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2012年10月01日

一日遅れのお月見

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 今年は中秋の名月が早くて、本来ならば昨夜がそうだったのだが、台風が来ていたのでそれどころではなかった。
 私の住む地域ではお彼岸から一週間遅れでヒガンバナが咲き始めていたのだが、一夜あけてみれば暴風で大半がなぎ倒されてしまっていた。
 
 今夜、一日遅れのお月見を。
posted by 九郎 at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 季節の便り | 更新情報をチェックする

2012年10月11日

我が「縁日屋」は市を選ぶ

 この間の三連休の中日、フリマに出店してきた。
 最近、近場の出店が多かったのだが、久々の遠征。
 場所は京都府北部の綾部市。
 とあるお祭りの運営をやっている友人から、出店のお誘いをもらった。
 イベントの詳細はこちらで。
 土曜の夕方から「縁日屋」一式をかついで出発。綾部の合宿所みたいなところで一泊。早起きして準備をする。
 綾部は山間部の美しい所です。

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 お祭り自体は三連休まるごと開催されていたので、私が会場に到着したのは二日目の朝。
 既に会場には多数のお店が設営されていて、それぞれのテントでは朝食の炊煙が上がっていた。
 会場には数々のオブジェやTipi(北米インディアンのテント)、ゲル(モンゴルのテント)が設置されていた。
 雰囲気は、私が十数年前に衝撃を受けた海辺の祭に近い感じで、素晴らしい。
 出演したり出店したりしている皆さんの中にも、けっこうあの海辺のお祭りと共通している人たちがいたのではないだろうか。
 そう言えば今回ライブに出演していたHALKO(桑名晴子)さんも、あの海辺のお祭りの常連だった。

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 単なるイベントではなく、「お祭り」なのでちゃんと朝拝から始まる。

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 開場時間が近づくと、あちこちのテントから人がわらわらと出てきて、出店準備が始まる。
 エスニック料理や民族衣装、自然食品や雑貨等のお店や、環境問題や3.11を考えるスペースがひしめいていて、それ自体が会場の舞台装置になっている。
 ライブに出演するミュージシャンだけでなく、ギターやウクレレ、太鼓や各種民俗楽器を持ち込んでいる人がたくさんいる。あちこちで即興演奏が絶え間なく、ライブのステージと会場内、出演者と参加者がゆるく溶け合っている。
 ちょっと現代日本離れした風景は、アジアか日本の中世の市場のような印象がある。

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 各地のお祭りからテキ屋の皆さんが排除され、なんとなく面白味の薄れつつある昨今だが、こうした新しい形の、ちょっと変わった品やメニューが並ぶ仮設店舗を出せる皆さんが増えてきているのは、なんとも楽しいことだ。

 我が縁日屋も取り急ぎ、設営。
 かついで来れるだけのスペックだったので、いつものフル装備よりは、やや軽めの店構え。

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 会場には水遊びができる場所もあり、日が昇って気温が上がると、お店をやっている皆さんの子供たちが、はだかんぼで遊び始めたりしている。
 絵図に見る極楽の池の風景のようだ(笑)


 当日は残念ながら快晴とはいかず、午前中を中心に断続的に雨がぱらつき、かなり激しく降ったりもした。
 我が「縁日屋」はTシャツとポストカードが主力なので、雨には非常に弱い。
 降っている間は店を畳んでおく以外に手は無い。

 せっかく遠出してきたので、午前中は割りきってお祭り見物に専念したのだが、午後になっても中々すっきりしない。
 このままでは何をしに来たかわからないので、とにかく降ってきたらすぐに収納できる配置にして、いつもやっている客寄せの「絵解き」をはじめてしまうことにした。
 元々愛想もなく接客向きとは言い難い人間が、怪しげな神仏ネタのイラストやTシャツを前にして黙って座っていると「やだ何あの人怖い」という印象を与えがちなので、無意味にお客さんを威嚇しないよう、店をやっている間は絵を描くことにしているのだ。
 即興で仏画などを描いていると、近づいてくるのはそういうものに関心のある人か、好奇心の強い子供たちに限られてくるので、ブースに並べてある各種グッズにも興味をつなげやすい。
 
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 日本の中世から近世にかけて、各種曼荼羅の入った厨子を背負い、辻や市でその曼荼羅を広げて功徳を語り、札などを売ったりする「絵解き」と呼ばれる人々がいた。
 彼らは旅芸人であり、遊行乞食でもあった。
 我が「縁日屋」も、それで生計を立てていないアマチュアではあるけれども、そうした「絵解き」にあやかりたいと願っている。

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 我が「縁日屋」は、けっこう市を選ぶ。
 不用品などを売るごく普通のフリーマーケットでは、けっこう浮いてしまうので、「手作り市」やライブなどがあるイベントでの出店で、仏画やアジア雑貨等の好きな人がたくさん集まる場所でないと、そもそも関心を持ってもらえないのだ。
 その点、今回のお祭りは、行きかう皆さんに本当に恵まれた。
 皆さんなかなかのツワモノぞろいで、熱心に仏画を眺めた後、手を合わせて真言を唱えたり、けっこう突っ込んだ質問を受けたりした。
 御自身も仏画を描くという人がいて、情報交換できたりもした。

 子供たちがわらわら集まってきてくると、それにつられて大人も集まり易い雰囲気になるのでありがたい。
 今回は子供受けするように新兵器も投入した。
 上の「縁日屋」の写真にチラッと写っているが、北米インディアン風のヤタガラスの仮面、背中に「縁日屋」と大書した黒マント、それから下の写真のちょうちんだ。

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 百均で買ったちょうちんに絵付けをし、中にはこれも百均で入手したLEDランタンを仕込む。
 いい感じで安っぽい色とりどりの光が、我が「縁日屋」にはよく似合う。
 けっこうウケて、作り方を質問されたり、写真を撮ってもらったりした(笑)

 会場は暗くなってからの方が、いよいよ良い雰囲気になってくる。

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 このまま会場で夜を明かし、語ったり歌ったり踊ったりできたら最高なのだが、残念ながら都合があって午後八時過ぎには撤収しなければならなかった。

 雨のせいもあって、この日の収支はなんとかトントンくらい。
 天候ばかりは仕方がないので、いいお祭りに参加できたことに、まずは感謝しなければならない。
 
 このお祭りは今年が第一回。
 またの機会があれば、ぜひ参加してみたいと感じた。

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posted by 九郎 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 縁日の風景 | 更新情報をチェックする

2012年10月14日

暗く恐ろしく優しき異界

 私の好みをよく知る人に勧められて、小説を読んだ。


●「夜市」恒川光太郎(角川ホラー文庫)

 この十年ほど、資料調べのような読書が中心になっていたので、それほど熱心に同時代の小説作品等をチェックしてこなかった。
 だからこの著者についてもまったく予備知識がなかったのだが、収録作品の「夜市」「風の古道」ともに、非常に面白く読めた。
 両作品ともに「異界」を扱っている。
 この世のものならぬ「市」「古道」と言うテーマは、長く当ブログを読んでいる皆さんなら既にお察しの通り、私の好みど真ん中である。
 好みに合っているということは、逆に言うと採点が辛くなり易いテーマなのだけれども、そんなハードルを軽々越えているのが凄い。
 作品内で「異界」を扱うと、どうしても古典っぽいものになったり、浮世離れしたファンタジーになったりしがちなのだが、「幼い頃の奇怪で不確かな記憶」という切り口を使って、背筋のぞくぞくするリアリティを醸し出している。
 子供の頃の記憶には、不可解で不気味なものが確かにあって、私もそうした記憶の断片をふと思いかえす瞬間がある。

 あまりに面白かったので自分でも人に勧めたいのだけれども、筋立てから紹介することが難しい作品なので、上記のような抽象的な褒め方になってしまう。
 かなり作りこんだ仕掛けを持つのだが、著者が描きたいのはそうした仕掛けの部分よりも、むしろそこからたちのぼってくる登場人物の感情であると思える。
 だから筋立てから紹介すると、作品世界の雰囲気を適切に表現できず、遠ざかって行きそうな気がする。
 独自の雰囲気を持つ作家であり、作品なのだが、私の知る中からあえて近似値を持つ作家を探すならば、諸星大二郎の作品世界がそれにあたるかもしれない。
【諸星大二郎 関連記事】
祭の始まり、祭の終り
六福神
諸星大二郎「生命の木」

