ここでもあちこちでビルが倒壊し、高架橋が破壊されており、都市機能は完全に麻痺していた。
さまよう人々を多く見かけた。
避難するため、食料や水を調達するため、あるいは周囲の現状を確かめるためなのだろう。
あてもなく、とにかく歩きまわるほかないという気分もあったことだろう。
自分がそうだったので、私にもそれはよく分かった。
個人の考え方、置かれた状況によって、災害時には様々な選択があり得ると思う。
私の場合、震災時には「二十代半ばの劇団員」というかなり気楽な身分で、負傷もせず、住んでいたボロアパートに大した被害も無かった。
なんとか自力で被災地外の親元に避難できそうな見通しがあった。
そうした条件から、「水や食料は被災地にいるしかない事情の人にまわす。自分は当面親元に避難し、現地の食い扶持を減らす」という選択をした。
もちろんほかの選択肢もあったが、とにかくそう決めた。
震度4〜5くらいの揺れはまだ度々続いており、いつまた大きな余震があるか分からない。
危険の予見されるエリアは迂回しながら、なるべく土地勘のあるルートを辿りたい。
ラジオの情報では、西明石以西はJRが運行しているらしい。
垂水までなんとかたどり着ければ、在住の親戚に連絡を取って西明石まで送ってもらえるかもしれない。
そこまで歩く過程で、もし救助の必要な場面に出くわせば、全力で協力する……
歩きながら、頭の中で現状と自分なりの行動規範を考えていた。
大規模な火災の起こっていた長田区を無事通過し、須磨区に差し掛かった頃、一匹の犬が遠巻きにしながらついてきていることに気がついた。
首輪をしていたので飼い犬だろう。
震災のどさくさで、迷ってしまったのだろうか?
ある一定の距離以上には近づいてこなかったが、何故かついてくる。
腹が減っているのかもしれないと気付き、ふりかえって「飯食うか?」と声をかけた。
ピタッと立ち止まってとくに反応は無い。
どうしようか迷ったが、ご飯を詰めたタッパーから少し取り出して足もとに置いた。
「ドッグフードじゃなくてすまんけど」
近づいてくる様子が無いので、ご飯はそのままに、歩き始めた。
しばらく歩いて振り返ってみたが、犬はまだ警戒している。
結局、ご飯を食べたかどうかは確認できないまま、私はその場を立ち去ることになった。
後になって、ニュースで被災地に取り残されたペット達に関する報道を見た。
震災時の細かなあれこれは、今でもたまに記憶によみがえってくるのだが、この犬のこともよく思い出す。
あの後、飯食ってくれたのかな?
家族とは合流できたのかな?
須磨区から垂水区まで、海沿いをずっと歩いた。
私が避難計画作成の手伝いなどで、津波について少々勉強したのは2000年代以降のこと。
95年当時はまだ、地震と津波の関係については全く認識していなかった。
もし知っていたら、震災直後に海岸線に近づくことはしなかったと思うが、何事もなかったので結果オーライではあった。
あたりがすっかり暗くなってから、ようやく垂水の駅前にたどり着いた。
ここまでくると被災地とは全く雰囲気が違っており、鉄道が運行していないこと以外はほとんど平常そのものだった。
一安心すると猛烈に腹が減ってきたので、道端に座り込んでタッパーに残っていた醤油飯をかき込んだ。
炊飯中の停電で芯があった飯だが、時間経過とともに多少食えるようにはなっていた。
それから親戚に連絡を取り、夜には親元に避難することに成功した。
これで私は一応、非常事態を脱したことになったのだが、もちろんこれで終わりではなかった。
破壊された街の中で日常生活を送るという、震災の次の段階に入ったに過ぎなかった。
むしろそこからの段階の方が、震災というものの本番であったかもしれない。
(続く)