2012年01月05日

『縁日草子』折り返し

 2005年末に『縁日草子』を始めてから、はや六年以上が過ぎた。
 時期によってムラはあるものの、平均すると月10回ほどのペースで更新するうちに、とくに宣伝も交流もしていない個人ブログとしては、それなりに読んでいただけるようになった。 
 このブログを開設する以前には『縁日画報』という、ごく小部数のミニコミを作っており、それが母体となって現在にいたっている。
 たまたま神仏に関する内容がが多かったので、そのお披露目だから「縁日」だろうと、とくに深く考えることもなくつけた名前だった。
 ところが名前というのは恐ろしいもので、名付けられることによってその後の方向性が決まってしまう。名前が呪力を持って、名前にふさわしい「体」を求めるようになる。
 神仏与太話とともに月日を過ごすうちに、タイトルに引きずられるように内容が広がって行った。
 神仏縁起を絵解きしたイラストがたまってくると、ポスター、ポストカード、Tシャツ類に姿を変えてフリーマーケットに出店するようになり、店構えも含めて本当に「縁日」をやることになってしまった。

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 そのうち御経や祭文、啖呵口上を音遊びとしてDTMで制作し始め、簡単な映像作品にまとめるようにもなった。
 その時その時の興味の赴くままに本を読み、山野を遍路しながら、絵も文章も音も映像も、あれもこれもとメディアの一貫性なく作品を作り続けてきた。

 それでも自分の中ではなんとなく「たった一つのこと」を続けているという気分があった。
 気分としては確かな手応えがあったのだが、それは自分でもうまく言葉に出来なかった。
 自分でもはっきりしないのだから、他人の目にはさぞ不可解に映っていたことだろうとは思う。
 ここ一年ほどのことだが、自分のやっているあれこれが実はやっぱり「たった一つのこと」だったのに、自身でようやく納得できてきた。
 その納得のキーワードになったのが、そもそもの発端になった「縁日」という言葉だった。
 神社仏閣の縁日風景、夜店に集まるテキ屋の面々。
 祭礼の日にだけ、どこからともなく現れて、次の朝には風のように跡型も無く消え去ってしまう、あの不思議な人々。
 その源流を歴史に遡ると、中世以前においては、遊行する芸能の民に行き着く。
 昔の芸能民は、現代の「芸能人」とは全く違って、芸術家であり、民間宗教者であり、学者であり、医者でもあり、また、ヤクザものでもあった。
 定住して農耕を行う常民とは異なる人生を送る彼らは、ある時は尊敬され、ある時は賤視された。 歓迎されることもあれば恐れられることもあった。
 彼らの活動範囲とごく近距離には山の民、海の民が存在し、広い意味では職人や商人も含まれた。
 祖父と父が僧を務め、私の家の宗派でもある浄土真宗には、戦国時代においてそうした人々の力を結集して織田信長と互角に渡り合った石山合戦という歴史も存在した。

 日本史の流れの中で、何箇所か特異点のように、民衆と宗教・芸能の力が結び付いた革命運動のようなものが起こることがある。
 中世の石山合戦がそうであったし、近現代においては、出口王仁三郎の主導した運動体が、そう言うものだったのではないかと理解している。
 ちょっと匿名ブログには書きづらいあれこれの縁もあり、どうやら自分の知りたかったこと、やりたかったことがそこらあたりにあって、これまで自覚のないままにじわじわとそこに近づきつつあったのだなと、納得出来てきたのだ。

 ブログ『縁日草子』、いまだ道半ばながら、そろそろ折り返し点は過ぎたようにも感じている。

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posted by 九郎 at 05:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする