2012年10月14日

暗く恐ろしく優しき異界

 私の好みをよく知る人に勧められて、小説を読んだ。


●「夜市」恒川光太郎(角川ホラー文庫)

 この十年ほど、資料調べのような読書が中心になっていたので、それほど熱心に同時代の小説作品等をチェックしてこなかった。
 だからこの著者についてもまったく予備知識がなかったのだが、収録作品の「夜市」「風の古道」ともに、非常に面白く読めた。
 両作品ともに「異界」を扱っている。
 この世のものならぬ「市」「古道」と言うテーマは、長く当ブログを読んでいる皆さんなら既にお察しの通り、私の好みど真ん中である。
 好みに合っているということは、逆に言うと採点が辛くなり易いテーマなのだけれども、そんなハードルを軽々越えているのが凄い。
 作品内で「異界」を扱うと、どうしても古典っぽいものになったり、浮世離れしたファンタジーになったりしがちなのだが、「幼い頃の奇怪で不確かな記憶」という切り口を使って、背筋のぞくぞくするリアリティを醸し出している。
 子供の頃の記憶には、不可解で不気味なものが確かにあって、私もそうした記憶の断片をふと思いかえす瞬間がある。

 あまりに面白かったので自分でも人に勧めたいのだけれども、筋立てから紹介することが難しい作品なので、上記のような抽象的な褒め方になってしまう。
 かなり作りこんだ仕掛けを持つのだが、著者が描きたいのはそうした仕掛けの部分よりも、むしろそこからたちのぼってくる登場人物の感情であると思える。
 だから筋立てから紹介すると、作品世界の雰囲気を適切に表現できず、遠ざかって行きそうな気がする。
 独自の雰囲気を持つ作家であり、作品なのだが、私の知る中からあえて近似値を持つ作家を探すならば、諸星大二郎の作品世界がそれにあたるかもしれない。
【諸星大二郎 関連記事】
祭の始まり、祭の終り
六福神
諸星大二郎「生命の木」

 今回読んだ二つの作品に描かれる「異界」は、主人公の突然の巻き込まれ方、その後の人生における関わり方、そして強制的に従わされる「異界ルール」の内容は、理不尽極まりないものだ。
 しかし、きっかけは理不尽であったとしても、一旦そのルール内に取り込まれてしまえば、そのルール自体が不条理に捻じ曲げられることは無い。
 むしろ厳格すぎるほどに守られ、「異界」内の因果律は整然と破綻なく堅持される。
 その意味では、この日常世界の方がよほど不合理がまかり通っており、物事の道理が通らぬことが多すぎることに気付く。
 私たちが生きる浮世は、この眼に映る現実だけで見る限りは、善いことが良い結果を生まず、悪いことがその報いを受けないことの常態化した、納得のいかないことだらけの世界だ。
 とくに3.11以降、罪無き人々の惨状と、国や法律に守られる犯罪者どもの在り様を対比するとき、そうした感慨を持たざるを得ない。

 だから昔の人は前世や後生を真剣に求めた。
 この世だけではとうてい納得できない理不尽を、この世の前後に「異界」を設定することで合理化しようとしたのだ。
 輪廻転生や地獄極楽でも想定しなければ、やりきれない悲嘆がこの世には確かに存在する。

 今回読んだ両作品の舞台になる二つの「異界」は、宗教的というよりは民俗的なイメージで、善悪を厳しく立て分けるようなものではないのだが、登場人物はいずれも自分の中の「本心」がどのようなものか、自分自身でさらけ出さなければならない局面に遭遇する。
 登場人物それぞれの結末は、一見明暗分かれるように見えるけれども、実はそれぞれが「異界」というフィルターに濾し取られながら、「本当に望んだ場所」に向けて分岐していっているようにも感じる。
 小説的な筋立て上は「意外な展開」が次々と描かれているけれども、読後によくよく味わってみれば、一同に会した異界という辻から、「そうでしかあり得ない居場所」に向けてそれぞれが歩み去って行く構図になっており、そこに不条理はまったく入り込む余地がない。
 舞台となった「市」や「古道」は暗く恐ろしいけれども、ふと自分も入りこんでみたいという気にさせられてしまうのは、おそらくそうした「きちんと因果の通った世界」が、この世には存在しないからなのではないかと思う。

 私がときに熊野葛城の山野にふらりと衝動的に出かけてしまうことも、あるいはそうした心情が関係しているのかもしれない。
posted by 九郎 at 03:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする