親元には何度か帰った。
荷物を整理したり、米などの食料を補給するためだ。
帰省したついでに、頭を丸めた。丸めたと言っても剃髪ではなく、中高校生の頃以来の坊主頭だ。
バイト先の皆さんは、「変わり果てた」私の姿を見てびっくりしていた。もしかしたら被災したこと自体より、驚かれてしまったかもしれない。中には笑いながら「出家でもしたか?」と声をかけてくれた人もいた。
なにかもう、手近なところから何でもかんでもリセットしたい気分だったということもあるが、直接的には風呂にあまり入れなかったことが理由だった。
震災前から私が住んでいた安アパートは風呂無しだったので、入浴にはもっぱら銭湯を使っていた。
当時住んでいた地域は「学生街」「下町」という色合いが強かった。金のない学生向けの老朽化した安アパートが無数に存在し、その大半は風呂無しだったので、あちこちに大小無数の銭湯が経営されていたのだ。
私の部屋から通える範囲だけでも、軽く4〜5軒はあったと思う。
ところが、そうした街の銭湯事情は、震災で一変した。
まず、震災後二カ月ほどの間は、各銭湯がまともに開店されなくなった。これは銭湯を経営する皆さん自体が被災者だったので、無理もないことだ。
ごくたまに風呂屋が開いた時などは、近所の人が殺到して行列になり、十五分ぐらいずつの交代制になったりしていた。
そんなときは湯船がたちまち汚れ、うすい泥水が浴槽を満たした状態になった。とても浸かる気にはならなかったので、頭と体だけ手早く洗った。
風呂好きの私にはなんとも辛い状態だったが、大阪のバイト先の近所で入浴できないオフの日には、洗髪できるだけでもありがたかった。
95年の震災から2000年にかけて、徐々に倒壊家屋が撤去され、新しい建築物に置き換わって行くその過程で、震災前には無数に存在した老朽安アパートのうちのかなりの数が、新築のワンルームマンション等に置き換わった。
新築マンションには当然ながら風呂が付いているので、銭湯の主要な顧客が一気に減少し、近所の銭湯はバタバタと閉店していった。その跡地には、また新しい風呂付マンションが建ったりして、銭湯経営を取り巻く環境は悪循環に陥って行った。
こうした変化は銭湯だけでなく、震災をきっかけとして他の様々な面でも、地域の在り方の変化は加速していったと思う。
風呂屋や地元のアーケード商店街、木造安アパートといった、どこか「昭和」の名残を感じさせる風景の多くは、「震災復興」「街づくり」という名の再開発で、あわただしく消え去って行った。
もし震災がなかったとしても、こうした変化は時の流れとともにやがては訪れたに違いない。日本中の小都市部で、過去や現在、進行中の変化であるだろう。
たまたま神戸の場合は、震災によって時計の針が一気に進められたということだ。私の体感としては、十年分くらい一息に進んだ気がする。
そのような急激な変化のしわ寄せがどこに一番行ったかと言えば、長年住み慣れた地域の中で、ゆっくりと余生を送っていたお年寄りの皆さんだっただろう。
震災前の神戸の銭湯の風景は、まことに牧歌的なものだった。
金のない若者、年配の皆さん、近所の子供たちが集っており、お互い名前も知らないけれども、よく顔を合わせて世間話などに興じる「風呂屋だけの知り合い」が、私にも何人かいた。
そんな顔見知りの中には、刺青の入った若い衆もいた。
今でこそ公衆浴場などでは「刺青・タトゥーお断り」が普通になっているが、当時はとくに違和感なく、周囲にとけ込んでいた。
サウナ室でナイター中継を見ながら、若い衆と他愛もない会話をしたことなどを、今でも懐かしく思い出すことがある。
92年の暴対法導入を契機として、警察が主導するヤクザ排除は急速に進行し、2012年現在はその総仕上げに入ろうとしているように見える。
しかし神戸では震災前後あたりまで、ヤクザは庶民に恐れられながらも、良くも悪くもそこそこ共存していたと思う。
それは「あの組」の膝元であるという特殊事情もあるだろう。
国家権力や警察力の崩壊した戦後の混乱期、神戸の治安を実質的に維持していたのが「あの組」であったという「史実」を記憶する人は多かっただろう。
そして何よりも、震災直後から「あの組」が精力的に展開した救援活動に、素直な称賛をおくる人は多かったのだ。
震災後、少なくとも私の周囲では、「ヤクザと自衛隊はようがんばってくれてる」という評判だった。
ヤクザに対する素朴な幻想が、最後の一花を咲かせた瞬間が阪神淡路大震災だったのかもしれない。
私自身は現在ヤクザと何のかかわりも持っていない。
ことさらにヤクザを擁護する気はないが、こうした事柄はなかなか文字にならないので、事実は事実として極私的に書き留めておきたいと思う。