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2011年11月22日

信長、心の友1

 しばらく前の話になるが、村上もとかの漫画『JIN-仁-』がドラマ化され、けっこうな人気だった。



 好きな漫画家の作品がドラマ化され、それが好評だったことは嬉しいのだが、『六三四の剣』の頃からの古参ファンとしては、「村上もとかだったらもっと濃密な作品はいっぱいあるのにな……」などと心の中で呟いてしまう。

 それはともかく、『JIN-仁-』と言う作品の基本設定は、現代の医師がタイムスリップで幕末〜維新期の日本に紛れ込み、市井の人々や著名な人物と関わりを持ちながら、歴史の流れに巻き込まれて行くというものだ。
 私は連載開始当時から愛読していたのだが、こうした物語の構造が「何かに似ているな」と感じていた。
 最近思い当たることがあったので書きとめておく。

 まず、現代人が異世界(過去や未来を含む)に紛れ込み、現代人の知見を活かして活躍するという構造は、昔からよく使われる手法ではある。
 特に児童文学や少年・少女漫画の世界では、使い古されていると言ってもよい構図だ。
 ごく普通の現代の少年少女が、異世界に紛れ込むことでそのごく普通の知識や体力、持ち物等が強大な力を発揮するというパターンは、読者の感情移入のしやすさと言う点では「鉄板」だろう。
 小中学生程度の理科や社会、数学の知識が「叡智」になったり、懐中電灯やライター、風邪薬などの常備品が「秘密兵器」になったりする作品を、誰もが一度は読んだことがあるだろう。
 主人公が特異な才能や能力を持っていたり、超人的な努力をする物語も面白いが、自分とほぼ等身大の主人公が、世界を移すことによって超人になれるという設定は、読者の心を甘くくすぐらずにはおかない。
 『JIN-仁-』の場合は主人公が高度な技術を持った医師なので、「ごく普通の人」とは言えないが、それでも「たった一人紛れ込んだ現代人」の眼を通して幕末〜維新期の動乱の渦中にある日本を描き出していく手法は、大人向きに洗練された異世界モノと言えるだろう。
 主人公の医師がタイムスリップする設定についてはあまり突っ込んだ描写は無く、SFとして読むのは無理だが、村上もとかの手練はそこではなく綿密な資料調査に基づき、幕末の世情を極めてリアルな「絵」で見せる点で発揮されている。

 と、ここまで誰もが感じており、おそらく作者や編集者も意図的に「ねらった」基本構造であるに違いない。
 私の妄想・与太話はここから始まる。
 こうした「異世界に紛れ込んだ現代人」の物語と似た構造を持つものに、もう一つ思い当たったのだ。
 それは世にあふれる織田信長を主人公とした一連の作品群だ。
 織田信長は日本史上で最も人気の高い人物の一人。
 信長を扱った小説、漫画、関連書籍は星の数ほど存在し、今後も増殖し続けていくことだろう。
 そうした書籍群の多くに共通するのが、信長を「中世に忽然と現れた近代人の感性を持つ男」として捉える見方だ。
 このような捉え方は、おそらく司馬遼太郎の小説に登場する信長像あたりが嚆矢ではないかと思うのだが、信長にまつわる史実の多くに納得のいく説明を与えてくれるので、確かに魅力的な説ではある。
 そして「信長=近代人の感性」とする見方は、そうした知的な満足とともに、現代人である読者を、戦国の世を行きぬく信長に極めて感情移入しやすくしてくれる効果を生む。
 神仏に支配された中世という闇の時代を、近代の知でもって切り開き、光を当てる信長という異能。
 そうした構図の物語を読む場合には、一般読者は完全に天才・信長と同一の場所に立ち、感情を共有することが可能になる。
 かくして読者は、戦国の世にあってほとんど本人以外誰にも理解されなかった(と描写される)信長の先見性も孤独も、まるごと理解できる「心の友」として、物語を生きることができるのだ。
 それはかなり甘美な体験として読者の心を捕らえて離さなくなる。

 ただ、こうしたものの見方はあくまでフィクションでだけ成立するものであることは確認しておかなければならない。
 信長の実像には多面性があり、極めて先進的な面もあれば、極めて中世的な面もある。
 極めて興味深い特異な人物であることは確かだが、単純に美化することの不可能な、極めて病的な面は否定できない。
 信長の先進的な部分だけクローズアップすれば「中世に紛れ込んだ近代人の感性」として描くことは可能だろうが、それは信長だけに言える事ではなく、他にも信長と同程度かそれ以上に先進的な面を持つ人物なり国の体制なりは、戦国の世にいくらも存在した。
 司馬遼太郎の物語作りの手腕は超一級だが、いくらリアルに見え、知的欲求に堪えてくれるものであったとしても、それはあくまでフィクションであることを忘れてはいけない。
 小説などのフィクションの中で「信長=近代人の感性」という解釈を元に物語を作るのは有りだろうと思うが、政治家や経済評論家などが己の主張の補強材料、自己正当化のネタとしてその説を採用している場合には、注意が必要だと思う。
 フィクションの中だけで成立する信長や竜馬の幻想を、自身の政治的立場を正当化するのは、単に不勉強であるか、故意に大衆を騙そうとしているかのどちらかしかありえない。
posted by 九郎 at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする