全日本仏教会が、「脱原発宣言」というべき内容の宣言文を12月1日発表したようだ。
宣言文
全日本仏教会についての概要は、wikiを参照のこと。
当ブログはこの宣言文のような「段階的脱原発」ではなく、「国内の全原発即時停止」が最も「現実的」であると主張しているのだが、こうした動きが出ること自体は肯定的に受け止めている。
ただ少々気にかかるのは、こうした「脱原発宣言」は、いったいどのようなメンバーによる、どのような議論を経て採択されたものであるかということだ。
全日本仏教会という名称を一般が見れば、まるで日本仏教全体が「脱原発」に舵を切ったかのような印象を受けるかもしれない。
しかしネット上でも「反原発」「脱原発」とは一線を画す僧侶の皆さんは、私が知っているだけでもけっこういらっしゃるので、実際の日本全国のお寺や僧侶の皆さんに、この「宣言文」がどのくらい賛同されうるものなのか、ちょっと判断がつかない。
このニュースを引用して、「日本仏教が脱原発宣言した!」と手放しで喜んでいる反原発ブロガーも散見されるが、もう少し慎重に経緯を見守った方がいいと思う。
以前紹介した、永平寺での脱原発シンポについても、実際に参加なさった皆さんがブログ記事にしたものが出そろってきた。
たとえばこちら
今回のシンポは曹洞宗全体を代表するものではなく、あくまで永平寺有志としての立場ということだ。
「もんじゅ」「ふげん」の命名に、永平寺が関わったとされる件についても、経緯が明らかになっている。
その他、最近のニュースでは、どうやら高速増殖炉「もんじゅ」が撤退の方向に進みつつあるようだ。
原発推進派の皆さんの中にも胸をなでおろしている人が多いことだろう。
2011年12月05日
2011年12月08日
乳粥
本日、12月8日は釈尊成道会(しゃくそんじょうどうえ)。
約二千五百年前、お釈迦様がインド、ブッダガヤーの菩提樹の下で、悟りを開いたと伝えられる日。
菩提樹の下で悟りを開く前、お釈迦様は誰よりも激しい苦行を行ったという。
肉体を死の限界まで痛めつける苦行の果てに、お釈迦様は「これは無意味だ」と気付いた。
この気付きは、ある意味、苦行それ自体よりも辛く厳しいものだっただろう。
自分が全てを賭けた修行の日々が、悟りとは何の関係も無いと認めることは、そのまま苦行を続けて野垂れ死にすることよりも勇気が必要だったのではないだろうか。
苦行を中止し、川で身を清めた後、お釈迦様はたまたま通りがかった少女に乳粥を差し出される。
一説には米と牛乳と蜂蜜で作ったとされるこのお粥、どれほど美味かったことだろうか。
【関連投稿】
成道会
降魔成道
色究竟天
金剛宝座
甘美な誘い
苦行
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肉体を死の限界まで痛めつける苦行の果てに、お釈迦様は「これは無意味だ」と気付いた。
この気付きは、ある意味、苦行それ自体よりも辛く厳しいものだっただろう。
自分が全てを賭けた修行の日々が、悟りとは何の関係も無いと認めることは、そのまま苦行を続けて野垂れ死にすることよりも勇気が必要だったのではないだろうか。
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2011年12月11日
蝕4
今夜は見事な皆既月蝕が見られた。
雲一つない、澄み切った冬の夜空にぽっかり浮かぶ満月が、約一時間ほどかけて悪魔に喰われていく様を眺めることができた。
晴れ渡った夜空なので完全な「蝕」の状態になっても月は消えなかった。
ドロンと赤黒い月の影が、そのまま夜空に浮かんでいた。
土曜の夜で、日付をまたがない時間帯のこと、都市部には人通りがけっこうあったが、夜空を見上げる人にはさほど出くわさなかった。
もし、もっと夜が暗い地域なら、輝く満月が小一時間ほどで欠けていけば、辺りの明るさが全く違ってくるので、気付いて上を見上げる人も多かったことだろう。
都会の夜は明るすぎるので、月の明るさは道行く人にほとんど影響を及ぼさない。
私も事前に情報が無ければ、気付けたかどうかわからない。
都会の夜はもっと暗くていい。
前からぼんやり思っていたが、とくに今年は強く感じるようになった。
別に各種店舗を夜になったら閉じろとは言わないし、街灯も灯っていていいが、夜空の暗さ、月星の輝きを邪魔しない程度にする方法はいくらでもある。
それが結果として省エネにつながればなお良い。
【関連記事】
蝕
蝕2
蝕3
太陽と月を喰う悪魔
天の乗物 太陽と月
日蝕の島
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都会の夜は明るすぎるので、月の明るさは道行く人にほとんど影響を及ぼさない。
私も事前に情報が無ければ、気付けたかどうかわからない。
都会の夜はもっと暗くていい。
前からぼんやり思っていたが、とくに今年は強く感じるようになった。
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2011年12月12日
秋の色彩2011
私の住む地域では、今年は紅葉がゆっくりだった。
平地から山間部を見上げるとけっこう色づいていたのだが、近所ではなかなか紅葉が進まなかった。
12月初頭でようやく、あたりの公園に秋の色彩がやってきた。
去年、ナンキンハゼという木の落ち葉にハマった。
近くのとある公園に何本も生えていて、ウチワ型で色とりどりの落ち葉が美しく、木の下はまさに「錦」という感じだった。
見上げると、秋の日差しに色彩が透けて見えている。
都会では「見渡す限りの紅葉」は望めないが、ピンポイントに注意を払うと、十分に楽しめる秋の色彩に出会うことができる。
葉っぱ一枚、枝一本にこだわってデジカメのモニターで風景を切り取れば、画面いっぱいの秋を楽しむことができる。
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12月初頭でようやく、あたりの公園に秋の色彩がやってきた。
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葉っぱ一枚、枝一本にこだわってデジカメのモニターで風景を切り取れば、画面いっぱいの秋を楽しむことができる。
2011年12月13日
試作おりがみ「太陽の塔」
師走である。
今年は岡本太郎生誕百年と言うことで、もっともっと関連記事を書いていきたかったのだが、3.11で予定が大幅に狂ってしまった。
ともかく、以前に書いてきた関連記事は、カテゴリ岡本太郎にまとめてある。
前からアップしようと思いながら果たせなかった記事を、まだ2011年の間に滑り込ませておきたい。
たまに手すさびで折り紙をやっているのだが、伝承の「鶴」を折っている時に、なんとなく太郎の「太陽の塔」が折れそうな気がしたので、試してみた。
正方形から切り込みなしで、折り鶴を基本にしてある。
折り重ねの線で本体の稲妻模様を表現し、一応、中央の「顔」も再現している。
背面もそれなりに表現してある。
太陽の塔の実物写真は、こちらの記事にまとめてあるので、比較してみてほしい。
もう少し改良すると、決定版ができそうだ。
今年は岡本太郎生誕百年と言うことで、もっともっと関連記事を書いていきたかったのだが、3.11で予定が大幅に狂ってしまった。
ともかく、以前に書いてきた関連記事は、カテゴリ岡本太郎にまとめてある。
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たまに手すさびで折り紙をやっているのだが、伝承の「鶴」を折っている時に、なんとなく太郎の「太陽の塔」が折れそうな気がしたので、試してみた。
正方形から切り込みなしで、折り鶴を基本にしてある。
折り重ねの線で本体の稲妻模様を表現し、一応、中央の「顔」も再現している。
背面もそれなりに表現してある。
太陽の塔の実物写真は、こちらの記事にまとめてあるので、比較してみてほしい。
もう少し改良すると、決定版ができそうだ。
2011年12月18日
太陽の塔が欲しい!
なんといっても「太陽の塔」は岡本太郎の代表作だ。
質的に太郎作品の中でも最上級であることはもちろん、大阪万博の時代状況、制作環境や、その後辿った経緯も含めて、いまだに「神話」が再生産され続けている。
多くの人に愛され、誰もが実際に体感することができる「現役」の作品であることが、また素晴らしい。
大阪千里丘陵にある万博公園にモノレールで行ってみると、公園へと続く道の途中には「太陽の塔」グッズが各種取り揃えてある売店もある。
よく売れているのは1500円ぐらいの模型と、500〜600円くらいのストラップの類だろう。
模型の方はお手頃価格で「太陽の塔」の形状をまずまず再現出来ており、ソフトビニール製でどう扱っても壊れようがない強度を持っているので、オモチャにしても大丈夫だ。
逆に言うと、あくまでオモチャの範囲内であって、精密な再現模型とは言い難い。
私は岡本太郎にハマった90年代後半頃から、ずっと「もうすこし質の高い模型が欲しい」と思っていたのだが、去年ようやく満足できるものが発売された。
●「1/350スケール 太陽の塔」ソフトビニール製塗装済み完成モデル(海洋堂)
今はもう入手困難になっているようで、けっこうなプレミア価格になってしまっているが、発売当時は2980円で手を出し易かった。
上掲のお土産品の写真や、実物写真と比べると、かなり再現度が高いことが分かると思う。
全高220ミリ。
解説ブックレット等は付属していないが、箱にけっこう詳細な解説が印刷されている。
さすがの海洋堂品質だが、こうした彩色済みフィギュアの制作工程上、どうしても「塗り」「仕上げ」に多少のばらつきは出てしまう。
私は書店で売られていた4個ほどの中から、自分の思うベストの物を選んで買った。
今現在amazonでは12000円程の値がついているようだが、実物の状態を確かめられない通販でこの値段では、購入にはちょっとリスクがあると思う。
発売されてから一年余りなので、大型書店などで探せば、ぎりぎりまだ定価の物が出ているかもしれない。
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試作おりがみ「太陽の塔」
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よく売れているのは1500円ぐらいの模型と、500〜600円くらいのストラップの類だろう。
模型の方はお手頃価格で「太陽の塔」の形状をまずまず再現出来ており、ソフトビニール製でどう扱っても壊れようがない強度を持っているので、オモチャにしても大丈夫だ。
逆に言うと、あくまでオモチャの範囲内であって、精密な再現模型とは言い難い。
私は岡本太郎にハマった90年代後半頃から、ずっと「もうすこし質の高い模型が欲しい」と思っていたのだが、去年ようやく満足できるものが発売された。
●「1/350スケール 太陽の塔」ソフトビニール製塗装済み完成モデル(海洋堂)
今はもう入手困難になっているようで、けっこうなプレミア価格になってしまっているが、発売当時は2980円で手を出し易かった。
上掲のお土産品の写真や、実物写真と比べると、かなり再現度が高いことが分かると思う。
全高220ミリ。
解説ブックレット等は付属していないが、箱にけっこう詳細な解説が印刷されている。
さすがの海洋堂品質だが、こうした彩色済みフィギュアの制作工程上、どうしても「塗り」「仕上げ」に多少のばらつきは出てしまう。
私は書店で売られていた4個ほどの中から、自分の思うベストの物を選んで買った。
今現在amazonでは12000円程の値がついているようだが、実物の状態を確かめられない通販でこの値段では、購入にはちょっとリスクがあると思う。
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2011年12月25日
裏通りのクリスマス
例年、仕事で子供相手のクリスマス会のお手伝いをしている。
その会で毎年流されるビデオに、子供たちと一緒になってけっこう見入ってしまう。
●「ジミニー・クリケットのクリスマス」
1995年発売のVHSビデオ。歴代ディズニー作品の中から「クリスマス」に関する短編を集めてあり、『白雪姫』『ピノキオ』『シンデレラ』『ファンタジア』等の有名作からもちなんだシーンが抜粋されている。
かなり厳選され、よく吟味された編集になっていて非常に楽しめる。
自分でも入手したいと思い、また他人にも勧めたいと思って今回調べてみたのだが、残念ながらVHSの中古品のみでDVDにはなっていないようだ。
私は子供の頃ディズニーはさほど見ていなかったので、仕事の合間にほとんど初見の印象で上記の有名作の映像を眺め、その素晴らしさにびっくりしていた。
かえって古い作品の方が「動き」の面白さに満ちているように思えた。
とくに『ファンタジア』の映像美に驚愕して、アニメの技術の発展の意味って何なのだろうと、あらためてあれこれ考えさせられた。
何よりも『白雪姫』の指先の表情まで行きとどいた「演技の上手さ」に唸ってしまった。
恥ずかしながら大人になってからディズニーアニメの凄みに気付いて、それ以後機会があれば逃さず見るようにしている。
このビデオを毎年眺めている内に、それまでは「メジャー過ぎて自分とは縁遠い」と独り決めしていたディズニー作品の中に、気になるモチーフが頻繁に登場することに気付いた。
たとえば収録されているモノクロ短編では、主演のミッキーマウスは愛犬プルートとともに路上演奏で日銭を稼ぐ、しがない大道芸人になっている。
クリスマスの夜、芸人ミッキーは、とあるボロ家の窓から哀しい情景を覗いてしまう。
暗い部屋の中、机に突っ伏して泣き暮れる女性。
飾られた写真には、おそらく夫であろう男性が牢屋に入っているところが写っている。
部屋の奥のベッドには、それでもサンタの夢を見ながらスヤスヤと寝入る、びっくりするほどたくさんの子供たち。
深く同情したミッキーは、金持ちの家に愛犬を売り渡すことで、この哀れな家庭にたくさんのプレゼントを用意することに決めるのだが……
こうしてあらすじを文章に起こすと、陰鬱でどうしようもない印象になってしまうかもしれないが、さすがにミッキーマウス主演作なので、良い子にも安心して見せられる趣向に仕上げられている。
