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2011年12月29日

今日の神話

 岡本太郎の絵画作品のうち、最大にして最高傑作と思われる「明日の神話」は、現在、渋谷駅の連絡通路に設置され、誰もが自由に作品に接することができる状態だ。
 生前の太郎は自分の作品について、観る者があくまで「直接」に観賞できることにこだわった。
 絵画作品であればなるべくガラス越しではない状態、立体作品であればできれば手の触れられる状態で展示されることを望んだ。
 もし破損することがあってもそれはそれでよし、いくらでも直してやるから直接見られるようにしろと主張し続けた。
 作品の保存が完璧であっても死蔵されるならば何の意味もないと考え、出来る限り絵は売らず、公共の場に設置される立体作品なら喜んで制作した。
 大作「明日の神話」も、表面に透明度の高い樹脂でコーティングはされているものの、基本的には遮るもののない形で直接作品に接することができる。
 そのことが原因と言うわけでもないが、今年一つの「事件」が起こった。

 今年は太郎生誕百周年ということで、各種企画等で大いに盛り上がるはずだったのだが、周知のごとく3.11の衝撃が、他の話題を全て吹き飛ばしてしまった感があった。
 ところがまだまだ衝撃の生々しい5月のこと、「明日の神話」に「落書き」が添付される事件があったのだ。
 誤解のないように事実確認をしておく。
 この事件は太郎作品に直接落書きがされたというものではない。
 「明日の神話」は元々メキシコのホテルの壁画として制作されたもので、作品の左右下方に、少し横長の長方形に「空白」部分があった。
 その空白部分の一部に、ベニヤ板に描かれた絵がはめ込まれた、という事件である。
 その絵は一応太郎の絵柄を模して「明日の神話」の他の部分と連続するようになっており、福島第一原発の爆発事故を思わせるシーンが描かれていた。
 
 私がそのニュースを知り、はめ込まれた絵の画像を確認した時に思ったのは、
「あ、なるほど。こういう手があったか」
 だった。
 作品が直接傷つけられたという話ではなさそうだったのと、「描き足し」部分が、絵としては稚拙ながらも一応「明日の神話」の作品内容を踏まえているのが分かったので、「犯人」がそれなりに太郎に対してリスペクトの姿勢を示しているようで、それほど重大な「犯罪」だとは思わなかった。
 たとえば「太陽の塔」には、企画として付属物がつけられたり、派手なライティングがなされたことが何度となくあったのだが、今回の「落書き」もそれに類する行いのように、個人的には受け止められた。
 大阪万博の会期中、太陽の塔に立てこもった人を、さも面白そうに写真に撮っていたという太郎の記事を思い出すと、太郎本人が存命だったとしてもこのくらいのことならニヤニヤ笑っているだけではないかとも思った。
 3.11後の今、このニュースで改めて「明日の神話」に注目が集まるならば、そのこと自体は評価できると思ったのだ。

 「明日の神話」は、メインテーマとして「核」が扱われた作品であることは、議論の余地がないだろう。
 作品中央には燃え盛る火に焼かれながら踊り狂う骸骨が描かれており、背景にはキノコ雲の列、焼かれる亡者の群れなど、核兵器の惨禍を思わせるモチーフがこれでもかと言うばかりに詰め込まれている。
 凄惨な「原爆の図」でありながら、全体の印象は原色を塗りたくったメキシコの仮面や、チベット仏教の極彩色のマンダラを思わせる、荒々しくも力強い作品だ。
 
 3.11以降の日本は、否応なく放射性物質と隣り合わせに生きることを強制される国になった。
 本来ならば厳重に管理され、とくに子供や女性の生活圏から切り離されなければならないはずの放射能が野放図に垂れ流しにされ、本来なら国民を守るべき国家が率先して放射能を拡散させる異常事態が、もはや日常風景になってしまった。
 派手な核爆発ではないが、放射能のとろ火に焙られながら生きていくしかなくなってしまったのだ。
 
 絵画は言語を超えたものなので、作品から何か教訓めいたものを読み取ろうとすることにはあまり意味がないと思うのだが、今「明日の神話」という巨大な作品の前に立つことは、かけがえのない体験になるに違いない。
 「明日の神話」は3.11以降、「今日の神話」になったのだと思う。
 今の日本の、西には「太陽の塔」、東には「明日の神話」が鎮座していることを、幸運に思う。
posted by 九郎 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡本太郎 | 更新情報をチェックする