blogtitle001.jpg

2012年01月01日

2012年 新年のご挨拶

 新年明けましておめでとうございます。
 今年は辰年。
 陰陽五行説では龍は蒼龍、方位では東、色は蒼、季節は春、一日のうちでは朝、人生においては青春期、五行では「木」にあたります。
 
season-116.jpg


 早々にこういうこと書くのもなんですけど、世相を見る限り良い年になりそうな要素が、なかなか見えてこないですね……

 それでも個人のレベルでならば、なんとでもなると信じて。

 今年も出来ることを出来る時に出来るだけ。
 よろしくお付き合いください。
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2012年01月05日

『縁日草子』折り返し

 2005年末に『縁日草子』を始めてから、はや六年以上が過ぎた。
 時期によってムラはあるものの、平均すると月10回ほどのペースで更新するうちに、とくに宣伝も交流もしていない個人ブログとしては、それなりに読んでいただけるようになった。 
 このブログを開設する以前には『縁日画報』という、ごく小部数のミニコミを作っており、それが母体となって現在にいたっている。
 たまたま神仏に関する内容がが多かったので、そのお披露目だから「縁日」だろうと、とくに深く考えることもなくつけた名前だった。
 ところが名前というのは恐ろしいもので、名付けられることによってその後の方向性が決まってしまう。名前が呪力を持って、名前にふさわしい「体」を求めるようになる。
 神仏与太話とともに月日を過ごすうちに、タイトルに引きずられるように内容が広がって行った。
 神仏縁起を絵解きしたイラストがたまってくると、ポスター、ポストカード、Tシャツ類に姿を変えてフリーマーケットに出店するようになり、店構えも含めて本当に「縁日」をやることになってしまった。

hu-06.JPG


 そのうち御経や祭文、啖呵口上を音遊びとしてDTMで制作し始め、簡単な映像作品にまとめるようにもなった。
 その時その時の興味の赴くままに本を読み、山野を遍路しながら、絵も文章も音も映像も、あれもこれもとメディアの一貫性なく作品を作り続けてきた。

 それでも自分の中ではなんとなく「たった一つのこと」を続けているという気分があった。
 気分としては確かな手応えがあったのだが、それは自分でもうまく言葉に出来なかった。
 自分でもはっきりしないのだから、他人の目にはさぞ不可解に映っていたことだろうとは思う。
 ここ一年ほどのことだが、自分のやっているあれこれが実はやっぱり「たった一つのこと」だったのに、自身でようやく納得できてきた。
 その納得のキーワードになったのが、そもそもの発端になった「縁日」という言葉だった。
 神社仏閣の縁日風景、夜店に集まるテキ屋の面々。
 祭礼の日にだけ、どこからともなく現れて、次の朝には風のように跡型も無く消え去ってしまう、あの不思議な人々。
 その源流を歴史に遡ると、中世以前においては、遊行する芸能の民に行き着く。
 昔の芸能民は、現代の「芸能人」とは全く違って、芸術家であり、民間宗教者であり、学者であり、医者でもあり、また、ヤクザものでもあった。
 定住して農耕を行う常民とは異なる人生を送る彼らは、ある時は尊敬され、ある時は賤視された。 歓迎されることもあれば恐れられることもあった。
 彼らの活動範囲とごく近距離には山の民、海の民が存在し、広い意味では職人や商人も含まれた。
 祖父と父が僧を務め、私の家の宗派でもある浄土真宗には、戦国時代においてそうした人々の力を結集して織田信長と互角に渡り合った石山合戦という歴史も存在した。

 日本史の流れの中で、何箇所か特異点のように、民衆と宗教・芸能の力が結び付いた革命運動のようなものが起こることがある。
 中世の石山合戦がそうであったし、近現代においては、出口王仁三郎の主導した運動体が、そう言うものだったのではないかと理解している。
 ちょっと匿名ブログには書きづらいあれこれの縁もあり、どうやら自分の知りたかったこと、やりたかったことがそこらあたりにあって、これまで自覚のないままにじわじわとそこに近づきつつあったのだなと、納得出来てきたのだ。

 ブログ『縁日草子』、いまだ道半ばながら、そろそろ折り返し点は過ぎたようにも感じている。

hu-05.jpg
posted by 九郎 at 05:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2012年01月08日

久々に観たNHK大河ドラマ

 もうずっと観ていなかったのだが、久々に。
 素材である「平清盛」とその時代背景が、NHK大河ドラマの予算を使ってどのように再現されるのか確かめたかった。
 平家の時代であれば当然ながら海上交易や海戦、とくに瀬戸内海を舞台にしたあれこれが描かれるはずで、カテゴリ石山合戦において、時代は違えど「海」に注目している私としては、チェックしておきたいドラマだ。
 また、「白拍子」や「今様」がどのように扱われるかも楽しみだった。

 初回を見たかぎりでは、「さほど史実にこだわった作品では無さそうだ」と思った。
 NHK大河はあくまでエンターテインメントなので、史実と違うからと言ってどうこう言う筋合いではないが、私のように「何かの参考にしよう」と思って観ている者としては、どういう方向性の作品なのか一応判断しておかなければならない。
 最近よくある「歴史モノの体裁を借りたホームドラマ」というタイプではなさそうなので、引き続き観ていくことにする。

 海上シーンに出てくる平安時代の和船には、それなりに予算が割かれているようで、大型船はなかなかカッコ良かったが、小型舟はちょっと現代のボートっぽすぎる気もした。
 船体下部に木材の継ぎ目が見えなかったので「刳船(くりぶね)」(いわゆる丸木舟)という設定なのかもしれない。丸木舟は単純ながら極めて堅牢な構造なので、古代から近現代まで小型舟には長く使われ続けてきた。
 まあ、今回のドラマの場合は単に「ボートをそれっぽく塗った」というだけのことかもしれない。
 平忠盛(中井貴一)が狩衣のまま海に飛び込み、単身海賊船に乗り込んだのは「?」が浮かんだ。どんだけ泳ぎが上手いのだろうか。。。
 そもそも、これはどこの海なのだろうか?

 初回だけではこれから登場するであろう「源平海戦」の再現度を予想するのは難しそうなので、今後に注目。

 清盛の時代の文化でけっこう重要だったと思われる「白拍子」や「今様」については、作中でもかなり頻繁に扱われていくようだ。
 私の大好きな一節も、初回作中で繰り返し詠まれていた。

  遊びをせんとや生れけむ
  戯れせんとや生れけん
  遊ぶ子供の声きけば
  我が身さえこそ動がるれ
          (梁塵秘抄より)

 この頃の今様は「梁塵秘抄」に歌詞が一部残っている程度で、当時のメロディはもちろん不明。
 民間の流行り歌なので、それほど固定されたメロディがあったわけでもなく、歌い手によって様々だったらしい。
 もしリアルに再現するとしても邦楽の音階や、民間に伝わった和讃の類から類推するしかないだろうし、仮に再現できたところでそのメロディを当時の人が受け止めた時の感動までは分かるはずもない。
 今回のドラマではメロディがかなり現代風になっていた。
 個人的には「残念」という感想を持ってしまったが、今様は当時のPOPSなので、現代に制作されるドラマの中で、現代の視聴者の耳に入り易くする手法としては、これも有りなのだろうとは思う。

 松田聖子演じる祇園女御は、ドラマ終盤では「乙前」になるそうだ。
 乙前と言えば「梁塵秘抄」の編者である後白河院の師匠なので、これからの展開の中でも今様は使われていくことになるのだろう。

 私は純粋にドラマを楽しむというよりは、色々な素材がどう扱われているかに興味があるだけなので、ある意味「不純」な観方をしている。
 そういう前提で初回の感想をまとめると、「今後に期待」というところだろうか。
 冒頭に出てきた北条政子の衣装やメイクがすごく気になったが(笑)、白河院はバラエティの伊東四朗とはちゃんと別人に見えたし、松田聖子も思ったより画面から浮き上がって見えなかった。
 少なくとも「初回だけでお手上げ」ということは無かったと思う。

 今様や白拍子についてかなりページが割かれ、興味深い本は以下の一冊。
 

●「「悪所」の民俗誌―色町・芝居町のトポロジー」沖浦和光(文春新書)
posted by 九郎 at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2012年01月11日

祭礼の夜

 1月10日は「十日戎」。
 9日の宵宮、10日の本宮、11日の残り福と、三夜続けて神社は賑わう。

hu-07.jpg


 とくにゑべっさんは商売の神様なので、縁起物や各種飲食、玩具、占いの露店が、所狭しと立ち並ぶ。
 今私の住んでいる地域にはけっこう大きな恵比寿神社があって、例年この祭礼は楽しみにしており、何度か記事にしたこともある。
【関連記事】
宵ゑびす
ゑびす縁起物
十日戎
ゑびす大黒
漂着神
お盆2010

 ちょうど一年前に書いた記事を、再録しておきたい。
---------(以下再録)-----------
 1月10日はゑびすの縁日。
 九日は宵ゑびす、十日が本ゑびす、十一日が残り福で、各地の恵比寿神社が一年のうちでもっともにぎわう時期だ。
 今夜は宵宮。
 近所に、十日恵比寿でけっこう盛り上がる神社がある。
 ちょっと出かけてきて、今帰ってきたところだ。
 商売繁盛の神様らしく、縁起物の出店が立ち並び、俗で猥雑な何とも言えない色彩を闇の中に浮かび上がらせている。
 他にも神社の周囲には所狭しと様々なテキ屋がひしめいて、そぞろ歩きの足取りも自然に浮き立ってくる。
 たまらず屋台にとびこんで、一杯ひっかける。
 サザエの壺焼きと日本酒。
 前から一回やってみたかったのだが、今までなんとなく他のお店や食べ物が優先されて、試してみずにいた。
 いや、なかなかいいものですね。
 各地の神社仏閣の縁日から、だんだんテキ屋さんの姿が消えつつある昨今だが、ここではまだまだ健在だ。やっぱり縁日の風景は、こうでなければ。
 サザエのスープをすすり、縁日模様を眺めながら、色々妄想する。

 えべっさん、ゑびす神は、日本神話のヒルコ、またはコトシロヌシであるとされる。
 ヒルコは蛭子、イザナギ・イザナミの長子でありながら、不完全な神であるとして流された漂泊の神。
 コトシロヌシは、出雲の大国主の息子で、国譲り神話で最後の決断を任された神。今ポピュラーな「釣りをするゑびす」の姿は、この神のものをベースにしている。
 二つの由来は全く系統が違うが、「追放された漂泊の神」という点では、何故か一致している。
 縁起物にはよく「恵比寿大黒」のコンビで登場しており、まるで友人かよく似た兄弟のような雰囲気だ。
 しかし大黒の淵源はインド神話の破壊神であり、同時に日本神話の大国主でもある。
 大黒が大国主であるとするならば、このコンビは「親子」ということになる。(大黒については、カテゴリ大黒で詳述)
 縁起物では、このコンビに加えて「おかめ」の面が加わる場合も多いが、この「おかめ」を女神の象徴ととらえるなら、「弁天」のイメージも重なってくる。
 そうなると、「恵比寿・大黒・おかめ」のトリオの縁起物は、もしかしたら三面大黒と近い神話的なイメージがあるのではないか?

 ゑびすの縁起物と言えば、すぐに笹や熊手、箕をベースにしたものが思い浮かぶ。
 笹や竹を素材にした工芸品と言えば、今の私がすぐに連想してしまうのが、山の民。
 ここにも「漂泊」のイメージ。

 ふと気づいてみれば、自分は今まさにテキ屋さんの店先で一杯飲んでいる。
 縁日が終われば、風のように消えていく「市」の真っただ中。
 徐々に縁日の風景からの排除が進む店先。
 ゑびす神は商売の神で、日本では商業が発達した中世の時点では、商人はいわゆる「良民」の部類からは外れた存在であったという。

 酔っ払いの妄想は一巡りして、何かが繋がりそうな予感に、ぶるっと身を震わせる。
 そんな宵宮。
---------(再録おわり)----------

 今年も夜中にちょっと参拝してきて、夜店の人混みを楽しんできた。
 テキ屋の出店状況がどうなっているか、少々心配していたのだが、若干減ったかなと言うぐらいでほとんど例年と変わらず、安心した。
 神社仏閣の祭礼からヤクザ排除が徐々に進行してきて既に久しく、とくに去年から今年にかけてかなりヒステリックな(と私には思える)風潮が総仕上げにかかろうとしている。
 私は年に何度かぐらいは、野暮なことは言わずに清濁合わせて皆で楽しむ機会があった方が良いと考えるし、そうした日本の文化伝統が今後もずっと残ってほしいと思っており、そのような記事をこれまで度々書いてきた。
 時代は押しとどめようもなく流れていくが、思ったことは書きとめておく。

 ヤクザの徹底的な排除は、本当に一般庶民にとって「得」なのだろうか?

 私はヤクザと個人的付き合いは無く、安易に賛美するつもりは無い。
 もちろん違法行為があれば厳しく取り締まれば良い。
 悪いものは悪いのだが、「悪」と言うものは、法律で決めてしまえばそれできれいさっぱり無くなってくれるのかと言えば、私の中の世間知は「否」と答える。
 人の世である限り、ある種のアウトローは一定の割合で存在せざるを得ない。
 そうであるならば、より穏健でマシな状態であってほしいと願う。
 祭礼の露店のような「合法的」な収益に一々目くじらを立てても、それはかえって「非合法」に追いやるだけではないのだろうか?
 過剰な除菌が免疫力の低下と病原体の強化を生んでしまう構図は、社会にも当てはまらないか?
 
 今、読んでおきたい一冊をご紹介して、ごく控えめな呟きを終える。


●「ヤクザと日本―近代の無頼」宮崎学(ちくま新書)
posted by 九郎 at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2012年01月15日

平氏の時代と平家琵琶

 今週もNHK大河の「平清盛」を観た。
 一応今後も観ていくつもりなのだが、う〜ん、、、まだちょっと判断に困っている。
 演出方針はどうやら史実考証をがっちり固めるのではなく、物語内の雰囲気優先で流していく方向性であることは間違いなさそうだ。
 歴史表現の参考に、という半ば不純な動機で観ている私の狙いからは、やや外れつつあるようだ。
 TVドラマはあくまで娯楽なのだから、本来、物語さえ面白ければOKなのだが、肝心の「物語」自体も、あまり私の好みの傾向では無さそうにも思えてきている。
 この作品、「平安末期をモデルにした異世界ファンタジー」っぽくなってきていると思うのだが、もう少し現実よりの方が、個人的には好みだ。
 中世瀬戸内海の交易、海戦、芸能、雑種賤民など、扱われているモチーフが物凄くそそられるだけに、観方が厳しくなってしまっているのかもしれない。
 主演の松山ケンイチについては、これまで若手の中ではかなり役作りをやりこむ方だと思っていたのだが、今回のドラマではまだあまりのり切れていない感じがする。
 脚本に現実味が乏しいから役作りがやりにくいのではないか、、、という声がのど元まで出かかるのだが、まだまだ序盤なので断言はせずに飲み込んでおく。
 今後面白くなったらまた記事にしたいが、さてどうなるか。
 自分のブログでは面白いことを書きたいのが当然で、なるべくならば「つまらないものをつまらないという記事」は書きたくない。
 再度取り上げる機会があることを望みたい。

 基本的に一般視聴者は好き勝手に作品をあげつらってOKだと思うのだが、先週の第一回放送の後、おかしなニュースが流れた。
 兵庫県の井戸知事がわざわざ記者会見の時間を割いて、大河ドラマ「平清盛」の演出方針に文句を言ったというのだ。
 主に映像の「見た目」についてクレームをつけたようなのだが、私の感想では、脚本はともかくそうしたビジュアル面では「けっこう頑張っているな」と思った。
 知事がドラマの個人的感想を口にしても別にかまわないが、今後ドラマの舞台になるであろう神戸近辺の観光誘致にからめて、NHKに改善申し入れをすることも視野に入れていると言う。
 ニュースを一読して「このおっさんは頭がおかしいのか?」と思った。
 県知事と言う公人が、TVドラマの内容について自分の意図するところと違うという理由で、演出方針に圧力をかけ、それが異常なことだという自覚が無いらしいことに不気味さすら感じた。
 そもそも、神戸に源平時代を偲ばせる観光向けの史跡なんて、あるのだろうか。
 辛うじて須磨あたりの景勝がそれにあたるかもしれないが、今回のドラマで兵庫県に観光誘致しようとしてもちょっと無理があるだろう。
 あまりにバカバカしいニュースだったので「俺の感覚の方が狂ってるのか?」と不安に襲われたが、案の定、県庁に抗議が殺到したということだ。

 ただ、ちょっと気になったのが、知事のクレームに対するNHK側の反応だ。
 報道によると、以下のように答えたらしい。

 「映像表現の進歩で、ドラマはリアルさを追求する方向に進んでおり、それを望む視聴者も多い。清盛の成長に合わせ、貴族社会の華やかな映像も出てくるので、今後を楽しみにしてほしい」



 ?????


 え?
 今回のドラマって制作側は「リアル志向」のつもりなのか???

 再び自分の感覚に不安を覚える私であった。。。



 話変わって。
 ドラマの中の効果音に、けっこう琵琶の音が使われている。
 琵琶と言えば「平家物語」なので、平氏を主人公したドラマの中で琵琶が使われるとなんとなく自然な感じがしてしまうのだが、考えてみれば琵琶法師による「平家」語りは鎌倉時代以降の芸能だ。
 だから現代のドラマの中で時代の雰囲気を醸す「効果音」として使われるのは別にいいのだが、平氏の時代に「平家琵琶」的な音色が存在したわけではないことは、一応確認しておいた方がいい。
 当時存在したのは、雅楽に使用される琵琶と、経文の伴奏としての琵琶で、後の世に成立した平家琵琶は後者の系統に入ると理解している。
 盲僧による琵琶と語りは、経文の場合だけでなく平曲の場合も宗教的色合いが強かったのだ。

 私はここ二年ほど、琵琶法師に興味を持ち始めていて、ぼちぼち資料を集め始めている。
 まだまだ理解は十分ではないが、琵琶の音を伴奏に使った音遊びも試作(あくまで試作!)してみたことがある。

 今の時点でお勧めの琵琶法師関連資料は、以下のもの。


●「琵琶法師―“異界”を語る人びと」兵藤裕己(岩波新書)
●「肥後の琵琶弾き 山鹿良之の世界~語りと神事~」山鹿良之



 そう言えばながらく工事中のままのカテゴリ「琵琶法師」も、そろそろ起動しとかないと……
posted by 九郎 at 23:07| Comment(2) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2012年01月17日

カテゴリ「90年代」再試行

 一年前、カテゴリ90年代をスタートさせ、95年の阪神淡路大震災の被災体験について、語り始めていた。
 その時は特別な理由もなく、なんとなく「そろそろ書かなければ」「今書いとかないと」と感じてスタートさせたのだが、しばらく続けてみると当時の記憶が「体感」として蘇ってきて、書くごとにしんどくなってきた。
 小休止してからまた再開しようと思っていたら、3.11が起こってしまい、それどころではなくなってしまった。
 2011年を過ごしながら、「なんとなく1995年に似た雰囲気のある年だな」と思っていた。
 1995年は私にとって、日本にとって、転換期になった年だったと思うのだが、2011年はそれを更に拡大した節目になると感じている。

 1995年と2011年の類似については、鈴木邦男さんのブログにも詳細に述べられている。
 当時の、まさに当事者だった人の感じ方には、やはり重みがある。

 今日は1月17日。
 また阪神淡路大震災の日が巡ってきた。
 どこまで書けるかわからないが、もう一度、自分の震災体験について語り始めてみようと思う。

90-06.jpg


【過去記事】
GUREN1
GUREN2
GUREN3
GUREN4
posted by 九郎 at 05:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2012年01月18日

GUREN5

 一夜明けた。
 夏の「熊野修行」などでそれなりに野宿経験はあったのだが、真冬の寝袋はさすがに堪えた。
 屋外ではなく、一応屋根の下だったことは不幸中の幸いだった。
 未曾有の巨大災害の真っ只中ではあったが、最初の激震以降、何か劇的な展開が待ってわけではない。
 ただただ、何をどうしたら良いのか分からない時間だけが過ぎていく。
 とりあえず、水と食料は確保しなければならない。
 私が駆け込んだ学校施設は公的な避難所というわけではなかったので、食料等の配給は望めないようだった。
 手持ちの現金が限られており、銀行も期待できない。
 当時はまだコンビニATMも普及しておらず、もし普及していたとしてもコンビニ自体が開いていないのでどうしようもなかっただろう。
 そして、当然ながらなるべく出費は抑え、現金は温存たい。
 自室にはまだ米の残りがあったはずなので、一度様子を見に帰ることにした。

 帰ってみると意外なことに電気が通じるようになっていた。(震災二日目ぐらいに一瞬電気が通じた時間帯があり、そのことが火災の再発の原因にもなったことを後で知る)
 水道は止まっているはずなのだが、試しに蛇口をひねってみると普通に水が出てきた。
 屋上にタンクがあるタイプのアパートだったので、その分だけしばらくは水が出るようだった。

 震災時、水道が止まった時でもタンクに溜まっている分の水は出る。

 これはけっこう重要なポイントなので覚えておいてほしい。
 私は手早く米を三合研いで、炊飯器をしかけた。ご飯が炊きあがった頃、ちょうど二人の知人が部屋に様子を伺いにやってきた。
「飯あるけど食ってく?」
 そう聞くと、二人とも飛び上がるように喜んでくれた。
 震災一日後、みんな腹を空かせていたのだ。
 なんにもないので白飯に醤油をかけ、三人でものも言わずにかき込んだ。
 ものすごく美味かった。

 飯を食べ終わって知人が解散すると、私はそろそろ状況判断に迫られてきた。
 米はあと二合ほどしか残っておらず、現金もはなはだ心許ない。
 昨夜からAMラジオで情報収集した感触では、どうやら激甚な被害は神戸市近辺だけに限られている様子だ。

(一度親元に帰って体勢を立て直しておこうか?)

 そんな風に考え始めていた。

 なんとか公衆電話で親元には連絡が取れ、無事は報告できた。
 95年当時、まだ携帯電話は現在のように「一人一端末」と言えるほど普及しておらず、もちろんインターネットも存在しなかった。
 震災で自宅の電話が不通になった地区でも、まだ街の至る所にあった公衆電話の中には通じるものがあったのだ。
 ただ、停電でテレフォンカードが使用不能になっている所が多く、しばらく経つとどの電話機も硬貨でパンパンになって使えなくなってしまった。
 私は手持ちの硬貨の残量を気にしながら、親元や親しい知人、バイト先などになんとか連絡を取った。
 神戸以外の場所でも情報は不足していたらしく、震災後数日間は「何か大変なことが起こったらしい」という以上には、現地の状況が伝わっていなかった。
 長話も出来ないのでとにかく「これから親元にむかってしばらく避難するつもりだ」と伝える他なかった。

 手持ちの地図を広げながらルートを考える。
 あちこち足止めを食らったとしても、鉄道が通じている所まで半日も歩けば到達できるはずだし、そこまで行けばあとは何とでもなる。
 不安要素としては大規模な火災が起こっているらしいエリアを横切らなくてはならないことだ。
 他にも想定外の事態がいくらでも待ちかまえているのだろうけれども、このまま先の見えない状態でうろうろしているよりはマシな気がした。

 そうと決まれば出発は早い方がいい。
 残りの米をもう一度炊飯器にぶち込み、部屋をかきまわしながら必要なものをリュックに詰め込む。
 あまり重くしたくはなかったが、いつまた激しい余震に襲われて状況が変わるかもしれなかったので、登山に準じるような装備で行くことにする。
 今から振り返ると荷物はもっと少なくてよく、ほとんど身一つでも問題なかったのだが、震度7を体験し、破壊され尽くした街の真っ只中では、どうしても深刻にならざるを得なかった。
 準備している間にふと気がつくと、また停電になったらしく、炊飯器のご飯はシンのある状態になってしまっていた。
 仕方がないので生煮えの二合飯をそのままタッパーにギュウギュウ押し込み、ざっと醤油をかけて当座の食料にした。
 最悪、野宿も覚悟していたので、動ける範囲で服を重ね着した。
 部屋はでんぐり返ったままだったが、火元とコンセントだけは確認し、施錠した。
 今度この部屋に帰ってくるのはいつになるだろうか?
 その時までこのボロアパートは残っているのだろうか?
 考えても仕方がないので、とにかく部屋を後にした。

90-07.jpg


(続く)
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2012年01月25日

GUREN6

 部屋のドアには例によって知っている範囲の安否情報と、これから親元に避難するつもりであることを紙に書いて貼っておいた。
 阪急線の駅すぐ近くに住んでいたので、一応立ち寄ってみる。
 前日にJRや阪神線の惨状を目にしていたので、列車の運行は全く期待していなかったが、何らかの情報は得られるかもしれない。

 駅は案の定、全くの無人状態だった。
 券売機のあたりに観光ポスターを裏返してマジックで書きこんだ掲示があった。

   電車は動いていません
   復旧の見込みはありません
          駅長

 半ばヤケクソのような文面で、所々無意味に赤ペンが使ってあり、漢字の誤りもあって、駅長さんの追い詰められた感じがよく伝わってきた。

 気を取り直して、まずは病院に向かった。
 前日運び込んだ劇団リーダーKの様子を、一目確認しておきたかったのだ。
 到着してみたが、あいかわらずの野戦病院状態だった。
 怪我を負った人や、お亡くなりになってしまった人が地下駐車場スペースにまで多数とり残されており、十分な物資や人員の補給、重篤患者の搬送などが行われているようにはとても見えなかった。
 Kを運び込んだあたりを探してみたが、姿はなかった。
 もしかしたら、と不安が湧いてきたが、どこか別の場所に移動したのだろうと考えるほかなかった。
 後に、Kは重傷ながら命に別条なかったことを知るのだが、当時それを確認する術はなかった。
 2リットルのペットボトルに水道水を詰めたものを余分に持ってきていたので、付近にいた人に声をかけて受け取ってもらった。
 普段なら見知らぬ人には未開封のボトルの方が安心だったのだろうが、震災二日目はどこでも水は不足していた。
 飲料に使わないとしても水は必要だったし、容量の大きいペットボトルは、それ自体が使いでのあるアイテムだったのだ。
 震災以来、今に至るまで、私は自室に空のペットボトルを切らしたことはない。中身を飲み終わった後も、次のものを買うまでは、空き容器を捨てずにおいておく習慣がついている。

 私は病院を後にして、山手の道を歩き始めた。
 神戸は海と山に挟まれた南北に狭い街で、東西をつなぐ鉄道や幹線道路が何本も並行して走っている。
 海手は被害が酷く、山手はほとんど無傷だという前日の視察結果から、なるべく海側を避けるコースを選んだのだ。
 途中、広い運動公園のあるエリアを横切ろうとしたとき、自衛隊の大型ヘリが着陸しようとしているのを見かけた。
 報道のヘリが飛んでいるのは震災当日からよく見かけていたが、そう言うヘリは「ただ飛んでいるだけ」で、被災者にとってはうるさく、不安を煽るだけの意味しかなかった。
 自衛隊機が着陸しようとしているということは、救助活動が本格的に開始されようとしているのだろうと、少しほっとした気分になった。

 そのとき、少し「不審」な人物に出会った。
 運動公園から少し遠ざかった所で、迷彩服にヘルメットをかぶり、レシーバーを装着した若者が立っていた。
 私は何の疑いも無く自衛隊の人だろうと思い、声をかけた。
「すみません、今、避難している所なんですけど、この先の火災が起こっているあたりはどんな様子なんでしょう?」
 若者はしばらく答えずにじっとわたしを眺めた後、目をそらしてたった一言答えた。
「さあ……わかりません」
 それ以上話も続かなかったので、「あ、そうですか」とその場を後にしたのだが、歩きながらなんとなく疑問が湧いてきた。

(今のヤツ、本当に自衛隊だったのか?)

 よくよく考えてみると、私が勝手に服装からそう判断しただけで、確認したわけではない。
 そう言えば体格もけっこう細くて、厳しい訓練を積んでいるにしてはひょろひょろだったような……
 後になって噂話としてではあるが、震災後数日間、警官や自衛隊、各国の軍装などを身に付けたコスプレマニア達が、「今しかない」とばかりに街をうろついていたらしいというお話を知った。
 その噂の真偽は確かめようがないし、私が見た「自衛隊」がその中の一人だったかどうかも定かではないが、今でもたまに思い出す情景である。

90-08.jpg
posted by 九郎 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2012年01月26日

GUREN7

 歩きつづけると、やがて三宮に出た。
 ここでもあちこちでビルが倒壊し、高架橋が破壊されており、都市機能は完全に麻痺していた。
 さまよう人々を多く見かけた。
 避難するため、食料や水を調達するため、あるいは周囲の現状を確かめるためなのだろう。
 あてもなく、とにかく歩きまわるほかないという気分もあったことだろう。
 自分がそうだったので、私にもそれはよく分かった。

 個人の考え方、置かれた状況によって、災害時には様々な選択があり得ると思う。
 私の場合、震災時には「二十代半ばの劇団員」というかなり気楽な身分で、負傷もせず、住んでいたボロアパートに大した被害も無かった。
 なんとか自力で被災地外の親元に避難できそうな見通しがあった。
 そうした条件から、「水や食料は被災地にいるしかない事情の人にまわす。自分は当面親元に避難し、現地の食い扶持を減らす」という選択をした。
 もちろんほかの選択肢もあったが、とにかくそう決めた。

 震度4〜5くらいの揺れはまだ度々続いており、いつまた大きな余震があるか分からない。
 危険の予見されるエリアは迂回しながら、なるべく土地勘のあるルートを辿りたい。
 ラジオの情報では、西明石以西はJRが運行しているらしい。
 垂水までなんとかたどり着ければ、在住の親戚に連絡を取って西明石まで送ってもらえるかもしれない。
 そこまで歩く過程で、もし救助の必要な場面に出くわせば、全力で協力する……

 歩きながら、頭の中で現状と自分なりの行動規範を考えていた。

 大規模な火災の起こっていた長田区を無事通過し、須磨区に差し掛かった頃、一匹の犬が遠巻きにしながらついてきていることに気がついた。
 首輪をしていたので飼い犬だろう。
 震災のどさくさで、迷ってしまったのだろうか?
 ある一定の距離以上には近づいてこなかったが、何故かついてくる。
 腹が減っているのかもしれないと気付き、ふりかえって「飯食うか?」と声をかけた。
 ピタッと立ち止まってとくに反応は無い。
 どうしようか迷ったが、ご飯を詰めたタッパーから少し取り出して足もとに置いた。

「ドッグフードじゃなくてすまんけど」

 近づいてくる様子が無いので、ご飯はそのままに、歩き始めた。
 しばらく歩いて振り返ってみたが、犬はまだ警戒している。
 結局、ご飯を食べたかどうかは確認できないまま、私はその場を立ち去ることになった。

 後になって、ニュースで被災地に取り残されたペット達に関する報道を見た。
 震災時の細かなあれこれは、今でもたまに記憶によみがえってくるのだが、この犬のこともよく思い出す。
 あの後、飯食ってくれたのかな?
 家族とは合流できたのかな?

90-09.jpg


 須磨区から垂水区まで、海沿いをずっと歩いた。
 私が避難計画作成の手伝いなどで、津波について少々勉強したのは2000年代以降のこと。
 95年当時はまだ、地震と津波の関係については全く認識していなかった。
 もし知っていたら、震災直後に海岸線に近づくことはしなかったと思うが、何事もなかったので結果オーライではあった。

 あたりがすっかり暗くなってから、ようやく垂水の駅前にたどり着いた。
 ここまでくると被災地とは全く雰囲気が違っており、鉄道が運行していないこと以外はほとんど平常そのものだった。
 一安心すると猛烈に腹が減ってきたので、道端に座り込んでタッパーに残っていた醤油飯をかき込んだ。
 炊飯中の停電で芯があった飯だが、時間経過とともに多少食えるようにはなっていた。
 それから親戚に連絡を取り、夜には親元に避難することに成功した。

 これで私は一応、非常事態を脱したことになったのだが、もちろんこれで終わりではなかった。
 破壊された街の中で日常生活を送るという、震災の次の段階に入ったに過ぎなかった。
 むしろそこからの段階の方が、震災というものの本番であったかもしれない。

(続く)
posted by 九郎 at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2012年01月27日

波に抱かれて

 当ブログでは2000年に亡くなったアーティスト・どんとについて、私の極個人的な体験を含めて紹介してきた。
 カテゴリどんと
 振り返ってみれば阪神淡路大震災直前の秋、とあるビーチで行われたお祭りで、どんとのパフォーマンスに接したことから、自分の中の何ものかの解体・再構築がばたばたと始まって行った気がする。

 1月28日はどんとの命日。
 本日27日には、ハワイのヒロ本願寺で13回忌法要が行われているはずだ。
 
 私は今、どんと最後のオリジナルアルバムになった「DEEP SOUTH」を聴きながら、この夜を過ごしている。
 このアルバムについては以前にレビューを書いたことがある。
 該当個所を再録しておこう。


●「DEEP SOUTH」どんと
 97年発売。これがオリジナル・アルバムとしては最後の一枚になった。
 ジャケットには私が十数年前の満月の夜、海辺のライブで見たのとほぼ同じ服装「赤い服、黒い帽子」のどんとの姿がある。
 アーティスト名は「SPACY SONG STAR DONT」になっている。
 前作「ゴマの世界」は物凄く繊細でプライベートな一枚だったのが、今度は一変してその名にふさわしく、全曲不思議な「宇宙サウンド」が駆け巡る。
 歌詞の世界も聴きこむほどに凄まじく、もう半ば「人」であることの価値観から浮遊して、インドの宇宙創造神が直接歌っているような言の葉が、例によって手描きのイラスト入り歌詞カードを舞い踊っている。
 どの曲も凄いのだが、とくに「どんとマンボ」「波」の世界は、ちょっと他のもので喩えるのが困難なくらい、独自の高みに登りつめている。
 もし、どんとの地上の生命にもう少しだけ続きがあって、2000年代の空気を体感し、すっかり一般化したDTMや音楽配信技術、そしてインターネットの技術を吸収していたとしたら、いったいどんな作品が生まれ、どんな活躍をしていたことだろう。
 どんとが90年代後半に、日本のDEEP SOUTHで試みた様々な事柄は、2010年の現時点の方がはるかにマッチしていたのではないだろうか。
 やはり「預言者」的な資質の強い人だったのだろうと、最近ますますそう思う。
(再録終わり)


 あのお祭りのあった海岸でも、今日から明日にかけてきっと「波」を口ずさんでいる人がいるに違いない。
 あの岩場の松には、透明などんとがそっと座って、それを静かに聴いているかもしれない。

fmp14.jpg


 念仏和讃を海に向けて。
posted by 九郎 at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | どんと | 更新情報をチェックする