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2012年08月02日

子供の頃された注意をもう一回思い出してみよう!

 8月である。
 例年、体調を崩し易い7月を、無事乗り切るミッションを自分に課していたのだが、なんとか達成。
 しかし、ここで気を抜いてはいけない。
 体調不良は油断とともにやってくる。
 
 この7月、
「食べ物はよく噛みましょう」

 ということに気付けたのは収穫だった。
 腰と胃腸という、私が肝に銘じて養生しなければならない二大事項のうち、胃腸の方はこれでほぼカバーできることがわかった。

 もう一方の「腰」についても、気付いたことがあるのでメモしておこう。
 先日、街中をブラブラ歩いている時に、ふと何かで読んだかTVで見たかした腰痛対策を思い出した。
 それは「歩いている時に短時間でも良いので背筋を伸ばして姿勢を正しましょう」というもので、簡単だが非常に効果がある腰痛対策だということだった。
 読んだか見たかした当時は「ふ〜ん」と思って、そのまま忘れてしまっていたのだが、せっかく思い出したので試してみることにした。
 駅から仕事場までの、行き帰り約十分ずつ、姿勢を正して歩いてみた。
 確かに、よく効く感じがした。
 帰宅して風呂に入った時、いつもより腰が軽く感じたし、痛みが出易い起床時にも、嘘みたいになんともなかった。
 以来、気付いた時にはなるべく姿勢を正すようにしている。
 簡単だが、びっくりするぐらい効果が上がる。
 人にもよると思うが、腰痛持ちの人は騙されたと思って一度試してみることをお勧めします。

 しかしまあ、「よく噛みましょう」といい、「姿勢を正しましょう」といい、子供の頃から親や先生に、何度となくされてきた、当たり前の注意ではある(苦笑)
 色々悩む前に、まず当たり前のことができているかどうか、よく考えてみた方が良いようだ。。。

 夏休みという季節柄からいうと、「ラジオ体操」なんかも、ちゃんとやったらたぶん効果絶大なんだろうな。。。
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2012年08月03日

古傷についての覚書

 何度も同じことを書くが、現在、私が体調の点で注意しなければならないのは二点。
 腰と胃腸で、一応、この二点のケアの仕方はわかった。
 他にも自分の身体で不具合が起こりそうな点を考えてみると、昔痛めた古傷のことが思い出されてきた。
 
 これも何度も書いたことだが、私は中高生の頃、剣道部に入っていた。
 剣道は小学生からはじめていて、通っていた道場の中では一番強い部類だったが、その後は右肩下がり。
 そこそこ部活に参加していたのは中学生時代まで。
 高校生の頃は「一人美術部」で多忙だったので、剣道部の名簿には一応名前が載っていたのだが、とても真面目に活動しているとは言えない状態だった。
 部員の少ない弱小剣道部のこと、対外試合の人数合わせに駆り出されるくらいで、ほとんど練習には参加していなかった。
 それでも小中学生の頃の貯金でなんとか試合は成立させ、たまには勝つこともあった。
 普段まともに練習していない上に、小柄なので、一工夫しないとなかなか試合にならない。
 そこでよく使っていたのが「体当たり」だった。
 こちらが小さいと思って相手が多少油断している雰囲気を感じると、その隙をついてガツンと一発体当たりをかます。
 竹刀を持った両手を自分の腰に引きつけ、相手の体に下からカチ上げるようにぶちかます。
 虚を突かれた相手が体勢を崩しているところを一気に畳みかけて、まずは一本先取する。
 後は相手の焦りを誘いながら、スピードには自信があったのでそのまま逃げ切るか、これだけは本当に得意だったコテ打ちで仕留める。
 この流れが、私の勝ちパターンだった。
 しかしまあ、所詮は練習不足で地力がない状態。
 相手にどっしり構えられると、なかなか通用しなかったのはいうまでも無い。

 自分より大きく、体重のある相手に思い切りぶちかまし続けていたせいだろうか、高校生の頃、右手の親指の付け根と、肋骨の中央の「合わせ目」の部分に痛みを感じることがあった。
 とくに肋骨の方は、無理な姿勢をとったり、くしゃみをした時などに鋭い痛みが走り、当時の私のアホな表現で言うと、「胸にカブトムシが入ってる!」というような、イガイガした痛みが続くことがあった。
 後から考えると、たぶん親指付け根も肋骨も、軽くヒビくらいは入っていたのかもしれないが、普段の生活に支障があるほどには痛まなかったので、医者に診てもらうこともなかった。
 
 どちらの箇所も二十代半ばあたりまではたまに痛むことがあったが、今はもう全く痛まない。
 しかし、いずれまた年齢的な衰えとともに、不具合が出るかもしれない。

 ごく私的な内容で恐縮だが、せっかくだから思い出したついでにメモしておくことにする。
posted by 九郎 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2012年08月05日

夏休み 船の工作キット紹介

 夏休みに入った頃から、「船 工作 夏休み 海賊」などのキーワードで検索し、拙ブログにたどり着く皆さんが増えてきています。
 毎年、雛祭、端午の節句、七夕の頃にも、おりがみネタでたくさんの皆さんに訪問していただいてきましたが、昨年の夏休みに「船の工作」を記事にしたところ、ご好評をいただいているようで嬉しいです!

 船の工作や海洋テーマの記事は、カテゴリでお読みいただけます。
 
 昨年は、以下に紹介する工作キットをネタに、船の工作を二つやってみました。


●「海賊船キット(海洋ものがたり)目指せワンピース【ひとつなぎの大秘宝】」エコール教材 

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 夏休みの工作にまずは普通の海賊船を!

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 夏休みの工作「鉄甲船」ようやく完成!

 今年に入ってから、まだ作例を完成させるには至っていないのですが、なかなか楽しそうな船の工作キットを二種類見つけたので、ご紹介です。


●「自由工作キット シップ6」加賀谷木材
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 昨年紹介の工作キットは、いかにも「工作」という感じの仕上がりですが、こちらは多少リアルな感じの完成品が作れるようです。
 同セットで、箱写真のような6種類の船の中から一つ選んで作ることができます。
 各種棒や角材がたっぷり入ったセット内容なので、工夫次第でそれ以外にも自由に作れます。
 小学校高学年以上で、図工の得意な人向けですね。
 工作から一歩進んで「模型」に近づいていきたい人にお勧めです。


●「自由工作キット ペットボトルシップ」加賀谷木材
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 ボトルシップというと、ちょっと難易度が高そうなイメージがあると思いますが、このキットはさほど難しくなく、雰囲気のある作品が完成させられます。
 このキットを入り口に、本格的なボトルシップ制作に進んで行くことも、十分可能だと思います。

 記事中紹介したキットは一応amazonのリンクを貼ってありますが、お近くのホームセンターやスーパーの夏休み工作コーナーで、もう少しお安く売っている場合があると思います。
 夏休み後半になると、更に値引きもありかもしれません。

 今年もできれば、何か一つ「船の工作」を夏休みの間に完成できたらいいなと思っています。
 あまり期待しないでお待ちください(笑)
posted by 九郎 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2012年08月07日

20年後、40年後、60年後

 原発事故のことを考えるとき、いつも同時に考えてしまうのは、広島のことや水俣のこと。
 70年代から80年代にかけて子供時代を過ごした私は、社会科教育や様々なメディアを通して、この二つの地名にシンボライズされる災厄について、自然と関心を持ち、学んできた。
 
 水俣病の経緯を、おおよそ20年ごとに、ごく簡単に(本来はあまり簡単にまとめてしまってはいけないのだが)概観すると以下のようになると思う。

 1950年代、地元企業による汚染で「水俣病」が発生。
 1970年代近くになって、ようやくその企業が汚染源であると断定。
 1990年代、水俣湾は美しさを回復しつつも、公害病認定をめぐる訴訟はいまだ継続。
 2012年7月31日、水俣病被害者救済特別措置法に基づく救済策の申請が、国により一方的に締め切られる。

 凄惨な公害の、被害者の多くが、数十年の単位で救済されないまま切り捨てられ、分断され、差別され、いまだにそれが継続している現実がある。

 ついでながら、「とある政治家」の言動も並行した20年刻みでまとめてみる。
 
 1977年の環境庁長官当時、陳情に来た水俣病患者の団体を門前払いにしてテニス。直訴文を「IQの低い人が書いたような字だ」と発言。さらに「補償金目当てのニセ患者もいる」と発言し、問題化。後に患者に対して土下座。
 1990年代末、知事就任。重度障害者施設を視察後、「ああいう人ってのは人格あるのかね」と発言。
 2011年3月14日、東日本大震災について、「日本人のアイデンティティーは我欲、物欲、金銭欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言。

 このような人物が、政治家として影響力を行使し続けることができること自体、奇異に思える。
 

 こうした原因企業及び国による、被害者切り捨ての在り様は、今後ますます周知され、記憶に刻み込まれなければならない。
 なぜなら3.11以降の日本は、電力会社と国による、低線量被曝の人体実験の場と化してしまった感があるからである。
 高度成長期に生み出された公害という地獄を経験し、日本は環境汚染に対して、それなりの規制は行うようになってきていた。
 放射能被曝に関しては、年間1ミリシーベルトのラインが設定され、まだよくわかっていない健康被害に対して予防的にきびしめの法規制が敷かれてきた。
 そうした過去に学ぶ姿勢が、3.11をきっかけに、国と一私企業が振りかざす偽りの「経済性」により、いとも簡単に投げ捨てられてしまい、放射能に関する様々な違法状態が、平然と放置される蛮行がまかり通っている。

 これからの20年後、40年後、60年後に何が起こるのか?
 それは相似形として既に示されているかもしれない。


 2010年と2011年、私は縁あって水俣の海を見る機会があった。

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 怖いくらいに美しい海を前にして、言葉が出てこなかった。
 そして二度目の水俣から帰ってきた直後、3.11を迎えてしまった。

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 水俣を語り継ぐ本は数あれど、まずは以下の一冊を開いてみてほしい。


●「みなまた海のこえ」石牟礼道子 丸木俊 丸木位里(小峰書店)
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2012年08月08日

70年代、90年代、2010年代

 個人的に、1995年と2011年はけっこう似ている感じていた。
 何よりも両年とも大震災の年であったし、オウム関連でも2011年から2012年にかけて、動きがあった。

 はじめは私のごく個人的な感じ方かと思っていたのだが、鈴木邦男さんが今年年頭のブログで同じような指摘をしていたのを読み、「自分だけではなかったのだな」と思った。

 最近感じるのは、2010年代の世相が、90年代のそれと似た雰囲気のものになりつつあるのではないかということだ。
 90年代はとくにカルチャーの面で、70年代リバイバルといった雰囲気が強かった。
 だから90年代とよく似た2010年代も、70年代の世相と繋がってくる面があるかもしれない。

 もう少し具体的に書いてみよう。
 私は90年代半ばごろから、やや真面目に神仏関連の読書をはじめたのだが、その当時よく読んでいた本の中に、以下のものがある。


●「宗教を現代に問う〈上中下〉」毎日新聞社特別報道部宗教取材班(角川文庫)
 1975〜76年にかけて、毎日新聞紙上で274回にわたって連載された記事の集成。
 単行本は76年、文庫版は89年に刊行された。
 70年だ半ばの時点での宗教状況について、広範に取材された労作である。
 上巻には当時の水俣の取材も含まれており、今そこにある地獄の中で、地元で多くの門徒をかかえる浄土真宗や、民間宗教者がどのように苦闘したかが記録されている。
 
 私が本書を手にした時には初出から20年が経過していたが、ほとんど違和感なく「現代」の内容として読み耽ったことを覚えている。
 そこから更に20年弱が経過した今読んでみても、多くの内容で「現代」そのものを感じる。

 70年代、90年代、2010年代の、とくにカルチャーの分野がよく似て見える理由は、なんとなく理解できる。
 70年代の文化を空気として呼吸した子供達は、90年代には青年となって表現する側にまわり、リバイバルの原動力になっただろう。
 70年代の青年は90年代には「先達」となって、日本各地に、何かを表現したい若者が集える「場」を作り上げていた。
 それから20年経った2010年代にも、同じようなスライドが起こっているのではないだろうか。

 昨今の反原発デモの映像の中に、年配の方々の表現を借りれば「ヒッピー風」の若者たちの姿がよく見られるのも、たぶんこうしたスライド現象が根底にあると思う。
 
 今につながる70年代の精神文化については、以下の本も非常に面白い。


●「終末期の密教―人間の全体的回復と解放の論理」稲垣足穂 梅原正紀(編)


 そして、最後に追記である。
 この本をここで紹介することには、ためらいがあった。
 内容の重さがお手軽なレビューを拒む本というものがあって、間違いなくこの本もそうした一冊だ。


●「黄泉の犬」藤原新也(文春文庫)

 本書の第一章は、水俣にほど近い海辺に生まれた、ある兄弟の物語から始まっている。
 その物語は、70年代と90年代、そして現在を結び、ミナマタからフクシマへと続く国と企業による「虐殺」を、地獄の側から凝視するものである。
 本書の存在が、読むべき人たちに十分認識されているとは言い難いのが残念でならないのだが、重すぎる内容が逆に足枷となってしまっているのはやむを得ないのかもしれない。 
 私は今の時点で、この本について詳しく書く準備ができていないのだが、ここまでのごく簡単な紹介でも、読む人が読めば何のテーマについて扱った本なのかピンとくることと思う。
 そういう人にはぜひ一度手に取って見てほしい一冊だ。
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2012年08月14日

補陀落

 そろそろお盆だ。
 以前私は、夏には毎年のように熊野を遍路していた時期があった。
 ここ数年行けていないのだが、その時期の名残で、今でもお盆近くでまとまった休みがとり易い頃になると、なんだかそわそわして来てしまう。

 一週間ほど山や里をほっつき歩き、湧水を飲み、川原に寝て、時には神社仏閣に詣でたりするのだが、旅の最後にはよく熊野の海を眺めていた。
 とくに那智から新宮にかけての海岸線を、古道の痕跡を辿りながら歩くのが好きだった。

 古来、那智の浜からは「補陀落渡海」という捨身行が行われていたそうだ。
 南方の海の果てにあるという観音浄土を目指し、身を捨てて小舟で旅立つ行者が、多数実在したという。

 かつて私は、このブログの開始直後の記事で、その小舟をモチーフにした絵を描いたことがある。

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 確かにあの海を見ていると、そのまま舟で漕ぎだしてしまいたくなる気持ちは分かる気がする。

 那智の浜では波の音を聴きながら眠ったこともある。
 ふと目が覚めて、素晴らしい夜明けの風景に出会ったことも、一度や二度ではない。

 いつの日か、またきっと。

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(クリックすると画像が拡大します)
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2012年08月19日

補陀落渡海船

 前回記事で紹介した補陀落渡海船のイラストは、ざっくりしてイメージで描いたものなので、実際に補陀落渡海に使用された小舟とは形状が異なる。
 熊野の那智の浜から船出したと伝えられる渡海船は、例えば有名な那智参詣曼荼羅などで、図像下部中央の浜辺に描かれている。
 那智参詣曼荼羅には様々なバリエーションがあるのだが、例えばこのように描かれている。

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 古い絵図なので再現度の高い写実的な絵柄ではないが、舟の特徴はほぼ漏らさず描写されていると思われる。
 船体は漁船のような小舟で、中央に茅葺入母屋屋根のような屋形が建てられている。
 その屋形の中央からは帆柱が立ち、清浄な白い帆が立てられている。
 那智参詣曼荼羅のバリエーションは、補陀落渡海船についていえば、この白帆の部分に一番異同が現れやすい。
 代表的な例では、帆の真ん中に「南無阿弥陀仏」と墨書されている。
 補陀落渡海船は、阿弥陀如来の仏国土である西方極楽浄土に向かう船ではなく、南方の観音浄土に向かう船だ。
 だから帆の真ん中に「南無阿弥陀仏」と書いてあるとちょっと首をかしげたくなるところだが、観音菩薩は阿弥陀三尊にも表現される通り、阿弥陀如来の脇侍なので、一応の理屈は通っている。
 とりわけ異様で目を引かれるのは、屋形の、おそらく四方に設けられた朱の鳥居と、周囲にズラッと並べられた同じく朱の卒塔婆だ。
 渡海行者はこの屋形に外側から封じ込められた形で海に流されるのだが、その意味を強調するような異様なデザインだ。

 この船を実際に再現したものが、補陀落山寺に奉納されている。
 私も現地に行った時に再現船を見て、確か写真にも撮ったはずなのだが、ちょっと今手元には残っていないようだ。
 興味のある人は「補陀落 渡海 船」等のキーワードで画像検索してみると、かなりの数がヒットするので、試してみてほしい。
 何度か拝観してみた感じでは、決して写実的とは言えない絵図を元に、実際に水に浮くよう合理的によく再現されていると思う。

 ただ、いくつか疑問に思うところもある。
 一番大きな疑問点は、船の側面の朱の鳥居が、前後のものより二回りくらい小さく再現されていることだ。
 たしかに絵図を見ると、側面の鳥居はやや小さく見えるものもある。
 しかしそれは、遠近法を駆使した写実表現ではない古い絵図を、写実表現に慣れた現代人の目で見るからそのように感じるのではないだろうか?
 中世の絵図の描き手のイメージとしては、四方の鳥居は同じ大きさに表現したかったのではないか?
 古い絵図の好きな絵描きのハシクレとしては、そのように直感している。

 もう一つは白帆のことだ。
 絵図では屋形の側面に、斜めに流す形で表現されているが、再現船では屋形前方の斜面に被せるように設置したようだ。
 これは、面のつながりから言って絵図の通りにすることが困難だったから、再現船では前方に流したのだと思う。
 しかし、そもそもこの渡海船はどこかの目的地に向けて、船を操りながら航行するためのものではなく、ただただ潮の流れで漂うためのものなのだから、帆に実用性は無くてもかまわなかっただろう。
 私はこの白帆は「帆」というよりは「幟」に近いものだったのではないかと想像している。
 幟であれば、屋形の片方に斜めに風で流れても、立体構成上の不都合は生じない。

 以上のような考察を元に、自分なりの渡海船の再現図を描いてみた。

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 描きあげてから見返すと、船首はもう少し短く、船尾はもう少し長くした方が良かったかもしれない。

 最近刊行された本の中でも、新しい解釈の渡海船の再現図が掲載されていた。 

●「週刊 日本の世界遺産&暫定リスト」2012年 5/27号(朝日新聞出版)

 この本の再現図では、従来は屋形中央あたりから突き出していた帆柱を、屋形の前方に配置することによって「帆」としての実用性も両立させていて面白い。
 紀伊半島南部の参詣マップとしても、よくまとまっているのでお勧めだ。
posted by 九郎 at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2012年08月20日

GUREN13

(当ブログではカテゴリ90年代で、私自身の阪神淡路大震災の被災経験を、断続的に書きとめています。)
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 出勤のために自室から一時間以上かけて被災地を抜け、鉄道の通じている地点まで行き帰りする毎日を過ごすうちに、色々なものを見た。
 バイト帰りの夜道、高速道路や鉄道の高架橋を通りかかると、昼間の復旧工事の進捗状況が日々観察できた。
 地震の揺れで橋脚のコンクリートが部分的に爆発したようになり、ねじ曲がった鉄筋部分がひしゃげた提灯のように露出する現象はあちこちで見られた。
 私の通勤経路でも何箇所かあったのだが、そのうちのいくつかは、「無事」な部分はそのままに、ジャッキアップして継ぎ足すように再建していた。
 当然、しかるべき強度計算がなされた上での復旧工事だったのだろうとは思う。
理性としてはそのように考えるべきだとわかってはいたのだが、あの激震を体験した素人目には、なんとも危うい印象を受けてしまったものだ。
(そんななおし方でほんまに大丈夫なんかいや……)
 地震で倒壊した鉄筋コンクリート建造物のうち、多数に強度偽装らしき痕跡が認められたというニュースを聴きながら、どうしてもそんな疑問が頭をよぎって行った。
 
