2012年01月25日

GUREN6

 部屋のドアには例によって知っている範囲の安否情報と、これから親元に避難するつもりであることを紙に書いて貼っておいた。
 阪急線の駅すぐ近くに住んでいたので、一応立ち寄ってみる。前日にJRや阪神線の惨状を目にしていたので、列車の運行は全く期待していなかったが、何らかの情報は得られるかもしれない。
 駅は案の定、全くの無人状態だった。
 券売機のあたりに観光ポスターを裏返してマジックで書きこんだ掲示があった。

   電車は動いていません
   復旧の見込みはありません
          駅長

 半ばヤケクソのような文面で、所々無意味に赤ペンが使ってあり、漢字の誤りもあって、駅長さんの追い詰められた感じがよく伝わってきた。
 気を取り直して、まずは病院に向かった。
 前日運び込んだ劇団リーダーKの様子を、一目確認しておきたかったのだ。
 到着してみたが、あいかわらずの野戦病院状態だった。
 怪我を負った人や、お亡くなりになってしまった人が地下駐車場スペースにまで多数とり残されており、十分な物資や人員の補給、重篤患者の搬送などが行われているようにはとても見えなかった。
 Kを運び込んだあたりを探してみたが、姿はなかった。
 もしかしたら、と不安が湧いてきたが、どこか別の場所に移動したのだろうと考えるほかなかった。
 後に、Kは重傷ながら命に別条なかったことを知るのだが、当時それを確認する術はなかったのだ。
 2リットルのペットボトルに水道水を詰めたものを余分に持ってきていたので、付近にいた人に声をかけて受け取ってもらった。
 普段なら見知らぬ人には未開封のボトルの方が安心だったのだろうが、震災二日目はどこでも水は不足していた。
 飲料に使わないとしても水は必要だったし、容量の大きいペットボトルは、それ自体が使いでのあるアイテムだったのだ。
 震災以来、今に至るまで、私は自室に空のペットボトルを切らしたことはない。中身を飲み終わった後も、次のものを買うまでは、空き容器を捨てずにおいておく習慣がついている。
 私は病院を後にして、山手の道を歩き始めた。
 神戸は海と山に挟まれた南北に狭い街で、東西をつなぐ鉄道や幹線道路が何本も並行して走っている。
 海手は被害が酷く、山手はほとんど無傷だという前日の視察結果から、なるべく海側を避けるコースを選んだのだ。
 途中、広い運動公園のあるエリアを横切ろうとしたとき、自衛隊の大型ヘリが着陸しようとしているのを見かけた。
 報道のヘリが飛んでいるのは震災当日からよく見かけていたが、そう言うヘリは「ただ飛んでいるだけ」で、被災者にとってはうるさく、不安を煽るだけの意味しかなかった。
 自衛隊機が着陸しようとしているということは、救助活動が本格的に開始されようとしているのだろうと、少しほっとした気分になった。

 そのとき、少し「不審」な人物に出会った。
 運動公園から少し遠ざかった所で、迷彩服にヘルメットをかぶり、レシーバーを装着した若者が立っていた。
 私は何の疑いも無く自衛隊の人だろうと思い、声をかけた。
「すみません、今、避難している所なんですけど、この先の火災が起こっているあたりはどんな様子なんでしょう?」
 若者はしばらく答えずにじっとわたしを眺めた後、目をそらしてたった一言答えた。
「さあ……わかりません」
 それ以上話も続かなかったので、「あ、そうですか」とその場を後にしたのだが、歩きながらなんとなく疑問が湧いてきた。

 今のヤツ、本当に自衛隊だったのか?

 よくよく考えてみると、私が勝手に服装からそう判断しただけで、確認したわけではない。
 そう言えば体格もけっこう細くて、厳しい訓練を積んでいるにしてはひょろひょろだったような……
 後になって噂話としてではあるが、震災後数日間、警官や自衛隊、各国の軍装などを身に付けたコスプレマニア達が、「今しかない」とばかりに街をうろついていたらしいというお話を知った。
 その噂の真偽は確かめようがないし、私が見た「自衛隊」がその中の一人だったかどうかも定かではないが、今でもたまに思い出す情景である。

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posted by 九郎 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする