前回記事で紹介した補陀落渡海船のイラストは、ざっくりしてイメージで描いたものなので、実際に補陀落渡海に使用された小舟とは形状が異なる。
熊野の那智の浜から船出したと伝えられる渡海船は、例えば有名な那智参詣曼荼羅などで、図像下部中央の浜辺に描かれている。
那智参詣曼荼羅には様々なバリエーションがあるのだが、例えばこのように描かれている。
古い絵図なので再現度の高い写実的な絵柄ではないが、舟の特徴はほぼ漏らさず描写されていると思われる。
船体は漁船のような小舟で、中央に茅葺入母屋屋根のような屋形が建てられている。
その屋形の中央からは帆柱が立ち、清浄な白い帆が立てられている。
那智参詣曼荼羅のバリエーションは、補陀落渡海船についていえば、この白帆の部分に一番異同が現れやすい。
代表的な例では、帆の真ん中に「南無阿弥陀仏」と墨書されている。
補陀落渡海船は、阿弥陀如来の仏国土である西方極楽浄土に向かう船ではなく、南方の観音浄土に向かう船だ。
だから帆の真ん中に「南無阿弥陀仏」と書いてあるとちょっと首をかしげたくなるところだが、観音菩薩は阿弥陀三尊にも表現される通り、阿弥陀如来の脇侍なので、一応の理屈は通っている。
とりわけ異様で目を引かれるのは、屋形の、おそらく四方に設けられた朱の鳥居と、周囲にズラッと並べられた同じく朱の卒塔婆だ。
渡海行者はこの屋形に外側から封じ込められた形で海に流されるのだが、その意味を強調するような異様なデザインだ。
この船を実際に再現したものが、補陀落山寺に奉納されている。
私も現地に行った時に再現船を見て、確か写真にも撮ったはずなのだが、ちょっと今手元には残っていないようだ。
興味のある人は「補陀落 渡海 船」等のキーワードで画像検索してみると、かなりの数がヒットするので、試してみてほしい。
何度か拝観してみた感じでは、決して写実的とは言えない絵図を元に、実際に水に浮くよう合理的によく再現されていると思う。
ただ、いくつか疑問に思うところもある。
一番大きな疑問点は、船の側面の朱の鳥居が、前後のものより二回りくらい小さく再現されていることだ。
たしかに絵図を見ると、側面の鳥居はやや小さく見えるものもある。
しかしそれは、遠近法を駆使した写実表現ではない古い絵図を、写実表現に慣れた現代人の目で見るからそのように感じるのではないだろうか?
中世の絵図の描き手のイメージとしては、四方の鳥居は同じ大きさに表現したかったのではないか?
古い絵図の好きな絵描きのハシクレとしては、そのように直感している。
もう一つは白帆のことだ。
絵図では屋形の側面に、斜めに流す形で表現されているが、再現船では屋形前方の斜面に被せるように設置したようだ。
これは、面のつながりから言って絵図の通りにすることが困難だったから、再現船では前方に流したのだと思う。
しかし、そもそもこの渡海船はどこかの目的地に向けて、船を操りながら航行するためのものではなく、ただただ潮の流れで漂うためのものなのだから、帆に実用性は無くてもかまわなかっただろう。
私はこの白帆は「帆」というよりは「幟」に近いものだったのではないかと想像している。
幟であれば、屋形の片方に斜めに風で流れても、立体構成上の不都合は生じない。
以上のような考察を元に、自分なりの渡海船の再現図を描いてみた。
描きあげてから見返すと、船首はもう少し短く、船尾はもう少し長くした方が良かったかもしれない。
最近刊行された本の中でも、新しい解釈の渡海船の再現図が掲載されていた。
●「週刊 日本の世界遺産&暫定リスト」2012年 5/27号(朝日新聞出版)
この本の再現図では、従来は屋形中央あたりから突き出していた帆柱を、屋形の前方に配置することによって「帆」としての実用性も両立させていて面白い。
紀伊半島南部の参詣マップとしても、よくまとまっているのでお勧めだ。