 他にも、眺めているだけで滅入る風景は多々あった。
 広い範囲で家屋が倒壊し、火災で焼き尽くされたエリアが何箇所かあった。
めぼしい公園には仮設住宅が立ち並び、ゴミ集積所には回収されないままの粗大ゴミや廃材が「山脈」を形成していた。
 そうした荒廃の風景は震災後数年のうちに徐々に解消されて行ったのだが、その後「復旧」された街は、震災前のものとはまったく違った性格を持つようになっていた。
 先にも書いたことだが、時代の流れとともに徐々に進んでいくべき街の変化が、震災を契機に十年分ほど強制的に進められてしまった感があった。
 街を構成する建造物の建て直しは、ものの数年もあれば完了する。
 神戸の例で言えば、ライフラインは数カ月、主な交通機関も半年すれば復旧したし、2000年に入る頃には「破壊された街」の痕跡はほとんど目に見えなくなった。
 しかし、モノが復旧されたからと言って、震災のすべてが終わるわけではない。
 そこに住む人間それぞれにとっての震災は、心の中で残り続けるし、それは被災地の地べたで暮らす者にしかわからない。

 同じくバイト帰り、長い帰りの夜道を歩いていて、見知らぬ犬がついてきたことがあった。
 小型の柴犬で、野良犬には見えなかった。
 歩く私から微妙に距離を置いてついてくる。
 はじめはたまたま進む方向が同じなのかと思ったが、いつまでも同じ距離感でついてくるので、ちょっと困った。
 ためしに歩道を蛇行してみると、私の足取りそのまま辿ってくる。
 仕方がないので、話しかけた。
「ごめんな。連れて行ったられへんねん」
 飼い犬なら、人間のしゃべっている言葉の「意味」は通じなくても「意図」はけっこう通じるものだ。
「家どこや? あんまり遠くまでついてきたら、帰られへんようになるで」
 しゃべりながら、何か似たようなことがあったなと気づいた。
 そう言えば震災二日目、親元に避難するときに、どこかの犬がついてきたことがあった……
 あの犬、飯は食えただろうか?
 私は特筆するほどの犬好きでもないのだが、震災当時の心境として、行くあてのない迷い犬とどこか通じるものがあったのかもしれない。
 私の言葉が通じたのかどうか、今度の迷い犬も、どこかへ歩き去って行った。
 もちろん、その後の消息はわからない。

 阪神淡路大震災では、一般市民によるボランティアの活動が注目され、「ボランティア元年」という言葉もできたほどだった。
 私はと言えば、そうしたボランティア活動とは直接関わらないままに、どうにかこうにか日々をしのいでいた。
 私自身が(直接的な被害は少なかったとはいえ)被災者であったし、被災地で寝起きし、余所で稼いできた金を被災地で使うことこそが、自分のできる最善の「復興活動」だと思っていたのだ。
 ところがある時、知人を介して、風変わりなお話をもらった。
 震災で広範囲が焼失した地域で、地元の人が飲み食いしながら懇談できる、集会所が建てられたという。
 建てたはいいが、工事現場のような愛想のないプレハブなので、その壁面に何か絵でも描いてくれる人はいないか、探しているそうなのだ。
「あ、俺でよかったらやるやる!」
 即答した。
 たぶん、自分以上の「適任」は、なかなか見つからないだろうと思った。
 良い絵描きさんは巷にもたくさんいるが、プレハブの壁面のようなイレギュラーなキャンバスに、画材にこだわりなく、安上がりで見栄えのするサイズの絵が描ける人間は、そんなにたくさんいないだろう。
 私は大きなサイズのペンキ絵を描くことに関しては中高生の頃から経験を積んできていたし、震災当時は映画館の看板描きのバイトや、所属していた小劇団の舞台美術で、その手の作品制作には熟達しまくっていた時期だったのだ。
 さて、何を描こうか?
 依頼主さんからは、具体的な希望は特になく「とにかく明るく景気のいい感じで」と言うことだった。
「じゃあ、七福神を描かせていただきます!」
 とくに迷うこともなく、絵のテーマについても即決した。
 実はその頃、私は徐々に神仏に関する読書を始めていたところだった。
 父方の祖父が浄土真宗の僧侶、母方の祖父が仏像彫刻を趣味にしている大工だった私は、それまでも神仏に関心を持たなかったわけではないのだが、まともに資料にあたって調べたりということはなかった。
 思うところあってそうした読書を始めた、ちょうどそのタイミングに、もらったオファーだったのだ。
 焼け野原に立つプレハブ小屋に浮かび上がった、ペンキ絵の七福神。
 今の自分が描く絵としては、素晴らしくお似合いな気がした。
 
 ああ、この辺だ。
 自分はこの辺りから始めるのが良い。
 そう思い立つと、久々に心が上向きになってくるのを感じたのだった。
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(私的震災記「GUREN」ひとまず完)
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2012年08月22日

呪と怨1

 私が子供の頃、公害の問題は既に社会科の教科書にも掲載されていた。
 学校教材以外にも、様々な場面で公害を扱った文章や写真、映像に触れる機会があった。
 その中で、子供心にとても印象的だった写真の記憶がある。

 いつ、どこでその写真を目にしたのか、はっきりとは覚えていない。
 もしかしたら、同じような写真を見た複数回の記憶をごっちゃにしている可能性もある。

 白っぽい着物の人たちが、黒い旗を林立させている。
 白黒写真なので、もしかしたら本当は違う色なのかもしれなかったが、見慣れない装束の白と、幟旗の黒の対比が強烈だ。
 そして黒旗には異様な漢字一文字が白く染め抜かれている。
 「怨」
 子供の私はまだその漢字の読みと意味を知らない。
 後にマンガ「はだしのゲン」で、被爆者の白骨死体の額部分に同じ文字が描きこまれるシーンを読み、ようやく私は「怨」という文字の読みと意味を知った。
 そしてさらにずっと後になって、私はその写真が水俣病患者の皆さんを写したものだということを知った。
 1970年、水俣病の加害企業であるチッソが大阪で株主総会を開いた時、はるばる水俣から株主としての患者の皆さんが乗りこんできたワンシーンだったのだ。
 お遍路に使用する白装束に「怨」の黒旗、そして総会の場で死者を鎮魂するための御詠歌を朗々と合唱する姿。
 それは一方的に虐殺され、何の武器も持たされないままに闘わざるを得なかった庶民が、国と巨大企業に向けて突き刺した精一杯の哀しい刃だっただろう。
 経済の最先端の場で、被害者のやり場のない感情を、祖先より伝来された習俗に乗せて真正面から叩きつける。
 それは物質次元においてはまったく無力な抵抗だったかもしれないが、心の次元においては凄まじい威力を発揮したに違いない。

 この「怨」の幟旗による抗議を発案したのが「苦海浄土」の石牟礼道子であったらしいことを、さらにずっと後になってから知った。

(2018年追記:石牟礼道子の訃報を受け、追悼記事を書いた)
 しゅうりりえんえん
 
 そして長らく子供の頃見た「怨」の写真と見分けがついていなかったのだが、同じような写真がもう一種あることも、後に知った。
 その写真には笠を被った黒装束のお坊さんたちと、お坊さんたちが掲げた黒旗が写っていた。
 その黒旗にも、白い文字が染め抜かれていた。

 「呪殺」

 文字は確かにそう読めた。

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(つづく)
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2012年08月23日