 今回読んだ二つの作品に描かれる「異界」は、主人公の突然の巻き込まれ方、その後の人生における関わり方、そして強制的に従わされる「異界ルール」の内容は、理不尽極まりないものだ。
 しかし、きっかけは理不尽であったとしても、一旦そのルール内に取り込まれてしまえば、そのルール自体が不条理に捻じ曲げられることは無い。
 むしろ厳格すぎるほどに守られ、「異界」内の因果律は整然と破綻なく堅持される。
 その意味では、この日常世界の方がよほど不合理がまかり通っており、物事の道理が通らぬことが多すぎることに気付く。
 私たちが生きる浮世は、この眼に映る現実だけで見る限りは、善いことが良い結果を生まず、悪いことがその報いを受けないことの常態化した、納得のいかないことだらけの世界だ。
 とくに3.11以降、罪無き人々の惨状と、国や法律に守られる犯罪者どもの在り様を対比するとき、そうした感慨を持たざるを得ない。

 だから昔の人は前世や後生を真剣に求めた。
 この世だけではとうてい納得できない理不尽を、この世の前後に「異界」を設定することで合理化しようとしたのだ。
 輪廻転生や地獄極楽でも想定しなければ、やりきれない悲嘆がこの世には確かに存在する。

 今回読んだ両作品の舞台になる二つの「異界」は、宗教的というよりは民俗的なイメージで、善悪を厳しく立て分けるようなものではないのだが、登場人物はいずれも自分の中の「本心」がどのようなものか、自分自身でさらけ出さなければならない局面に遭遇する。
 登場人物それぞれの結末は、一見明暗分かれるように見えるけれども、実はそれぞれが「異界」というフィルターに濾し取られながら、「本当に望んだ場所」に向けて分岐していっているようにも感じる。
 小説的な筋立て上は「意外な展開」が次々と描かれているけれども、読後によくよく味わってみれば、一同に会した異界という辻から、「そうでしかあり得ない居場所」に向けてそれぞれが歩み去って行く構図になっており、そこに不条理はまったく入り込む余地がない。
 舞台となった「市」や「古道」は暗く恐ろしいけれども、ふと自分も入りこんでみたいという気にさせられてしまうのは、おそらくそうした「きちんと因果の通った世界」が、この世には存在しないからなのではないかと思う。

 私がときに熊野葛城の山野にふらりと衝動的に出かけてしまうことも、あるいはそうした心情が関係しているのかもしれない。
posted by 九郎 at 03:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2012年10月16日

昼間汗ばみ、夜中冷えるこの季節

 ぎっくり腰に要注意。

 暑がりなので、一年のうち半分以上、七か月近くはTシャツで過ごしている。
 昔から、衣替えの意味がよくわからなかったのだが、この一、二年でようやく理解しつつある。
 昼間多少汗ばむことはあったとしても、この時期になると、少なくとも夜間はそれなりの厚みのものを身につけて、肩や腰を冷やさないようにしなければならない。

 一週間前にフリマに出店して、かなり重い荷物をかついだせいか、肩と腰に違和感が続いていた。
 たまには養生しておくかと、日曜日に風呂屋に行った。
 ゆっくりお湯につかると、やはり多少調子がよくなった。
 やっぱり温泉はいいですね。

 そう言えば、私と腰痛の付き合いが始まったのは、風呂付のマンションに引っ越した時期と一致している。
 それより以前の若い頃は、風呂無しトイレ共同の安アパートに住んでいた。
 おかしな話だが、風呂付マンションに引っ越したことで、私の「風呂事情」は逆に悪くなった。
 これにはちょっと説明が必要だろう。
 
 風呂無し安アパート時代は週に三回ほど風呂屋に通っていた。
 私は昔から風呂好きだったのだが、毎日銭湯に通う金は無かったので、週三回ペースだった。
 当時住んでいた地域は学生街の雰囲気が残っており、まだまだ若者向けのボロアパートが多かったので、銭湯も多数経営されていた。
 確か一回300円くらいで入れたと思う。
 地域の銭湯共通の回数券があって、十回分の値段で十一枚のチケットが買えた。
 その十一回分を工夫して、一か月の風呂代にあてていた記憶がある。 
 風呂好きかつ貧乏性なので、一度風呂屋に行くと一時間〜一時間半ぐらいは粘って、じっくり体を洗ったり、サウナなどを楽しんだ。
 当時、肩凝りはあったが、腰痛とはまったく縁がなかった。
 似た体質を持つと思われる二歳年下の弟は、同じ時期から腰痛を持っていたらしいので、もしかしたら銭湯にゆっくりつかる習慣が、功を奏していたのかもしれない。

 それから風呂付マンションに引っ越すことになるのだが、アホみたいな話、毎日風呂に入れるという安心感があると、私はあまり熱心に時間をかけてお湯につからなくなった。
 銭湯のように変化に富んだ広い浴槽があるわけでもないので、ざっとお湯に浸かって体を洗うだけで入浴を済ませがちになった。
 そしてちょうどその時期から、私と腰痛の付き合いが始まっている。
 単に年齢的なものもあるかもしれないが、やはり風呂事情との関連を考えてしまう。

 時間を見つけて、ちょくちょく風呂屋に行くようにするか……
posted by 九郎 at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2012年10月17日

常在遍路3

 先日のフリマ出店で、久々にアウトドアでの照明の必要があった。
 ここ数年、アウトドアで夜間照明の必要に迫られることはなく、十年ぐらい前にホームセンターで、たぶん1000円くらいで購入した小型の蛍光灯付きライトを手元に置いたままだった。
 ところが私が夜間のアウトドア活動を休止している間に、世はすっかりLED照明の時代に切り替わってしまっていた。
 この度のフリマ出店を機会に、新しいLEDランタンの類を導入しようかと、行きつけのホームセンターの当該コーナーに行ってみたのだが、完全に浦島太郎状態でいったいどれを買えばいいのかわからない(苦笑)

 LED球何個がどれくらいの明るさなのか?
 電池の持続時間は?
 値段の相場は?

 結局、決めきれなくて、今回は昔馴染みのライトをそのまま使い、百均のオモチャLEDランタンを間にあわせで購入して様子をうかがってみることにした。
 フリマを終えた結論としては、アウトドアに関して言えば、

「完全に蛍光灯と電球の時代は終わったな」 

 だった。

 我が歴戦の友である蛍光灯付きミニライトは、百均のオモチャまがいの2LEDランタンにすら、明るさ、電池の持続ともに完敗してしまっていた。
 嗚呼友よ、またさらば。
 まだまだ壊れたわけではないが、君が実用に耐えられる時代は終わってしまった……

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 写真右手前が我が歴戦の友、蛍光灯付きミニライト。単三乾電池4本使用。
 中央が百均で入手したオモチャランタン。単四乾電池三本使用。通常の白色光に加え、色とりどりの点滅照明にも切り替わる(笑)ので、我が「縁日屋」の提灯内でも活躍。

 そしてついでに左が、土産物屋のキーホルダーコーナーで見つけて衝動買いした、ソーラー3LEDキーチェーン。420円。
 おそらく連続使用はほとんどできないだろうが、電池要らずで夜間の手元足元を十分照らすことができる。
 日頃使用しているバッグやウエストポーチにぶら下げておけば、急な停電やちょっとした夜間作業など、何かと役立つ場面があるだろう。
 お土産ものに多くを期待してはいけないが、あくまで「つなぎ」に便利なグッズとしてお勧め。
 たぶん、↓これと同じもの。



 と言うことで、LEDライトの安くて良いものをぼちぼち探し始めている。
 1500円以下でウエストポーチに無理なく入り、なるべく明るく、できればライトとランタンの2WAY使用できるもの。
 
 期限はいつかまた、山にふらりと入れる日まで。
posted by 九郎 at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 熊野 | 更新情報をチェックする

2012年10月21日

異界に映る自分

 恒川光太郎の本を読みふけっている。「夜市」を手にとって以来、スイッチが入ってしまった。
 何年かに一度、私はこういうハマり方をして、気に入った作家の可能な限り全作品を読みふけることがある。
 二冊目は刊行順に従って「雷の季節の終わりに」を手に取った。


●「雷の季節の終わりに」恒川光太郎(角川ホラー文庫)

 凄い。
 デビュー作「夜市」と同じく異界を扱った作品で、今度は単行本一冊丸ごとの長編である。
 これは単なる想像なのだが、作者としてはこの二作目の方が「本命」だったのではないかと思った。
 作家デビュー以前からずっと暖めていた構想で、もしかしたら試作原稿なんかも手元にあったのではないだろうか。
 この二作目を読むと、デビュー作「夜市」が、ある意味では「名刺代わり」の作品だったのだなと感じる。
 独特の作品世界を世に出すために、まずは読むためのハードルの低い中短編でデビューし、一定数の読者と本を出せる立場を確保する……
 そして自分の作品の持つ世界観と読み方、楽しみ方について一種の「啓蒙」を行い、作品世界に適切な語り方も確立し、満を持して本命作品を発表したのではないか……
 そんな妄想を抱いてしまうほどに、凄まじい第二作である。
 それ自体が凄みのある完成度を持つ「夜市」の読後、「このデビュー作を超えるのは大変だろうな」と、やや不安を抱きながら二冊目を手に取ったのだが、まったくの杞憂だった。

 恒川作品は一応「ホラー」というジャンルに入れられている。
 確かに「怖い」作品で、恐怖を呼ぶ設定がしっかりと作りこまれているのだが、読んでいて一番「怖い」と感じる点はそうした設定の部分ではない。
 登場人物の大半がその人格においてまったく平凡であり、普通の人が普通であること自体に潜む「怖さ」を曝け出す所に、恒川作品の特色があると思う。
 おそらく作者は、ことさらに「ホラー小説」を書いているという意識は希薄なのではないだろうか。自分の作品を世に出すにあたって、日本の出版状況の中から適切なカテゴリを選んだ結果として、現在の立ち位置を保っているようにも感じる。

 現代の創作技術の一つに「キャラを立てる」というものがある。 ごく簡単に述べると、とにかく登場人物を印象深く特長的に設定し、物語はその登場人物達がぶつかり合うことで自然に紡ぎだされてくるという創作手法だ。
 上手くいくと作者、作中人物、物語の成長が同期して、作品にダイナミックなライブ感が生まれ、読者や作者自身の予測を上回る展開を得ることができる。
 しかし、下手に使うとエキセントリックな登場人物が支離滅裂にドタバタ暴れるだけになったり、類型的登場人物がどこかで見たような展開に終始するだけの作品になってしまう。
 元々は週刊少年マンガの世界で発達した技術だと思うが、最近はジャンルを問わず、創作全般に広く意識化されている。
 恒川作品はそうした意味での「キャラを立てる」という手は、あまり使われていない。
 特殊な能力を持っていたり、特殊な状況に巻き込まれているという設定はあるけれども、そこで登場人物は読者にとって容易に了解可能なごく普通の物の考え方をし、行動する。
 ことさらに登場人物の印象付ける類の「キャラ立ち」は行われていないけれども、各登場人物のものの考え方は、非常に丁寧に書きこまれている。
 特殊な状況下における普通の人のものの感じ方、言動を、緻密に書き連ねていくことで、物語は推進されていく。

 デビュー作「夜市」はある兄弟の物語だったが、前半は兄の物語として綴られていた。ところが後半、弟の存在感が急激に重くなり、物語全体を飲み込むことになる。
 私が作中で最も「怖い」と感じたのは、無垢な被害者であったはずの幼い弟が、過酷な境遇の中でふと破壊衝動にとり憑かれ、自分がされたことと同様の加害を他者に与えそうになる瞬間の描写だった。
 前半の兄の視点で最後まで描かれても成立し得る作品だったと思うのだが、もしかしたら兄から弟への視点の転換は、登場人物の心情を緻密に描写していく流れの中で、自然に起こったのかもしれない。
 作者自身も明確には予期していなかったからこそ、日本ホラー小説大賞の撰者に名を連ねる、手練れ揃いの作家の方々の予想を上回る展開になることができたのではないかと、勝手な想像をしてしまう。

 「夜市」の弟は、結果としては破壊衝動に身を任せることは無かったのだが、どちらに転んでもおかしくない心情描写の蓄積があるだけに、読んでいて非常に辛かった。
 恒川作品を読んでいると、度々このようなスリリングな登場人物の分岐点に出会う。
 ある者は破壊衝動に身を任せ、ある者はなんとか持ちこたえる。
 どちらに転んでも一概に「正しい」とは言い切れない状況が頻出するので、それ以上読むのが恐ろしくなり、本を閉じることもしばしばある。
 警察力の埒外にある「異界」で、登場人物は否応なく「これをやっても法に問われず、捕まることもない」という状況下に置かれる。
 自分がやらなくとも、対面している相手が仕掛けてきた時にどうするかと言う状況も、考えなければならない。
 法治国家から隔絶された場所では、普段どんなに温和に見える者であっても内心の凶暴性を隠す必要は無くなるし、逆に普段から荒れた生活を送っているアウトローの方が自分を律することができる可能性もある。
 倫理、美学、矜持、なんと表現しても良いのだが、法による強制を超えたところに自分自身の掟を持っていない者は、「異界」によって容赦なく凶暴で醜悪な素顔を暴かれてしまう。

 自分ならどうするか?
 その時、人として汚いことをやらずにおれるかどうかは、同じ状況に立って見ないと分からない。
 大丈夫だという自負もあるが、時折感じる自分の中の凶暴性に、背筋が寒くなる瞬間がある。
 魅力的な作品に引きこまれ、耽溺して読み進めるうちに、作中の「異界」に自分の素顔まで映しこまれそうになって、我に返る。
 私の思う恒川作品の「怖さ」は、そこにある。
posted by 九郎 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2012年10月25日

たがための異界か

 引き続き、恒川光太郎の作品を読み続けている。
【関連記事】
 暗く恐ろしく優しき異界
 異界に映る自分


●「秋の牢獄」恒川光太郎(角川ホラー文庫)
 短編三作。「秋の牢獄」は少しSF的な異界、「神家没落」は作者らしい民族的な異界。
 三作目「幻は夜に成長する」には一見、異界が登場しないが、「波」と表現されるものがそれに当たるとも言えそうだ。
 各作品に直接的な関連は無い。


●「草祭」恒川光太郎(新潮文庫)
 同じく短編集だが、「美奥」という架空の山間地域にまつわる作品が連ねられている。
 ただ、それぞれの作品には「連作短編」と言うほどの関連性は無く、「美奥」とその周辺に生まれた小さな物語の断片集といった趣だ。

 一冊目に登場した「市」「古道」は、いずれも民俗的なイメージが濃厚だった。
 二冊目の「隠れ里」は、民俗的な世界から少しファンタジックな領域に入り始め、三冊目、四冊目と書きすすめるごとに、作者は描ける「異界」の領域をじわじわ拡大しつつあるように感じる。
 いずれも丁寧に描かれた、魅力的な世界だ。
 こうして短編の執筆を重ねることで内なる「異界」は成長し、またいずれ二冊目「雷の季節の終わりに」のような長編が生み出されるのかもしれない。
 恒川光太郎に次なる「波」が訪れるのはいつの日か。
 
 恒川作品に耽溺し、少しでも人に勧めたいと思いながら記事を書きつづけている。
 誰に勧めたいかと言えば、もちろん当ブログを読む、興味の範囲が私と重なる部分のある皆さんであるのは当然のことだが、年若い人たちにも勧めてみたい気がする。
 小学校高学年から中高生あたり、ちょうど恒川作品の登場人物の多くが該当する年代の子供たち。
 ただ、子供なら誰にでも読んで欲しいというわけではない。
 恒川作品には、ときにかなり凄惨な暴力が描かれるので、誰彼となく勧めることは少々ためらわれる。
 一般には、親が我が子に安心して勧められる類の作品ではないだろう。
 ある意味、恒川作品は毒のある「いけない本」だ。
 間違っても学校で課題図書になったりはしないだろう。
 しかし、子供にはそうした「いけない本」も、また必要なのだ。
 とくに十代の親離れの時期、家族よりもそれ以外の対人関係の比重が増し、広い世界に旅立つ準備を進める時期に、読んでおくべき種類の本がある。
 例えば私は同じ時期、永井豪「デビルマン」や、SF作家平井和正の作品に救われ、癒され、鍛えられ、闘う力を得た。
 強烈な「毒」を含みながらも、中核部分に清んだ透明な泉をたたえている、そんな作品を必要とする子供たちは、いつの時代もある一定数存在する。
 思いかえしてみれば、十代の少年少女が多くの時間を過ごす「学校」という空間は、一般社会と対比してみた時、多分に「異界」としての性質を備えていたことに気付く。
 まず、同年代の少年少女のみが閉鎖空間に多数収容されていること自体が、世間一般から見ればかなり特殊な環境である。
 その「学校」という閉鎖空間では、しばしば国の法律とは違うルールが設定されており、普通なら犯罪として取り締まりの対象になりかねない行為が罪に問われない場合もある。
 そしてそのような特殊な環境が、収容されている少年少女にとってはほとんど唯一の社会であると思い込まされていて、そこから外れてしまうことに恐怖感すら抱きがちであることが異様である。
 「いじめ」という名を借りた暴力行為は、そのような特殊なルールが設定された、特殊な環境から生じがちだ。