この作品には大道芸人や、ヤクザ者とその家族が登場するが、考えてみるとディズニーアニメにはこうしたマージナルな存在がけっこう頻繁に登場する。
森の小人や魔法使い、ジプシーやせむし男等はすぐに思いつくところだ。
そうしたかなりきわどいモチーフを、単なる小道具ではなく中心に据えながら、それでも世界中の子供たちに親しまれる作品に仕上げていくところに、ちょっと怖いような凄みを感じてしまう。
今回紹介したミッキーマウス主演「ミッキー街の哀話」は、宝島社から出ているDVD BOXに収録されているのを発見した。興味のある人は手に取ってみてください。
ミッキーマウス DVD BOX vol.4
その会で毎年流されるビデオに、子供たちと一緒になってけっこう見入ってしまう。
●「ジミニー・クリケットのクリスマス」
1995年発売のVHSビデオ。歴代ディズニー作品の中から「クリスマス」に関する短編を集めてあり、『白雪姫』『ピノキオ』『シンデレラ』『ファンタジア』等の有名作からもちなんだシーンが抜粋されている。
かなり厳選され、よく吟味された編集になっていて非常に楽しめる。
自分でも入手したいと思い、また他人にも勧めたいと思って今回調べてみたのだが、残念ながらVHSの中古品のみでDVDにはなっていないようだ。
私は子供の頃ディズニーはさほど見ていなかったので、仕事の合間にほとんど初見の印象で上記の有名作の映像を眺め、その素晴らしさにびっくりしていた。
かえって古い作品の方が「動き」の面白さに満ちているように思えた。
とくに『ファンタジア』の映像美に驚愕して、アニメの技術の発展の意味って何なのだろうと、あらためてあれこれ考えさせられた。
何よりも『白雪姫』の指先の表情まで行きとどいた「演技の上手さ」に唸ってしまった。
恥ずかしながら大人になってからディズニーアニメの凄みに気付いて、それ以後機会があれば逃さず見るようにしている。
このビデオを毎年眺めている内に、それまでは「メジャー過ぎて自分とは縁遠い」と独り決めしていたディズニー作品の中に、気になるモチーフが頻繁に登場することに気付いた。
たとえば収録されているモノクロ短編では、主演のミッキーマウスは愛犬プルートとともに路上演奏で日銭を稼ぐ、しがない大道芸人になっている。
クリスマスの夜、芸人ミッキーは、とあるボロ家の窓から哀しい情景を覗いてしまう。
暗い部屋の中、机に突っ伏して泣き暮れる女性。
飾られた写真には、おそらく夫であろう男性が牢屋に入っているところが写っている。
部屋の奥のベッドには、それでもサンタの夢を見ながらスヤスヤと寝入る、びっくりするほどたくさんの子供たち。
深く同情したミッキーは、金持ちの家に愛犬を売り渡すことで、この哀れな家庭にたくさんのプレゼントを用意することに決めるのだが……
こうしてあらすじを文章に起こすと、陰鬱でどうしようもない印象になってしまうかもしれないが、さすがにミッキーマウス主演作なので、良い子にも安心して見せられる趣向に仕上げられている。
この作品には大道芸人や、ヤクザ者とその家族が登場するが、考えてみるとディズニーアニメにはこうしたマージナルな存在がけっこう頻繁に登場する。
森の小人や魔法使い、ジプシーやせむし男等はすぐに思いつくところだ。
そうしたかなりきわどいモチーフを、単なる小道具ではなく中心に据えながら、それでも世界中の子供たちに親しまれる作品に仕上げていくところに、ちょっと怖いような凄みを感じてしまう。
今回紹介したミッキーマウス主演「ミッキー街の哀話」は、宝島社から出ているDVD BOXに収録されているのを発見した。興味のある人は手に取ってみてください。
ミッキーマウス DVD BOX vol.4
2011年12月26日
「太陽の塔」を読む
大阪の万博公園に今もすっくと立っている「太陽の塔」。
あの作品は、なぜ大阪万博からはるかに時が流れた今でもあそこに残っているのか?
多くの人はその理由を、以下のように理解しているのではないだろうか?
あの塔は大阪万博の開催にあわせて作成されたシンボルタワーで、万博が終わった後、他の仮設パビリオンが撤去された後もずっと残されることを前提に作成された……
今「太陽の塔」を眺めると、自然とそんな風に解釈し、確認する必要もない当たり前のこととして認識しがちだ。
私ももちろんそうだった。
ところが、違うのだ。
そもそも大阪万博のシンボルタワーは別に建設されており、それは今はもう存在しない。
問題の「太陽の塔」は、万博会場の設計に途中から挿入された「異物」であり、実は機能的には膨大な観客を滞留させずに流すための「通路」として作られたという。
それがいつの間にか大阪万博を象徴するシンボルとして誰の心にも認識されるようになり、半年もたてば解体されるはずだった仮設の構造物が40年を超える命を持つに至ったのか?
