2012年01月18日

GUREN5

 一夜明けた。
 夏の「熊野修行」などでそれなりに野宿経験はあったのだが、真冬の寝袋はさすがに堪えた。屋外ではなく、一応屋根の下だったことは不幸中の幸いだった。
 未曾有の巨大災害の真っ只中ではあったが、最初の激震以降、何か劇的な展開が待ってわけではない。
 ただただ、何をどうしたら良いのか分からない時間だけが過ぎていく。
 とりあえず、水と食料を確保しなければならない。
 私が駆け込んだ学校施設は公的な避難所というわけではなかったので、食料等の配給は望めないようだった。
 手持ちの現金が限られており、銀行も期待できない。
 当時はまだコンビニATMも普及しておらず、もし普及していたとしてもコンビニ自体が開いていないのでどうしようもなかっただろう。
 なるべく出費は抑えたい。
 自室にはまだ米の残りがあったはずなので、一度様子を見に帰ることにした。
 帰ってみると意外なことに電気が通じるようになっていた。水道は止まっているはずなのだが、試しに蛇口をひねってみると普通に水が出てきた。屋上にタンクがあるタイプのアパートだったので、そのぶんだけしばらくは水が出るようだ。

 震災時、水道が止まった時でもタンクに溜まっている分の水は出る。

 これはけっこう重要なポイントなので覚えておいてほしい。
 私は手早く米を三合研いで、炊飯器をしかけた。ご飯が炊きあがった頃、ちょうど二人の知人が部屋に様子を伺いにやってきた。
 「飯あるけど食ってく?」
 と聞くと、二人とも飛び上がるように喜んでくれた。震災一日後、みんな腹を空かせていたのだ。
 なんにもないので白飯に醤油をかけ、三人でものも言わずにかき込んだ。
 ものすごく美味かった。
 飯を食べ終わって知人が解散すると、私はそろそろ状況判断に迫られてきた。
 米はあと二合ほどしか残っておらず、現金もはなはだ心許ない。
 昨夜からAMラジオで情報収集した感触では、どうやら激甚な被害は神戸市近辺だけに限られている様子だ。
 一度親元に帰って体勢を立て直しておこうか?
 そんな風に考え始めていた。
 なんとか公衆電話で親元には連絡が取れ、無事は報告できた。
 90年代半ばの当時は、携帯電話が現在のように「一人一端末」と言えるほど普及していなかった。
 まだ街の至る所に公衆電話があり、震災で自宅の電話が不通になった地区でも、場所によっては通じるものがあったのだ。
 ただ、テレフォンカードが使用不能になっている所が多く、しばらく経つとどの電話機も硬貨でパンパンになって使えなくなってしまった。
 私は手持ちの硬貨の残量を気にしながら、親元や親しい知人、バイト先などになんとか連絡を取った。
 神戸以外の場所でも情報は不足していたらしく、震災後数日間は「何か大変なことが起こったらしい」という以上には、現地の状況が伝わっていなかった。
 長話も出来ないのでとにかく「これから親元にむかってしばらく避難するつもりだ」と伝える他なかった。

 手持ちの地図を広げながらルートを考える。
 鉄道が通じている所まで、あちこち足止めを食らったとしても、半日も歩けば到達できるはずだし、そこまで行けばあとは何とでもなる。
 不安要素としては大規模な火災が起こっているらしいエリアを横切らなくてはならないことだ。
 他にも想定外の事態がいくらでも待ちかまえているのだろうが、このまま先の見えない状態でうろうろしているよりは、なんとかなりそうな気がした。
 そうと決まれば出発は早い方がいい。残りの米をもう一度炊飯器にぶち込み、部屋をかきまわしながら必要なものをリュックに詰め込む。
 あまり重くしたくはなかったが、いつまた激しい余震に襲われて状況が変わるかもしれなかったので、登山に準じるような装備で行くことにする。
 今から振り返ると荷物はもっと少なくてよく、ほとんど身一つでも問題なかったのだが、震度7を体験し、破壊され尽くした街の真っ只中では、どうしても深刻にならざるを得なかった。
 準備している間にふと気がつくと、また停電になったらしく、炊飯器のご飯はシンのある状態になってしまっていた。
 仕方がないので生煮えの二合飯をそのままタッパーにギュウギュウ押し込み、ざっと醤油をかけて当座の食料にした。
 最悪、野宿も覚悟していたので、動ける範囲で服を重ね着した。
 部屋はでんぐり返ったままだったが、火元とコンセントだけは確認し、施錠した。
 今度この部屋に帰ってくるのはいつになるだろうか?
 その時までこのボロアパートは残っているのだろうか?
 考えても仕方がないので、とにかく部屋を後にした。

90-07.jpg


(続く)
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする