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90年代、阪神淡路大震災の被災体験の続き。
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阪神淡路大震災二日目、私は徒歩で被災地を通り抜け、なんとか親元に避難することができた。
それから一週間ほど、一応身体の安全は保障されているものの、先の見えない生活が続いた。
被災地から親元までは、普段なら鉄道で通うことも可能な距離にあったのだが、地震による被害はまったくなかった。
昨年の東日本大震災では被災地が広範囲に広がったが、阪神淡路大震災の場合、壊滅状態になったのは非常に局所的だったのだ。
破壊された街中の不自由な避難所に入った皆さんのことを考えると、まるで異世界のように平穏な避難生活ができた私は、本当に幸運だったと言わなければならない。
他にできることもないので、情報収集に努めながら、私は今後の身の振り方について、まとまらない頭を巡らせ続けるしかなかった。
当時はまだケータイやインターネットの世界は今ほど一般化していなかったので、被災地の情報はテレビや新聞からに限られた。
ただ同じような写真や映像が延々と続くばかりで、自分で直に見てきた以上の大した情報は見つからず、時間だけが漫然と過ぎて行った。
親元に帰ってみて痛切に感じたのは、被災者とそれ以外の皆さんの意識の違いだった。
震度7の激震と、壊滅した街をさまようという極限体験は、それを体感した者にしか本当の所はわからない。
震度7という物理的な力。
何事もなく楽しく暮らしていた生活そのものが、ある日突然街ごと破壊されるという不条理。
人はいずれ死ぬとか、天災はいずれ来るとか、家はいずれ壊れるとか、街は変化するとか、時は流れるとか、言葉で書くとごく当たり前のことがらを、たった一昼夜で濃縮して見てしまったことは、決定的な意識の変化をもたらす。
十数年前の震災以降、今に至るまで、私の感覚は「非常時用」に切り替わったままだ。
平穏な日常生活というものが、何事もなくずっと続いていくことを、震災前のように無邪気に信じることはできなくなった。
いつの日にかまた、必ず「それ」は、やってくる。
明日かもしれないし、数週間後、数ヵ月後かもしれない。
数年後かもしれないし、十数年後かもしれない。
数十年というスパンなら高確率でやってくるし、百年以内なら「それ」は確実にやってくる。
私の今後の人生で「それ」に出合わない方がラッキーなのであって、この一見平穏そのものに見える日常生活というものは、ほんの猶予期間にすぎない……
言葉にするとそのような感覚が染みついてしまって、今後も元に戻ることは決してないだろう。
それでも当時の私はまだ若く、身体的な被害も住居の被害もほとんどなく、生活の中で守るべきものがそれほど多くはなかったので、価値観の崩壊も少なくて済んだと思う。
親しい身内をうしなったり、負傷したり、住み慣れた家を失い、ローンだけが残ったりした場合、その喪失感はいかほどのものだっただろう。
街が一瞬にして崩れ去るということは、日常感覚の崩壊をともなう。
大震災に被災した者なら多かれ少なかれ、こうした感覚は共有しているはずだ。何も言わなくても、実感として通じるものがある。
しかし、一歩被災地外に出てみれば、どんなに近親の者であっても、その感覚が深いところで理解されることはない。
親元で不自由のない避難生活をおくれる幸運に感謝しながらも、私はぼちぼち被災地に帰ることを考えはじめていた。
日々のやりとりの中で、被災地にあっては当たり前のように共有される感覚が通じないことに、ある種の「しんどさ」を感じはじめていたのだ。
当時のバイト先のいくつかは被災地外にあり、連絡をつけてみると、いつでも都合の良い時期に復帰すればよいと言ってもらっていた。
交通機関が分断されていたので親元から通勤することは不可能だったが、被災地にある自室に戻れば、徒歩などを含めてなんとか通勤可能であることはわかっていた。
余震は続いており、まだまだ予断を許せる状況ではなかったが、再び激震に襲われるほどではないと、感じられるようにはなっていた。
苦労するのは目に見えていたが、先が見えないまま親元で過ごすよりも、被災地に戻ることの方が前向きになれる気がした。
避難三日目ぐらいから、私は近所の釣具店などで、コンパクトにまとまる寝袋やポケットラジオ、ペンライトを購入し、最低限のサバイバル道具をそろえて、自室への帰還に備えはじめていた。
そして震災一週間後、リュックに目いっぱいの米とツールを詰め込んで、被災地付近へ通じる迂回ルートの鉄道に乗りこんだのだった。
(続く)