戦後の日本が世界デビューを果たすために、国家の威信をかけて取り組んだ巨大プロジェクトに、なぜそのようなイレギュラーな「異変」が起こったのか?
おそらく日本史上空前絶後の「マツリ」だったであろう大阪万博の、熱狂の渦の中心部分に岡本太郎という個性が居合わせたことの不思議。
その謎を解読することは、ほとんどそのまま岡本太郎と言う存在と直面することと同義になる。
●「岡本太郎」平野暁臣(PHP新書)
●「岡本太郎と太陽の塔」平野暁臣 編著(小学館クリエイティブビジュアルブック)
そんな謎について考えるための材料を提示してくれるのが、これらの二冊。
大阪万博の熱狂を実体験した人にも、また今現在の「太陽の塔のある風景」に馴染んできた人にも、ぜひ手にとって見てほしい。
太郎生誕百年の今年発行された関連書籍は、個人的にはいま一つ「不作」だったと思っている。
ファンとしては期待が大きすぎたのかもしれない。
どうせ入手するならこれらの本の方がいい。
更に踏み込んで太郎について考えてみたい場合には、以下の書籍がお勧め。
●「謎解き太陽の塔」石井匠(幻冬舎新書)
二つの最高傑作「太陽の塔」と「明日の神話」に関して、太郎の経歴や過去の作品からかなり緻密な解読が試されており、参考になる。
ただ、あまりに「後付け」できれいに説明しすぎな感はある。
岡本太郎はその著作等を読むと相当な「知性の人」と言う印象を受けるが、身近だった人の書いたものを読むと、まさに芸術家そのものの「感性の人」と言う姿が浮かび上がってくる。
上掲本のような解読も納得がいき、当然「有り」だと思うのだが、太郎本人が自覚してそのように作品を制作したとは限らないと思う。
結果として絵画や立体作品を辿ると、深層意識にそのような流れがあったとは言えるかもしれない。
太郎の、とくに著作について考える場合、パートナーであった岡本敏子の存在をどう考えるかということが、重要になってくるはずだ。
あの作品は、なぜ大阪万博からはるかに時が流れた今でもあそこに残っているのか?
多くの人はその理由を、以下のように理解しているのではないだろうか?
あの塔は大阪万博の開催にあわせて作成されたシンボルタワーで、万博が終わった後、他の仮設パビリオンが撤去された後もずっと残されることを前提に作成された……
今「太陽の塔」を眺めると、自然とそんな風に解釈し、確認する必要もない当たり前のこととして認識しがちだ。
私ももちろんそうだった。
ところが、違うのだ。
そもそも大阪万博のシンボルタワーは別に建設されており、それは今はもう存在しない。
問題の「太陽の塔」は、万博会場の設計に途中から挿入された「異物」であり、実は機能的には膨大な観客を滞留させずに流すための「通路」として作られたという。
それがいつの間にか大阪万博を象徴するシンボルとして誰の心にも認識されるようになり、半年もたてば解体されるはずだった仮設の構造物が40年を超える命を持つに至ったのか?
戦後の日本が世界デビューを果たすために、国家の威信をかけて取り組んだ巨大プロジェクトに、なぜそのようなイレギュラーな「異変」が起こったのか?
おそらく日本史上空前絶後の「マツリ」だったであろう大阪万博の、熱狂の渦の中心部分に岡本太郎という個性が居合わせたことの不思議。
その謎を解読することは、ほとんどそのまま岡本太郎と言う存在と直面することと同義になる。
●「岡本太郎」平野暁臣(PHP新書)
●「岡本太郎と太陽の塔」平野暁臣 編著(小学館クリエイティブビジュアルブック)
そんな謎について考えるための材料を提示してくれるのが、これらの二冊。
大阪万博の熱狂を実体験した人にも、また今現在の「太陽の塔のある風景」に馴染んできた人にも、ぜひ手にとって見てほしい。
太郎生誕百年の今年発行された関連書籍は、個人的にはいま一つ「不作」だったと思っている。
ファンとしては期待が大きすぎたのかもしれない。
どうせ入手するならこれらの本の方がいい。
更に踏み込んで太郎について考えてみたい場合には、以下の書籍がお勧め。
●「謎解き太陽の塔」石井匠(幻冬舎新書)
二つの最高傑作「太陽の塔」と「明日の神話」に関して、太郎の経歴や過去の作品からかなり緻密な解読が試されており、参考になる。
ただ、あまりに「後付け」できれいに説明しすぎな感はある。
岡本太郎はその著作等を読むと相当な「知性の人」と言う印象を受けるが、身近だった人の書いたものを読むと、まさに芸術家そのものの「感性の人」と言う姿が浮かび上がってくる。
上掲本のような解読も納得がいき、当然「有り」だと思うのだが、太郎本人が自覚してそのように作品を制作したとは限らないと思う。
結果として絵画や立体作品を辿ると、深層意識にそのような流れがあったとは言えるかもしれない。
太郎の、とくに著作について考える場合、パートナーであった岡本敏子の存在をどう考えるかということが、重要になってくるはずだ。
2011年12月27日
コンビ名「岡本太郎」
岡本太郎と敏子の関係を、上手く表現する言葉がなかなか見つからない。
仕事の上から見れば「秘書」とするのが適当かもしれないし、作品制作や、もっと大きく「生きざま」において二人は深く関わりすぎていて、オフィシャルな表現があまり似合わない。
戸籍上、敏子は太郎の「養女」と言うことんなっているが、それは「絵を売らない画家」であった岡本太郎の作品群を、散逸させずに管理する上での便宜上の形だと思われる。
「戦友」と言うのとも少し違う。
やはり「パートナー」とか、やや大げさながら「半身」と呼ぶのが良いかもしれない。
1947〜48年頃、太郎と敏子は出会ったらしいのだが、それ以降二人はほとんど一心同体となって活動を続けた。
至近距離で見てきた敏子によると、太郎は24時間あの「岡本太郎」だった訳ではなく、当然のように「素」の部分もあったという。
対外的には、世界中を相手取ったケタ外れの努力と意地っ張りで「岡本太郎」であり続けたのだが、それを支え続けたのが敏子だった。
そして単に「支える」という範囲を超えていたと思われるのが、太郎の活動のうちの相当な割合を占める著述だ。
岡本太郎名義の著作の多くは、折に触れて太郎の語った言葉を敏子が書きとめ、原稿にまとめたものであるという。
少しでも文章を書いた経験があれば分かることだが、話し言葉を逐一文字に起こしただけでは、およそ論理の通る文章にはなってくれない。
聴き手兼書き手にそれ相応の素養と知性が無ければ、そもそも日本語の体をなしてくれないので、喋った内容がその意図を活かした本として完成することはあり得ない。
太郎の著作は、一面では「敏子の捉えた太郎の思想」であるだろう。
著作については敏子の功績が大きかったと認識していたのだが、最近読んだ本に興味深い内容を発見した。
●「奇縁まんだら 続の二」瀬戸内寂聴(日本経済新聞出版社)
太郎と敏子と私的な交際があったという著者が、ある日絵画作品の制作現場に居合わせたときの情景が、書きとめられている。
それによると、アトリエで大きなキャンバスを前にした太郎が、少し離れたところにいる敏子の指定する色をそのまま画面に入れていく様を目撃したという。
そして「絵もまた合作か。私は妙に納得した。」と、そのシーンは結ばれている。
確かに寂聴さんが目撃したような情景は、事実として存在したのだろう。
それは分かるのだが、絵描きのハシクレとしては、文章と同様「絵もまた合作か」と言う風に簡単にまとめられると、少し違和感がある。
絵描きが作品を描く場合、常に「描く距離」と「観る距離」を意識する。
絵筆をとって「描く」ためには、画面にかなり接近する必要があるのだが、出来上がった絵を他者が観る場合は、もっと離れた距離になる。
距離が違うと、とくに色の印象が全く変わってくるため、度々作品から「離れて」確認しながら制作することになるのだ。
小さい作品なら「離す」ことにさほどストレスは無いのだが、大きな作品になると何歩も動いて確認しなければならず、その度に絵筆の動きが中断されることになる。
とくに太郎の絵画作品のような、激しく動的な作品であれば、手の動きが度々中断されてライブ感がそがれることには、かなりのストレスがあっただろうと想像される。
おそらく敏子はそうしたストレスを軽減するために、少し離れたところで作品を俯瞰しながら、太郎の「眼」の代理をしていたのではないだろうか。
絵を描くという行為は、傍目には絵筆をとる手の動きだけに注意が向きがちだが、実は「眼で観る」「感じる、考える」「手で描く」という、ほとんど同等の三つの要素から成立している。
そのうちの二つを、「岡本太郎」の無比の理解者である敏子が、高いレベルで補助していたということなのだろうと思う。
おそらく小品の場合はそのような補助は必要なかったと思われるので、文章の場合と比較すると、相対的には敏子の果たす割合は少なかったのではないだろうか。
絵描きのハシクレとしては、このあたりのニュアンスの違いにはこだわりたいところだ。
しかしながら、絵描きが他人に「眼」を代理してもらうことの重大さ自体はよく理解できる。
太郎のような強烈な個性で、そうした分業が成立したことは、ほとんど奇跡のように感じる。
晩年にはパーキンソン病を患っていた太郎を「岡本太郎」であり続けさせ、没後はほとんど「岡本太郎」が乗り移ったようなパワーで再評価の機運を作り、幻の大作「明日の神話」をメキシコで発見して日本に持ち帰る道筋を作り、それで役目を終えたようにさらりと去って行った敏子。
今現在、私達の思うあの「岡本太郎」像が、二人の合作であることには異論がないのである。
仕事の上から見れば「秘書」とするのが適当かもしれないし、作品制作や、もっと大きく「生きざま」において二人は深く関わりすぎていて、オフィシャルな表現があまり似合わない。
戸籍上、敏子は太郎の「養女」と言うことんなっているが、それは「絵を売らない画家」であった岡本太郎の作品群を、散逸させずに管理する上での便宜上の形だと思われる。
「戦友」と言うのとも少し違う。
やはり「パートナー」とか、やや大げさながら「半身」と呼ぶのが良いかもしれない。
1947〜48年頃、太郎と敏子は出会ったらしいのだが、それ以降二人はほとんど一心同体となって活動を続けた。
至近距離で見てきた敏子によると、太郎は24時間あの「岡本太郎」だった訳ではなく、当然のように「素」の部分もあったという。
対外的には、世界中を相手取ったケタ外れの努力と意地っ張りで「岡本太郎」であり続けたのだが、それを支え続けたのが敏子だった。
そして単に「支える」という範囲を超えていたと思われるのが、太郎の活動のうちの相当な割合を占める著述だ。
岡本太郎名義の著作の多くは、折に触れて太郎の語った言葉を敏子が書きとめ、原稿にまとめたものであるという。
少しでも文章を書いた経験があれば分かることだが、話し言葉を逐一文字に起こしただけでは、およそ論理の通る文章にはなってくれない。
聴き手兼書き手にそれ相応の素養と知性が無ければ、そもそも日本語の体をなしてくれないので、喋った内容がその意図を活かした本として完成することはあり得ない。
太郎の著作は、一面では「敏子の捉えた太郎の思想」であるだろう。
著作については敏子の功績が大きかったと認識していたのだが、最近読んだ本に興味深い内容を発見した。
●「奇縁まんだら 続の二」瀬戸内寂聴(日本経済新聞出版社)
太郎と敏子と私的な交際があったという著者が、ある日絵画作品の制作現場に居合わせたときの情景が、書きとめられている。
それによると、アトリエで大きなキャンバスを前にした太郎が、少し離れたところにいる敏子の指定する色をそのまま画面に入れていく様を目撃したという。
そして「絵もまた合作か。私は妙に納得した。」と、そのシーンは結ばれている。
確かに寂聴さんが目撃したような情景は、事実として存在したのだろう。
それは分かるのだが、絵描きのハシクレとしては、文章と同様「絵もまた合作か」と言う風に簡単にまとめられると、少し違和感がある。
絵描きが作品を描く場合、常に「描く距離」と「観る距離」を意識する。
絵筆をとって「描く」ためには、画面にかなり接近する必要があるのだが、出来上がった絵を他者が観る場合は、もっと離れた距離になる。
距離が違うと、とくに色の印象が全く変わってくるため、度々作品から「離れて」確認しながら制作することになるのだ。
小さい作品なら「離す」ことにさほどストレスは無いのだが、大きな作品になると何歩も動いて確認しなければならず、その度に絵筆の動きが中断されることになる。
とくに太郎の絵画作品のような、激しく動的な作品であれば、手の動きが度々中断されてライブ感がそがれることには、かなりのストレスがあっただろうと想像される。
おそらく敏子はそうしたストレスを軽減するために、少し離れたところで作品を俯瞰しながら、太郎の「眼」の代理をしていたのではないだろうか。
絵を描くという行為は、傍目には絵筆をとる手の動きだけに注意が向きがちだが、実は「眼で観る」「感じる、考える」「手で描く」という、ほとんど同等の三つの要素から成立している。
そのうちの二つを、「岡本太郎」の無比の理解者である敏子が、高いレベルで補助していたということなのだろうと思う。
おそらく小品の場合はそのような補助は必要なかったと思われるので、文章の場合と比較すると、相対的には敏子の果たす割合は少なかったのではないだろうか。
絵描きのハシクレとしては、このあたりのニュアンスの違いにはこだわりたいところだ。
しかしながら、絵描きが他人に「眼」を代理してもらうことの重大さ自体はよく理解できる。
太郎のような強烈な個性で、そうした分業が成立したことは、ほとんど奇跡のように感じる。
晩年にはパーキンソン病を患っていた太郎を「岡本太郎」であり続けさせ、没後はほとんど「岡本太郎」が乗り移ったようなパワーで再評価の機運を作り、幻の大作「明日の神話」をメキシコで発見して日本に持ち帰る道筋を作り、それで役目を終えたようにさらりと去って行った敏子。
今現在、私達の思うあの「岡本太郎」像が、二人の合作であることには異論がないのである。
2011年12月28日
物語の終わり、神話の始まり
1996年、太郎が亡くなって以降の敏子は、それまでの「太郎の支え」という立場を大きく超えて、精力的に活動を続けた。
90年代には半ば忘れ去られた人であった太郎の再評価は、敏子によってもたらされたと考えてよい。
私はたぶん、その頃の敏子とすれ違ったことがある。
1996年から2005年までの十年間を駆け抜けた敏子が悲願としていたのが、太郎の幻の傑作である「明日の神話」の発見だった。
1960年代の終盤、大阪万博で一世一代の闘いを続けていた太郎が、地球のほぼ裏側にあたるメキシコの地で制作していた高さ6メートル弱、幅30メートルに及ぶ巨大壁画作品だ。
にわかには信じがたいことだが、太郎は「太陽の塔」と「明日の神話」という二つの巨大な代表作を、同時進行で制作していたというのである。
ホテルの壁面に設置される予定で制作され、作品自体は完成していたのだが、結局そのホテルが開業しないまま行方不明になり、以後30年以上発見されなかったという。
何枚か描かれた雛型の作品により、それがどんな絵であったかということは知られていたのだが、敏子は太郎の最高傑作と思われる現物の発見にこだわり続けた。
そして2003年、ついにメキシコの資材置き場で、汚れ、割れ、欠けたボロボロの状態になった作品を発見。2005年までの2年近くの年月と膨大な予算を使い、ようやく日本への運びこみのめどが立った中で、敏子は急逝する。
太郎と敏子の物語は、ほとんど完結間際になって残されたスタッフに手渡され、2006年、ようやく修復の完了した「明日の神話」が一般公開された。
その顛末は以下の書籍に詳しい。
●「明日の神話 岡本太郎の魂〈メッセージ〉」(青春出版社)
作品は「太陽の塔」の在る大阪吹田市をはじめ、各地からの誘致活動があったが、結局東京・渋谷で一般公開されることになり、現在に至っている。
恥ずかしながら、私はまだ現物を見られていない。
90年代には半ば忘れ去られた人であった太郎の再評価は、敏子によってもたらされたと考えてよい。
私はたぶん、その頃の敏子とすれ違ったことがある。
1996年から2005年までの十年間を駆け抜けた敏子が悲願としていたのが、太郎の幻の傑作である「明日の神話」の発見だった。
1960年代の終盤、大阪万博で一世一代の闘いを続けていた太郎が、地球のほぼ裏側にあたるメキシコの地で制作していた高さ6メートル弱、幅30メートルに及ぶ巨大壁画作品だ。
にわかには信じがたいことだが、太郎は「太陽の塔」と「明日の神話」という二つの巨大な代表作を、同時進行で制作していたというのである。
ホテルの壁面に設置される予定で制作され、作品自体は完成していたのだが、結局そのホテルが開業しないまま行方不明になり、以後30年以上発見されなかったという。
何枚か描かれた雛型の作品により、それがどんな絵であったかということは知られていたのだが、敏子は太郎の最高傑作と思われる現物の発見にこだわり続けた。
そして2003年、ついにメキシコの資材置き場で、汚れ、割れ、欠けたボロボロの状態になった作品を発見。2005年までの2年近くの年月と膨大な予算を使い、ようやく日本への運びこみのめどが立った中で、敏子は急逝する。
太郎と敏子の物語は、ほとんど完結間際になって残されたスタッフに手渡され、2006年、ようやく修復の完了した「明日の神話」が一般公開された。
その顛末は以下の書籍に詳しい。
●「明日の神話 岡本太郎の魂〈メッセージ〉」(青春出版社)
作品は「太陽の塔」の在る大阪吹田市をはじめ、各地からの誘致活動があったが、結局東京・渋谷で一般公開されることになり、現在に至っている。
恥ずかしながら、私はまだ現物を見られていない。