 知的好奇心が強く、なんとなく周囲に溶け込めず、内に秘めた想いを抱える少年少女たち。
 この世のまことを求める少年少女たちよ、誰にも言わず、一人静かに書物を手に取ってみないか?
 読むべき本がここにある。
 


 作品の刊行順からは外れるけれども、恒川光太郎が文を担当した絵本もある。

●「ゆうれいのまち」恒川光太郎(著)東雅夫(監修)大畑いくの(イラスト)(岩崎書店 怪談えほん4)
 読んでみると「子供向け」とは言いながら、間違いなく恒川作品の世界だ。
 イラストの相性が絶品で、この絵で小説作品の挿絵も見てみたい。
 暗く、恐ろしく、楽しくて、果てしなく連環する異界。
 春の夜の夢は、いつから始まったのだろうか?
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2012年10月26日

異界の作家が移住した異界


●「南の子供が夜いくところ」恒川光太郎(角川書店)
 架空の南の島、「トロンバス島」と言う異界にまつわる短編集。
 各作品間の連環は「草祭」よりやや密接で、一冊まるごとの長編という雰囲気ではないものの、連作短編にはなっている。
 タカシと言う、訳あって家族と離れて島で暮らす少年と、ユナと言う女呪術師が一応作品の軸になっていて、「雷の季節の終わりに」で出てきた「穏」という隠れ里の異界との関連も、チラッと匂わされている。
 作者の中で「穏」の物語はまだ尽きていないと言うことだろうか。
 家族と離れた少年の物語は一応収束しているが、もう一方の女呪術師の物語には、まだ続きがありそうな気がする。

 作品をまずは作品だけで楽しむために、なるべくネット等で恒川光太郎の情報を入れないようにしながら読み進めてきたのだが、先日、作者が沖縄に移住していることを知った。
 異界にこだわ恒川光太郎が沖縄に移住したのは、ひどく納得できるものがある。
 私は二十代の頃、アルバイトで沖縄関連の仕事をすることが多く、何度か現地にも行った。
 主に那覇周辺なのだが、古い史跡や御嶽、墓地などを一日中調査して回り、夜は民謡酒場や暗い街路をブラブラと飽きもせずさまよった。
 沖縄は、那覇のような都市部ですら、あちこちに「異界」の穴が空いている雰囲気が濃厚だ。
 そこで見聞きした記録は、当ブログでもカテゴリ沖縄にまとめてある。
 さんさんと太陽の降り注ぐリゾートとしての沖縄と並行して、ドロンと湿った空気に包まれた仄暗い「異界」が黒々と横たわっており、それは確かに恒川作品と親和性が高いと感じる。
 そう言えば上掲本の舞台になったトロンバス島は、沖縄そのものではなくもっと南洋の孤島として描かれているが、沖縄を思わせるイメージが随所に描かれている。


●「竜が最後に帰る場所」恒川光太郎(講談社)
 五つの短編をまとめた一冊。各作品に直接のつながりは無い。
 クオリティはどの作品も相変わらず高い。
 リアルな生活感の中で、ふとした瞬間に出会う微妙にずれた異界感覚の漂う「風を放つ」。
 読むほどに善悪とは何なのか、答えの出ない迷宮に誘われる「迷走のオルネラ」。
 これぞ恒川ワールドと言った趣の民俗的異界作品「夜行の冬」。
 「擬装集合体」という一つの着想(妄想?)から始まり、そのイメージから物語を搾れるだけ搾り取ったような「鸚鵡幻想曲」。
 最後の「ゴロンド」は、もしかしたら恒川ワールドを飲み込んでしまうほどの広がりを持つかもしれないと感じさせてくれる。


 これで六冊読了。
 アンソロジーをのぞけば、今現在刊行されている恒川作品はあと一冊。
 来月には「沖縄」をテーマにした新刊が出るようだ。
posted by 九郎 at 23:37| Comment(2) | TrackBack(1) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする