それをネタに冗談を言えるくらいの心は持っていたいと思った。
たとえば医者や家族に癌を告知されたら、ベタだけど「ガーン!」と答えるとか。
そういえば最近、昔読んだ本を久々に読み返していた。
●「大河の一滴」五木寛之(幻冬舎文庫)
初めて読んだのは初版が発行されて間もない頃。
私はまだ二十代で、仏教や諸宗教についてぼちぼち自分なりに学び始めていた頃だった。
そんな中で五木寛之の「日本幻論」に出会い、自分の家の宗派である浄土真宗の、とくに蓮如という人物にあらためて関心を持ち始めていた。
今この「大河の一滴」を読み返してみると、ほとんど始めて読んだ本のような印象を受ける。
おそらく、自分のものの感じ方が二十代に読んだ頃とはかなり違っており、面白いと思う箇所がスライドしているからだろう。
これからもきっと、読み返すたびに印象を新たにし、そのたびに「死」を思い、本とともに年を重ねていけそうに感じる。
そんな一冊だ。
2011年05月20日
「ふるさと」を歌おう
唱歌ふるさとを聴く機会があった。
有名な「兎追いしかの山〜」という、あの歌だ。
元々好きな歌で、ふとした時に口ずさんだりしてきたのだが、他でもない「今」聴くと、心の底が揺り動かされる感があった。
今、彼の地では山も里も、川も海も、目には見えないけれども、末期的な汚染を受けつつある。
彼の地だけに限らず、日本の国土、そして蒼海原が刻一刻と汚染され続けている。
私たちのような年代より上の世代には、相対的に影響は少ないだろうが、年若い少年少女や乳幼児、妊産婦、そして物言わぬ生物たちにも、確実に汚染は広がっている。
怒りや危機感を込めた反原発ソングは、チェルノブイリ原発事故当時、今は亡き忌野清志郎さんが熱唱していたものや、今回の原発震災以降も数多く作られているが、この唱歌「ふるさと」を今歌うことは、どんな怒りの表出や論理的プロテストよりも、深く静かに「効く」のではないだろうか。
デモや集会などでもみんなで歌うといいと思った。
……という記事を前から書こう書こうと思っていたのだが、以前14歳の良識という記事で紹介した藤波心さんが、先日行われた集会で、実際に歌っていたそうだ。
やっぱりこの少女は、何か特別なものを持っている。
追記(5月30日)
音遊び「故郷」アップ。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
【唱歌 故郷(ふるさと)】(3分20秒/mp3ファイル/6MB)
有名な「兎追いしかの山〜」という、あの歌だ。
元々好きな歌で、ふとした時に口ずさんだりしてきたのだが、他でもない「今」聴くと、心の底が揺り動かされる感があった。
今、彼の地では山も里も、川も海も、目には見えないけれども、末期的な汚染を受けつつある。
彼の地だけに限らず、日本の国土、そして蒼海原が刻一刻と汚染され続けている。
私たちのような年代より上の世代には、相対的に影響は少ないだろうが、年若い少年少女や乳幼児、妊産婦、そして物言わぬ生物たちにも、確実に汚染は広がっている。
怒りや危機感を込めた反原発ソングは、チェルノブイリ原発事故当時、今は亡き忌野清志郎さんが熱唱していたものや、今回の原発震災以降も数多く作られているが、この唱歌「ふるさと」を今歌うことは、どんな怒りの表出や論理的プロテストよりも、深く静かに「効く」のではないだろうか。
デモや集会などでもみんなで歌うといいと思った。
……という記事を前から書こう書こうと思っていたのだが、以前14歳の良識という記事で紹介した藤波心さんが、先日行われた集会で、実際に歌っていたそうだ。
やっぱりこの少女は、何か特別なものを持っている。
追記(5月30日)
音遊び「故郷」アップ。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
【唱歌 故郷(ふるさと)】(3分20秒/mp3ファイル/6MB)
2011年05月29日
夕闇せまる窓際で
(昨夜以降、けっこう加筆)
最近、夕暮れ時になると、なんとなく学生時代に憶えた「寮歌」を口ずさんでいる。
私の母校は当時創立二十年ぐらいの、まだまだ新興ではあるが一応私立の受験校だった。
創立者の園長先生が、自分が青春時代を過ごした旧制高校に非常に思い入れのある人で、その校風を再現しようと努めた学校だった。
当時はまだ私立の受験校としては中堅と言ったところで、エリート校と言うほどではなく、その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて学習効果を上げる方針をとっていた。
その結果、当時ですら非常に時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような指導が行われていた。
漫画「魁!男塾」の連載開始当初には、あのファンタジックな内容が「あるあるネタ」として仲間内では盛り上がっていたし、ずっと後になって北朝鮮のTV番組が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったりするほどだった。
教師による生徒への体罰は日常茶飯事だった。
私は今でも感覚が狂っていて、新聞雑誌で「教師の不祥事」として報道される体罰事件の99パーセントは「こんな些細なことがニュースになるのか」と感じてしまう。
しかもほぼ男子校(女子も少しだけいた)だったので、巷にあふれる青春物語等とはほぼ無縁な学生生活で、もっと昔の、それこそ旧制高校時代に青春時代を過ごした作家の青春記の方が、かえって共感できたりした。
たとえばこんな本。
●「どくとるマンボウ青春記」北杜夫(新潮文庫)
そんな学生時代であったので、毎年留年の危機を繰り返しながらなんとか辿りついた卒業式で、一番に感じたことは、わが師の恩でも友との別れでもなく、抑えようもなくこみ上げてくる「解放感」だった。
私は成績別クラス編成で最下位のクラスにずっと所属していたので、学年が終わるごとに2〜3人の友人が学校を去って行った。
死屍累々の中、なんとか卒業にこぎつけたので、実感としては「卒業」というより「出所」に近かった。
「お勤めごくろうさまです!」と一声かけてほしいところだった。
あれから年月が流れて、恨みつらみが大方洗い流された今となっては、世話になった先生方、面倒をかけた先生方に感謝の念はある。
英語のY先生、やる気がなくてすみませんでした。
あなたのせいで英語は苦手になりましたが、授業以外の部分でいつも気にかけてくださったことは、今でもよく思い出します。
私はそうそうに勉学の方には見切りをつけ、留年しないようにギリギリの線は保ちながら、もっぱら絵を描いていた。
受験校だったのだが、学年に一人ずつぐらいは音楽や美術を志望する変わり種が紛れ込んでいて、私もそうした生徒だった。
所属がほぼ一人だけの美術部で、毎日校舎最上階のすみっこにある小さな部室にこもって、デッサンしたり本を読んだりしていた。
窓の外を眺めると、夕暮れの山の端に、応援団の歌う「寮歌」がこだましているのが聞こえたりしていた。
勇壮な校歌や応援歌も歌っていたが、私は断然、哀調を帯びた寮歌が好きだった。
私自身は寮生ではなく自宅通学だったのだが、かつて旧制高校の学生を表現した「バンカラ」という言葉の空気を伝える寮歌に心ひかれていた。
校歌が「先生に無理矢理覚えさせられ、歌わされた」ものであるのに対し、寮歌は「耳にするうちにふと口ずさみ、いつのまにか好きになった」ものであることも、大きかったと思う。
聞いたところによると、十代から二十代にかけて「ビートルズが嫌いな若者」が一定数存在するという。理由は「英語の時間に無理矢理覚えさせられ、歌わされたから」だということだ。
自分から歌を口ずさむには、まずその歌が音の風景として流れており、それが好ましい空気として自然に認識されるのが一番良い。
何かの歌を嫌わせるのに最も効果的な方法は、有無を言わさずに無理矢理歌わせることだと思う。
ダン、ダン、ダンダンダン……
叩きつける大太鼓とともに流れてくる寮歌の蛮声。
私もそれにあわせて、よく口ずさんでいた。
創立者である園長先生が、自分の母校の寮歌をそのまま引き継いだというその歌は、昔の旧制高校生の大先輩が作ったものと伝えられていた。
昔から、せっかく勉学のために入った学校で、少しわき道にそれてしまう先輩方がいたのだなと、思わず嬉しくなってしまう伝説だった。
上掲「どくとるマンボウ青春記」にも、寮歌に触れた部分があったと記憶している。
もう十年以上読んでいないので記憶は不正確かもしれないが、たしか「どんな音痴でも寮歌だけは歌える」というような内容があったと思う。
寮歌が音痴でも歌えるのには、二つ秘密がある。
音痴には「リズム音痴」と「音程音痴」があるが、寮歌の場合は力任せに叩きつける大太鼓で、リズムは強制的に補正される。また、声を限りの蛮声による絶唱合唱なので、こまかいメロディの間違いなどは気にならない。
結果として、「寮歌なら歌える」という現象がおきる(笑)
寮歌を聴くのに良い音源がないかと、amazonで物色してみたら、こんなのがあった。
プロの歌手がちゃんとした伴奏つきで歌ったCDが多い中、これは民族音楽で言うところの「現地録音」に近い状態のようだ。
寮歌は、歌い手があまり達者だと雰囲気が出ない。
下手糞な蛮声がやっぱり望ましい。
ちょっと値が張るのが思案どころ……
風の便りによれば、懐かしの我が母校は、今はもうすっかり普通の校風になってしまったと聞く。
時代には全く合わなくなったであろうあの「寮歌」は、今でも歌い継がれているのだろうか?
最近、夕暮れ時になると、なんとなく学生時代に憶えた「寮歌」を口ずさんでいる。
私の母校は当時創立二十年ぐらいの、まだまだ新興ではあるが一応私立の受験校だった。
創立者の園長先生が、自分が青春時代を過ごした旧制高校に非常に思い入れのある人で、その校風を再現しようと努めた学校だった。
当時はまだ私立の受験校としては中堅と言ったところで、エリート校と言うほどではなく、その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて学習効果を上げる方針をとっていた。
その結果、当時ですら非常に時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような指導が行われていた。
漫画「魁!男塾」の連載開始当初には、あのファンタジックな内容が「あるあるネタ」として仲間内では盛り上がっていたし、ずっと後になって北朝鮮のTV番組が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったりするほどだった。
教師による生徒への体罰は日常茶飯事だった。
私は今でも感覚が狂っていて、新聞雑誌で「教師の不祥事」として報道される体罰事件の99パーセントは「こんな些細なことがニュースになるのか」と感じてしまう。
しかもほぼ男子校(女子も少しだけいた)だったので、巷にあふれる青春物語等とはほぼ無縁な学生生活で、もっと昔の、それこそ旧制高校時代に青春時代を過ごした作家の青春記の方が、かえって共感できたりした。
たとえばこんな本。
●「どくとるマンボウ青春記」北杜夫(新潮文庫)
そんな学生時代であったので、毎年留年の危機を繰り返しながらなんとか辿りついた卒業式で、一番に感じたことは、わが師の恩でも友との別れでもなく、抑えようもなくこみ上げてくる「解放感」だった。
私は成績別クラス編成で最下位のクラスにずっと所属していたので、学年が終わるごとに2〜3人の友人が学校を去って行った。
死屍累々の中、なんとか卒業にこぎつけたので、実感としては「卒業」というより「出所」に近かった。
「お勤めごくろうさまです!」と一声かけてほしいところだった。
あれから年月が流れて、恨みつらみが大方洗い流された今となっては、世話になった先生方、面倒をかけた先生方に感謝の念はある。
英語のY先生、やる気がなくてすみませんでした。
あなたのせいで英語は苦手になりましたが、授業以外の部分でいつも気にかけてくださったことは、今でもよく思い出します。
私はそうそうに勉学の方には見切りをつけ、留年しないようにギリギリの線は保ちながら、もっぱら絵を描いていた。
受験校だったのだが、学年に一人ずつぐらいは音楽や美術を志望する変わり種が紛れ込んでいて、私もそうした生徒だった。
所属がほぼ一人だけの美術部で、毎日校舎最上階のすみっこにある小さな部室にこもって、デッサンしたり本を読んだりしていた。
窓の外を眺めると、夕暮れの山の端に、応援団の歌う「寮歌」がこだましているのが聞こえたりしていた。
勇壮な校歌や応援歌も歌っていたが、私は断然、哀調を帯びた寮歌が好きだった。
私自身は寮生ではなく自宅通学だったのだが、かつて旧制高校の学生を表現した「バンカラ」という言葉の空気を伝える寮歌に心ひかれていた。
校歌が「先生に無理矢理覚えさせられ、歌わされた」ものであるのに対し、寮歌は「耳にするうちにふと口ずさみ、いつのまにか好きになった」ものであることも、大きかったと思う。
聞いたところによると、十代から二十代にかけて「ビートルズが嫌いな若者」が一定数存在するという。理由は「英語の時間に無理矢理覚えさせられ、歌わされたから」だということだ。
自分から歌を口ずさむには、まずその歌が音の風景として流れており、それが好ましい空気として自然に認識されるのが一番良い。
何かの歌を嫌わせるのに最も効果的な方法は、有無を言わさずに無理矢理歌わせることだと思う。
ダン、ダン、ダンダンダン……
叩きつける大太鼓とともに流れてくる寮歌の蛮声。
私もそれにあわせて、よく口ずさんでいた。
創立者である園長先生が、自分の母校の寮歌をそのまま引き継いだというその歌は、昔の旧制高校生の大先輩が作ったものと伝えられていた。
昔から、せっかく勉学のために入った学校で、少しわき道にそれてしまう先輩方がいたのだなと、思わず嬉しくなってしまう伝説だった。
上掲「どくとるマンボウ青春記」にも、寮歌に触れた部分があったと記憶している。
もう十年以上読んでいないので記憶は不正確かもしれないが、たしか「どんな音痴でも寮歌だけは歌える」というような内容があったと思う。
寮歌が音痴でも歌えるのには、二つ秘密がある。
音痴には「リズム音痴」と「音程音痴」があるが、寮歌の場合は力任せに叩きつける大太鼓で、リズムは強制的に補正される。また、声を限りの蛮声による絶唱合唱なので、こまかいメロディの間違いなどは気にならない。
結果として、「寮歌なら歌える」という現象がおきる(笑)
寮歌を聴くのに良い音源がないかと、amazonで物色してみたら、こんなのがあった。
プロの歌手がちゃんとした伴奏つきで歌ったCDが多い中、これは民族音楽で言うところの「現地録音」に近い状態のようだ。
寮歌は、歌い手があまり達者だと雰囲気が出ない。
下手糞な蛮声がやっぱり望ましい。
ちょっと値が張るのが思案どころ……
風の便りによれば、懐かしの我が母校は、今はもうすっかり普通の校風になってしまったと聞く。
時代には全く合わなくなったであろうあの「寮歌」は、今でも歌い継がれているのだろうか?