呪と怨2

「公害企業主呪殺祈祷僧団」

 その異様な名を持つ一団のことを、私が初めて認識したのは90年代半ば頃のこと。
 ぼちぼち神仏関連の書籍などを、やや真面目に読み始めていた頃のことだった。
 何冊かの書籍の中に、その名と、行動の概略が記載されていた。
 高度経済成長の暗黒面である公害が深刻さを増す70年代、ごく短い期間ながら、その一団は確かに実在したという。
 名の通り「公害加害企業主」に対し、呪殺祈祷を執り行うことを目的とする。
 僧侶4人、在家4人。
 宗派としては、真言宗と日蓮宗の混成部隊。
 主要メンバーは、真言宗東寺派の松下隆洪、日蓮宗身延山派の丸山照雄、在家の梅原正紀。
 墨染めの衣に笠という雲水スタイル。
 行脚は日蓮宗方式で題目と太鼓、そして呪殺祈祷は真言宗の儀軌にのっとって行われたという。
 イタイイタイ病、新潟水俣病などの、当時リアルタイムで公害が発生していた各地をめぐり、公害企業を前にして護摩壇を築き、実際に呪殺祈祷を執り行った。
 
 「呪殺」
 
 そう大書した黒旗をなびかせる一団は、傍目には不気味で物騒極まりないものだったが、「不能犯」ということで、警察の取り締まり対象にはならなかったという。
 法的には「呪っても人を殺すことはできない」し、呪殺祈祷の対象も「公害企業主」という表現なので個人を特定しておらず、名誉棄損にすらならないのだ。
 その上、行脚や祈祷もデモではなく宗教行為ということで取り締まりの対象にできない。
 
 このように転戦した僧団は、現地の民衆からは共感を持って迎えられ、警察は面くらい、祈祷対象の公害企業からは冷笑と困惑で迎えられた。
 当然ながら、仏教サイドからは「慈悲を根本にする仏教が、呪殺とはなんたることか」という批判が上がり、祈祷僧団に参加した僧が宗派から処分を受けたりもした。
 ただ、真言宗は「教義的に問題無し」と、お咎めは無かったという。

 どうしても気になるのは、呪殺祈祷の「成果」だ。
 色々調べてみたが、今一つはっきりしない。
 はっきりとはしないのだが、どうやら対象になった「公害企業主」関係者の中に、この祈祷との関連を思わせる時期に、何らかの不幸はあったようだ。
 しかし、大企業の「企業主」ともなれば、ある程度年配の人間が多いことだろうから、一定期間中に何事かが生じたとしても、不思議は無いとも言える。

 これは、まさに「表現」の領域の事象だと思う。
 公害企業によって生み出された地獄が現にそこに存在し、多くの罪無き民衆が虐殺されている。
 そこに権威ある修法で呪殺祈祷ができる僧がおり、民衆の「怨」を背負って実際に儀式を執り行った。
 そして、法的な意味での「証拠」は存在しないが、祈祷との関連を思わせるタイミングで、企業側に何らかの不幸が生じた(という伝聞情報がある)。
 表現がなされ、あとは受け手に解釈が委ねられたのだ。

 こうした事象を、一笑にふす人もいるだろうし、一種の「救い」を感じる人もいるだろう。
 私はと言えば、あえて率直に述べるならば、悲惨な公害の現場にあって、このような一団が存在してくれたことに共感せざるを得ない。
 これが武器・凶器や毒ガスなどを使用したテロであれば断固否定するが、大聖不動明王から借り受けた法の力による「慈悲行」であるならば、なんら問題は無いと考える。
 何よりも、密教というものが、理不尽極まりない文明の暗黒面に対抗できる「表現手段」を持っていたことに、豊かな文化的蓄積の凄みを感じる。

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 この特異な僧団については、以下の書籍に当事者の梅原正紀の手で、詳細な記録が残されている。
 興味のある人は一読されたし。 


●「終末期の密教―人間の全体的回復と解放の論理」稲垣足穂 梅原正紀(編)

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posted by 九郎 at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする